「ロック、バークリ、ヒューム」 見えるもの、見ているもの
  • <家や山や川や、一言でいえばあらゆる可感的事物が、知性によって知覚されるのとは別個に自然的ないし真実の存在を有する、という説は、人々のあいだに奇妙に流布している説である。しかしながら、こうした原理がいかに多くの信憑と黙諾とをもって世間で迎えられようと、これを胸中で問題にするものがあれば、私に間違いのないかぎり、その人は、この原理が明々白々たる矛盾を含むことを看取できよう。なぜなら上述の事物は、私たちが感官によって知覚する事物ではなくてなんてあるか。そして、私たち自身の観念ないし感覚のほかに何を私たちは知覚するか。また、これら観念のどれかが、或いはそのなんらかの組合せが、知覚されずに存在するとは、誰にもわかるように背理ではないか。>(バークリ『人知原理論』)
  • 見えているから、それは在るのだ。これは大常識である。誰もが同意するように、バークリも力強く同意する。それは君たちが見ているそのままの姿でそこに確かに存在している。ただし、君たちの他に、ではない、君たちの心の中に、だ。この明々白々たる事実に気づくまで、君自身の思考を冷静に観察してみたまえ、と。痛快なのは、当然予想される浅薄な反論を見越して応酬する彼の文章、それは、ほれぼれするほど鮮やかなものだ。諧謔もある。哲学の文章はかくありたいと思う、もう一方の典型だ。
    <しかし、観念を飲食したり観念を着たりすると言うのは甚だ耳障りに響く、かように諸君はおっしゃる。私はそうだと承認する。けだし、観念という言葉は日常の談論では、事実を呼ばれる可感的性質の種々の組合せを標示しないのであり、かつ確かに、言葉の馴染んだ使い方と変わった表現は耳障り滑稽に響くであろう。とはいえ、これは本書の命題の真理性にはかかわりない。その命題は、他の言葉でいえば、私たちが感官によって直接に知覚するものを食べかつ着ると言うのに他ならないのである。いったい、硬軟・色彩・味・温暖・形状などの性質は一つに組み合わされて、さまざまな食料や衣料を組成するが、そうした性質は、すでに明示されてあるように、これを知覚する心のうちにのみ存在する。そして、このことが、それらの性質を観念と呼ぶ意味の全部である。この観念という言葉は、仮にもし事物という言葉と同じほど日常に使用されていたとすれば、後者と同様に耳障りにも滑稽にも響かなかったであろう。今私は、表現の適性を論議しているのでなく、表現の真理性を議論しているのである。それゆえ、もし諸君が私に同意して、私たちは感官の直接対象を、すなわち、知覚されずには、換言すれば心の外には、存在できない感官の直接対象を、飲食し纏うのであると認めるなら、私は、そうした感官の直接対象を観念と呼ぶより事物と呼ぶ方が習慣にいっそう適合すると即座に許そう。>
  • <しかしながら、きわめて精妙な形而上学的反省がわれわれにはほとんど、あるいは少しも影響しないとは、なんということを、いま、言うてしまったことか。私の今の感じと経験からこうした考えを見直し、異を唱えざるを得ないほどである。人間の理性に見られるこれらさまざまな矛盾と不完全さとを強烈に見せつけられて動揺を与えられ、頭は熱して、私は今にも全ての信念と推論を斥けてしまいそうであり、どんな意見を見ても他の意見よりいくらかもっともらしいとか、よさそうだとか思うこともできないでいる。私はどこにいるのか、何なのか。私はいかなる原因から私の存在を得て、いかなる状態へ帰るのだろうか。私は誰の好意を求めようとするのか。そして私は誰に何か影響を与え、誰が私に何か影響を与えているのか。(中略)
     全て何かを推論し、信じるものは確かに愚かであるが、もし、私も同じように愚かでなければならないのなら、せめて私の愚かさを自然で快適なものにしたい。私かこの自分の傾きに強く逆らう場合があれば、その抵抗にはもっともな理由があるはずである。もはや、私がこれまでに出会ったような恐ろしい孤独、荒涼とした道に迷いたくない。これらが私の落胆と気ままさの気持ちである。実際、哲学はこうした気持ちに打ち勝つだけのものは何も持たず、哲学が勝利を期待できるのは、理性や説得の力よりも、まじめで、さっぱりした構えが立ち戻ることからである、と認めざるを得ない>
     こんなに率直かつ救われない哲学的告白を私は他に読んだことがない。煎じ詰めれば彼は、誰のどんな哲学説だろうが、それどころか自分自身が考えていることさえ自分には信じられない!と悲鳴を上げているのだ。何だってこんなことになっているのか、それこそ私の知ったことではないが、いったん始まってしまった根源的懐疑というものは必ずや、行きつくところまで行かずにはすまないのだ。自分の立っている足元まで自分の足すくってしまって、そこに宙吊りになったまま、あとは死ぬまで生きるだけ、せめて、その愚かさを自分で快適なものにしようと努めながら。
  • ヒュームが破壊したもの三つ、「物質」と「自我」と「因果関係」、こう聞いただけでも、それじゃああとにはいったい何か残っていると言えるのか、と叫び上げたくなるではないか。彼が「物質」を斥けるのは、心が確かに経験するのは常に何がしかの知覚でしかないから、それら以外に実体的な何かを想定する必要はない、というバークリと同じ理由による。彼がバークリを越えてゆこうとするのは、その「心」なるものも、よくよく観察してみると、何がしかの感情や快苦といったものでしかないから、特別絶対の何かなどではない、「自我」などという実体も不要な虚妄だと言い放つことによってだ。ここにあの有名な「自我とは継起する知覚の束である」の文句が来る。
     そう言われればそういうものにもなり得てしまう可塑性こそが、この「自我」なるものの厄介なところで、ヒュームの見解もひとつの意見だ。にしても、束が束としてあり得るのなら、それを束ねる何かが必ず要るはずで、そうでなければ先の引用で悲鳴を上げているのはいったい誰なのか、という問いが残る。自我についての彼の結論は、そこに至るまでの諸推理ほどには面白くない。何と言っても面白いのが、合理論においてはその必要性を疑われることの決してなかった因果関係を疑い、検査してゆくその過程だ。
  • 私は、自分の頭蓋を叩き割って覗き込んでみたいと鋭く衝動する、しかし、そこにはきっと、自分の頭蓋を叩き割って覗き込んでいる自分の姿が見えるだけのはずなのだ。どうあれ、いったん疑い始めるや、ああ、事態はこんなふうになるしかないのだ。追い詰めて追い詰められたヒュームもそこに居直って、常識的に生きてやる!と宣言している。
    <私は自然の流れに身を委ねて、感覚機能にも知性にも従順であってよいのである。というより、そうでなければならないのである。しかも、私か懐疑的な態勢と原理とを最も完全に示すのは、この盲目的な従順においてなのである。>
  • 科学的認識は最終的には蓋然的であり、客観性とは公共性の別称であるとは、今日の科学者たちの間ではもう了解済みであるらしい。しかし彼らにおいては、それら経験的なものの不確かさが、そのまま「自分が居る」ということの不確かさであるというふうには、必ずしも、直結しない。常識を「常識!」と、極度に意識しつつ一瞬一瞬を生きつないでいるという非常識、こういう人々を私たちは、科学者とは別に、「哲学者」と呼んでいる。めそめそ悩めるような余裕さえ、ないのだ。