1960 年生まれ、独身フリー・プログラマの生態とは? 日経ソフトウエアの人気連載「フリー・プログラマの華麗な生活」からより抜きの記事をお送りします。2001年上旬の連載開始当初から、現在に至るまでの生活を振り返って、順次公開していく予定です。プログラミングに興味がある人もない人も、フリー・プログラマを目指している人もそうでない人も、“華麗”とはほど遠い、フリー・プログラマの生活をちょっと覗いてみませんか。
※ 記事は執筆時の情報に基づいており、現在では異なる場合があります。
前回のあらすじ 経済的安定を図るべく、15年ぶりの就職活動に乗り出した私。人員余剰の噂に不安を募らせながら、紹介会社からの連絡をひたすら待つ。1件目は紹介会社の担当者の配慮もあって見送ることにした。2件目の面接はいい感じに思われたが、C++の力量を知りたいので自分で書いたソースコードを見せてほしいと言われ、不本意ながらも5年以上前に作ったプログラムの一部を提出する。

 ここ何年かのC++のコーディング技法の普及は、すさまじいものがあると思う。私がC++を習得した7、8年前は、参考になるものといえば、STL(Standard Template Library)かMFC(Microsoft Foundation Class)のソースぐらいしかなかった。もっとも、それほどがっつりとC++で仕事をしたわけではないので、私が知らなかっただけかもしれない。

 しかし、今はATL(Active Template Library)やBoostをはじめとする、先進的なC++のソースコードがある。以前に比べて情報量が全く違うといっても過言ではないだろう。だから、数年前に私が書いたC++のコードが、最新の流儀から見てどれだけ見劣りがするかはわかっていた。それでも、何も提出しないよりはましだと思って昔のコードを引っ張り出したのだ。

 ところが、である。それから3日経っても1週間経っても返事がない。どうせ断るなら早めに連絡してくれればよさそうなものだが、直接の担当者に聞いても、なかなか進まないという。要するに、間に2社も3社も入っている場合、何かあったときにこうなるかもしれないということだ。

 私としてはこの時点ですでに辞退する気持ちになっていた。今から考えると、そのことを担当者に告げて、別の案件を探せばよかったのだ。相手が即決してくれると思っていた私が甘かった。ここで、私はもう一つ失敗をしている。1件目を紹介してくれたやり手の担当者に、ほかの会社の回答待ちだから、しばらく新しい案件は受けられない、と伝えてあったのだ。気が進まない話であるにもかかわらず、なぜ適切な判断ができなかったのか、今でもよくわからない。

 そうこうしているうちに、職探しを始めて2カ月が経過した。もしこのまま、例えば翌月に仕事が決まったとしても、最初の収入があるのは月末締めの翌々月上旬だから、2カ月先ということになる。今までやってきた受託の仕事も、フルタイムの仕事を探すからといって、新規案件を断ってあるので一切収入のあてがない。

 2件目の紹介会社の担当者もさすがにまずいと思ったらしく、やっとのことで別のところを並行して探しましょうと言ってくれた。次の面接が決まったのがそれから2週間後。今度はPerlの仕事である。Perlなら任せておけ、と思ったが、先方の担当者は私の年齢とキャリアを見て、月単価を気にしている。そのせいだろうか。面接は無難な感じだったものの、またもや10日経っても返事が来ない。

 後でわかったことだが、このとき世間は本格的な不況に突入しかけていて、新規プロジェクトが次々と取りやめになったり、予算が大幅に削減されたりしていたようだ。話がまとまらないのは当然である。しかし、だからといって失業状態をいつまでも続けているわけにはいかない。このままでは生活が危ない。気ばかりあせる毎日を過ごす中、思うのは今まで自分が成してきた所業の数々である。

 私は昔から、何かと人様に声をかけてもらうことが多い。だからといって、私を利用しようとか、だまそうとして近づいてきた人は今までいなかった。賭け事や勝負事はからきしダメだが、これが私の持っている何かなのかな、と思ったことはある。

 例えば、仕事がなくて探し回っていたときに、社内で十分こなせるはずの仕事をぽんと丸投げしてもらったことがあった。納期が遅れてつらいときに、システム保守の名目で継続的に定額を振り込んでくれる人もいた。私が納期を遅らせて迷惑をかけてしまったのに、引き続き別の仕事を依頼してくれる人もいた。こうしてたくさんの人にお世話になって食いぶちをつないできたのだ。

 ところが私はどうだろう。周囲の人々の厚意に応えるような仕事をしてきただろうか。あまりにも周囲に対する感謝に欠けているのではないか。今度仕事が決まったら、今までのようなことを繰り返さないように努力したいものだ。だからどうか、一刻も早く自分の能力に適した仕事が見つかりますように。私は心の底から祈った。

 翌日。最初に求人を紹介してくれた会社から連絡があった。急な話なのだが、翌日の午前に面接できるだろうか、という問い合わせだった。業務の内容はインターネット・サーバーの開発。ここ数年の私のキャリアがそのまま生かせる仕事かもしれない。私は二つ返事で面接を決めた。相手先の担当者は30代半ばから40代前半ぐらいだろうか。これまで面接してくれた担当者よりひとまわりぐらい若い。緊張で冷や汗いっぱいになりながら、大げさにならない程度に自己アピールする私。この様子だと、今度こそ大丈夫かもしれない。そして翌日。採用の連絡をもらった。やった。決定だ。

 残念なことに、この後のことをあまり詳しく書くことはできない。なぜなら、今もこの会社に通っているからだ。世間で、経済危機とか、派遣切りとか言い出したのは、この会社に決定してから1カ月ほど経ったころだろうか。いつまでも新規プロジェクトに手をつけないわけにはいかないだろうが、人月単価は確実に下がり、求人の数も激減しているという。短く見積もってもあと半年はこの状況のままだろう、というのは、今の仕事を紹介してくれた会社の社長の弁である。まさにぎりぎりのタイミングで適職が見つかったというわけだ。

 前々回の冒頭に戻る。12の倍数の年齢は節目と言われるそうだが、私にとってはなんという幸運な節目だったのだろう。自分の過去を反省して一心に祈ったら、その翌日に急きょ飛び込んできた面接が適職かつ即決で、しかも不況の波の直前のタイミングだった……。こんな話が信じてもらえるだろうか。でも少なくとも私にとってこれは現実である。私の経験談を信じてくれた人だけにこっそり教えてあげよう。何か一つでもよいから、自分のことを反省してからお願いすると、かなう可能性が高いのかもしれないよ、と。