何かの本で、漢帝国は胡の騎馬民族の助けなしには国体を維持できなかったのに、
中華史ではその旨が軽視されている云々と怨嗟の声をあげる歴史家の呻きを見た記憶があります。
実際、中華の歴史を辿ると漢民族自体の王朝というのは案外少なく、よそ者が漢民族を支配するような歴史がそこそこ長く続きました。
そういた「よそ者」の内、有力な遊牧系集団だったのが本書のテーマである鮮卑です。
鮮卑は遊牧系集団とはいっても、今日の国民国家めいた集団ではありませんでした。
モンゴル系かトルコ系かで集まったというより、利益や婚姻で結びついた各部族の連合体でしかなかったそうです。
さて、そういった連合体も五胡十六国辺りには南の漢民族に対して相対的に力を持つようになりました。
後発の五胡の王が漢民族を服従させるにあたり、支配者たる「徳」を示すのに仏教や道教、儒教が使われました。
それは部族連合であった統治体制を中央集権型に転換する流れでも援用されてきました。
が、そういったノウハウは人口圧力の大きい漢民族との交流=圧力に巻き込まれる事なしには成立し得ないという、なんとも矛盾したものでした。
というわけで、時代がすすむと自民族の言葉を忘れたりするものも出てきており、「漢化」の兆候がでてきます。
たとえば、北魏では名誉称号めいて漢民族風苗字が皇帝から与えられるようになったりしたようです。
更に官僚の服装も、寒い故地に適合したものから都のある土地にあた漢民族のものにするよう、緩やかにではあるが推奨されていくなど。
北魏崩壊の一因である六鎮の乱の原因が、前述するような洛陽の「漢化エリート」と地方民の格差が原因にあったそうです。
元はコロナ禍における講義のオンライン化に合わせて講義資料を文章化したものを講談社選書用に手直しして、脅威の一か月で脱稿したそうです。
そういう背景もあって「転生したら洛陽だった件」と転生モノのネタ、マスターキートンが出てきたりとオタクが社会的に受容されたのを実感します。
蛇足:代国璽と平家の落人伝説が似ているという印象
鮮卑系の一大ブランドたる代国の玉璽(代国璽)が地中や井戸からゴロゴロでてくるようになった話は平家の落人伝説めいていますね。
やっぱりどこの国も歴史は似たような過程になるのだなぁと……。