『物語の外の虚構へ』リリース!

(追記2023年6月)
sakstyle.hatenadiary.jp

一番手に取りやすい形式ではあるかと思います。
ただ、エゴサをしていて、レイアウトの崩れなどがあるというツイートを見かけています。
これ、発行者がちゃんとメンテナンスしろやって話ではあるのですが、自分の端末では確認できていないのと、現在これを修正するための作業環境を失ってしまったという理由で、未対応です。
ですので、本来、kindle版があってアクセスしやすい、っていう状況を作りたかったのですが、閲覧環境によっては読みにくくなっているかもしれないです。申し訳ないです。

  • pdf版について(BOOTH)

ペーパーバック版と同じレイアウトのpdfです。
固定レイアウトなので電子書籍のメリットのいくつかが失われますが、kindle版のようなレイアウト崩れのリスクはないです。
また、価格はkindle版と同じです。

(追記ここまで)

(追記2022年5月6日)


分析美学、とりわけ描写の哲学について研究されている村山さんに紹介していただきました。
個人出版である本を、このように書評で取り上げていただけてありがたい限りです。
また、選書の基準は人それぞれだと思いますが、1年に1回、1人3冊紹介するという企画で、そのうちの1冊に選んでいただけたこと、大変光栄です。
論集という性格上、とりとめもないところもある本書ですが、『フィルカル』読者から興味を持ってもらえるような形で、簡にして要を得るような紹介文を書いていただけました。


実を言えば(?)国立国会図書館とゲンロン同人誌ライブラリーにも入っていますが、この二つは自分自身で寄贈したもの
こちらの富山大学図書館の方は、どうして所蔵していただけたのか経緯を全く知らず、エゴサしてたらたまたま見つけました。
誰かがリクエストしてくれてそれが通ったのかな、と思うと、これもまた大変ありがたい話です。
富山大学、自分とは縁もゆかりもないので、そういうところにリクエストしてくれるような人がいたこと、また、図書館に入ったことで、そこで新たな読者をえられるかもしれないこと、とても嬉しいです
(縁もゆかりもないと書きましたが、自分が認識していないだけで、自分の知り合いが入れてくれていたとかでも、また嬉しいことです)

(追記ここまで)


シノハラユウキ初の評論集『物語の外の虚構へ』をリリースします!
文学フリマコミケなどのイベント出店は行いませんが、AmazonとBOOTHにて販売します。

画像:難波さん作成

この素晴らしい装丁は、難波優輝さんにしていただきました。
この宣伝用の画像も難波さん作です。

sakstyle.booth.pm

Amazonでは、kindle版とペーパーバック版をお買い上げいただけます。
AmazonKindle Direct Publishingサービスで、日本でも2021年10月からペーパーバック版を発行が可能になったのを利用しました。
BOOTHでは、pdf版のダウンロード販売をしています。

続きを読む

高原英理編『川端康成異相短篇集』

『文豪ナンセンス小説選』 - logical cypher scape2に引き続き日本文学。
おおよそ大正から戦前昭和くらいの作品を読んでみようかなあという気持ちがあり、横光利一とかが気になりはじめていた。
川端康成は今まで全く読んだことがなく、もしかしたら教科書等で何か少しだけ読んだことがあるかもしれないけれど、少なくとも自発的に読むのは今回が初めてだと思う。
で、川端についての知識もほとんどなかったのだが、「眠れる美女」とか「狂つた一頁」とかの存在を知り、そういう妖しげな作品もあるのかーと気になり始めたところで、高原英理編『川端康成異相短篇集』 ただならぬ世界を描く、巨匠の異色アンソロジー - もう本でも読むしかないなどから、この短編集の存在を知って今回読むことにした。
「異相」という聞き慣れない言葉だが、川端作品に描かれる、常ならない相、只ならぬ世界を編者がそのように称している。
編者によると、近年、幻想文学や怪談という枠組みでの川端アンソロジーも編まれるようになっていて、それ自体は編者の考えとも一致するが、ここでは、幻想要素や怪談要素を含まない作品も拾うということで、「異相」という言葉を使ったらしい。


話の内容やテーマ的な面では、必ずしも自分好みではないのだけれど、どれもするすると面白く読めたので、さすがノーベル賞作家
「白い満月」「離合」が面白かったかなあ。あ、意識して選んだわけではないけどどちらも心霊譚だな。心霊要素があるのは肝ではあるけど、心霊要素以外の部分が面白い。
「死体紹介人」もよかったけど、自分から積極的に面白いといいにくい(そこまでアンモラルな作品というわけでもないが)
あと、「弓浦市」「めずらしい人」といった記憶ネタは、分かりやすい話
「無言」や「たまゆら」は、つかみは結構面白いんだけど、結末がそこまで、だったかなあ。
そういえば川端といえば「トンネルを抜けるとそこは雪国だった」だが、確かに、全般的に冒頭でぐっと引き込まれる作品が多かったかもしれない。「ん、なんだろ?」と思わせて、段々分かっていく感じのが多い、気がする(いや、こう一般化してしまうと、小説とはそもそもそういうものだろ、となってしまうが)。

心中

1926年
2ページの掌編
母と娘のところに、別れた夫から次々と手紙が来る。
音をたてるなというような内容の手紙で、母は次々とそれに従っていく。
奇想というか不条理ホラーというか。

白い満月

1925年
肺病で湯治している主人公を軸に、女中として雇ったお夏の話と妹の静江・八重子の話とがそれぞれ展開する。
お夏が、北海道にいる自分の父の死を幻視する。
静江が主人公のもとへ訪れている間に、八重子が自殺する。八重子の夫と別の男との関係から。八重子の夫とその男は、どちらも静江の元恋人。これも複雑だが、実は、静江と八重子は主人公とは父親が違う可能性もあるとか、そういう話もあったり。
お夏の謎の霊視能力みたいなのが出てくるのが異相ポイントなのだが、それはそれとして、三兄妹の人間関係が主たる内容で、そこが面白い。

地獄

1950年
これは主人公の「私」が死者で、まだ生きている友人の西寺のもとへと会いに行く話
西寺は、かつて「私」の妹と想いあっていた(が付き合い始めていなかった)。で、「私」夫婦と妹と西寺とで、登別旅行へいったことがあったのだが、そこで妹は自殺のような事故死をとげる。
ところで、その西寺が今は雲仙にきていて、雲仙と登別が似ていることに気づく。なぜ雲仙に来たかというと、西寺の今の妻が雲仙で死のうとしていたから。
この作品は冒頭から、語り手が死んでいる、という点で引きつけられるが、妹がなんで死んだのか、それは死者同士であっても分からないというところで、感情をめぐるミステリになっている(謎解きはない)。まあ、そういう死に方されてしまうとな。

故郷

1955年
ヘリコプタアが冒頭から出てくるので、発表年を見たら1955年だった。ヘリコプターっていつ頃から一般化? したんだろう。
これは全体的に夢か幻かみたいな話で、ヘリで故郷に帰ってきて、子供時代に仲良かった女の子が、その当時の姿で出てきたり、自分も子供時代の姿になってたりしながら、故郷を見て回ったりする話

離合

1954年
結婚を間際に控えた女性が、父親と婚約者をひきあわせるために、父親を東京に呼ぶ。
そして、離婚していた母親とも会わせようとする。
娘が一人暮らししている家で、再会する父と母
なんだけど、最後、この母親はすでに死んでいて、ようは幽霊と会っていたんだなあというオチになっている。

冬の曲

1945年
主人公の幼馴染なのか何なのか親しくしていた男が、招集後すぐに戦死してしまって、その後、縁談があったのだが断ってしまう。ところが、その断った相手も亡くなってしまい、罪悪感にとらわれる話

朝雲

1941年
これは心霊とか幻想とかそういう要素はなくて、いまでいう百合もの
女学生が主人公で、転勤してきた女教師にひたすら一方的に憧れている、というただそれだけの話なんだけど、好きなんだけどうまくお近づきになれない、話せる機会があるとつっけんどんな態度をとってしまうという青春もの
ただ、卒業後、何通も手紙を出すあたりとかはちょっと怖いといえば怖い、か。
まあでも最後は、青春のよき思い出みたくなって終わる。

死体紹介人

1929年
これ、初期の代表作らしい。
屍姦というわけではないが、死体に対して性的なニュアンスをもつ作品となっていて、つまりどことなく変態的な要素がある。読んでいて気持ちのいい話ではないが、しかし、別に変態性欲の話というわけではなくて、奇妙な人間関係の話であって、面白いことは面白い。
この短編集収録の中では一番長い作品かと思うし(あとは「白い満月」と「朝雲」が長めだった気がする)、この短編集のハイライトなのかなと思われる。
主人公は大学生で、昼間の勉強部屋が欲しいとなって、とある下宿部屋を借りる。そこは、乗合自動車・車掌の女性ユキ子が借りている部屋なのだが、昼間はいないので、家賃も半分にできていいだろう、と。
で、直接会うこともなく、部屋にもほとんど生活の気配を残さないような女性だったのだけれど、急性肺炎になって急死してしまう。
どうも身寄りもないらしく、主人公が医学部の友人に相談したら、献体してくれよ、お前が内縁の夫だったことにしてしまえばいいだろ、と唆されて、売ってしまう。
写真だけほしくなって友人に頼むと、遺体安置室に置かれている全裸の写真が送られてくる。主人公は、ユキ子が働いているところを一回目撃しているが、それ以外では生前に直接の面識はない。死体になってから初めて肌に触れて、それが初めて抱く女の身体でもあって、女の身体は冷たい、という認識が生まれ、さらに死体となってから裸を見ることにもなり、何というか、死んでから関係が深まってしまう。そういう倒錯が描かれている。
ところで後日、ユキ子の妹から連絡があって、上京してくるというので、遺骨が必要になるが、もう医学部の方には何も残っていない。火葬場に行って誰かの遺骨をくすねてくるとしたところ、やはり一人で火葬場に来ていた女性たか子と出会う。娼婦だった姉の火葬で、事情を話すと骨を分けてくれることになる。
でまあ、主人公は、結局妹の千代子と内縁関係を結ぶことになり、そしてその妹も姉と同じく乗合自動車の車掌となる。さらに同じ病気で倒れると、正式に婚姻するが、直後に死んでしまう。
一方で、たびたび会うようになっていたたか子と、最終的に結婚する。で、今では、貧民街で葬式代に困っているところに、医大献体するように薦めて回るようになった、と。
ユキ子は遺品がほとんどないのだけど、拾いものという包みがあって、そこに「男女のけしからん写真」が入っており、後に主人公は、その写真とユキ子の裸の写真とを一緒にしてしまっている。あるいは、千代子の火葬の際、葬儀社が不寝番をしてくれる人足を出してくれるのだが、男女2人組で、千代子の遺体の横で抱き合っていたのをたか子が目撃している。
主人公自身の性は描かれていないが、ユキ子・千代子姉妹はその死後に、赤の他人の性行為と結びつけられている。
姉と同じ道を辿った千代子と、姉とは違う道を辿ったたか子という対もある。
こうやって整理してみると、やっぱりよくできてると思う。でも、この主人公あんまり好きになれないなという感じもある。

1950年
掌編で、夢に蛇が出てきたり、知人が出てきたりする。

1927年
ここから、1927年の掌編が3つ続く。
犬は死を呼ぶと言われ、飼い主が死ぬとその飼い犬も死なせる村の話
まあ、嗅覚が鋭いから、死臭を覚えた犬は、死期の近い人が分かるようになるのだろうとか解説され、その風習も次第に失われていく。

赤い喪服

1927年
女学生が赤痢にかかって死ぬ話

毛眼鏡の歌

1927年
思いを寄せる女性の髪の毛を輪にして眼鏡にして、それで覗いた風景に彼女を見出していく話

弓浦市

1958年
主人公のもとに、30年前に会ったことがあると称する女性がやってくる。
九州の弓浦市に主人公が旅行で訪れた際にあって、結婚の約束もしたという。
とはいえ、主人公は、その時期に九州旅行した記憶も、まして旅行先で婚約した女性の記憶もない。
ずいぶんと詳しい思い出話を語った後、女性は帰っていく。
あとで調べると、そもそも弓浦市なる市自体が存在していなかった
一緒に居合わせていたほかの客は、あの女は気が触れていたんだなと納得するが、主人公はもう少しモヤモヤするという話

めずらしい人

1964年
男手1つで息子と娘を育て、その二人も独り立ちした男性教師の話
特にかわいがっていた息子が結婚して家を出ていった後、父親は明らかに気落ちしている様子だったが、帰ってくると、今日はめずらしい人に会った、と娘に話すようになる。
昔の知人にばったり出くわした、ということなのだが、あまりにも毎日続くので、訝しんだ娘が父親の帰る頃合いに、勤務先の学校を見張ってみると、知らん人に声かけて怪訝そうにされているところを目撃してしまう。今までも、知らん人に声をかけてたのか、と愕然とする娘、という話。

無言

1953年
とある老作家が病気で声が出せなくなってしまう。筆談なら、能力的にまだ可能なはずだが、それもしようとしない。全くの沈黙を続けているという。後輩の作家である「私」がそれを見舞う話。
未婚の娘が父親を世話していて、彼女は父親が何を考えているか分かるような振る舞いをしている(「早く、お酒を出せって?」みたいな感じで)。
で、「私」は、あなたがお父さんのことについて書いてみたらどうですか、みたいな話をふる。
というような内容なのだが、見舞いに行く道すがら、タクシーの運転手から幽霊話の噂を聞いていて、それがなんか織り交ぜられながら展開する。

たまゆら

1951年
たまゆらとは、勾玉と勾玉をあてた時に鳴るかすかな音のことを指すらしい。
とある若い女性が亡くなり、彼女が身につけていた勾玉を、主人公、彼女の元恋人瀬田、妹が形見として受け取る。
主人公は、このたまゆらを愛の時に聞かせたのだろうか、などと妄想している。
3つの勾玉を3人で分け合ったので、命日の時は3人持ち寄って、また、たまゆらを聞こうなどと約束したのだが、後日、瀬田が主人公に、勾玉のせいで悪夢を見るようなので返したいのだという相談をする。

感情

1924年
以下、2,3ページくらいの短いエッセーが3本ほど続く
自分は失恋したのに悲しくならない、という話。ただ、この文章自体が、今書いている小説の宣伝らしい。

二黒

1935年
私は後悔をしない云々
タイトルは、掲載誌の方の企画で、一白、二黒、三碧……と各作家にふったっぽい

眠り薬

1959年
睡眠薬を飲んだ時の失敗談(宿泊先で部屋を間違ってしまった云々)

『文豪ナンセンス小説選』

ちょっと昔の日本文学を読んでみようかなと思い始めていて、つらつらと図書館で検索をかけていたら見つけた本。1987年刊行の本である。
「ナンセンス」というのは最近だとあんまり使われないので、ニュアンスをつかみ取りにくい。このアンソロジーに収録されている作品のうちの多くは、今だと「奇想」とかそういうふうに呼ばれる作品では、という気もした。
ただ、これは確かにナンセンスだな、と思う作品もある(個人的に、ナンセンスという言葉からは、ユーモアや笑いの要素が含まれるような気がしてしまうので、それがあるとナンセンスっぽいなと感じ、それがあまりないと、奇想っぽいなと感じた)。


稲垣足穂横光利一中島敦あたりを特に目当てとして、それ以外にもまあ有名な名前がたくさん並んでいるから読んでみるか、という感じで手に取った。
目当てにしていた作家の作品は、想定通り面白かったが、それ以外に、内田百閒と宇野浩二の作品も面白かった。


古い作品は漢字の使い方が違っていて(今だったら普通かなにひらくところも漢字になってたり(「不図」とか)、そもそも難読単語だったり、知らない言葉だったり)、読み方が分からなかったりするけど、それもまた面白い
現代の小説とも翻訳小説とも違ったリズムがあって、それがなんとなく、今しっくりくるのだと思う。

「雨ばけ」泉鏡花

『随筆』大正12年1月号
中国の怪談をベースにした話。初出誌が『随筆』とあるように随筆として書かれた作品らしくて、時々、筆者が出てくる。

夢十夜-第二夜」夏目漱石

朝日新聞明治41年7月
武士が、和尚の首をとるために悟りを開こうとしているが、なかなか悟りが開けない話

「北溟・虎」内田百間

これは、「北溟」と「虎」の2篇。どちらも昭和12年の作品
どちらも2~3ページ程度の掌編
北溟は、船を待っていたら、膃肭臍の子が大挙してやってきて、待っていた人たちがそれを捕まえて食べる、という話
虎は、汽車が通ったあとに虎がでるといわれてて、みんなでたらなんか一人いなくなった話
奇想という感じがする。

「煙草と悪魔」芥川竜之介

大正5年10月
キリスト教伝来の際に、悪魔も一緒にやってきて日本に煙草を伝えた、という話

「星を売る店」稲垣足穂

中央公論大正12年7月
編者がこの作品をセレクトした理由は、タバコつながりらしい
港町を歩いている「私」は、友人がやっていたタバコを素早く出して咥える芸の真似をしたり、街歩きをしていて、蛇使いを見ていたりしている時に出くわした別の友人とタバコの話をしたり、と確かにタバコがよく出てくる。
後半になって、「私」が突然出くわした店で、金平糖のようなものを売っていて、それは、おもちゃの汽車にいれると汽車が動き出すし、楽器の中に入れると楽器が勝手に鳴り、カクテルやタバコの中に入れると美味くなったりと色々な効用があって、それは何かというとエチオピア高原で採れる「星」だという。

寒山拾得森鴎外

『新小説』大正5年1月号
寒山拾得についての話
最後に、作者本人が出てきて、子供にこれは一体どういう話なのか聞かれて困った、というのがついている。寒山文殊だというのがわからぬといわれて、
「実はパパアも文殊だが、まだ誰も拝みに来ないのだよ」

「頭ならびに腹」横光利一

文芸時代大正13年10月号
「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で馳けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。」という冒頭の文が、新感覚派を代表する有名な文らしいが、最初に読んだときは何も思わず通り過ぎてしまっていた。
満員列車の中に、滑稽な歌を歌い続ける小僧が入ってくる。ところが、事故によって列車が止まってしまう。人々は、待つか引き返すか迂回する列車に行くか選ばないといけなくなる。待つのと迂回路線に回るのどちらが速いかわからず躊躇する人々だったが、一人が迂回線へ向かうと雪崩をうってそちらへ向かう。
小僧だけが歌ったままずっと残っているのが、列車が復旧し、迂回せず待ってた方が速かったね、というオチ。
列車が事故った際の人々の反応が、「どうした!」/「何んだ!」/「何処だ!」/「衝突か!」と書かれているのが、リズミカルで楽しかった

「霊感」夢野久作

『猟奇』昭和6年3~4月号
老医者ドクトル・パーポンのもとに、顎の外れたアルマ青年が運ばれてくる
顎を直してもらったアルマは、ドクトルに顎が外れた顛末を話し始める。
アルマとマチラの双子の兄弟と、彼らの従妹であるレミヤとの間に起きた恋愛事件とその顛末
この3人の悲劇(アルマとマチラの双子があまりにもそっくりすぎて、レミヤとどちらが結婚するかという点で、まったく甲乙つかずに3人ともが苦しむ。どうやって解決するかを判事が考えるのだが、なんとレミヤの子は実は……)というの自体は、まあなかなか面白いと思うのだけど、なぜそれが、顎が外れる、というユーモア話的な枠組みの中におかれているのか。

「死なない蛸」萩原朔太郎

新青年昭和2年4月号
1ページほどの作品
水族館の中で飢えた蛸が自分を食べていって、ついに何もなくなっても死ななかったという話

「化物」宇野浩二

中央公論大正9年7月夏季特別号
『新選宇野浩二集』では「熊と虎」に改題。童話仕立てになおした「虎熊合戦」もある。
友人の小説家である島木島吉から聞いた話、という内容なのだが、その前に、語り手である「私」と島木が、学生時代に出会った頃の話から始まる。
島木は大学をやめてしまい、「私」はまだ大学に残ってぷらぷらしていた頃、「私」が居候のようなことになっていた終夜営業のカフェーに島木がやってきた、というような取り留めもない話がされる。そのあたりは本当に取り留めもないところなんだが、学生のだらだらっとした雰囲気が出ていてなかなかいい。
で、後日、島木が、そのカフェーで再会した頃に実はこんなことがあったんだ、と話してきたのが本題となる。
島木も行くところがなくて、夜は終夜営業の店をハシゴしていて、そんな中、やはり同じように深夜のカフェにいる女性と出会う。そして、その女性から、妙なアルバイトを持ち掛けられる。
とある興行師からの仕事で、何も説明されずつれていかれて、なんと熊の毛皮を着せられて、そのまま熊として見世物小屋に連れられた挙句、虎と決闘させられるという仕事だった。
まあ、読んでいたら想像がつくが、虎の方にも実は人がはいっていたのだけど、というオチがつく。

「愛撫」梶井基次郎

『詩・現実』昭和5年6月号
これは小説というよりはエッセーという感じの作品で、猫について書いている
猫の耳を切符切りでパチンと切ってみたいとか、猫の手を化粧道具にしているご婦人がでてくる夢とか、なかなか残酷な感じの話が書かれているのだが、解説では「生を慈しむ感情が温かく底を流れる佳品」と評されており、また、この作品については単体でWikipediaの記事もあって、梶井の猫への愛をあらわした作品としてかなり高く評価されているらしい。
まあ、確かに残虐な話ではないんだけれども……

「謝肉祭の支那服-地中海避寒地の巻」久生十蘭

新青年』で昭和9年から開始された連載の第3回
この話はあんまりよくわからなかったな
コン吉とタヌキ嬢という二人組が、特急で出会った男につれられて、マルセイユだのニースだのに行くのだけど、なんかいろいろ振り回される話だった

「風博士」坂口安吾

『青い馬』昭和6年6月号
風博士という人が、蛸博士とのいざこざの果てに自殺して、その遺書と、それについての弟子の語りなのだけど、語り口の軽妙さというか、無意味な繰り返しみたいなところが面白いものの、内容としてはよくわからない。これはまさにナンセンスな作品という感じではある。

「ゼーロン」牧野信一

『改造』昭和6年10月号
解説によると、牧野信一は、「雨ばけ」が掲載された雑誌『随筆』で助手をしていたことがきっかけで、宇野浩二と知り合い、宇野浩二からかわいがられていた人、らしい。
作家の「私」が、経川という彫刻家に作ってもらったブロンズ像「マキノ氏像」を処分するために、箱根の山奥へと向かうという話。その時、乗る馬の名前がゼーロン
これもちょっとよくわからなかった

「知られざる季節」石川淳

『作品』昭和11年12月号
後半、なんかよくわからない作品が続くなーという感じだったが、この作品がそのピークだった。
一応読んだのだが、あらすじも把握できていない。
解説によると、デビューした石川淳を称賛したのが、先の牧野信一だったとのこと。
また、この作品は、当時単行本未収録であり、編者が石川本人に頼んで本アンソロジーへの収録を許可してもらったという経緯があるらしく、編者の思い入れの深い作品のようである。
ちなみに、このアンソロジー刊行時、収録されている作家のうち、唯一存命だったのが、石川淳だったようだ。

「文字禍」中島敦

『文学界』昭和17年2月号
アッシリア帝国、アシュル・パニ・アパル大王の治世が舞台で、その大王の図書館でひそかな声がする。これの調査を命じられた老博士ナブ・アヘ・エリバは、文字に宿る精霊について研究を始める、という話。
文字の精霊というのが、いかに人間に害をなすのか、という話
目が悪くなるとか記憶力が落ちるとか、あるいは、くしゃみをするとか下痢をするとかいう害も報告されているが、主題となっているのは、文字によって書かれたことと現実との関係で、今にも通じるような話である。
最後、老博士が粘土板によって圧死してしまうというオチも含めて、コミカルな感じにはなっている。

2024年振り返り

2024年の振り返りをするにあたって、2023年まとめ - logical cypher scape2を読み直していた。
2023年は、しばらく行けていなかった美術展や映画館にまた行くことのできた年として記録されていて、美術展3つ、映画館で4本の映画を見に行っていた。
対して、2024年は、美術展1つ、映画館で見た映画は1本とやや退潮した。
一方で、2023年の年末に「音楽イベントはまだしばらく行けないと思う」と書いていたが、2024年は8月にナナシスのライブに行くことができた(Tokyo 7th Sisters LIVE DIVE TO YOUR SKY!! day2 - プリズムの煌めきの向こう側へ)。
また、12月には文学フリマにも行ってきた。実に6年半ぶりの(一般)参加だった。
ブログの記事数を見ると、100記事を超えており、2020年以降2桁だった記事数が、3桁台に復活した。
読んだ本は、正確には数えていないが、大体70冊くらい。
今年は新書とか小説とかで冊数を稼いだ気がする。比較的時間のかかるものもいくつか読んだはずなので、結構読むことができたな、と思う。

達成状況?

2023年の振り返り記事では、自分にしては珍しく、というか初めての試みとして「来年に向けて」という項目を立てていた。
達成状況を確認してみる。

  • 小説
    • 海外文学:2023年に読み損ねた本を拾う

まあまあ達成した。

    • SF読む比重を増やす

達成した。

  • 美学・美術・表象文化論
    • 直近で、美術系で2冊くらい読みたい本がある

ここで念頭に挙げていた2冊のうち1冊は読んだ。

未達成

    • 恐竜表象・恐竜文化とか科学表象とかもちょっと拾えたらいい

うーん、少し読んだと言えば読んだが、昨年末に想定していたものではない気がする。

    • 英語の本

もともと英語を読むことを目標に掲げていなかったが、少し読んだ(本の中の章を1つと論文いくつか。本1冊は読めていない)。

もともと、上で挙げた英語の本はゴンブリッチを念頭に置いていたが、ゴンブリッチは手つかず。しかし、ゴンブリッチについて扱っている清塚本は読んだ。

  • 哲学・科学哲学
    • 実在論とか科学表象とか科学哲学関係で読みたい本が数冊

これはほぼ未達成。『客観性』くらいか。

    • ぽろぽろ単発的に読みたい本はある

未達成

  • 世界史

これは十分達成
むしろ、今年の1~7月はほとんどこれだった。

  • 自然科学
    • 進化生物学あたりで読みたい本がぽろぽろあって、集中的に読めたら読みたい

未達成

ここでいうセール中に買った本が正確にどれだったか忘れてしまったが、おそらく4冊中2冊は読んだ。

こういうのがあると、色々と自分の状況が見れるし、読んでいくときも「ここが進展したぞ」などと確認できるのは面白いが、一方で、全然進展していないことも可視化されるので、そこは辛い。
まあ、達成したかどうかはあまり重要ではない。
読みたい本というのは、次から次へと無秩序に増えていって収集がつかなくなるので、「じゃあ次に何を読むのか」という時の指針である。
計画をガチガチに立ててそれに縛られてしまうのもつまらないとは思うが、気が移ろいやすく「あれも読みたいし、これも読みたい、どれにするか決められない」となりやすいので、ルートを決めて読んでいくのもそれはそれで楽しかったりする。
特に今年は、上半期(1~7月)は、かなり方向性を絞って本を読んでいた。
その反動か、下半期は、迷走気味な読書になった。
方向性を定めて本を読んでいく方が充実感はある。
しかし、他のジャンルの本も読みたい、という気持ちがたまってくる。

世界史

世紀転換期・戦間期読書まとめ - logical cypher scape2
これについては、上にまとめたものに尽きる
これまでも、〇〇月間みたいにして、特定のテーマについて読んだりしたことはあったけど、半年間同じテーマについて読むのは初めてだった。

SF

今年は、新刊と古典とを織り交ぜて読むことができた。
新刊といっても、去年読めていなかった分とかなので、今年の新刊はあまり手を出せていない。今年、国内SFで結構読みたい本が増えているので、これは来年の課題としたい。

新刊系



新刊系だと、この2冊が特によかったかな、と思う。

アンソロジー



こういうアンソロジーはなかなか当たり外れがあるけれど、この2冊はわりと良かったんじゃないかと

古典系

『20世紀SF〈3〉1960年代・砂の檻』 - logical cypher scape2を読んだのを機に、ちょっと古いものも読んでみようかなと思い立った。
そういうのに手を出し始めると、読みたいものがどんどん増えていくわけで、読みたいけど読めてない本はまだまだあるが


この2冊、もともと超有名作品だけど、かなり面白かった。
ほかには以下の通り。

ブルース・スターリング『蝉の女王』(小川隆・訳) - logical cypher scape2
ラリイ・ニーヴン『無常の月 ザ・ベスト・オブ・ラリイ・ニーヴン』(小隅黎・伊藤典夫訳) - logical cypher scape2
グレッグ・ベア『鏖戦/凍月』 - logical cypher scape2
ブライアン・オールディス『地球の長い午後』(伊藤典夫・訳) - logical cypher scape2

その他リスト

上記にあげた以外で読んだSF作品(若干SFでないものも含む)
『SFマガジン2023年12月号』 - logical cypher scape2
上田早夕里『ヘーゼルの密書』 - logical cypher scape2
ルーシャス・シェパード『美しき血(竜のグリオールシリーズ)』 - logical cypher scape2
ルーシャス・シェパード『タボリンの鱗 竜のグリオールシリーズ短編集』 - logical cypher scape2
キム・スタンリー・ロビンスン『未来省』 - logical cypher scape2
『星、はるか遠く 宇宙探査SF傑作選』(中村融編) - logical cypher scape2
ジェフリー・フォード『最後の三角形 ジェフリー・フォード短篇傑作選』(谷垣暁美・訳) - logical cypher scape2
津久井五月「われらアルカディアにありき」「ラスト・サパー・アンド・ファースト・サマー」「川田さんの遺書」 - logical cypher scape2
ラヴィ・ティドハー『ロボットの夢の都市』 - logical cypher scape2
『Kaguya Planet vol.2 パレスチナ』 - logical cypher scape2
『SFマガジン2024年12月号』 - logical cypher scape2
春暮康一「滅亡に至る病」 - logical cypher scape2
『日本SFの臨界点 中井紀夫 山の上の交響楽』(伴名練編) - logical cypher scape2
ブライアン・オールディス『地球の長い午後』(伊藤典夫・訳) - logical cypher scape2
アーカイブ騎士団『明治スチームパンク小説集』『写真SF小説集』(文学フリマ東京39) - logical cypher scape2

文学

国内

磯崎憲一郎『日本蒙昧前史』 - logical cypher scape2
佐藤亜紀『ミノタウロス』(再読) - logical cypher scape2
松永K三蔵「バリ山行」(『文芸春秋』2024年9月号) - logical cypher scape2
『文学+』4号 - logical cypher scape2
国内についてほとんど読んでいない感じ
今年は、優先度も下げていたのでまあこんなもんかな、と。
以前、最近読んだ文学 - logical cypher scape2にまとめたけど、戦後文学というか、第三の新人世代前後の短編小説などをちょいちょい読む、ということをしたけれど、今後、もう少し時代を遡っていこうかなあと思っている。
一方、現代の作品もまあ読みたい。

美学・美術・文化論・物語論・フィクション論

美術



今年はこの2冊を読めたのがよかった。
あとは、デ・キリコ展 - logical cypher scape2に行き、長尾天『もっと知りたいデ・キリコ』 - logical cypher scape2を読んだ。
全部、上半期だな。

描写の哲学


これも読めてよかった本
大変、勉強になった。

美学その他

応用哲学会2024年大会 - logical cypher scape2
銭さんのジャンル論面白かったです。博論書籍化希望~と外野がてきとーに言ってみる

物語論・フィクション論

想像のobjectと想像のvividness - logical cypher scape2
小池隆太のマンガ・アニメに関わる物語論関係の論考を読んでのよしなしごと - logical cypher scape2
『ユリイカ2023年11月臨時増刊号 総特集=J・R・R・トールキン』 - logical cypher scape2
最近、フィクションの哲学をやっている人として、岡田進之介さん、気になっている。
また、フィクションの哲学というよりも物語論をもう少しちゃんと勉強しないとなーという気持ちも出てきているが、手つかず。

文化論


これもよい本でした。

科学表象・科学哲学・動物の美学

科学表象


今年の下半期は、これを読めたのが個人的な大きな出来事
ずっと読みたい本としてあがっていたのだが、どうにか年内に読むことができた。
こういう大著を読めてよかった。
科学史の本


応用哲学会2024年大会 - logical cypher scape2
これ、記事タイトルが「応用哲学会」になってるけど、最後に応用哲学会と全然関係なく、橋本毅彦のサーベイ論文についての感想も書いてて、この論文の中でも『客観性』が触れられている。

恐竜・動物

Allen A. Debus”Rex Battles”(”Prehistoric Monsters: The Real and Imagined Creatures of the Past That We Love to Fear”より) - logical cypher scape2
Michel-Antoine Xhignesse "Imagining Dinosaurs" - logical cypher scape2
Michel-Antoine Xhignesse"Distant Dinosaurs and the Aesthetics of Remote Art" - logical cypher scape2
Thomas Leddy"Aesthetization, Artification, and Aquariums" - logical cypher scape2
久しぶりに英語読むのが復活。10月頃。
1つ目は恐竜表象についての本の中の章を1つ。
それから、恐竜表象についての美学の論文が出ていることを知ったので、2本読んだ。確かこの論文は、村山さんがXで紹介していたのを見て知ったのだと思う。
その勢いにのって、難波さんがブログで紹介していた動物の美学についての論文。
そこで紹介されていた他の論文も引き続き読もうと思っていたのだが、力尽きてしまった。英語読む気力が続かない。

科学哲学・心の哲学

田中泉吏・鈴木大地・太田紘史『意識と目的の科学哲学』 - logical cypher scape2
小草泰・新川拓哉「意識をめぐる新たな生物学的自然主義の可能性」 - logical cypher scape2
哲学の本を読むのは、なにげに相当久しぶりだったような気がするのだが、意識の研究については、去年も一昨年も年に1,2冊程度は読んでいて、何というか「まとめて勉強するぞ」という程ではないんだけど、自分にとって関心が継続的に維持されている分野なんだな、と思う。

宇宙


伊勢田哲治・神崎宣次・呉羽真編著『宇宙倫理学』 - logical cypher scape2
向井千秋監修・東京理科大学スペース・コロニー研究センター編著『スペース・コロニー 宇宙で暮らす方法』 - logical cypher scape2
『宇宙倫理学』を1月、『スペース・コロニー』を5月、『宇宙開発の思想史』を9月に読んでおり、つまりバラバラに読んだのであって、何かテーマがあって読んだわけではないんだけど、何となく宇宙科学ではなく宇宙開発ってどうよ、という方向で本を読んでいる感じだな。

映画

ジョン・ウィックシリーズ - logical cypher scape2
ガメラ2 レギオン襲来 - logical cypher scape2
『デューン砂漠の惑星PART2』 - logical cypher scape2
『シビル・ウォー』 - logical cypher scape2
『KCIA 南山の部長たち』 - logical cypher scape2
劇場で見たのは『シビル・ウォー』、面白かった。
KCIA』は、今後『ソウルの春』『タクシー運転手』を見るための前哨戦みたいな位置づけで見た。

『物語の外の虚構へ』反応

大木 志門 (Shimon Oki) - 「文豪とアルケミスト」から考える現代の「文学散歩」―コンテンツツーリズムとフィクション論の観点から - 論文 - researchmap
エゴサしてたら見つけた。
論文が出てるのは3月頃だけど、見つけたのは12月
筆者は、researchmapによると、日本近現代文学徳田秋聲水上勉)を専門としている東海大の教授で、なんか文アル関係のこともやっている、みたい?(7月に文アルとタイアップした石川啄木作品集の編者になっている)
この論文は、コンテンツツーリズムからということで、岡本健→谷川嘉浩→シノハラユウキという感じで、コンテンツツーリズムとフィクション・想像の関係についてサーベイしてくれていて、さらに、フィクションの哲学つながりで石田尚子論文にも触れられている。
あと、文アルはもちろん元はゲームなので、ゲームについての言及もしていて、その中で松永本のことも引用しており、文学の論文なのだが、分析美学の引用がわりと多い論文となっている。
『物語の外の虚構へ』については以下をどうぞ

来年に向けて

去年にならって今年も……とはならないのだった。
去年に書いたやつで未達成のものを読みつつ、しかし、改めて読みたいものの優先度は整理しておきたい。
っていうか、来年は40になるな……
何か新しい趣味を作りたいという気持ちが少しありつつ、そんな時間捻出できるのか感もありつつ。


というわけで、今年はこんな感じでした。
また来年もよろしくお願いします。

ロレイン・ダストン、ピーター・ギャリソン『客観性』(瀬戸口明久・岡澤康浩・坂本邦暢・有賀暢迪訳)

科学的図像の実践から紐解く、「客観性」をめぐる科学史の本。
「客観性」という概念は、古くから、少なくとも科学が生まれてからずっとあったように思われるけれど、そうではなくて、比較的新しい概念であることを提示する。
本書は「認識論的徳」、つまり科学的であるためにはこのようにするべきだ、という理想が、歴史的に変遷してきたことを示し、「客観性」は、ある時代の特有の認識論的徳であると論じている。
具体的には、以下の3つの認識論的徳が取り上げられている。
18世紀:本性への忠誠・四眼の視覚
19世紀:機械的客観性・盲目的視覚
20世紀:訓練された判断・観相学者の視覚
(※後ろの「~の視覚」は、その徳を発揮するために必要とされるもの)
客観性(ないし機械的客観性)は、19世紀に生まれたものであった、と。
しかし、気をつけなければいけないのは、これはパラダイムの変換のように違う徳へと切り替わっていったという話ではないこと。
「本性への忠誠」は、18世紀に重要視された認識論的徳であり、19世紀以降、客観性という徳と対立するようになり、主たる地位は奪われることになるが、しかし、なくなったり廃れたりしたわけではなく、現在もなお生き残っている。
また、認識論的徳は、科学者に対してある種の義務を課す。
科学者は、そうした徳に従って、科学者としての自己を形成していく。
だから、客観性は主観性(自己)と対をなす。主観性なくして客観性はない。
また、本書は、こうした認識論的徳や科学者としての自己の歴史を、科学の実践の中から論じていく。
より具体的には、アトラスと呼ばれる一群の科学的図像である。
その時代によって、アトラスに収録されている画像の特徴は変わっていく。そこから、どのようにそれらの画像が作られており、ひいては、どのような画像が「科学的」だと考えられていたのかが見出されていく。


第1章では、本書全体の流れが示される。
第2章では、本性への忠誠について、第3章では、機械的客観性について、第6章では、訓練された判断について、それぞれ扱われる。
また、第4章は、機械的客観性の時代の科学的自己についてが扱われる。
さて、大雑把にいって、18世紀が本性への忠誠の時代、19世紀が機械的客観性の時代、20世紀が訓練された判断の時代なわけだが、
20世紀初頭、機械的客観性には限界があることが意識され、それへの対応が2つに分かれた。
1つが「構造的客観性」であり、もうひとつが「訓練された判断」である。
上に述べた通り「訓練された判断」は第6章で取り上げられているが、その前の第5章で「構造的客観性」も論じられている。
本書は基本的に、科学的図像からみる科学史として書かれているが、第5章は図像ぬきの話であり、20世紀初頭の科学哲学(初期分析哲学)について書かれている。
第7章は、21世紀の展開について論じられている。

プロローグ 客観性の衝撃
第1章 眼の認識論
     盲目的視覚
     集合的経験主義
     客観性は新しい
     科学的自己の歴史
     認識的徳
     本書の議論
     普段着姿の客観性
第2章 本性への忠誠
     客観性以前
     自然の可変性を飼いならす
     観察のなかの理念
     四眼の視覚
     自然を写生する
     客観性以降の本性への忠誠
第3章 機械的客観性
     曇りなく見る
     科学および芸術としての写真
     自動的図像と盲目的視覚
     線画と写真の対立
     自己監視
     客観性の倫理
第4章 科学的自己
     なぜ客観性なのか
     科学者の主観(主体)
     科学者のなかのカント
     科学者のペルソナ
     観察と注意
     知る者と知識
第5章 構造的客観性
     図像のない客観性
     心の客観的科学
     実在的なもの、客観的なもの、伝達可能なもの
     主観性の色
     神ですら言えないこと
     中立的な言語の夢
     宇宙規模の共同体
第6章 訓練された判断
     機械的複製の不安
     客観性のために正確性を犠牲にすべきではない
     判断のアート
     実践と科学的自己
第7章 表象(リプレゼンテーション)から提示(プレゼンテーション)へ
     見ることは存在すること —— 真理・客観性・判断
     見ることはつくること —— ナノファクチュア
     正しい描写
 謝 辞
 訳者あとがき

プロローグ 客観性の衝撃

アーサー・ウォージントンは液滴を落とした時のしぶきを記録
フラッシュを使って目に焼き付けて、それを描き写すという方法で記録していた時は、対称的な形で描いていたのだが、写真を使って撮影された液滴は、決して対称的ではなかった。

第1章 眼の認識論

「本性への忠誠」「機械的客観性」「訓練された判断」
アトラス:ワーキング・オブジェクトを体系的に編集したもの
ワーキング・オブジェクト:図像やタイプ標本など自然を代表する対象
「主観」「客観」という言葉は、カント前後に意味が変化している
デカルトの一次性質と二次性質やベーコンのイドラは、必ずしも主観・客観の話ではない。
**第2章 本性への忠誠
客観性以前
カール・リンネ『クリフォート邸植物』
真理が先にあり客観性と区別
観察
科学者の介入
自然の可変性を飼いならす
現代人は、個人の主観による差(バイアス、誤差)を気にかけるが、変則的な対象も脅威
図像は、科学者共同体のためのデータ、記憶
本性への忠誠は、「典型的」「徴示的」「理想的」「平均的」な図像を選択するという判断
一方で、16,17世紀は、自然の可変性・奇形性をむしろ好んでいた(フランシス・ベーコン)
=本性への忠誠と対立する認識上の生き方


本性への忠誠を誓う人々の間で、しかし、具体的な解釈は必ずしも一致しなかった。
「典型的」「徴示的」「理想的」「平均的」は、標準化という点では同じだが、それぞれ違う意味

→理想を描く
自然の範型を示す。自然を芸術で描きかえることをためらわない
実際には存在しない普遍的なものを描写する

理想化に対して自然主義
個物(特定の死体)を描く、という点で、アルビニヌスと異なる。
しかし、複数の標本を組み合わせることはあり。また、美的な配慮もあり
真理と美、科学と芸術の一体化

  • ジョージ・エドワーズ

鳥にポーズをつけたりもする。1750年、コプリー・メダル受賞
一方、エドワーズにポーズを倣ったジェームズ・オーデュポン『アメリカの鳥類』(1827~1838)は非難されている
「徴示的」アトラスは、過渡期のもの

  • 四眼の視覚

博物学者レオミュールとその挿絵画家マルシリ
画家を監督する学者=四眼の視覚(学者と画家2人の4つの眼による視覚が理想)
画家が、変則的な特徴を過度に描いたりしないように、学者は常に画家を監督する必要があった。
画家と学者の間には、社会的、知的、認知上の緊張があり、学者は、従順な画家を求める
例えば、キュヴィエは娘のソフィーが画家をつとめるなど
一方、生活の糧として稼ぐ女性画家もいた。
また、学者との立場が逆転する画家も(筆頭著者になったり、名前が大きくクレジットされたり)わずかながらいた。
サワビーとスミス
学者と画家の対立は、seeing asとseeing thatの対立でもある
画家は媒体とならなければならない
素描の新しいイデオロギー→素描教育、ジョルジョ・ヴァザーリ、社会的上昇への道

  • 自然を写生する

「自然を写生する」18世紀の科学書の序文にでてくる言葉
当時の素描教育は、ほかの絵画の模写
その果てに模写じゃない「自然を写生する」がある
見たままに描く、ということではなく、見ることには記憶や識別が含まれており、図像は、対象の肖像でありながら、対象とするクラス全体の象徴でもある。真理という理想や美のために作られている。


19世紀以降も「本性への忠誠」は生き残ったが、特に植物学において
しかし、植物学にも「客観性」は入ってきた。その一つが「タイプ法」
タイプという言葉は理想・典型として使われてきたので、混乱や論争が生じた

第3章 機械的客観性

  • カハールとゴルジ

カハールはゴルジを強く批判したが、これは2人の認識的徳が異なっていたから(図像を単純化することは、ゴルジにとっては美徳だったが、カハールにとっては悪徳)
客観性という認識的徳は、自己抑制を義務とする
図式化し美化し単純化したいという欲望(本性への忠誠を導く理念だったもの)を抑え込まないといけない
客観性は1880年代~90年代には主流に
客観的画像がすべて写真だったわけでも、写真がすべて客観的だとされたわけでもない


-写真
天文学者ジョン・ハーシェル博物学者アレクサンダー・アガシ天文学者フランソワ・アラゴなどが、写真に可能性を見出した科学者
写真は当初、芸術において労働を節約する技術として見出された。
その後、科学において、人間の解釈を受けない画像として見出される。
ボードレールとフィギエ→写真は芸術性について正反対の意見
写真が偽造されたりレタッチされたりすることを、当時の人たちも理解していた
科学者の先入観や理論を投影する恐れがないことが、写真の客観性


観察者は機械を目指す

  • 生理化学者オットー・フンケ

顕微鏡の視界に入ったものはすべて描く→アーティファクトも記録する

  • 解剖学者ウィリアム・アンダーソン

自動化された手段で描写のプロセスを制御することで「誘惑」を回避する

  • 雪の結晶

ジョン・ネティス→エドワード・ベルチャー→ジェームズ・グレーシャー 本性への忠誠
グスタフ・ヘルマンとリヒャルト・ノイハウス 機械的客観性

  • アーサー・ウォージントン

落下する液滴
客観性とは、自然の理想的規則性を信じてしまう心に対して、世界の不規則性を押し付けること

  • バルデレーベンやヘッケル

客観主義者だが、写真に反対し木版画を擁護した


タイプとしての対象から個別としての対象へ
アーティファクトは真正性の証拠に


写真と線画については、色々な立場があった。

写真によって多くのものが失われることを認識していたが、写真を支持

オリジナル図像には線画を用いて、複製において写真製版

  • ウォージントン

最初が写真で、複製は彫版

  • ソボッタ、フランシス・ゴールトン

解釈の恐れは、通常個物の画像へ向かうが、ソボッタやゴールトンは合成された画像を支持した
ゴールトンは理想的なタイプを目指したが、本性への忠誠自体のような主観的な理想化ではなく、自動化された手続きによって目指した。
パターン認知は画家によってなされるのではなく、自動化された合成によってなされる(顔写真を合成することで)

  • 内科医エルヴィン・クリステラー

精密性を犠牲にして客観性を選んだ


機械的記録装置=自分自身からくる誘惑を抑制する手段
他者(画家など)の取り締まりから自省へと無火曜になった。
写真の欠点
教育的効果、色彩、被写界深度、診断上の有用性などについて写真は劣るものであったが、これらの要素も客観性の前では犠牲となった。

非常にぼんやりとした写真でしかなくて、見ても運河があるかどうか分かりにくい。ローウェルは運河の場所がわかりやすくなるように手を加えようとしたが、客観性のためにそのような加工はあきらめた。


自己抑制、認識的であると同時に道徳的な要請
機械的客観性とは
(1)客観性に必要な技法を身に着けること
(2)自己を拘束し規律化するように自分自身の意思を涵養すること
正確性よりも道徳的な誠実さを選ぶ
非介入性こそ、真実よりも客観性の核心
16世紀から18世紀まで、芸術と科学は協力関係
19世紀以降、芸術家と科学者の主張は相反するように(芸術の側ではロマン主義が台頭)
機械的客観性は、不完全なもの、非典型的なものをそのまま示す。それは、18世紀までは美徳ではなく無能。スキルが必要になってくる
しかし、20世紀までに、主観性を完全に排除するのは難しいということがわかってくる。

第4章 科学的自己

ヒスとヘッケルの対立=機械的客観性と本性への忠誠の対立
真理と客観性は単なるお題目ではなく、実践と結びついている。
例えば、彩色され鋭い輪郭をもつ線画か、ぼやけた白黒の写真か、いずれを選ぶのか、という。
本性への忠誠も機械的客観性も、いずれも義務を課す
その義務の変化は、アトラス制作者だけではなかった(図像を使わない他の科学者も、同時代的に変化が起きていた)


科学的客観性は、科学的主観性と表裏一体
本書では、日記や自伝に加えて、伝記やアドバイス・マニュアルを検討する
フーコーがいうところの「自己のテクノロジー」に注意をむける
観察における感覚の訓練、ラボでのノート取り、標本を描くこと、意志を鎮めることなど、これらは自己をつくりだし、自己を構成する


「自己」と「主観性」は異なる。「自己」にはいろいろな種類がある。
主観性は、自己という属の一つの種
自己についての2つの記述
(1)ディドロダランベールの夢』
(2)ジェームズ『心理学原理』
これは、自己についての2つの見方をあらわしている。
(1)啓蒙期の感覚主義心理学における自己=断片化され、受動的
(2)カント以降の自己=能動的で統合されている
啓蒙期の学者にとって、受動的に押し寄せてくる感覚をそのままにするのは混乱のもと、選択・弁別が必要
19世紀の科学者にとって、主観的な自己が能動的にデータに介入してくるのが問題。
科学者のエートスとペルソナ

  • 科学者のなかのカント

カントを創造的に誤読した科学者
ヘルムホルツ、ベルナール、ハクスリー
客観的と主観的との線をどこに引くかは論者によって分かれる
客観性は、これまでとは異なる認識論的な目標
主観性は、人間の条件の本質的な側面
19世紀は、科学が著しく発展した時期であり、激動の時代であり、定説が次々と変わっていく時代だった(だから、科学とは何かを考えるときに、一つの真理があるとは考えにくくなっていた。真理だと思ったものが明日には誤りになっているから)
形而上学への警戒
ベルナール、ハクスリー、ヘルムホルツは、もし科学が真理についてのものでないならば、何についてのものなのかを明らかにするために、客観的という言葉を使った


啓蒙期の自己は、「理性」と選択によって、想像力という受動的な誘惑に抗した
19世紀の自己は、「意志」による統合
科学は、「理性」による支配から「意志」の勝利へ
19世紀後半、科学の賞賛は、天才のひらめきから時間と労力へ
勤勉や忍耐など
実験室での労働と工場労働とのアナロジーすらある。
だが、科学者と単純労働者の違いとして、自己抑制のための意志の力があった。


啓蒙期の学者は、観察を繰り返すことが重要とされた。日誌をつけることが統一性へつながった。
断片化する自己や一貫しない対象に対して、日誌をつけることでその一貫性を保持する
理性によって導かれる注意と能動的な選択が、注意を抽象化へ高める
1870年代、注意は意志の行使と同義に(注意と意志の関係を示す参考文献として、クレーリー『知覚の宙吊り』があがっていた)
1860年代、受動的な観察と能動的な実験との対置(ベルナール)
ラボノートも未解釈・未編集の生データ


  • 芸術的自己

意志を行使することで外部化する、作品を創造する

  • 科学者

外部に向けて意志を行使することに抵抗。意志は自己(内面)に向けて行使される
→芸術との対立

第5章 構造的客観性

  • 図像のない客観性

客観性は、自然をあるがままに見ることでも、感覚や観念への忠実さでもなく、さまざまな感覚のあいだにある一定不変の関係のうちにある
科学とは万人に伝達可能であらねばならず、構造だけが伝達可能
図像ぬきの客観性を主張した人たち
機械的客観性をより極端に推し進めたのが構造的客観性
機械的客観性も構造的客観性も、主観性と戦うものという点では同じだが、主観性を抑制するか断念するか、という違い


客観性の指標を、カントは伝達可能性とした
心理学が幾何学などを経験科学の対象としようとする



ヘルムホルツvsフレーゲ
数学と論理学が科学的な心理学と生理学の猛攻に耐えられるか
表象も直観も、フレーゲにとっては主観的
算術よりも客観的なものはない



19世紀において「色」は主観的なものの典型例
(かつて、例えばデカルトは、色の問題を主観と結びつけていなかったのに対して)
ポアンカレにとっては、色の問題は私秘性。伝達不可能性。
カント的な「客観的」「主観的」を使うようになった初期の例が、色の科学
例えば、ゲーテ『色彩論』
フレーゲ、色の主観的感覚と色彩語の客観性
ウィトゲンシュタイン『色彩について』へ

生の経験は伝達できないが、関係ならば伝達できる*1
単純な構造こそが科学が目指すゴール
真理は伝達可能性のテストに落ちる
ラディカルな経験主義(マッハ、ジェームズ、ベルクソン)にも抵抗


時の試練に耐えうる関係を明らかに
ポアンカレは、トポロジカル(定性的)な図像を描き、メトリカル(定量的)な図は描かない
科学理論が短命であることを身に染みてわかっていた
科学は協同事業でもある



カルナップ
構造は中立的
ラッセ



1900年前後のSFにあらわれる宇宙人
→姿かたちが異なっていても、意思疎通が可能なものとして描かれている
→実際の科学界は、国際化により、伝達可能性の実務的問題
機械的客観性→自己による自己抑制
構造的客観性→自己の消滅
科学は、宇宙的な共同体への参入

第6章 訓練された判断

  • 放射線医学者ルードルフ・グラースハイ

正常の範囲の変異と、それを逸脱した変異をどのように見分ければよいのか
アトラスの図像と、アトラス利用者が実際にみる対象は同じではない
訓練された判断によって、解釈する必要がある
暗黙の、洗練された、経験に基づく、無意識的な判断
「訓練された判断」は「機械的客観性」を批判したが、客観性に置き換わったのではなく、客観性を補完するもの
また、客観性と反するが「本性への忠誠」に戻ったわけでもない。
訓練された判断は、対象の向こうに理想を見出そうとするわけではない。訓練された判断の支持者は、顔の類似性をメタファーによく使った(家族的類似性)

  • ギブズ夫妻の『脳波アトラス』

「主観的な基準をもとに診断に到達できるように読者の目を訓練する」
「客観性のために正確性を犠牲にすべきではない」
科学教育の拡大
ゼミナールによる教育=新しい訓練方法
訓練され教育された読者への信頼
オスカー・エルスナーの鉱物学研究所
ルイス・アルヴァレズ
モーガンとキーナンとケルマンによる『恒星スペクトル・アトラス』
恒星の種類を特定するプロセスには、定性的なものがあるが、だから不定性であるわけではない。定量的な数値ではなく、主観的な訓練された目、経験的なわざによるパターン同定が必要

人相や人種を見分けることとのアナロジー
ウィトゲンシュタインは、ゴールトンの合成写真に着想を得ている
ゴールトンは優生主義者。ウィトゲンシュタインや、ギブズ夫妻、モーガン、キーナン、ケルマンはあくまでただの比喩として使っていて、優生主義者だったわけではない
が、1920年代から40年代前半にかけて、人種認識のメタファーが増えたのは確かであり、これは偶然ではない。
モーガンとキーナンとケルマンが参照した先行するアトラスとして『ヘンリー・ドレイパー・カタログ』がある。これには女性労働者たちが参加していたが、このころは、スキルのない労働者は、機械と同一視され、客観性を担保するものと考えられた。

科学者と画家・アーティストとの関係
科学者が、画家の解釈を重視するようになる
表象は対象と同形でなくてもかまわない
(同形と相同の違いは、ギャリソン”Image &Logic”)
非模倣的な表象(多くはコンピュータ出力)

  • ハワード、ブンバ、スミス『太陽磁場アトラス』

データをどのくらい「なめらかにするか」、何が現実であるかについて、主観的で能動的な決定が必要
図像そのものの修正が必要とされた

  • ゴールトハマーとシュウォーツ『X線で見た頭部の正常解剖学』

X線写真をもとに描かれた線画
自然に忠実であること、自然を模写することは、アトラスの目的ではなくなっていた
「自然」ではなく「現実」

第7章 表象(リプレゼンテーション)から提示(プレゼンテーション)へ

-見ることは存在すること —— 真理・客観性・判断
本書のここまでのまとめ

  • 見ることはつくること —— ナノファクチュア

21世紀に起きている展開についての簡単な見取り図
(1)仮想的図像、デジタル・アーカイブによるアトラス、学習目的で操作可能な画像
(2)触覚的図像、ナノマノピュレーション、例、原子間力顕微鏡、測定することで図像を生み出す
アトラスではなく、イメージ・ギャラリーとなった。
感覚を通じて知識を獲得する方法には2つある。
(1)観察
(2)世界に介入すること(能動的なベーコン的スタンス)
ナノマノピュレーション、理学と工学の統合的アプローチ、道具としての触覚的図像
プレゼンテーション(科学が工学とつながってさらにビジネスとつながるようになる)
芸術的な介入
アメリ物理学会、1983年から写真コンテスト(『流体運動ギャラリー』)
計算流体力学者マリー・ファルジュ
理論物性物理学者エリック・J・ヘラー
表象ではなく提示、という新しい描写
エンジニア=科学者としての自己

*1:個人的に、これはクオリア構造学みたいな話なのではないか? と思って面白かった

『日経サイエンス 2025年1月特大号』

英キュー王立植物園で描く 植物の美と科学 山中麻須美

英キュー王立植物園の5人の公認画家の一人である山中による、植物画についての解説
植物画(ボタニカル・アート)
これとは別に植物図(ボタニカル・イラストレーション)というのもあるらしい。ペン画のこと。
植物画家の観察力の高さとして、公認画家のひとりが新種を発見して自身で記載論文まで書いた話や、そこまでいかずとも、場合によっては研究者よりも詳しかったり、研究者と対等の立場で意見を述べていたり、というようなことが書かれている。
それ以外のところでいうと、ロレイン・ダストン、ピーター・ギャリソン『客観性』(瀬戸口明久・岡澤康浩・坂本邦暢・有賀暢迪訳) - logical cypher scape2で書かれていた「本性への忠誠」が生きているな、と感じられる記述がみられる
葉っぱの表と裏がわかるように描く、つぼみと満開のそれぞれの状態を(同時に)描く。標本では分からないところも、生きている状態・標準的な状態でそうなっているように描く(手元にある植物が正しい姿とは限らない)など。
特徴を捉える観察眼による「正確さ」が、写真ではなく植物画だからこそのものなのだ、と。
あと、科学と芸術の両面があるということも。

ノーベル賞で注目 ノンコーディングRNAが拓く新たな生命観  P. ボール

田口善弘『生命はデジタルでできている』 - logical cypher scape2中屋敷均『遺伝子とは何か』 - logical cypher scape2で知って、これらの本に書いてあったことと多少重複もあるが、より詳しい内容が書かれていて、勉強になった。インパクトの強さとか。
2012年、ENCODEが、これまでジャンクと思われていたDNA配列の多くも、RNAに転写されていることを明らかにして衝撃を与えた。


もともと、トランスファーRNAノンコーディングRNAではある。
1990年代にX染色体不活性化の研究で、XIST遺伝子からどのようなタンパク質を合成されるのか調べられていたが、まったくタンパク質は見つからず、実はRNAだった。
lncRNA(長鎖ノンコーディングRNA


ノンコーディングRNAが遺伝子の発現に影響をもたらす方法は2つ
生体分子凝縮体によるもの
クロマチンに影響するもの
また、RNAが足場になる、という働きをすることもある。


アンブロスのmiRNA(マイクロRNA)発見
2000年、ラブカンが線虫以外にも脊椎動物など様々な動物でMiRNAを発見
(アンプロスとラプカンはノーベル賞
1998 ファイアーとメローのRNA干渉(siRNAによるRNA誘導サイレンシング複合体のガイド)発見。ファイアーとメローもノーベル賞
miRNAはチームで働くのではないか、と考えられる。一つのmiRNAは、短くて汎用性があるというか、いろいろな配列と結びつくが、複数の組み合わせで機能することで、特定の配列をターゲットにできる。
このようなあり方は、進化的流動性を高めるメリットがある、と
他にもいろんなRNAが発見されている。


医療への応用も行われている
lncRNAを標的とした、あるいはIncRNA自体を医療応用する方法
研究は進められているが、まだ臨床に至ったケースはない。
miRNAを標的にした方法は、より実用化に近い。


単なるノイズやジャンクに過ぎない、という異論は今でもある、とのこと。
どれくらい機能をもつのがあるのか、その程度、割合というあたりではまだまだ論争がある。
そもそも「機能」とは何なのか。単に足場に使われているようなRNAは、機能を有するといえるのか。
ENCODEのことを考えると、タンパク質をコードしていない遺伝子のことを、もうジャンクだとは言っていられないのは確実だが、実際には、生物学の中で反発も大きいらしくて、これまでの理解を揺るがす存在ではあるみたい。

狩りをする女たち 最新科学が覆す「男は狩猟,女は採集」 C. オコボック/ S. レイシー

「男性が狩猟をしていた」説は影響力がすごく強いけど、これは誤っている、と。
この男性狩猟者説は、リーとデボアによる、1968年の『Man the Hunter』という論文集がきっかけで広がったらしい(意外と最近で驚いた)
実はこの時点で既に、女性も狩りをしていたというデータがあるのに、無視されている。例えば、渡辺仁は、自身のアイヌ研究の中で狩猟を行っているアイヌ女性について記録しているにもかかわらず、アイヌは男性が狩猟をしているという結論を出している、と。
当時、女性は体力的に劣っていると考えられており、スポーツ参加なども制限されていた。
生理学的な研究は、データの偏りが著しく、男性のみしか対象にしていない研究が多いとのことで、今後の研究者には是非この偏りを是正してほしい旨、記事中に書かれていたりする。
一方、データが限られている中でも、女性が体力的に劣っているとは言えなくなっている、と。
エストロゲンがキーで、これは脂肪代謝を活発にする。脂肪による代謝は炭水化物と比較して持久力をもたらす。また、エストロゲンは、筋破壊の抑制にも役に立っている。
また、女性は遅筋が、男性は速筋が発達しているということも知られており、持久力の必要な運動は女性が、瞬発的なパワーは男性がそれぞれ向いている、と。
ところで、太古の狩猟は、獲物が疲れるまで追い続ける、という持久力が求められるものだったとされているので、女性は体力的に劣っていて狩猟に向いていない、ということはなかっただろう、と。
また、ネアンデルタール人の化石から、損傷部位などに男女差が見られない、副葬品に男女差が見られないなどから、ネアンデルタール人社会では男女ともに狩猟をしていたと見られる、と(ネアンデルタール人は、集団規模が小さかったので分業は不利に働くとも)。
また、現代の人類学的調査でも、63の狩猟採集社会のうち79%で女性のハンターがいることが確認されている、と。
男女の分業が始まったのは農耕以後の話であり、狩猟時代には男女ともに狩猟を行っていたのではないか、と。

Science in Images 毛虫の電気感覚

五感とは別に、電場を知覚できる動物がいる。今まで水生生物で確認されていたが、地上で暮らす毛虫の一種にも確認された。ハチの静電気を知覚している。実験で、ダミーの電場を発生させたら、それに反応したと。おそらく、実際には、視聴覚と補完的に使用しているのだろう、と。

SCOPE 動物の細胞に葉緑体を移植

これ、Newton2025年1月号 - logical cypher scape2にも載ってたな。
あと、これ→葉緑体を動物細胞に移植し、光合成の初期反応を確認 東大など | Science Portal - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」
藻類の葉緑体をハムスターの細胞に移植
崩壊するまでの2日間ほど、電子伝達系の反応はみられた(カルビン回路はなかった)、という話らしい

ADVANCES 海のソーラーパネル/ファントムコスト

シャコ貝の内部に虹色に光る部分があるのだけど、それが共生している藻類に光を効果的に集めるためのものだったという話

  • ファントムコスト

お菓子をタダでくれる分にはそれを受け取るが、それに加えてお金もくれるようだったら、怪しく感じて受け取らない。異様に安い航空券とか、そういうものには何か裏を感じて逆に警戒する。人は、何かそこに隠れた動機(ファントムコスト)を感じ取っている。異様に安い航空券について、実は座り心地が悪いんですとか説明すると、受け取るようになる、と。

From nature ダイジェスト 人間はどこまで暑さに耐えられるのか

温度、湿度を自由にコントロールできる設備を利用して、暑さにどこまで耐えられるのか、そして、どのように冷却するのが効率的か、という研究がある。
人間がどこまで暑さに耐えられるのかについて、実は、これまで理論的なものしか出されておらず、公衆衛生ではその数字が使われてきた。しかし、そのモデルは、人間が動かない、汗もかかないという想定で作られている。
なので、これを改訂していこうという動きがある。
冷やすことについていうと、肌が濡れているかどうかは重要。乾燥した状態で扇風機を回すと、逆に心拍があがるが、肌が少しでも濡れていると効果がある、とかなんとか。

nippon天文遺産 昭和23年金環日食観測地 礼文島起登臼(上)

昭和23年・1948年、戦後間もない時期に、礼文島金環日食の観測が行われた話
この日食、中心帯1.2kmという狭い範囲で、日食持続時間も1.8秒という短いものだったのだけど、かなり大規模な観測が実施されたという。
当時の東京天文台の台長である萩原が中心となって行われたもので、戦後すぐの時期に、日本の天文学の一大プロジェクトとして行われたらしい。
観測隊は100人規模で、さらに報道陣が200人規模、礼文島に入ったとか。
日本だけでなく、アメリカもこの観測に興味をもち、GHQとの共同プロジェクトとなり、観測機器は戦車揚陸艦により、観測隊メンバーはGHQが運行した特別寝台列車に輸送された。
この記事では主に、荻原が、文部省と大蔵省との間とか、アメリカとの間とかで調整業務に追われて、出発直前に病気にもなって、と色々大変だったことが書かれている。

アーカイブ騎士団『明治スチームパンク小説集』『写真SF小説集』(文学フリマ東京39)

久しぶりの文フリで、アーカイブ騎士団も久しぶり
最近のは、kindle版とかで読んでいたはずなので、イベント行って紙の冊子を手に取るのはさらに久しぶり。

(002『忍者小説集』と003『メタバシスによる星間周遊』も読んでるはずだが、ブログ上に感想が残っていない)
004『ロボット小説集』
第15回文フリ感想 - logical cypher scape2
005『ゾンビ小説集』
第17回感想 - logical cypher scape2
006『恋愛SF小説集』
第19回文学フリマ感想 - logical cypher scape2
007『ユートピア小説集』
文フリ以前に読んでた同人誌 - logical cypher scape2
008『怪獣小説集』
『怪獣小説集』『ノーサンブリア物語』 - logical cypher scape2
009『流通小説集』
アーカイブ騎士団『流通小説集』 - logical cypher scape2
010『モンスター小説集』
モンスター小説集 - logical cypher scape2
011『会計SF小説集』
アーカイブ騎士団『会計SF小説集』 - logical cypher scape2

と過去にはほぼコンプリートしてきたのだけど、今回入手したのは、013『明治スチームパンク小説集』と015『写真SF小説集』の2つ。アーカイブ騎士団のアーカイブを確認したところ、012『幽霊屋敷小説集』と014『呪術SF小説集』は持っていないことがわかった。これらはkindle版が出ている模様。

明治スチームパンク小説集

「明治スチームパンク」と銘打たれているが、より正確に、というか狭く絞るなら「お雇い外国人伝奇小説」となる。「お雇い外国人伝奇小説」って何だよって感じもするが、やはりそうとしか言いようがないし、流通小説や会計SFと比較すると、全然普通な感じである。

  • ボーイズ、ビー(森川 真)

西南戦争での薩摩への武器援助を請うべく上京してきた少年、龍二であったが、工学部大学校の教頭をつとめるお雇い外国人のヘンリー・ダイアーから、機関銃と引き換えに、札幌農学校のクラーク暗殺を依頼される。
実は、ダイアーとクラークの正体があれとあれということがわかり、こういう喩えが適切かどうか分からないが、今後の連載も一応可能なように設定されたマンガの読み切りみたいな読後感だった(よい意味で)。

これは(未完」とある通り、話の冒頭だけである。
四国のとある村に、死体を食う妖怪(?)がいて、たまたま地質調査にやってきたナウマンと遭遇する話(ただし、書かれている範囲だと、まだ「遭遇」はしていない)。
ナウマンが機械化されていて、そこがスチーム要素っぽい。

  • 天狗と十二階(高田敦史)

クラーク、ナウマンに続き、本作で出てくるお雇い外国人は、浅草十二階の設計者ウィリアム・K・バルトン
私立探偵である野口幹に、芝浜里という魔女が訪れる。風船乗りスペンサーの盗まれた気球を探すことという依頼で、浅草十二階に居たという老人・笠屋高森が手掛かりになるという。
笠屋高森についてバルトンが世話していたということで、野口はバルトンを訪ねることとするが、その道すがら、占い師の原道を助ける。
野口は道から、幼い頃に見た「天狗の使い」の話を聞く。それはまた、野口の家の近くにある神社で噂される、小さい侍の話ともよく似ていた。
探偵による人探しという縦軸に、「天狗の使い」についての怪談のようなエピソードが横糸としてからみあう。高田さんが『ホラーの哲学』を翻訳した時期でもあり、あとがきにも、最近ホラーに凝っていると書いていて、「天狗の使い」の話はホラー要素が強い。
一方、縦軸となる物語は、明治の近代化(気球や浅草十二階のような高層建築)によって失われていく、前近代(天狗)へのノスタルジー、という感じになっている。

写真SF小説

最初の3作はショートショートみたいな長さ
「仮面」はやや長め
「神戸の」が一番面白かった。

主人公は、レイと共にあいまいな過去を定着させる仕事をしている。
マンホールを通ると過去にさかのぼっていて、記録のはっきりしない事件の現場でたどり着く。その現場でレイが怒りの感情をもつと、はっきりした過去として定着するのだという。

  • 光る彼氏 森川真

彼氏が実は宇宙人
光となって宇宙へ帰る
非常に短いショートショートで、写真という言葉も出てこないが、いい味の写真SFになっている。

  • 残弾 高田敦史

最初、全然つながらない話が続くので、小ネタの連作なのかなと思ったらそうではなくて、後半まで読むとちゃんと全部つながる話だった。
フィルムの残りと銃の残弾、そしてヤクザという全然関係なさそうな要素を、異なる複数の自然数概念を操る異星人という要素によって、あざやかに結びつけるショートSF

  • 仮面 高田敦史

写真が禁止されている街、覆面舞台俳優の火中亮がマスクを盗まれる事件が発生
探偵の淀川が依頼をうけてやってくる。しかし、依頼主は火中ではない。
火中のマスクは、AI生成された画像が表示されるスクリーンになっていて、それにより様々な顔を表示させて異なる人物を演じることができる。盗難事件について、火中は嘘をついているらしい。
うーん、最終的にどういう話だったのかがいまいち掴めなかった

  • 神戸の 森川真

1987年、大阪で浪人生をやっていた「私」は、河合塾で出会った多浪生の「森岡」にブロマイド写真店へと連れていかれる。
そこで、イジョンスンという女性の写真に心奪われる。
イジョンスンは、1930年代に活動していた舞踏家(という名目で活動していた芸能人)で、あまり多くの写真や記録は残されていないが、残されたブロマイドはどれも嫌そうな表情をしている、というのが特徴。
何故か金回りのよい森岡と違って、イジョンスンのブロマイドを買うことのできなかった「私」も、そのブロマイド写真の店=時子さんの店に通うようになる。
そして森岡から、イジョンスンが神戸の海水浴場で撮影した水着写真があるらしいということが聞かされる。通称「神戸の」と称されるその写真は、いわゆる「幻の写真」なのだが、時子さんはどうも隠し持っているらしい、と。
「私」が時子さんに「神戸の」について聞いてみると、時子さんは奇妙な交換条件を出してきた。
実は、イジョンスンの写真というのは、時子さんが捏造したものだったという話で、本物の写真が残っていないので、偽物の写真が本物の写真として扱われるようになってしまうという話なのだが、それを「私」が回想譚として物語っていて、味のある不思議なお話として出来上がっている。