火薬は使い勝手のよい爆薬として、1000年近く、世界中で支配的な地位にあった。安定していて安全で、軍用品として適していたのだ。だが19世紀、産業革命が起こると、鉱業のような分野でさらに強い爆発力が必要とされるようになる。
1847年、ニトログリセリンの開発がひとつの突破口となった。それはとても強力で、とても危険な物質だった。爆発力はあったが、暴発が原因で死亡事故も起こった。発明家たちは、ニトログリセリンの爆発力と火薬の安定性を組み合わせるという挑戦を始める。
この課題を成し遂げたのがアルフレッド・ノーベルだ。この功績によってノーベルは豊かになったが、同時に厄介事も抱えることになった。天才で、ビジネスセンスがあり、良心も持っている。そんな要素が複雑に入り組んだノーベルによって、人類への貢献に対する、世界でもっとも有名な賞が創設された。(参考記事:「ノーベル賞はなぜ注目されるのか」)
転居と悲劇
アルフレッドの父親であるイマヌエル・ノーベルは、スウェーデンの実業家で発明家でもあり、ロシア皇帝のもとで仕事をしていた。1850年代のクリミア戦争中、イマヌエルの工場はロシア軍に供給する兵器を生産した。
しかし、戦争の終結から数年後の1859年、兵器の需要は落ち込み、事業は破産する。ロシアのサンクトペテルブルクで両親とともに暮らし、化学の勉強を始めていたアルフレッドは、スウェーデンのストックホルムに戻り、ニトログリセリンを含めた爆発物の研究を進めた。
1864年、ノーベル一家はニトログリセリンの圧倒的な爆発力を経験する。ストックホルムのノーベルの工場で起こった爆発事故により、数人の死者が出てしまったのだ。そこには弟のエミールも含まれていた。しかし、アルフレッドは、この悲劇によって希望を失うどころか、むしろさらに研究に打ち込み、安全な手段を見つけようという決心を強めた。
3年後の1867年、ノーベルは世に名を知らしめる発見に行き当たる。まったくの偶然で、珪藻土(けいそうど)と呼ばれる多孔性の堆積岩が、ニトログリセリンを吸収する特性があることを見つけたのだ。
この混合物で実験すると、爆発力は損なわれずに、純粋なニトログリセリンよりはるかに安定していることがわかり、ノーベルは興奮した。そして、ギリシャ語で「力」を意味するデュナミスから取って「ダイナマイト」と名付けた。(参考記事:「エンジンとアイスクリームの共通点とは? 身近な物質の意外な歴史」)
この発見により、すぐにノーベルは富と名声を得た。ほかの人であればその栄誉で満足していたかもしれないが、ノーベルはさらに効果的な武器の研究を続けた。1875年には、耐水性があり、ダイナマイトよりももっと爆発力のある、ニトログリセリンとニトロセルロースの混合物も発明している。
1896年、ノーベルは、イタリアのサンレモにあった邸宅で、63歳の若さで亡くなった。彼の遺言が読まれたとき、当然、親戚はその富を誰が受け継ぐのかに大きな関心を寄せていた。ところが、ごくわずかしか取り分がないことを知った親戚は驚き、怒りを露わにした。