さよなら健さん、安らかに…。
11月18日、高倉健さん死去のニュースが列島を駆け巡った。東映がおくる任侠映画の看板スターとして、「網走番外地」「日本侠客伝」などが大ヒットし、シリーズ化され映画スターとしての地位を確実なものとした。
高倉健さんについては皆さんもよくご存知の事であるから、ここでは私自身と高倉健さんの接点について述べて行きたいと思う。
健さんを語るにあたり、避けて通れないのが実は私の父「信夫」の存在である。私は今、その「信夫」をモデルとしたノンフィクション小説「網走番外地(仮題)」を執筆中で、第16章まで書き終えており、後は終章を残すのみとなっている。
大まかなあらすじとしては、府中刑務所を出所し、故郷である藤枝に帰る途中の信夫が、静岡に住んでいる息子に会い、刑務所帰りの父親とそれを迎える息子とのやり取りを、過去の想い出と共に語ると言う設定になっている。
その小説の中にも僅かではあるが高倉健さんが登場している。さて、話しは49年前に遡る。1965年(昭和40年)、前年に開催された東京オリンピックも大成功に終わり、日本は高度経済成長真っ只中であった。その影響は東京のような大都市だけではなく、地方の町や村にも波及して行った。
一般的な家庭には「テレビ」「冷蔵庫」「洗濯機」などが普及し、貧しかった戦後の日本の姿は人々の暮らしから消え去り、車道を走る車の台数がその豊かさを象徴する時代でもあった。テレビが娯楽として定着し、ブラウン管から「オバケのQ太郎」「スーパージェッター」「ジャングル大帝」「ザ・ガードマン」など人気番組が続々と登場した。
当時、私の家にはテレビがなく(一時あったが父が酒代のため質屋にいれてしまった)、自分の好きな番組は近所の家のテレビで楽しんでいた。ある日、学校をずる休みし不貞腐れていると、父が「映画見に行くがとし坊も行くか?」と訊いてきた。
その時代、一日の小遣いが10円で、映画代は子ども一人80円であり、子どもにとって映画は贅沢な娯楽だったように思う。どんな映画を見るのか聞き返す事もせず、二つ返事で父の後を着いて行った。私以外に父の舎弟分が3人、厳つい肩をなびかせ、平日の昼間に往来の激しい車道を雪駄の音が歩く度にシャリシャリと響いていた。
私は学校の友だちに見つからないよう、小さくなって父の影に隠れながら歩いた。映画館に着くと、派手な色使いの大きな看板やポスターが飛び込んで来た。「座頭市二段斬り」「昭和残侠伝・唐獅子牡丹」の二本立てであった。
どんな映画を見るのか期待はしていなかったが、子どもの見る映画ではなかった。2本とも「やくざ」が活躍する任侠映画…。父らしいと言えばそれまでだが、父はスクリーン狭しと暴れ回る高倉健を意識していたかどうか知らないが、髪型も風貌もどことなく健さんに似ていた。
年を重ね白髪も目立ち始めた高倉健さんを見ると、父が生きていたらきっと健さんのような感じになっていたのかな…と健さんの姿に父の面影を重ねてしまうのである。
健さんのように父もまたぶきような生き方しか出来なかった…。昭和の時代が産んだ偉大な星がまた一つ、父の想い出と共に消えて行った。
さよなら健さん、謹んでご冥福をお祈り致します。
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