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中世ヨーロッパの「都市国家」について教えてください。 都市国家(ポリス)の政治形態とはどのようなものが一般的だったのでしょうか。 王あるいは貴族と呼べる支配層はいたのでしょうか。 それとも、教会の司祭などの宗教者や有力市民(大商人・職工ギルドの長)などが統治を担ったのでしょうか。 中世ヨーロッパにおける都市国家の政治形態が知りたく、詳しい方がいましたら教えてください。

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回答(3件)

中世ヨーロッパの都市国家、これは本当に多様で面白いテーマです。古代ギリシャのポリスとは全く違う性格を持っていたんですよね。 まず大前提として、中世ヨーロッパの「都市国家」は、地域によって驚くほど形態が異なっていました。イタリア、ドイツ、フランドル地方などで、それぞれ独自の発展を遂げています。 イタリアの都市国家が最も典型的で有名です。ヴェネツィア、フィレンツェ、ジェノヴァ、ミラノなどですね。これらの都市は、名目上は神聖ローマ帝国や教皇領に属していましたが、実質的には独立した政治体として機能していました。 政治形態について言えば、時代とともに変化しましたが、大きく分けていくつかのパターンがあります。 最も一般的だったのが「コムーネ」と呼ばれる自治共和政です。これは有力市民、つまり大商人やギルドの長たちが集まって評議会を作り、そこで政治を運営する形です。執政官(コンソル)や市長(ポデスタ)といった役職を選挙で選び、任期制で統治しました。ヴェネツィアの総督(ドージェ)は終身制でしたが、それでも貴族たちの評議会によって権力が制限されていました。 王という存在は基本的にいませんでした。中世の都市国家の多くは、まさに王や領主の支配から独立を勝ち取ったからこそ成立したものだからです。ただし、貴族階級は存在しました。商業で富を築いた有力家系が、事実上の貴族として権力を握っていったんです。フィレンツェのメディチ家がその典型ですね。 興味深いのは、これらの都市の政治体制が非常に不安定だったことです。商人層(ポポロ・グラッソ)と職人層(ポポロ・ミヌート)の対立、有力家系同士の抗争が絶えませんでした。その結果、多くの都市は最終的には一人の強力な指導者(シニョーレ)による支配に移行していきます。ミラノのヴィスコンティ家やスフォルツァ家のように、事実上の君主制になっていったわけです。 ドイツの帝国自由都市も重要です。リューベック、ハンブルク、ニュルンベルクなどは、皇帝直属の都市として、領主から独立していました。これらの都市も市参事会による合議制で運営され、市長や参事会員は有力市民から選ばれました。ハンザ同盟の都市はこの形態が典型的でしたね。 フランドル地方のブルージュやガンなども、強力な自治権を持っていました。ギルドの力が特に強く、織物業の職人たちが政治に大きな影響力を持っていました。 教会の役割についてですが、司教が都市の領主を兼ねている「司教都市」というのも存在しました。ケルンやマインツなどがその例です。ただ、多くの商業都市では、市民たちは司教の世俗的支配からの独立を求めて戦いました。教会は精神的な権威は持っていましたが、直接的な政治権力は限定的だったことが多いです。 統治の実態を見ると、有力商人たちが中心になっていました。彼らは商業活動を通じて富を蓄積し、その経済力を背景に政治権力を握りました。ギルドも重要な役割を果たし、特定の職業集団が評議会に代表を送り込む仕組みがありました。ただし、完全な民主制ではなく、富裕層による寡頭制が一般的でした。貧しい市民や農民は政治参加から排除されていることが多かったんです。 ヴェネツィアは特殊な例で、貴族共和制という独特の体制を維持しました。特定の貴族家系だけが政治参加を認められ、大評議会を構成しました。これは非常に安定したシステムで、何百年も続きました。 時代が下るにつれて、多くの都市国家は周辺の領土を征服して、小さな領域国家に成長していきます。フィレンツェがトスカーナ地方を支配したように。そうなると、もはや「都市」国家というより、都市を中心とした小王国のような性格を帯びてきます。 中世ヨーロッパの都市国家の政治形態は、要するに「商人による商人のための政治」だったといえるでしょう。封建制の身分秩序とは異なる、経済力に基づく新しい権力構造でした。それは近代の市民社会や資本主義への道を開いた、歴史的に非常に重要な実験だったわけです。完璧な民主制ではありませんでしたが、少なくとも世襲の王や領主に支配されない、市民による自治という理念を実現しようとした試みでした。 この多様性と実験性こそが、中世都市国家の魅力だと思います。それぞれの都市が独自の解決策を模索し、成功と失敗を繰り返しながら、ヨーロッパの政治文化を豊かにしていったんですね。

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中世は都市国家とはいいません。 それでも国王から一定の自治を認められたり(自由都市)、完全に国王や皇帝の支配から自立した都市(自治都市)もありました。 神聖ローマ帝国(現在のドイツおよび北イタリア)に自由都市や自治都市が多くありました。 古代ギリシアのポリスとは大きく異なり、都市の運営は有力な大商人たちなどによって行われていました。 中世の西欧都市は商人と職人から成るもので、農民は基本的に存在しません。 都市の周りを城壁で取り囲み、傭兵を雇ってならず者や都市の自由を奪おうとする勢力から防衛する機能は有していました。 日本の戦国時代、堺が中世の自治都市にそっくりだと宣教師が驚いて報告した事例は有名です。 堺は城壁には囲まれていませんでしたが、濠をめぐらせてあり、堺の自治は会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる36人の有力商人たちによって運営されていました。 中世の西欧都市の運営をめぐり、有力商人と有力職人の対立があったりしたことはありますが、財力に勝る大商人が市政を得ることが多かったです。 中世の自由都市や自治都市の自治に対して、貴族や王の介入は当然ありません。 イタリアの自治都市はその多くが、織田信長に自治を奪われた堺のような結末を辿ることが大半でしたが、ドイツの自由都市は近代まで残りました。 ブレーメン、ハンブルク、フランクフルトといった都市です。 「都市の空気は自由にする」 中世ドイツで言われたこの言葉は皇帝や大名にとって都市はお金や物資を調達するのに不可欠な存在で、ある程度の自治をさせないと困ったことが背景にあります。 古代ギリシアは奴隷以外の市民全員による小規模な都市です。 平時は市民は奴隷主であり、労働は奴隷にやらせます。 奴隷主である市民が神殿付近に集まり、次はどの都市と同盟して、どこを攻撃するかを何度も討議します。 戦って勝利すれば土地と奴隷が手に入る一方で、負ければ自分たちが土地を取られ奴隷になってしまいます。 そういうスタイルと中世の都市はかけ離れています。 戦国時代の堺がもっとも西欧中世の姿に近く、理解しやすいかと思います。

古代オリエントの都市国家(特に名称なし)、古代ギリシャの都市国家の「ポリス」、中世イタリアの都市国家の「コムーネ」、中世ドイツの都市国家の「帝国都市(自由都市)」、これらは全部、別のものです。 中世ヨーロッパには、ポリスはありません。ギリシャ語のポリスは都市の意味ですが、ポリティス(政治)の語源です。