2012-04-11

オウム真理教ナウい教化法”を実践した広瀬死刑囚手紙 vol.4

【vol.3「宗教的経験(後半)」】はこちら。

恐怖心の喚起

 恐怖心を喚起する思想も極めて有害です。オウムにおいては、信徒の思考や行動が教義に沿うものに著しく制限されました。

 ただし、その思想に触れて間もないうちは、恐怖心を喚起する部分が含まれていても、それに気付かないかもしれません。私自身も、クンダリニー覚醒前は、麻原の著書の地獄餓鬼動物などの記述はまったく気になりませんでした。

 その経験を振り返りますと、私の話がどれだけ伝わったか心もとなくなります信徒の心理において、苦界へ転生する恐怖から回避無視できない要素なので、その恐怖が実感できないと、信徒特有の思考や行動は理解が困難だろうからです。実感は難しいかもしれませんが、その恐怖のために、たとえ自身の生命健康が損なわれる事態に直面しても悪業となる行為はまったくできません。私の経験としては、次のことがありました。

 地下鉄サリン事件とき、私がサリン中毒になったので(本文三十六頁)、あらかじめ指示があったとおりに、送迎後の信徒が車で教団の付属病院に連れて行ってくれました。ところが病院関係者に話が伝わっておらず、事情がわからないようでした。しかし、私はサリン中毒を伝えられませんでした。「ヴァジラヤーナ救済」の任務に関することを関係者意外に話すと悪業になったからです。結局、私は病院での治療を断念し、医師の林郁夫のいる集合場所に行き、治療を受けました。

 また、地下鉄サリン事件逮捕された後、教団の指示どおりに当番弁護士を一回お願いして、拘留場所を教団に伝えましたが、右と同じ理由で事件に関する相談はできませんでした。常識的には、弁護士相談しながら取り調べを受けます。また、それをしないことは連日十時間の取り調べが続くなか、自らを孤立させることになるとされています

 これらのことは、重大事件で逮捕された状況において、極めて不利です。しかし、悪業となる行為はできませんでした。

 さらに、事件の動機である「ヴァジラヤーナの救済」の教義と麻原の地下鉄サリン事件への関与については、供述すると無間地獄宇宙創造から破壊までより長い期間苦しむ地獄)に転生しかねないので―また、この教義を聞く資格のない人に話すと誤解され、その人が将来にわたって救済されなくなるともいわれていました―、この事件の捜査間内には供述できませんでした。

 取り調べの最終日、事件の核心部分を追求する検察官を、悪業を犯すまいとする私との間に必死の攻防がありました。

問)麻原尊師のことや事件の動機、目的も話さなければ、反省したとはいえないのではないか

答)……

問)話せない理由は何か。

答)お話できません。

―ではこちらから質問する。

問)今回の事件はヴァジラヤーナの教義に基づいたものではないか

答)答えられません。

問)ヴァジラヤーナでは、「ポア」のために他人の命を絶つことも許されるのではないか

答)答えられません。

問)その教えを麻原尊師が説かなかったか

答)答えられません。

問)麻原尊師の指示は、いかなるものでも絶対に従わなければならなかったのではないか

答)必ずしもそうではありません。

問)では、どういう場合に従わなくていいのか。

答)何ともいえません。

―ほら、やはり従わなければならないじゃないか

問)今回の事件は、麻原尊師の指示ではないか

答)黙秘します。

問)村井大師は、サリンを撒くと切り出したとき、それが麻原尊師意向であることを話さなかったか

答)黙秘します。

問)今回の事件の後で、君は麻原尊師に事件の報告をしていないか

答)黙秘します。

―(ある信徒が描いた図を見せながら)〇〇が図まで描いて、君たちが報告したことを話しているのに、話さないのか。

問)君は、今回の事件に関与した仲間については話しているのに、なぜ事件の目的や動機、報告については話さないのか。

答)答えられません。

問)君が黙秘するのは、それが麻原尊師に関係する部分だからではないか

答)黙秘します。

 当時は、なるべく悪業にならないように、教団とは無関係なこととして、地下鉄サリン事件における自身の行為はすべて供述していました。しかし、自身のことを供述しても、事件の動機や麻原の関与を供述しなければ反省していないとみなされ、身を滅ぼしかねない状況でした。加えて、質問の内容から検察官がそれらのことを既に知っていることは分かり、一般的見地からは、私が供述しても誰にも影響しないことは十分に理解できる状況でした。それでも、金縛りにでもあったかのように、供述できなかったのです。

 以上のように悪業とされる行為ができなくなる傾向は、クンダリニー覚醒直後に現れました。オウムに入信する段になって、気に掛かったのは、「複数のグル修行指導者)の指導を受けると、その異なるエネルギーの影響で精神が分解する」との麻原の著書の記述でした。当時、私はある瞑想団体に入会していたからです。私は不安になり、クンダリニー覚醒したその日に、団体に脱会届を郵送しました。

 また、私は釣りが好きだったのですが、それは悪業になるので、クンダリニー覚醒以来一度も行いませんでした。そのほか虫も殺せなくなるなど、恐怖のために教義で悪業とされる行為はできなくなったのです。

 このような状態は、次のように、宗教的回心において現れるといわれています

 私たちはある思想を繰り返し繰り返しいだき、ある行為を繰り返し繰り返しおこなっている。しかし、その思想の真の意味が、ある日はじめて、私たちのなかに響き渡るのである。あるいは、その行為が突然、道徳的に不可能なことに一変しているのである

(前出 ジェイムズ

 オウム信徒には、同様に悪業を為すことに強い抵抗を感じる者が多数いました。このような宗教的悪業の教義に関して、文献では次のことがいわれています

 さらに、宗教が単独で精神的問題を引き起こす場合がある。フロイトが主張するのは、「イド」と「スーパーエゴ」とのせめぎ合いにおいて、宗教スーパーエゴの側に立つということである宗教戒律や禁制は、性的衝動や攻撃的衝動抑制する目的がある。さらにまた、宗教は完全な道徳を目指しているので、これらの掟に対する違反は罪悪感を引き起こす。極端な場合、罪悪感が生活を支配し、麻痺させることがある。また、しばしば、過度の後悔に至ることもあり、中世鞭打苦行派の罪の意識による鞭打ちから現代テレビ時代における罪の公然の告白にまで及ぶ。

 オランダにおいて、罪への自責心の問題をアライト・シルダーが研究した。彼女研究『罪の意識に苦しむ以外なすすべがない』は、厳格な一部のオランダプロテスタントに関するもので、罪悪感がもたらしうる、人の仕事、思考および行動を麻痺させる影響への洞察を与えた。

引用英語で分からず。)

 友好関係を生じることに加えて、カリスマグループは個人的および社会的行動を規制する行為の基準を確立する。絶縁したセクトの状況では、このような外的規制によって、集団は心理学的に困難な支配の操作がしやすくなる。多数のセクトの行動規範は、現在性的に寛大な態度に対する反動形成を反映するように見える。これらの規範は、しばしば多くの儀礼化された集団防衛を採用するだけで維持される。たとえば、ハーダー、リチャードソン、およびシモンズは、ジーザス運動の一つの分派における求愛、結婚、および家庭の形態研究した。彼らは、全員が性的にとがめられかねない状況を明確に回避することを述べ、そして求愛と肉体的快楽に関するセクト特有の規制の大要を説明した。たとえば、デートをすることは不適切と考えられたが、それに誘惑や罪に至りかねないからだった。セクトに入会中の人の態度の同様な変化は、前に述べた統一教会の会員に関する研究に現れた。その七十六パーセントが性について考えることを“非常に”避けたと述べたが、入会の前には十一パーセントしかそのように感じなかったと報告した。したがって、集団心理は本能の要求の表出の統制やそのほかの葛藤の統制に重要役割を果たす。

(前出 引用英語で分からず。)

 以上のように、宗教的悪業を規定する教義には、人の思考や行動を強く統制する作用があるとされています。そして、オウムの教義にもまた、ある思考や行動を宗教的悪業として規定するものがありました。たとえば、私が出家した直後の平成元年四月二日、麻原は次の内容の説法をしています

 「わたしたちの修行を妨げる眠気、貪り、怒り、真理(オウムの教義と考えていただいて差しつかえありません)を否定したくなる気持ちは悪魔であり、取り返しのつかない迷いの生を繰り返す」

 「現代人は快楽を追求し、真理の実践をしていないので、三悪趣地獄餓鬼動物)に生まれ変わる」

 「説法を復習せず、聞き流すとサマナ出家者)をやめるという結果になり、迷いの生に入り、三悪趣に生まれ変わる」

 また、クンダリニー覚醒すると、「魔境」に入りやすくなるとされていました。これは、「これ以上ない人生挫折」、「生まれ変わっても続いてしまう恐ろしい修行挫折」とされる状態です。そして、「魔境」に落ちないためには、「正しいグル解脱した指導者)を持つ」、「功徳(神とグルに対する布施奉仕)を積む」、「強い信を持つ(グルと真理を強く信じる)」、「真理を実践する」ことが必要と説かれていました。(麻原彰晃『超能力秘密の開発法』 『生死を超える』 『マハーヤーナ・スートラ』

 この類の教義はほかにも多数ありましたが、これらは信徒にとって、麻原、教団、あるいは教義から離脱を困難にし、そして、麻原や教義に従うよう思考や行動を統制すつものでした。このような作用は、信徒違法行為の指示に従わなかったリ、事件が明らかになった後でも脱会しなかったりする原因の一つと思います

 私が教義に疑問を抱き、脱会に至るまでには、次のように、悪業とされる行為をすることへの慣れが必要でした。

 逮捕された後、供述すると悪業になる内容について、私は取調官の追求を受けるようになりました。しかし、それでも、はじめはまったく供述できない状態であり、身を引きちぎられるように感じました。そのような状況において、私は軽度の悪業となる内容から少しずつ供述せざるを得ませんでした。

 私が最初に話したのは、地下鉄内で自身がサリンを発散させた単独行動の部分でした。事件に関してかなりのことが既に明らかになっていた状況であり、個人的な行為として供述するならそれほど悪業にならないと思ったのです。

 その後、黙秘供述を何度も繰り返して、長時間かけて動機の「ヴァジラヤーナの救済」の教義のことや麻原の事件への関与について供述できるようになりました。

 以上のように、自覚してないうちに恐怖を喚起する教義の影響を受ける場合があります。また、宗教的悪業を規定する教義そのものに興味を抱いてオウムに係わることは考え難いですが、多くの信徒がそのような関心外の教義を受容し、思考や行動が制限されていました。ですから、そのときは実感がわかなくても、「地獄」など恐怖の喚起が予測される概念を強調する思想には、近づくべきではないでしょう。


【vol.5「規範意識を変容させる集団」】へ続く。

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