平安中期
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永延2年(988年)、太政大臣藤原為光が法住寺の落慶法要をいとなんだことが『日本紀略』『扶桑略記』などにみえる。寺域の釈迦堂には本尊金色丈六釈迦如来、薬師如来、観音菩薩、延命菩薩、如意輪観音、法華三昧堂には普賢菩薩、常行三昧堂には阿弥陀世尊が安置され、円融天皇を迎えて豪華な法要がいとなまれた。為光は寛和元年(985年)6月に妻を、次いで7月には花山天皇の女御であった娘藤原忯子を失っており(忯子が亡くなったことで寛和の変が起きた)、その菩提を弔う目的でこの寺を創建したという。為光は現世の栄達を捨て、ここで念仏三昧の生活をおくった。正暦3年(992年)、為光の死にあたっては「封戸100戸」が寺に寄進された。為光死後、しばらくの間は法住寺は子孫によって護られていたが、長元5年(1032年)、九条邸から燃えひろがった火災によって焼失。このあと約120年間、大規模な再建などの記録は見られない。
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平安中期
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時平の死後、弟の藤原忠平が太政官首班となった。忠平は律令回帰路線に否定的であり、土地課税路線を推進していった。忠平執政期ごろに、有力百姓層(富豪層)へ土地経営と納税を請け負わせる名体制もしくは負名体制が開始しており、この時期が律令国家体制から新たな国家体制、すなわち王朝国家体制へ移行する転換期と考えられている。 忠平期を摂関政治の成立期とするのが通説である。それ以前の藤原良房の時から藤原北家が摂政・関白に就いて執政してきたが、発展段階の摂関政治であったとして初期摂関政治と区別されている。忠平以降は朝政の中心としての摂関が官職として確立し、忠平の子孫のみが摂関に就任するという摂関政治の枠組みが確定した。ただし、摂関政治においても摂関が全ての決定権を握っていたのではなく、議政官が衆議する陣定の場でほとんどの政治決定が行われていた。 桓武天皇が軍団制を廃止した結果として、朝廷の治安維持機能がなくなったため、地方の治安は悪化し、日本列島は無政府状態に陥った。特に、9世紀ごろから関東地方を中心として、富豪層による運京途中の税の強奪など、群盗行為が横行し始めていた(貞観の俘囚反乱・寛平・延喜東国の乱・僦馬の党)。群盗の活動は9世紀を通じて活発化していき、富豪層は自衛のために武装し、武士となった。富豪層は、東国などに土着した中級・下級貴族層を取り込み、従前の軍団制に代わる軍事組織として武士団を結成した。朝廷はやむを得ず、武士団に地方の治安維持を担わせる方針をとった。その後、9世紀末から10世紀初頭の寛平・延喜期に、この時期の勲功者が武士の初期原型となった。彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植していったが、彼ら同士の対立や受領に対する不平が叛乱へ発展したのが、忠平執政期の天慶3年(940年)前後に発生した承平天慶の乱である。朝廷の側に立ち、反乱側に立った自らと同じ原初の武士達を倒して同乱の鎮圧に勲功のあった者の家系は、承平天慶勲功者、すなわち正当なる武芸の家系と認識された。 忠平の死後、10世紀中葉に村上天皇が親政を行った。これを天暦の治といい、延喜の治と並んで聖代視された。 10世紀中葉から後期にかけて、ある官職に伴う権限義務を特定の家系へ請け負わせる官司請負制が中央政界でも地方政治でも著しく進展していった。この体制を担う貴族や官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育をほどこして家業を担う人材を育成した。先述の武士の登場も、武芸の家系に軍事警察力を請け負わせる官司請負制の一形態とみなせる。 朝廷の財政は、地方からの収入に頼っていたが、特に地方政治においては、国司へ大幅な行政権を委任する代わりに一定以上の租税進納を義務づける政治形態が進んだ。このとき、行政権が委任されたのは現地赴任した国司の筆頭者であり、受領と呼ばれた。受領は、大きな権限を背景として富豪層からの徴税によって巨富を蓄え、また恣意的な地方政治を展開したとされ、その現れが10世紀後期から11世紀中期に頻発した国司苛政上訴だったと考えられてきたが、一方で受領は解由制や受領功過定など監査制度の制約も受けていた。いずれにせよ、受領は名田請負契約などを通じて富豪層を育成する存在であるとともに、富豪から規定の税を徴収しなければならない存在でもあり、また富豪層は受領との名田請負契約に基づいて巨富を築くと同時に中央官界とも直接結びついて受領を牽制するなど、受領の統制を超えて権益拡大を図る存在でもあった。 また、荘園が拡大し始めたのもこの時期である。10世紀前期に従来の租税収取体系が変質したことに伴い、権門層(有力貴族・寺社)は各地に私領(私営田)を形成した。このように荘園が次第に発達していった。権門層は、荘園を国衙に収公されないよう太政官、民部省や国衙の免許を獲得し、前者を官省符荘といい後者を国免荘という。こうした動きに対し、10世紀後期に登場した花山天皇は権門抑制を目的として荘園整理令などの諸政策を発布した。この花山新制はかなり大規模な改革を志向していたが、反発した摂関家によって数年のうちに花山天皇は退位に追い込まれた。とはいえ、その後の摂関政治は権門優遇策をとった訳ではない。摂関政治で最大の栄華を誇った藤原道長の施策にはむしろ抑制的な面も見られる。摂関政治の最大の課題は、負名体制と受領行政との矛盾、そして権門の荘園整理にどう取り組むかという点にあった。 藤原道長全盛期の時代は、道長の日記「御堂関白記」、道長の側近である藤原行成の日記「権記」、道長に迎合せず有職故実・律令に則って行動した藤原実資の日記「小右記」、女官が書き残した「栄花物語」と多方面から見た資料が揃っており、これらの資料から道長全盛期においても、結政、外記政、陣定といった基本的なルールに則って政治運営が行われていたことが分かっている。 摂関政治による諸課題への取り組みに成果が見られ始めたのが、11世紀前期から中期にかけての時期である。この期間、国内税率を一律固定化する公田官物率法が導入されたり、小規模な名田に並行して広く領域的な別名が公認されるようになったり、大規模事業の財源として一国単位で一律に課税する一国平均役が成立するなど、社会構造に変革を及ぼすような政策がとられた。このため、10世紀前期に始まった王朝国家体制はより中世的な形態へ移行し、11世紀中期を画期として以前を前期王朝国家、以後を後期王朝国家と区分する。 11世紀前期には、女真族が北部九州に来襲する事変が発生した(寛仁3年(1019年)、刀伊の入寇)。
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