前期王朝国家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 20:13 UTC 版)
そのため、国衙は国司四等官全員が郡司層を介して戸籍に登録された公民単位に徴税を行うのではなく、筆頭国司たる受領が富豪層を把握して彼らから徴税を行うようになった。この変化は9世紀末の宇多天皇から醍醐天皇にかけての国政改革で基準国図に登録された公田面積を富豪層に割り当て、この面積に応じて徴税する機構として結実した。これによって10世紀以降、律令国家は王朝国家(前期王朝国家)に変質を遂げた。ここで公田請作の単位として再編成された公田を名田、請作登録者を負名(ふみょう)と呼び、負名として編成された富豪を田堵(たと)と呼んだ。こうして形成された田堵負名層がこの時代以降の百姓身分を形成した。百姓は蓄積した経営資源たる動産を背景にして請作面積に応じた納税責任を負うが、移動居住の自由を有する自由民であった。彼らの下に編成された非自由民に下人、従者、所従らがいた。 律令国家においては戸籍に登録された全公民が国家に直接把握の対象となりそれがすなわち百姓であったが、王朝国家においては国家が把握する必要を感じたのは民を組織編制して税を請け負う田堵負名層だけとなり、それがすなわち百姓となった。換言すれば、田堵負名層の下に編成された下人、従者、所従らは国家の関心の埒外となったとも言えよう。また、国家権力や領主権力が把握対象として関心を示す範囲の階層こそが百姓であるという事態は、以後の歴史においても基本線となっていくことに注目してよい。 前期王朝国家において、田堵負名層は在庁官人として国衙の行政実務に協力する一方で、しばしば一国単位に結集して朝廷への上訴や受領襲撃といった反受領闘争を行った。彼らの鎮圧や調停を担う軍事担当の実務官人として武士が誕生した。しかしこの時期の武士はまた、自らも田堵負名として軍人としての経済基盤を保証される存在であった。
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