大穴持神とは大穴=火口を持つ神
●『火山で読み解く古事記の謎』で、 蒲池明弘氏は「神武天皇の東征で出発 した熊襲の故地と上陸した熊野に熊と いう字が重複しているのは何だろう か」という疑問を提起されている。川 の流れが淀んで深くなっている場所を 南島の言葉でクムイという。籠もると こ いう表現にも繋がるのだが、窪みがあ ってそこに何かが潜んでいるような怖 ろしさがある。 「目に隈ができる」と は、陰りがあって眼が窪みになってい る様子を表現している。広島県に熊野 町という町があるが、役場のホームペ ージは 「 標高約二二〇メートルの高原 状の盆地」と解説している。ここから も分かるように、熊野とは盆地のこと なのだ。熊本県熊本市の熊は、阿蘇の 大カルデラの盆地の形状をさして 「熊」ということになる。漢字の熊は、 「能はねばり強くて長く燃え獣のあぶ ら肉のこと。熊は、 『能+火』の会意 文字で、肥えて脂肪ののったくまの肉 が良く燃えることを示す。熊は、昔、 火の精である獣と考えられた」であり、 熊の字の下にある四つの横に並んだ点 は、漢字を部首で列火と言い火の燃え る形を示している。神武天皇が、熊野 に上陸したときに出遭った熊の形をし た化け物は、熊野の近辺に日本の最大
級の死火山があるから、熊襲の熊と同 様に火山との関係があったのではない かと指摘して興味深い。熊野は蘇りの よみがえ 聖地だ。現在は活火山はないにもかか わらず、近隣に、川湯温泉、湯の峰温 泉、北山温泉と名泉があり、熊野の地 下には今もマグマ溜まりがあることを 示しているのだ。 ●さて、 「熊」が大カルデラ盆地だと すれば、熊襲あるいは熊曽の「そ」は 何であろうか。まず、大隅国にあった 曽於郡のことが想起される。七一三年 大隅国が設置された当初から存在した 郡であるが、囎唹郡と大変難しい漢字 で表記がなされてきた(現在は大隅市 となった岩川で内科医を開業していた 中内四郎医師は、難しい漢字を簡略化 して曽於郡と表記しても歴史的にも問 題がなく、却って適当であるとの主張 を展開した。昭和四〇年代に至ってよ うやく曽於郡と言う簡便な書き方が鹿 児島県内外で広く普及することになっ た) 。古くは古事記では「曾」 、日本書 紀では「襲」と一字で書かれ、於の字 は、紀伊国の伊の字と同じように助字 で読まれることなく「そ」と発音され、 しかも、 「そ」は「せ」の古い形で霧 島連山の東側を日向と言うのに対して 西側を背と呼ぶことから曽に転化した
のだとの説が有力である。 「熊襲」と は、阿蘇の火山を由来とするカルデラ の住民と霧島山の曽の高千穂峯を北限 とする曽於郡の住民とを合わせた呼び 名であると考えられる。 ●国文学者・民俗学者だった益田勝実 が一九六八年に筑摩書房から出版した 『火山列島の思想』は美しい緑色の抽 象画がデザインされた紙函に入る単行 本だったが、今は「講談社学術文庫」 にも入っている。 その六三ページから八一ページにか けて、日本人がどこから来たかを考え る問題と日本の神々がどこから来たか とは繋がっているから、オオナモチの 神、出雲で大国主と呼ばれる神は日本 固有の神であると指摘して、続日本紀 の記述を引用している。七六四年の一 二月に最後のオオナモチの神が出現し た様を書いている。つまり、薩摩と大 隅の国境近くで火山活動による天変地 異があり、その七日の後には、三つの 島ができて、民家六二軒,八十余人の 人が埋まったこと、翌々年にこの島が また鳴動して、降り続ける火山灰から 逐われて逃げる者が続出したと書き、 その一二年後、大和朝廷はこの猛威を 振るう火山の神様を官社に列したとの 続日本紀の記事を引用している。 大隅の国の海中に神ありて、島を造 る。その名を大穴持の神と曰ふ。ここ に至りて官社となす。
大穴、すなわち、火口を持つ神様が オオナモチで、火山列島に出現する共 通の神の名前である。延喜式の大穴持 神社は、錦江湾の湾奧、姶良カルデラ の海底から噴火してできた三つの島、 辺田小島・沖小島・弁天島の対岸の霧 島市国分広瀬に遷され現存する。しか もこの神社に、津軽の火山を鎮めた社 を遷座させたとの伝説が残ることは、 興味深い。大隅国成立後の僅かの時間 に奥州で火山が噴火したことと繋がり があることの証拠だ。 出雲の伯耆大山の山頂にいます神も オオナモチであり、有史時代には噴火 した形跡がなくとも考古学的に火山で あったことが確認されており、噴火で 埋まった森林も発掘されているから、 出雲神話の祖型もやはり大山や三瓶山 の火山としての山体であると考えられ る。出雲の休火山が、大分の九重山か ら阿蘇の大カルデラを経て、霧島と姶 良カルデラの錦江湾に浮かぶ桜島、開 聞岳、海中の鬼界カルデラに連なる。 南西諸島の海中から硫黄鳥島を噴出さ せ、遙かに西表島の近くの海底火山と 延びる。フォッサマグナ南端の富士山 から本州を縦貫して北海道から千島列 島に至る大火山帯にも木花咲耶姫がお られた。神武天皇は活火山の日向から 死火山の熊野への東遷を経て、荒ぶる 日向から安寧の大和へ抜け出されたと や ま と も考えられる。 (つづく)
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