構造改革、民営化、市場原理主義の虚妄から、マインドコントロールを解くための参考図書館

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2017年5月

Kuroshio 181

大穴持神とは大穴=火口を持つ神
●『火山で読み解く古事記の謎』で、 蒲池明弘氏は「神武天皇の東征で出発 した熊襲の故地と上陸した熊野に熊と いう字が重複しているのは何だろう か」という疑問を提起されている。川 の流れが淀んで深くなっている場所を 南島の言葉でクムイという。籠もると こ いう表現にも繋がるのだが、窪みがあ ってそこに何かが潜んでいるような怖 ろしさがある。 「目に隈ができる」と は、陰りがあって眼が窪みになってい る様子を表現している。広島県に熊野 町という町があるが、役場のホームペ ージは 「 標高約二二〇メートルの高原 状の盆地」と解説している。ここから も分かるように、熊野とは盆地のこと なのだ。熊本県熊本市の熊は、阿蘇の 大カルデラの盆地の形状をさして 「熊」ということになる。漢字の熊は、 「能はねばり強くて長く燃え獣のあぶ ら肉のこと。熊は、 『能+火』の会意 文字で、肥えて脂肪ののったくまの肉 が良く燃えることを示す。熊は、昔、 火の精である獣と考えられた」であり、 熊の字の下にある四つの横に並んだ点 は、漢字を部首で列火と言い火の燃え る形を示している。神武天皇が、熊野 に上陸したときに出遭った熊の形をし た化け物は、熊野の近辺に日本の最大
級の死火山があるから、熊襲の熊と同 様に火山との関係があったのではない かと指摘して興味深い。熊野は蘇りの よみがえ 聖地だ。現在は活火山はないにもかか わらず、近隣に、川湯温泉、湯の峰温 泉、北山温泉と名泉があり、熊野の地 下には今もマグマ溜まりがあることを 示しているのだ。 ●さて、 「熊」が大カルデラ盆地だと すれば、熊襲あるいは熊曽の「そ」は 何であろうか。まず、大隅国にあった 曽於郡のことが想起される。七一三年 大隅国が設置された当初から存在した 郡であるが、囎唹郡と大変難しい漢字 で表記がなされてきた(現在は大隅市 となった岩川で内科医を開業していた 中内四郎医師は、難しい漢字を簡略化 して曽於郡と表記しても歴史的にも問 題がなく、却って適当であるとの主張 を展開した。昭和四〇年代に至ってよ うやく曽於郡と言う簡便な書き方が鹿 児島県内外で広く普及することになっ た) 。古くは古事記では「曾」 、日本書 紀では「襲」と一字で書かれ、於の字 は、紀伊国の伊の字と同じように助字 で読まれることなく「そ」と発音され、 しかも、 「そ」は「せ」の古い形で霧 島連山の東側を日向と言うのに対して 西側を背と呼ぶことから曽に転化した
のだとの説が有力である。 「熊襲」と は、阿蘇の火山を由来とするカルデラ の住民と霧島山の曽の高千穂峯を北限 とする曽於郡の住民とを合わせた呼び 名であると考えられる。 ●国文学者・民俗学者だった益田勝実 が一九六八年に筑摩書房から出版した 『火山列島の思想』は美しい緑色の抽 象画がデザインされた紙函に入る単行 本だったが、今は「講談社学術文庫」 にも入っている。 その六三ページから八一ページにか けて、日本人がどこから来たかを考え る問題と日本の神々がどこから来たか とは繋がっているから、オオナモチの 神、出雲で大国主と呼ばれる神は日本 固有の神であると指摘して、続日本紀 の記述を引用している。七六四年の一 二月に最後のオオナモチの神が出現し た様を書いている。つまり、薩摩と大 隅の国境近くで火山活動による天変地 異があり、その七日の後には、三つの 島ができて、民家六二軒,八十余人の 人が埋まったこと、翌々年にこの島が また鳴動して、降り続ける火山灰から 逐われて逃げる者が続出したと書き、 その一二年後、大和朝廷はこの猛威を 振るう火山の神様を官社に列したとの 続日本紀の記事を引用している。 大隅の国の海中に神ありて、島を造 る。その名を大穴持の神と曰ふ。ここ に至りて官社となす。
大穴、すなわち、火口を持つ神様が オオナモチで、火山列島に出現する共 通の神の名前である。延喜式の大穴持 神社は、錦江湾の湾奧、姶良カルデラ の海底から噴火してできた三つの島、 辺田小島・沖小島・弁天島の対岸の霧 島市国分広瀬に遷され現存する。しか もこの神社に、津軽の火山を鎮めた社 を遷座させたとの伝説が残ることは、 興味深い。大隅国成立後の僅かの時間 に奥州で火山が噴火したことと繋がり があることの証拠だ。 出雲の伯耆大山の山頂にいます神も オオナモチであり、有史時代には噴火 した形跡がなくとも考古学的に火山で あったことが確認されており、噴火で 埋まった森林も発掘されているから、 出雲神話の祖型もやはり大山や三瓶山 の火山としての山体であると考えられ る。出雲の休火山が、大分の九重山か ら阿蘇の大カルデラを経て、霧島と姶 良カルデラの錦江湾に浮かぶ桜島、開 聞岳、海中の鬼界カルデラに連なる。 南西諸島の海中から硫黄鳥島を噴出さ せ、遙かに西表島の近くの海底火山と 延びる。フォッサマグナ南端の富士山 から本州を縦貫して北海道から千島列 島に至る大火山帯にも木花咲耶姫がお られた。神武天皇は活火山の日向から 死火山の熊野への東遷を経て、荒ぶる 日向から安寧の大和へ抜け出されたと や ま と も考えられる。 (つづく)

Kuroshio 180

桜の辞世と火山噴火と国体の危機

●桜を題材にした辞世について書いた ら、複数の読者から早々にご意見が寄 せられた。まず「散りぬべき 時知り てこそ 世の中の 花も花なれ 人も 人なれ」の細川ガラシャの辞世の句に ついては、「潔さを感じる! 良寛 (の辞世)は未練たらたらさを感じ る」との感想があった。 細川珠子の辞世は、キリシタンとい う終末崘に敏感な宗門に帰依した、戦 国大名の妻の凜とした風格が滲み出て いるのはもとよりであるが、井尻千男 い じ り か ず お 先生の名著『明智光秀』 (海竜社、二 ○一○)を再び手にとって、日本の現 下の危機について沈思黙考する機会に なった。細川ガラシャは、明智光秀の 三女である。名著の冒頭部分を引用す る。 わが国における保守思想の清き流を、 戦国乱世という危機の時代の只中にあ って身を挺して守ろうとしたのが、明 智光秀ではなかったのか。戦後六十余 年間はほぼ一貫して 「 革命児信長」を 賞賛する時代であった。だから当然、 光秀は敵役として貶められてきた。 (中略)平成十八年の正月、小泉純一 郎総理が皇室典範の改正を決意したと 思われたころ、市川海老蔵演ずる『信 長』(新橋演舞場)を観劇していたく
感激したということがメディアで報じ られた。そのことを知った瞬間、私は 光秀のことを書くべき時がきたと心に 決めた。思うに人間類型としていえば、 戦後政治家のなかで最も信長的なる人 間類型が小泉純一郎なのではないか。 言う意味は、改革とニヒリズムがほと んど分かちがたく結びついていると言 うことである。そもそも市場原理主義 に基づく改革論がニヒリズムと背中合 わせになっていると言うことに気づく か、気づかないか、そこが保守たるか 否かの分岐点なのだが、今日のわが国 の政治家でそのことに気づいている者 は極めて少ない。その意味で、小泉氏 は時代の危機の象徴的存在なのである。 ならば、その危機に鋭敏に反応する明 智光秀的なる政治家は誰か、いるのか、 いないのか。 事情は昭和の御代よりもはるかに深 刻だったといわねばならない。朝廷を 守るべき幕府が崩壊したまま再建の気 配がなく、武の頂点に立ち、 「 天下布 武」と号令する信長に朝廷をお守りす る意志がないとなれば、否、正親町天 皇に退位を迫っているとなれば、信長 を討つ以外に国体を護持する道はない のである。 「 君側の奸」か 「 君側の逆 臣」かといえば信長はもうはっきりと
逆臣といわなければならない。だとす れば、誰が何時討つかだけのこととな る。 「侍精神の最後の光芒」明智光秀 は、その討つべき時を待っていただけ のことである。 ガラシャの辞世を光秀の有名な連歌 の発句「時は今天が下知る五月哉」と 読み併せると、室町幕府を打倒した信 長が朝廷との対立を深めるばかりにな るという国体の危機を現前にして遂に 決起する戦国武将 「 明智光秀 」 の姿が、 皇統の危機に際し正統を護った武将と して現代にも甦ってくる感を強くした。 ●郵政民営化で、豪州に投資した六二 ○○億円のうち何と四〇〇〇億の巨額 が損失となったことが、奇しくも逓信 記念日の四月二〇日に露呈したが、近 因は平成の信長と喧伝された前記政治 家の不始末である。 「稲村さん、良寛は堂島米市場にコメ を出した佐藤甚兵衛のネットワークで 最大手だった越後の甚兵衛ですよ」と は落合莞爾氏から頂戴したコメントだ。 筆者は浅学で佐藤甚兵衛のネットワー クの意味を検証する力がないが、良寛 が日本海の北前船の交通と物流の繁栄 の中で生まれた人物であることを初め て知った。北前船で栄えた富山の新湊 の夜祭り、当時の日本海の泊湊の賑わ いと今の港のさびれ具合を比べた。 経済学徒の若い友人からは、 「桜は やわくない」という主張に呼応して、
岩手県の盛岡地方裁判所の構内にある 石割桜の写真が送られてきた。花崗岩 の巨岩の割れ目に生えた桜の巨木の写 真だ。国の天然記念物に指定され、樹 種はエドヒガンザクラで、散るを急ぐ ソメイヨシノではない。 ●阿多の姫君である神阿多都比売の夫 たる瓊瓊杵尊の天孫降臨については、 「雪国越後にもある」との情報提供が あった。越後の刈羽黒姫山と呼ばれる 標高八九一メートルの山頂近くに、機 織りの神様を祀る鵜川神社があり、新 潟大学地質学部の調査から、黒姫山と 米山、弥彦山は太古には一つの山で、 世界的な伝承となっている大洪水の際 に、避難した太古日本人が舟で最初に 戻った場所として港の跡があり、そこ まで海であった形跡もある。大洪水前 の太古の時代から稲作がなされ、十日 町市笹山出土の縄文の火焔型土器群は 国宝に指定され、しかも東北系・関東 系・中部系・畿内系と日本各地の縄文 土器が出土している等のご指摘を頂戴 した。越後の刈羽三山は火山活動によ る山塊だから、火山噴火を鎮めた痕跡 として天孫降臨が越後の山に残ること に何の不思議もない。 最後に、天孫降臨と火山噴火につい ての拙論は、蒲池明弘著『火山で読み 解く古事記の謎』(文春新書、二○一 七)に大いに啓発されたことを謝して 記しておきたい。 (つづく)

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