Kuroshio 111
黒潮文明の漁獲遺構
沢ガニが最も美味しいのは、寒が入った季節だ。沢ガニは、寒さを逃れるかのように黒潮の海に向かって産卵に備えて山を下る。赤くゆであがった沢ガニは、ハージキ、赤い月という名前に変わった産卵前の卵嚢(かにみそ)を抱えて珍味となる。沢ガニをとるのは、竹で編んだおとりの籠だ。アギというと魚の鰓のことだが、円錐形のアギが竹籠の中に入っていると思えばいい。魚やカニが中に一旦入ると出られないようにする仕掛けだ。谷川をせき止めて一昼夜放って置いて、朝方に籠を上げる。最近は、鉄線を枠にして網を四角に張った魚籠も売られている。南島では、カニと魚を獲る竹籠をアローと言うが、まったく同じ形の小型の籠が、天竜川を遡ったウナギを取る籠として諏訪大社の参道の店に遙か昔から並んでいる。茨城の涸沼では、竹筒が今もウナギのおとりに使われている。一〇〇年いやもっと長い時間水に漬かった古竹の筒がウナギをよくおびき寄せると聞いたので、シジミ採りの知人に一本分けてくれないかと頼んだら、商売道具の家宝らしく丁重に断られた。沖縄の観光地となった万座毛の全日空ホテルの前のサンゴ礁に、網で作った魚籠を放り込んでおいたらタコがかかったことがある。夜通し電燈が点いているから、透明な海中を烏賊が吸い寄せられるように泳ぎ回っているのが桟橋の上から見えるほどであるが、烏賊はこの魚籠とは相性が悪い。紐をつけて河口の橋から投げ入れておいたら、シオマネキとガザミは確かに入った。
海幸と山幸の争いは釣針の貸し借りが発端となっているが、魚をとる方法は、おとりの籠ばかりではない。海岸に石で垣を造ると、満潮にはは潮に乗って 魚が入って来るが、干潮になると出口が狭まっているから逃げられない。こういう構造の魚を獲る石組が太平洋の各地に黒潮文明の遺構として残る。日本の列島では、石干見(いしひみ、いしひび)と呼ばれる。沖縄では、魚垣(ながき、かつ、かち)とも言う。長崎県諫早市高来町湯江に石干見(いわほしみ)が残り、島原には二九基の石干見(すくい)があり、復元されている。カラスミの原料となるボラを獲る。五島の三井楽(みいらく)では底部の幅約一・五メートル、高さ約一メートルの石垣を八〇メートルにわたって築いたスケアンというものがあり、ミズイカやメジナなどを獲っていた。大分県宇佐市の長洲には石ひびがある。沖縄の下地島の西部に広がる佐和田礁湖に魚垣(かつ)が残り、石垣島の白保の海岸には、長さ四〇〇メートルの垣(かち)が復元された。小浜島には、世界最大級の幅一二メートル、長さ一二〇〇メートルに及ぶ、島本海垣(しまんだがきぃ)が残っている。朝鮮半島の全羅道ではトック
サル(石の匪)、サルマギと呼ばれ、慶尚南道、南海島ではトルパル、(石の
匪)、パル、済州島ではウォン(垣)、ケマ、ウムチと呼ばれる遺構がある。
魚をとるための石組は、太平洋の島々と沿岸に展開する。ニュージーランドで
は、数は多くないが、この海中の石垣をタプと呼ぶ。タヒチから渡来したとの
伝承で、確かに、タヒチのライアテア島には、もっと立派な魚をとるための海
中の石垣が残っている。タプとは、聖なるという意味もあり、豊穣の海を寿ほ
ぐ場所でもある。フィリピンでは、アトブ、ヤップ島では、アッチ、トラック諸島ではマアイ、ハワイのモロカイ島では、ロコウメイキ、インドネシアのカイ島では、セロバツ、マッカルでは、ランラ、ニューギニア北部のマヌス島では、カロウ、ポナム島ではパパイ、トレス海峡では、グラズ、サイ、ソロモン諸島では、エレ、アフェアフェ、キリバスでは、テマ、クック諸島ではパー、と呼ばれる。台湾の澎湖諸島には、多くの石滬(シーフ)が残されている。澎湖島ではカマスをとり、橋でつながっている白沙島には昔は二五一の石滬(シーフ)があって、今でも一一四の存在が確認できる。吉貝島には最も多く残っているが、七美島の石滬(シーフ)はふたつ重ねの形をしている特徴があり、観光写真で広く紹介されている。台湾と日本が南西諸島を経由して魚垣で繋がる。
わが故郷の奄美大島龍郷町(たつごうちょう)の瀬留(せどめ)の海岸にも魚を獲る石組が残っている。魚をすなどるために、先人が営々と積んできた海中の石垣を眺めて、黒潮の旅人を想像するためには、なかなかいい場所だ。余談ながら、筆者の恩人の山下隆三氏の墓所が、その石組の海岸縁の松林の中にある。山下隆三氏は、奄美大島の名瀬にあった大島中学(現在の大島高校の前身。今年の春の選抜で甲子園に初出場するということで、相当の話題になっている)の同窓生(同窓会は安陵会で、父は一二回の卒業生で、同級生に図徹(はかりとおる)という画家がいた)で、名瀬の職業安定所の所長をした。次男坊もちゃんと学校を出すようにと父親に進言してくれた人だから、恩人だ。空港から中心地の名瀬に行く途中だから、お線香を手向けるために立ち寄ることができる便利な場所だ。すぐ近くの海岸の石組はもう魚獲りのために使われている気配はない。龍郷町の魚垣は、太平洋側ではなく東シナ海側にあるから、冬の季節風をまともに受ける場所を避けて、荒波で壊される可能性が低く魂が鎮まる海岸に造られたことがわかる。 (つづく)
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那覇公設市場で、沢がにと思われるカニを買ったことがあり、台湾産と聞きました。
私の山里では、子供の頃夏の夜、川を下る毛ガニを取って食べたことがあります。
沢がには、田んぼに水を入れる周りの畔にいますが、穴をあけるので喜ばれません。食用の記憶もありません。川魚を食べる習慣は少ない気がします。(猪の肉、スズメは取り方を工夫して食べました。)
石組の話実に多様な話です。ご存じかもしれませんが、鳥取県西部の湖山池(こやまいけ)の石(いじ)がま漁があります。(インターネット「鳥取市の湖山池」掲載。)
漁の様子は見たことはありません。30~40年前、鳥取県防災行政無線整備で伺ったとき周辺から案内してもらいました。また、二男が鳥大・林業科卒業(現場が好きで、森林組合作業員)。二男は石がま知っているかどうか聞いてみます。
投稿: 西本紘一 | 2014年3月26日 20時45分