ほそかわ・かずひこの BLOG

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この日本をどのように立て直すか、ともに考えて参りましょう。

日本の心161~『国家の品格』と武士道精神:藤原正彦2

2022-08-22 08:06:51 | æ—¥æœ¬ç²¾ç¥ž
●武士道の歴史と変遷を、どうとらえるか

 武士道精神の復活を唱える藤原正彦氏は、武士道の歴史と変遷をどのようにとらえているのだろうか。もとより氏は、歴史家や思想家ではないのだが、そのとらえ方には傾聴すべきものがある。
 「武士道はもともと、鎌倉武士の『戦いの掟』でした。いわば、戦闘の現場におけるフェアプレイ精神をうたったものと言えます。しかし、260年の平和な江戸時代に、武士道は武士道精神へと洗練され、物語、浄瑠璃、歌舞伎、講談などを通して。町人や農民にまで行き渡ります。武士階級の行動規範だった武士道は、日本人全体の行動規範となっていきました」(『品格』)
 「明治維新のころ海外留学した多くの下級武士の子弟たちは、外国人の尊敬を集めて帰ってきた」「武士道精神が品格を与えていたのである」(『けじめ』)
 明治維新によって、身分としての武士は消滅した。その後の武士道精神の変遷を、武士道精神の中核を「惻隠の情」と理解する視点から、藤原氏は次のように述べている。
 「かつて我が国は惻隠の国であった。武士道精神の衰退とともにこれは低下していったが、日露戦争のころまではそのまま残っていた」(『けじめ』)。
 その実例として、氏は、水師営での会見で、乃木将軍が敗将ステッセルに帯剣を許したこと。日本軍は各地にロシア将校の慰霊碑や墓を立てたこと。松山収容所では、ロシア人捕虜を暖かく厚遇したことなどを挙げている。
 「日本人の惻隠は大正末期にはまだ残っていたようである」(『けじめ』)。
 その実例として、氏は、第1次大戦後、ポーランド人の援助要請に応え、日本人が極東に残されたポーランド人孤児765名を救済したことを挙げる。
 確かに、私たちの先祖であり先輩である明治・大正の日本人は、異国の人々の身の上を、わがことのように思いやり、親切このうえなく心を尽くした。まだほとんど外国人と接する機会のなかった時代であるのに、国際親善・国際交流の鑑のような行動を、人情の自然な発露として行っている。
 こうした日本人の精神を、藤原氏は、武士道に重点を置いて、武士道精神と呼ぶわけである。
 大東亜戦争の敗戦後、武士道精神は大きく低下した。しかし、氏は、これは戦後、突然起こった現象ではないと見ている。
 「武士道精神は戦後、急激に廃れてしまいましたが、実はすでに昭和の初期の頃から少しづつ失われつつありました。それも要因となり、日本は盧溝橋以降の中国侵略という卑怯な行為に走るようになってしまったのです。『わが闘争』を著したヒトラーと同盟を結ぶという愚行を犯したのも、武士道精神の衰退によるものです」(『品格』)
 「当時の中国に侵略していくというのは、まったく無意味な『弱い者いじめ』でした。武士道精神に照らし合わせれば、これはもっとも恥ずかしい、卑怯なことです」(『品格』)
 「日露戦争に比べ、日中戦争や大東亜戦争での捕虜の扱いはかなり違う。日本軍は捕虜を労働力と見るようになり、酷使、虐待を平気でするようになった。昭和の初めごろより惻隠が少しずつだが衰えていったのである。明治が遠くなったこともある。野卑な外国を見習ってしまったこともある」(『けじめ』)
 ヒトラーと同盟を結んだのは、武士道精神の衰退によるという見方は、私も同感である。私は、三国同盟締結は日本精神に外れた行いだったことを、別に書いてもいる。ただし、藤原氏が、日本の大陸進出を「まったく無意味な『弱い者いじめ』」「もっとも恥ずかしい、卑怯なこと」とのみ書いているのは、歴史認識の視野の狭さ、底の浅さを露呈したものと思う。
 20世紀前半の日中関係には、国際市場のブロック化、共産主義の策謀、シナの排日運動・協定違反・日本人虐殺等、複雑な要素が重なり合っていた。氏は「盧溝橋事件以降の中国侵略」と安易に筆を走らせているのではないか。盧溝橋事件は日本側の攻撃によるものではない。また、事件後、第2次上海事件によって本格的な戦争になってしまうまで、わが国は戦争回避のため慎重な対応に努力した。
 ところが、日本を大陸深く誘い込み、戦争を勃発・拡大させて、共産革命を実現しようとするコミンテルンや中国共産党の工作が行われていた。わが国は、まんまと大陸での泥沼の戦争に引き釣り込まれたという面があったのである。
 次に、捕虜の扱いについて、氏がどういう事例を思い浮かべているのか分からないが、国家総力戦段階に突入した世界における戦争の悲惨さを抜きにして、日本人の精神面の変化だけでは論じられないものがあると思う。
 こうした藤原氏の現代史に関する認識は、よく注意して読む必要があるだろう。
 日露戦争について水師営の会見、大正時代についてポーランド人孤児の救援などを挙げるのであれば、大東亜戦争についてもインドやインドネシアの独立への支援などを挙げるのでなければ、昭和戦前期の日本人に対して否定的すぎると思う。
 いずれにしても藤原氏は、武士道は「昭和のはじめごろから少しづつ衰退し始め、戦後はさらに衰退が加速された」(『けじめ』)というとらえ方をしている。武士道精神が悪いから「侵略」「虐待」をしたのではなく、反対に武士道精神が衰退・喪失し始めたから、そういう行動が出てきたのだという理解である。
 私はおおむねこれに同意する。日本精神が悪いから戦争を起こしたのではなく、日本の指導層が日本精神から外れたために、三国同盟を結び、米英戦争に突入し、大敗を喫したのである。

●武士道精神喪失の根本理由

 藤原正彦氏は、武士道は「昭和のはじめごろから少しづつ衰退し始め」、大東亜戦争の戦後は「さらに衰退が加速された」という。アメリカは占領期間、日本弱体化のためにさまざまな政策を行なった。「たった数年間の洗脳期間だったが、秘匿でなされたこともあり、有能で適応力の高い日本人には有効だった。歴史を否定され愛国心を否定された日本人は魂を失い、現在に至るも祖国への誇りや自信をもてないでいる」(『けじめ』)
 「戦後は崖から転げ落ちるように、武士道精神はなくなってしまいました。しかし、まだ多少は息づいています。いまのうちに武士道精神を、日本人の形として取り戻さなければなりません」(『品格』)
 基本的には、私は同感である。ただし、藤原氏の所論には重要なことを補う必要がある。戦後、武士道精神が失われてきた根本的な理由である。
 日本は、GHQから押し付けられた憲法により、独立主権国家として不可欠な国防を大きく制限された。憲法上、国民には、国防の義務がない。「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ」という文言のある教育勅語は、教科書から取り除かれた。国家が物理的に武装解除されただけでなく、日本人は精神的にも武装解除された。その結果、日本人は自ら国を守るという国防の意識さえ失った。
 武士道とは、本来、武士の生き方や道徳・美意識をいうものである。武士とは、武を担う人間である。武を抜きにして、武士道は存立しない。自衛のための武さえ制限され、自己の存立を他国に依存する状態を続けている日本人が、急速に武士道精神を失ってきたのは当然である。
 根本的な原因は、憲法にある。日本国憲法が、日本人から武士道精神を奪っているのである。この問題を抜きにして、武士道精神の衰退は論じられない。
 藤原氏は、武士道精神の中核は「惻隠の情」だとし、「弱い者いじめ」に見て見ぬふりをせず、卑怯を憎む心を強調する。氏のいうような武士道精神に照らすなら、例えば北朝鮮による同胞の拉致に対し、日本人及び日本国は、どのように行動すべきか。中国のチベット侵攻や台湾への強圧に対し、どのように考えるべきか。
 これらの問題は、単なる道徳論では論じられない。日本という国の現状、自分たち日本人のあり様を、国際社会の現実を踏まえて論じる必要があるだろう。やはり、「この国の形」を決める憲法に帰結する事柄である。
 さて、藤原氏は、戦後、衰退してきた武士道精神が、バブルの崩壊によって、一層、顕著に衰退してきたという見解を表している。
 「歴史を否定され愛国心を否定された日本人は魂を失い、現在に至るも祖国への誇りや自信をもてないでいる。だから、たかがバブルがはじけたくらいで狼狽し、世界でもっとも優れた日本型資本主義を捨て、市場原理を軸とするアメリカ型を安直に取り入れてしまった。その結果、日本経済は通常の不況とは根本的に異なる、抜き差しならない状況に追い込まれている」(『けじめ』)
 「バブル崩壊にともなう市場原理主義は、武士道精神を崖からまっさかさまに突き落としつつある。日本人の道徳基準であっただけに今後が心配である。とりわけ新渡戸稲造が武士道の中核とした惻隠の情が急激に失われつつあることは、我が国の将来に払拭できない暗雲としてたれこめている」(『けじめ』)
 市場原理主義について、次のように藤原氏は述べている。
 「市場原理に発生する『勝ち馬に乗れ』や金銭至上主義は、信念を貫くことの尊さを粉砕し卑怯を憎む精神や惻隠の情などを吹き飛ばしつつある。人間の価値基準や行動基準までも変えつつある。人類の築いてきた、文化、伝統、道徳、倫理なども毀損しつつある。人々が穏やかな気持ちで生活することを困難にしている。市場原理主義は経済的誤りというのをはるかに越え、人類を不幸にするという点で歴史的誤りでもある。苦難の歴史を経て曲がりなりにも成長してきた人類への挑戦でもある。これに制動をかけることは焦眉の急である」(『けじめ』)  
 市場原理主義は、資本主義発生期の経済的自由主義の現代版である。この古典的自由主義は、修正的自由主義が「リベラリズム」を標榜するのに対し、「リバータリアニズム(徹底的自由主義)」ともいう。英米ではこの国権抑制・自由競争の思想が、伝統的な「保守」である。一般的にはアダム=スミスに始まるとされ、ハイエク、フリードマンらがこの系統である。ブッシュ政権に集合した「ネオコン」と呼ばれる新保守主義者は、その新種である。
 国防に致命的な欠陥を持つわが国は、1980年代にアメリカを主人とする金融奴隷になったような構造に組み込まれた。バブルの崩壊後は、その構造のもとで、アメリカ主導の市場原理主義に押し捲られている。そして、米国政府に成り代わって、市場原理主義を積極的にわが国で推進しているのが、小泉=竹中政権である。
 現在の自民党は、私が「経済優先的保守」や「リベラル」と呼ぶ人たちが主流派となり、「伝統尊重的保守」は駆逐されてきた。日本政府が行なっている改革は、アメリカの「年次改革要望書」に応える改革にすぎない。2000年代から、自由競争と個人主義が徹底的に推進されてきたことにより、「格差社会」が生まれ、若者を中心に「下流」が増大している。経済中心、金銭中心、個人中心の国策によって、日本人の精神性は劣化している。
 『国家の品格』が大ベストセラーになったのは、こうしたわが国のあり方を批判する藤原氏の言説が、多くの国民に共感を呼ぶからだろう。
 既に引いた文章と多少重複するが、藤原氏の主張を再度、引用したい。
 「バブル崩壊後、日本では政府ばかりか国民までもが『経済を回復させるためなら何をしてもいい』と考えるようになった。アメリカからの要求に従うような改革が次々断行され、貧しい者や弱者、地方が泣かされるという、非情な格差社会が生まれた。(略) この勢いは経済の領域を超え、社会全体が拝金主義や「勝ち馬に乗れ」といった風潮を蔓延させつつある。(略) さらに、日本人の繊細な感性を育んでいた日本の美しい自然や田園も、開発という名の破壊を受けて見るかげなく、子供達の教育も混乱を極めている。(略)
 私は、こうした様々な現象の元凶は、アメリカ流の経済至上主義や市場原理主義だと思っている。市場原理とは、できるだけ規制をなくし競争原理を働かせるものだが、結果は勝者と敗者ばかりの世界になる。規制とは弱者を守るためのものだからだ。世の中は、勝者でも敗者でもないふつうの人々が大半を占めなければ安定しない。市場原理で代表されるアングロサクソンの『論理と合理』を許し続けたら、日本だけでなく世界全体もめちゃくちゃになってしまう。
 こんな世界の中で、日本はどうすべきか。私は、経済的豊かさをある程度犠牲にしてでも『品格ある国家』を目指すべきだと考えている。そのためにも新渡戸稲造の『武士道』の精神を復活させることが大切だ。」(『何か?』)
 私は、氏の所論に強い共感を覚える。ただし、これを単なる道徳論に終わらせないためには、先に書いたように、日本人は憲法を論じなければならない。今日の日本で武士道精神の復活を実現するには、「精神の形」だけでなく、「この国の形」を論じる必要があるのだ。
 「国としての形」をなしていない国に、「国家の品性」は備わりえない。それが道理である。そのことを『国家の品性』を読んだ人々に、ともに考えていただきたいと思う。

 次回に続く。

************* 著書のご案内 ****************

 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
https://blog.goo.ne.jp/khosogoo_2005/e/d4dac1aadbac9b22a290a449a4adb3a1
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戦略論46~潜水艦、航空母艦、化学兵器、生物兵器

2022-08-21 11:27:21 | æˆ¦ç•¥è«–
●技術の発達と戦争の進歩(続き)

◆潜水艦

 水面下を潜航し行動できる軍艦を潜水艦という。潜水型の艦艇が初めて戦闘に使われたのは、アメリカ独立戦争でイギリス軍艦を攻撃した「タートル」である。1880年代から魚雷、水中航行の推進方式、潜望鏡等の技術の開発が促進された。第1次世界大戦の前に、実戦用の兵器として一応完成し、各国が導入した。その後の技術開発はドイツがリードした。第1次大戦では、ディーゼル機関を採用したUボートは、魚雷攻撃により通商を破壊するなどして多大の戦果を上げた。第2次大戦では、ドイツは国家の総力を挙げて潜水艦の大規模建造を行い、通商破壊戦で合国に多大の被害を与えた。また大戦後期には、半永久的な潜航が可能なシュノーケル装置を実現した。これに対し、連合国軍はレーダー、ソナーの開発や対潜水艦戦術の研究を進め、ドイツの潜水艦を制圧し、大戦を勝利に導いた。
 大戦後、潜水艦は電池の改良等により水中の航続性・高速性が向上した。またミサイルを搭載したものが登場し、艦船や陸上重要地攻撃に威力を増した。1955年に世界最初の原子力潜水艦「ノーチラス」が登場すると、原潜は航空母艦と並んで海戦の主力の地位を占めるに至った。今や核弾頭付き弾道ミサイルを搭載し海中から発射する原潜は、戦略核兵器体系の重要な柱となっている。

◆航空母艦

 航空母艦(空母)は、飛行機を発着艦させ,格納および補給整備などができるように建造された軍艦である。1910年に米国が巡洋艦の甲板上から飛行機を離艦させることに成功した。英国は第1次世界大戦中に、初の本格的空母「アーガス」を完成させた。第2次世界大戦前は、空母は戦艦部隊の支援・補助兵力とみなされていた。だが、日本の空母機動部隊が艦載機で真珠湾攻撃に成功して以来、戦艦に代わって海軍の主役となった。
 大戦後は搭載機がジェット機になり、それに応じてカタパルトの発進装置の開発、甲板の強度増加、発着・指揮等のための電子機器の完備等がされた。1960年、米国は最初の原子力空母「エンタープライズ」を就役させた。
 空母は現在のあらゆる軍艦のなかで最も大型で、弾道ミサイル搭載の原子力潜水艦に次ぐ威力を持つ。空母を保有するかどうかで、その国の戦力の程度が測られる。特に原子力空母を中心とした空母機動部隊は、強力な攻撃力・防御力を併せ持ち、艦船及び陸上の攻撃目標に対して核・非核両攻撃が可能であり、一国の戦力に匹敵するほどである。

◆化学兵器

 化学兵器は、狭義には毒ガスをさす。広義には化学反応を利用する兵器で、発煙剤、焼夷剤等を含む。狭義の化学兵器は、ABC兵器のうち核兵器(A:atomic weapon)、生物兵器(B:biological weapon)に対し、C(chemical weapon)と呼ばれる。これらは大量殺戮兵器として、通常兵器と区別されている。
 第1次世界大戦で、1914年にフランスが催涙物質を使用したのに対し、翌年ドイツが塩素ガスを使用し、大量の死傷者を出した。以後、ホスゲン、青酸、マスタードガス等の毒ガスが開発された。これらの効果の残虐性から、1925年に毒ガスの使用を禁止するジュネーブ議定書が締結された。ただし、使用を禁止しただけで、開発・製造は放置していた。1936年にはドイツで神経ガスのサリンが製造され、54年にはイギリスで同じくVXが合成された。
 1991年湾岸戦争の後、イラクが化学兵器を生産していることが判明し、化学兵器の拡散が新たな脅威になった。翌年ジュネーブ軍縮会議で、化学兵器の開発・製造・取得・貯蔵・使用のすべてを禁止する化学兵器禁止条約が採択され、97年4月に65か国の批准を得て発効した。しかし、2017年にシリアのサダト大統領がサリンを使って住民多数を殺害した疑いがある。また同年、北朝鮮は金正恩の異母兄・金正男の暗殺にVXガスを使った。

◆生物兵器

 生物兵器は、人間・動植物に有害な細菌・ウイルス等を使用して作られる兵器である。使用の方法には、砲弾、爆弾、ミサイルなどに装入、航空機から散布、飲食物に混入、郵便物に付着させて配布等がある。
 第1次世界大戦で毒ガスが実戦に用いられて悲惨な結果をもたらした経験から、1925年にジュネーブ議定書が作成された際、大量殺人兵器として禁止の対象となった。しかし、米国、英国をはじめとする各国は1945年前後から生物兵器の研究を進めた。その後、国連の主導で生物毒素兵器禁止条約が1972年に調印され、73年に発効した。
 2001年アメリカ同時多発テロ事件の直後に炭疽菌を使った事件が起こり、生物兵器によるテロ(バイオテロ)の可能性が指摘された。2019年から世界的に感染が広がった新型コロナウイルスは、共産中国で生物兵器として開発されたものではないかという疑いがある。また、他に生物兵器テロに使われる可能性が高いものとして、ボツリヌス菌、ペスト菌、チフス菌、天然痘等がある。

 次回に続く。

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 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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日本の心160~『国家の品格』と武士道精神:藤原正彦1

2022-08-20 11:39:34 | æ—¥æœ¬ç²¾ç¥ž
 藤原正彦氏の『国家の品格』(新潮新書)は、平成17年(2005年)に刊行された名著である。国際的数学者として知られる藤原氏は、いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことだと説いている。藤原氏が武士道に関して述べた意見に焦点を合わせて、21世紀に求められる武士道精神についてまとめてみたい。

●日本は「国家の品格」を失っている

 藤原氏が書名にした「国家の品格」とは何か。「品格」とは、「しながら」であり、「品位、気品」をいう。「品位」とは、「人に自然にそなわっている人格的価値」、「気品」とは「どことなく感じられる上品さ。けだかい品位」をいう。(「広辞苑」)
 これらはいずれも人間についていう言葉であって、国家には普通は使わない。それゆえ、「国家の品格」とは、その国の人間つまり国民の品格をいうものである。国民の品格とは、国民一人一人の品格である。国民一人一人に品格があってこそ、国民全体に品格が備わり、それがその国家に品格をもたらす。
 藤原氏の著書『国家の品格』を読んだ多くの人は、これはわが国の品格を説いた本だと理解しただろう。しかし、本書で、国家といい、日本というのは、日本人のことなのであり、その一員としての一人一人の品格が問われているのである。
 このように品格を問われているのは、国家としての日本であり、その一員としての自分自身であると押さえた上で、本稿の主題である藤原氏の武士道論に移りたいと思う。
 『国家の品格』の「はじめに」において、藤原氏は、「論理」に対比して「情緒と形」を置く。「情緒」とは、単なる喜怒哀楽ではない。「懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの」だという。また「形」とは、「主に、武士道精神からくる行動基準」だという。そして、藤原氏は、これらをともに「日本人を特徴づけるもので、国柄とも言うべきもの」だとする。
 藤原氏は、主な用語の定義がゆるやかで、その用語の使い方が、個性的である。「懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの」をいうのであれば、多くの人は「情緒」ではなく、情操とか感性というだろう。「主に、武士道精神からくる行動基準」なら、「形」ではなく、規範とか道徳というだろう。これらは、最も「形」に表しにくいものである。
 また、「国柄」であれば、「情緒と形」ではなく、国家の体質とか国体というだろう。「お国柄」なら国民性や民族文化をいうが、国家の統治機構や、政治社会の基本構造を抜きに「国柄」を説くことはできない。
 こうした独特の用語の定義や使い方が、藤原氏の特徴でもあり、また弱点でもある。それはそれとして、氏のいわんとするところに耳を傾けてみよう。
 藤原氏は、さきほどと同じ「はじめに」において、氏の言うところの「情緒と形」は「昭和の初めごろから少しづつ失われてきました」という歴史認識を示す。
 それらは「終戦で手酷く傷つけられ、バブルの崩壊後は、崖から突き落とされるように捨てられてしまいました」という。「戦後、祖国への誇りや自信を失うように教育され、すっかり足腰の弱っていた日本人は、世界に誇るべき我が国古来の『情緒と形』をあっさり忘れ、市場経済に代表される、欧米の『論理と合理』に身を売ってしまったのです」とも書いている。
 その理由を「なかなか克服できない不況に狼狽した日本人は、正気を失い、改革イコール改善と勘違いしたまま、それまでの美風をかなぐり捨て、闇雲に改革へ走ったためです」とする。
 そして、氏は「日本はこうして国柄を失いました。『国家の品格』をなくしてしまったのです」と述べる。
 ここで氏は「国家の品格」という用語を、「国柄」という用語と、ほぼ重なり合う意味で使っている。その内包は、「情緒と形」である。すなわち「懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培われるもの」や「主に、武士道精神からくる行動基準」が、昭和の初めから少しづつ失われていた。終戦後、日本人は、それらをあっさり忘れ、バブルの崩壊後、不況克服のための改革に走ったことによって、さらに失ってきているというわけだろう。

●武士道精神を復活すべき

 藤原正彦氏が武士道精神を持つようになったのは、氏の受けた家庭教育による。
 「私にとって幸運だったのは、ことあるごとにこの「武士道精神」をたたき込んでくれた父がいたことでした」と氏は『国家の品格』(新潮新書、以下『品格』)に書いている。
 父とは、小説家の新田次郎氏である。
 「私の父・新田次郎は、幼いころ父の祖父から武士道教育を受けた。父の家はもともと信州諏訪の下級武士だった」「幼少の父は祖父の命で裸足で『論語』の素読をさせられたり、わざと暗い夜に一里の山道を上諏訪の町まで油を買いに行かされたりした」という。(『この国のけじめ』文芸春秋、以下『けじめ』) 
 こうした教育を受けた父親が、藤原氏に武士道の精神を教え込んだのである。
 「父は小学生の私にも武士道精神の片鱗を授けようとしたのか、『弱い者が苛められていたら、身を挺してでも助けろ』『暴力は必ずしも否定しないが、禁じ手がある。大きい者が小さい者を、大勢で一人を、そして男が女をやっつけること、また武器を手にすることなどは卑怯だ』と繰り返し言った。問答無用に私に押し付けた。義、勇、仁といった武士道の柱となる価値観はこういう教育を通じて知らず知らずに叩き込まれていったのだろう」(『けじめ』)
 氏は、特に卑怯を憎むことを、心に深く刻まれたようだ。
 「父は『弱い者がいじめられているのを見てみぬふりをするのは卑怯だ』と言うのです。私にとって『卑怯だ』と言われることは『お前は生きている価値がない』というのと同じです。だから、弱い者いじめを見たら、当然身を躍らせて助けに行きました」と書いている。(『品格』)
 こうして家庭において父親から武士道の精神を植え付けられた藤原氏は、その後、今日にいたるまで、武士道精神を自分の心の背骨としている。その氏の武士道に対する理解は、その多くを新渡戸稲造の名著『武士道』に負っている。
 「武士道には、慈愛、誠実、正義や勇気、名誉や卑怯を憎む心などが盛り込まれているが、中核をなすのは『惻隠の情』だ。つまり、弱者、敗者、虐げられた者への思いやりであり、共感と涙である」(『国家の品格とは何か?』朝日新聞平成18年4月5日号、以下『何か?』)
 「惻隠こそ武士道精神の中軸」であり、これを「他人の不幸への敏感さ」とも言っている。(『品格』)   
 「惻隠の情」は、シナの儒教の賢者・孟子による。他人のことをいたましく思って同情する心である。孟子は「惻隠の心は仁の端なり」と言う。孟子は、性善説に立ち、人間の心のなかには、もともと人に同情するような気持ちが自然に備わっていると考えた。そして、その自然に従うことによって、やがては人の最高の徳である「仁」に近づくことができると考えた。「仁」とは、慈しみであり、思いやりである。
 藤原氏は、このように、武士道は「惻隠の情」がその中核をなす、ととらえている。しかも、その同情や共感は、身を挺してでも他者を助ける行動に表すべきものと理解されよう。単なる惻隠にとどまれば、卑怯というそしりを受けるだろうからである。
 さて、藤原氏は、論理だけでは世の中はうまくいかない、論理よりもむしろ「情緒」を育むことが必要だという。また、それとともに、人間には、一定の「精神の形」が必要だという。
 氏は、次のように書く。「論理というのは、数学でいうと大きさと方向だけ決まるベクトルのようなものですから、座標軸がないと、どこにいるのか分からなくなります。人間にとっての座標軸とは、行動基準、判断基準となる精神の形、すなわち道徳です。私は、こうした情緒を含む精神の形として『武士道精神』を復活すべき、と20年以上前から考えています」と。(『品格』)
 国際的な数学者である藤原氏が、このように言うところに、驚きと同時に強い説得力を覚え、多くの読者が啓発されているに違いない。
 藤原氏は、武士道精神は、わが国に「国家の品格」を与えてきた重要な要素であり、主に武士道精神が失われてきた結果、わが国は「国家の品格」を失ってきたと考えている。だから、日本人は、武士道精神を復活すべきと説くのである。
 それだけではない。この「惻隠の情」を中核とする武士道精神について、「このような日本人の深い知恵を世界に向けて発信することこそ、荒廃した世界が最も望んでいるのではないか」(『何か?』)と言う。「私は『武士道精神こそ世界を救う』と考えています」(『品格』)とさえ言う。
 このように、藤原氏は、現代の日本そして世界にとって、武士道精神がきわめて重要な意味を持つものと説いている。

 次回に続く。

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 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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戦略論45~武器の開発:機関銃、戦車、飛行機

2022-08-19 12:46:46 | æˆ¦ç•¥è«–
●技術の発達と戦争の進歩

 ここで19世紀中葉以降、新しい技術が発達したことによって、戦争の技術が変化したことをあらためて見ておきたい。武器の開発に注目し、機関銃、戦車、飛行機、潜水艦、航空母艦、化学兵器、生物兵器、ミサイル、核兵器の順に述べる。叙述の関係上、21世紀の今日までの発達を書く。

◆機関銃

 機関銃は、引き金を引き続ければ連続して自動的に弾丸を発射できる火器である。17世紀頃から連発銃をつくる試みが始まり、最初は銃身を数本たばねて手動で順次に発火することが行われた。1810年代に米国で雷管が発明されると、1850年代から、ガトリング機関銃をはじめとする多くの手動式機関銃が考案された。南北戦争で機関銃の威力が示され、ヨーロッパにも普及した。
 1885年頃にイギリスで無煙火薬が発明され、機関銃に画期的な進歩をもたらした。1887年に無煙火薬による火薬ガスを利用して自動的に連発するマクシム機関銃が作られた。これが最初の本格的な機関銃といわれる。機関銃が登場したことで、銃による殺傷力・破壊力は格段と増した。
 第1次世界大戦前から歩兵の持つ銃は機関銃に置き換えられていった。また、戦車・軍艦・飛行機等に機関銃が搭載されるようになり、戦闘は機械の威力の争いになっていった。

◆戦車

 戦車の起源は、古代から馬を戦闘に使用する戦闘用の馬車である。これをチャリオットという。古代オリエント地域では、紀元前2000年頃から、シュメール、ヒッタイト、アッシリア、エジプト、ローマ、ペルシア、シナ、インド等で使用された。
 現代的な戦車は、第1次世界大戦後期の1916年にイギリス軍が使用したものに始まる。機関銃が普及すると、兵士が塹壕に身を伏せ、戦闘が長期化し、膠着状態となった。戦車は、この均衡を破るため、敵の機関銃弾によく耐え、壕を突破できる奇襲兵器として考えられた。以後、火砲の発達、装甲板の改良、強力軽量の機関の出現等で性能が向上し、また無線通信機の装備により集団的戦闘指揮が可能となった。
 ドイツは、第2次世界大戦初頭に戦車を衝撃力とする電撃戦で、周辺国を圧倒した。それによって、戦車は地上戦闘の主力の地位を確立した。以後、打撃力、防御力、機動力を併せ持つ攻撃的兵器となっている。現在の戦車は、高度な電子通信機器を装備して正確・迅速な射撃が可能であり、またミサイルを搭載するものが増加している化の傾向にある。シュノーケル(潜水艦給排気装置)を使って潜水して川を渡ったり、放射能汚染下では密閉戦闘を行ったりできるようになっている。

◆飛行機

 1903年12月、アメリカのライト兄弟は、人類待望の動力飛行に成功した。すると、すぐ飛行機の軍事利用が研究された。1914年に第1次世界大戦が始まると、最初は偵察に使われた。間もなく偵察機、爆撃機、戦闘機等の用途別の機種が誕生した。4年間大戦が続く間に、飛行機は、時速、航続距離、高度等で飛躍的な進歩を見せた。
 第2次世界大戦では、飛行機が各種の用途で活躍し、航空戦力の優劣で勝敗が決したと言える。それまでの戦争にはなかった制空権の掌握が、戦争の展開を大きく左右するようになった。米国・ドイツ・英国等によって、敵国の軍事施設や都市への空爆が常態化した。米国は各国に先駆けて核兵器の開発に成功し、爆撃機が核兵器を積んで日本の広島・長崎に投下するという作戦を実施した。
 飛行機は、大戦中に、プロペラ機からジェット機へと飛躍した。ドイツは1939年に、ジェット・エンジンの飛行に成功した。大戦末期の1944年には、メッサーシュミット等のジェット戦闘機が出現した。大戦後はジェット化が進み、1953年頃にはジェット戦闘機が超音速で飛ぶようになった。現代では、戦闘機はもちろん、偵察機、爆撃機などの軍用機も超音速が普通になった。
 核兵器の保有国が増え、また核兵器の増産が進むと、大量報復のために戦略爆撃機が導入された。戦略爆撃機とは、敵の中心地を核兵器で攻撃できる爆撃機である。

 次回に続く。

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 『超宗教の時代の宗教概論』(星雲社)
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 『細川一彦著作集(CD)』(細川一彦事務所)

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日本の心159~現代に求められる武士道の精神

2022-08-18 12:13:52 | æ—¥æœ¬ç²¾ç¥ž
 今回から、平成期・令和期に入ります。

 武士道は、かつて日本精神の精華と称えられました。しかし、明治以降、徐々にその伝統は衰え、今日ではほとんど消え去ったかに見えます。
 こうした現代において、日本には武士道の復活が必要だという意見が、根強く存在します。
 俳優で武道家としても名高い藤岡弘氏は、あるインタビューで、若者に向けて、次のように語っています。
 「いまの日本人、とりわけ若者たちになにが欠けているのかと考えると、先達が残してくれた偉大なる精神文化・武士道こそが欠けているのではないかと思います。『武士道』とは、己を自己管理するための精神的・肉体的修行です。自己を管理するためにはまず、自己発見の旅に出る必要があります。それは、自分の目の前にあるどんな些細な出来事にも、ひとつひとつ真摯に取り組んでいく姿勢です。マニュアルなど存在しません。他力本願。そんな逃げ道も皆無です。
 やがてその修行は、自己分析の旅ヘとひろがっていきます。己の足りないところ、弱いところが見えてきます。『武士道』は、己の心身を強化し、我慢を重ね、調和をはかり、そして弱いものを守るための修行なのです」
 経済ジャーナリストで「第二海援隊構想」を推進している浅井隆氏は、次のように書いています。
 「武士道とは何か。私なりに解釈すると、それは自分を律するための『道』である。そのために死生観とか美学があった。そのような精神性が、いまの日本人にはいちばん欠けている」
 「現在に、まったく武士道が残っていないかというと、……阪神大震災などを見ても明らかなように、感情的にはならず、冷静に整然と秩序を守ってことにあたる精神がある。公徳心もまだ大分残っている。あれがアメリカだったら、大変な暴動に発展し、さまざまな事件が起きていたはずだ。やはり武士道は細々とではあるがまだ日本に生きているのである」
 「本当の意味の精神性の高揚がいまほど求められている時期はない。それこそ、武士道の復活に他ならない」
 東日本ハウス元会長の中村功氏は、次のように述べています。
 「(新渡戸稲造の)『武士道』に書いてあることは、大きく分けて二つあります。一つは克己を教えています。…欲望を抑え、辛いこと、苦しいことに耐え、自分を磨くこと…名誉を重んじ…勇気をもって悪と戦うこと…。二つ目は『公』のために生きることは立派なことだと教えています。…第3者のために役立つということ…明治の公は国家に尽くすということでした。…
 こう考えてみますと、なぜ明治時代に世界が日本を尊敬したのか、当然のごとく分かります。この二つを持っている人は世界中の人から尊敬されるのです。『克己』『公』のために尽くす人は、世界の人の目から見ても、立派な人なのです。この二つを日本人が完全に失ってしまったために、世界が今の日本を尊敬しなくなったのです。明治の人のように立派な人間、立派な日本人になろうということが今の時代に求められています…」
 最後に、作家で元・東京都知事の石原慎太郎氏は、世の父親や男性に向けて、次のように訴えています。
 「日本固有の文化があるようでなくなってしまった本質的混乱が到来しようとしている今の日本で、家庭を立て直し社会を立て直し、国家を立て直していこうという時にわれわれは、宗教などを超えて、われわれのごく近い先祖が尊崇し、評価し、憧れた武士道というものの本髄がなんであったということをもう一度考え直してみるべきではないだろうか。
 武士というのはやはり何よりも男だったわけですから、その武士の末裔の男として、自分の家庭の繁栄なり確立のために、武士道をいま改めて自分にどう取り込むかということをそれぞれの父親たちは素直に考えてみるべき時期に来ているのではないか」
 かつての日本人は高い精神をもっていました。その精神のよき表れが武士道でした。武士道を見直すことを通して、現代の日本人が忘れている、日本の精神文化を取り戻すことができるでしょう。

参考資料
・浅井隆著『大世紀末シンドローム』(総合法令)
・経営者「漁火会」の機関紙『漁火』平成11年12月1日号
・石原慎太郎著『父なくして国立たず』(光文社)

 次回に続く。

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戦略論44~海戦・航空戦の変化、核戦争の時代へ

2022-08-17 12:14:53 | æˆ¦ç•¥è«–
●戦争のあり方に大きな変化が(続き)

◆海戦の変化

 海軍は、古代の帆船時代から第1次世界大戦まで、主力艦隊同士の砲撃による決戦や敵の港湾封鎖を主要な課題としていた。しかし、第1次世界大戦から潜水艦が本格的に使われるようになると、それまでの戦闘方式が変化した。主力艦の援護や対潜行動が比重を増し、また潜水艦による通商破壊戦とそれへの対抗策が重要になった。
 第1次大戦以降の潜水艦の技術開発はドイツがリードした。ディーゼル機関を採用したUボートは、魚雷攻撃により通商を破壊するなどして多大の戦果を上げた。第2次大戦でドイツは国家の総力を挙げて潜水艦の大規模建造を行い、通商破壊戦で合国に多大の被害を与えた。また大戦後期には、半永久的な潜航が可能なシュノーケル装置を実現した。これに対し、連合国軍はレーダー、ソナーの開発や対潜水艦戦術の研究を進め、ドイツの潜水艦を制圧し、大戦を勝利に導いた。
 次に海戦に変化をもたらしたのは、航空母艦である。航空母艦が戦艦に代わって海戦の主役なったのは、飛行機が各種の用途で活躍し、航空戦力の優劣で勝敗が決するようになったからである。飛行機については、詳しくは次の航空戦の項目に書くことにして、空母の話を続けると、1910年に米国が巡洋艦の甲板上から飛行機を離艦させることに成功した。それが空母の原型である。
 英国は第1次世界大戦中に、初の本格的空母「アーガス」を完成させた。第2次世界大戦前は、空母は戦艦部隊の支援・補助兵力とみなされていた。だが、日本の空母機動部隊が艦載機で真珠湾攻撃に成功して以来、戦艦に代わって海軍の主役となった。
 第2次大戦を通じて、飛行機の活躍によって、それまでの海軍の長距離砲と分厚い装甲を持つ主力艦と、それを援護する補助艦で組み立てられた作戦戦略は、役に立たなくなった。航空母艦と潜水艦の重要性が増した。他の艦船も対空戦闘・対潜戦闘を基本とし、船団護衛や上陸支援が主な任務になった。

◆航空戦の変化

 飛行機の実現は、1903年12月、アメリカのライト兄弟が人類待望の動力飛行に成功したことによる。その後、すぐ飛行機の軍事利用が研究され、1914年に第1次世界大戦が始まると、最初は偵察に使われた。次いで空軍の任務に空中戦・対地支援が加わり、やがて敵の陣地や都市への爆撃が加わった。大戦の間に飛行機の性能は、飛躍的な進歩を見せた。これによって、陸上戦力、海洋戦力に航空戦力が加わる時代が開かれた。
 第2次世界大戦では、航空攻撃の威力が陸上・海洋での戦闘にとって決定的な意義を持つようになった。それまでの戦争にはなかった制空権の掌握が、戦争の展開を大きく左右するようになった。また空爆によって敵国の軍事施設や都市を集中的に攻撃して相手の継戦能力を減耗させる作戦が重要になった。
 空爆の手段としてミサイルの話を加えると、ドイツは第2次大戦中に大型ロケット兵器のV1・V2を開発して、ロンドンを攻撃した。以後、陸戦・海戦でも使用されるようになった。

◆核戦争の時代への突入

 世界大戦の時代に現れた戦争の最大の変化は、核兵器の登場である。
 1938年ドイツの化学者ハーンとシュトラスマンが、ウランの原子核の核分裂の現象を発見し、核分裂の連鎖反応を起こすことができれば大量のエネルギーを取り出す可能性のあることがわかった。
 ドイツが先に核兵器を開発することが懸念されるなか、米国は1942年にマンハッタン計画を発足させ、1945年7月に世界初の核兵器の爆発実験に成功した。米国は各国に先駆けて核兵器の開発に成功し、爆撃機が核兵器を積んで日本の広島・長崎に投下するという作戦を実施した。
 核兵器の使用は、人類の歴史を画する重大事件だった。これによって、戦争は人類の存亡に関わるものに変わった。人類の自滅という結果を招きかねないものになったのである。

 次回に続く。

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日本の心158~木のいのち、人の心:西岡常一

2022-08-16 10:08:15 | æ—¥æœ¬ç²¾ç¥ž
 日本の文化は木の文化であり、欧州の文化は石の文化であるといわれます。欧州人が石の建物に住むのに対し、日本人は木の家に住んできました。木にはいのちがあり、日本人はその木のいのちに包まれて、生活してきました。そこには、自然との深い融合がありました。今日の日本人は、そういう伝統の中にある心を忘れているのではないでしょうか。
 西岡常一氏ほどそのことを強く感じさせてくれる人は居ません。氏は、法隆寺の近くの宮大工の家に生まれました。昭和9年(1934)から始まった「昭和の大修理」で、氏は、現存する世界最古の木造建築である法隆寺の金堂や五重塔の解体修理を手がけました。平成7年、86歳で亡くなっています。
 西岡氏には、宮大工棟梁としての経験から語った数冊の著書があります。法隆寺は1300年もの間、立ち続けてきましたが、その材木について、氏は次のように語っています。
 「……ただ建っているといふんやないんでっせ。五重塔の軒を見られたらわかりますけど、きちんと天に向って一直線になっていますのや。千三百年たってもその姿に乱れがないんです。おんぼろになって建っているというんやないですからな。
 しかもこれらの千年を過ぎた木がまだ生きているんです。塔の瓦をはずして下の土を除きますと、しだいに屋根の反りが戻ってきますし、鉋(かんな)をかければ今でも品のいい檜の香りがしますのや。これが檜の命の長さです」
 「こうした木ですから、この寿命をまっとうするだけ生かすのが大工の役目ですわ。(樹齢が)千年の木やったら、(用材として)少なくとも千年生きるやうにせな、木に申し訳がたちませんわ」
 樹齢千年の桧(ひのき)なら千年以上もつ建造物ができる、と西岡氏は述べています。氏によると、千年ももつ建物を建てるためには、使う木の生育状況を見て、適材適所の使い方をしなければなりません。木は人間と同じで一本ずつみな違い、それぞれの木の癖を見抜いて、それに合った使い方をする必要があります。日の当たる場所に立つ木、当たらない場所に立つ木など、場所によって様々な木があるためです。そこで、宮大工は木を買うのではなく「山を買え」と言います。切り倒した後の木ではなく、山ごと買うことによって、一本一本の木の特性を見極めなければならないからです。また、一本の木についても日向側と日陰側によって用途が違ってきます。だから、木について知り抜いていなければ、宮大工は、まともな仕事はできないと西岡氏はいいます。
 西岡氏によると、昔の日本の大工は、ただ木を材料と見、道具として使っていたのではありませんでした。木の持ついのちにふれ、そのいのちに心を通わして、木を用いてきたのです。
 「木は物やありません。生きものです。人間もまた生きものですな。木も人も自然の分身ですがな。この物いわぬ木とよう話し合って、生命ある建物にかえてやるのが大工の仕事ですわ。木のいのちと人間のいのちの合作が本当の建築でっせ」
 そして、氏は、続いて建築の際に行う伝統的な儀式のこころを語ります。
 「わたしたちはお堂やお宮を建てるとき、『祝詞(のりと)』を天地の神々に申し上げます。その中で、『土に生え育った樹々のいのちをいただいて、ここに運んでまいりました。これからは、この樹々たちの新しいいのちが、この建物に芽生え育って、これまで以上に生き続けることを祈りあげます』という意味のことを、神々に申し上げるのが、わたしたちのならわしです」
 太古の昔から木を用いてきた日本人が、代々受け継いできた経験と知恵を、西岡氏は語ってくれます。その言葉には、自然に学び、自然と共に生きてきた日本人の精神を感じ取ることができるでしょう。

参考資料
・西岡常一著『木のいのち 木のこころ 天』(草思社)
・西岡常一・小原二郎共著『法隆寺を支えた木』(NHKブックス)

 次回に続く。

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戦略論43~世界大戦の時代の戦争(陸戦の変化)

2022-08-15 12:24:06 | æˆ¦ç•¥è«–
(4)世界大戦の時代の戦争

●戦争のあり方に大きな変化が

 19世紀末から第1次世界大戦、第2次世界大戦の時代には戦争のあり方に大きな変化が起こった。それを陸戦、海戦、航空戦、核戦争の順に見ていきたい。

◆陸戦の変化

 19世紀の陸戦の作戦戦略は、ナポレオンの戦争を模範とし、円滑かつ迅速な機動で主力を決勝点に集め、歩兵・騎兵・砲兵の協力決戦を挑み、敵の野戦軍を撃滅することを目標にしていた。しかし、19世紀中葉以降、銃砲が前装から後装に変わるという技術の進歩が起こった。前装とは、弾薬を銃砲の筒先から装填することである。後装とは、銃の遊底または銃の閉鎖機を開閉して弾薬を装填することである。この転換によって、射撃の速度と精度が上がった。
 次に大きな変化が起こったのは、機関銃(machine gun)の登場である。1810年代に米国で雷管が発明されると、1850年代から、ガトリング機関銃をはじめとする多くの手動式機関銃が考案された。南北戦争で機関銃の威力が示され、ヨーロッパにも普及した。1885年頃にイギリスで無煙火薬が発明され、87年に火薬ガスを利用して自動的に連発するマクシム機関銃が作られた。これが最初の本格的な機関銃といわれる。機関銃が登場したことで、格段と殺傷力・破壊力が増した。
 それとともに、技術の発達による鉄道や道路網の整備、通信技術の進歩は、兵力の分散・機動・集中や統一的な指揮を容易にした。また将校への教育が体系化され、指揮の技術が向上した。
 だが、防衛する側も、火力の増大、塹壕・鉄条網の利用、交通・通信網の拡充などによって、防御力が増した。そのため、20世紀に入ると、短期的な決戦での決着は困難となった。第1次世界大戦では、綿密に組織された塹壕網が作られ、拠点火力に対する大量砲撃と何波にも分かれた人海戦術との衝突が繰り返された。西部戦線では、強固な陣地に基づく長期にわたる消耗戦が行われた。また陣地突破用の新兵器として毒ガスや戦車が登場した。
 1914年にフランスが催涙物質を使用したのに対し、翌年ドイツが塩素ガスを使用し、大量の死傷者を出した。以後、ホスゲン、青酸、マスタードガス等の毒ガスが開発された。これらの効果の残虐性から、1925年に毒ガスの使用を禁止するジュネーブ議定書が締結された。毒ガスが実戦に用いられて悲惨な結果をもたらした経験から、ジュネーブ議定書が作成された際、人間・動植物に有害な細菌・ウイルス等を使用して作られる生物兵器も大量殺人兵器として禁止の対象となった。
 戦車は、第1次大戦後期の1916年にイギリス軍が使用したものに始まる。機関銃が普及すると、兵士が塹壕に身を伏せ、戦闘が長期化し、膠着状態となった。戦車は、この均衡を破るため、敵の機関銃弾によく耐え、壕を突破できる奇襲兵器として考えられた。以後、火砲の発達、装甲板の改良、強力軽量の機関の出現等で性能が向上し、また無線通信機の装備により集団的戦闘指揮が可能となった。
 第1次大戦後、フランスはマジノ線による固定防御に重点を置いた。だが、それ以外の各国陸軍は、戦闘を再び機動的にすることに力を入れた。第2次大戦では、戦車の活用の他に、歩兵・砲兵の自動車での移動等を組み合わせた機動戦が復活した。特にドイツは、大戦初頭に戦車を衝撃力とする電撃戦で、周辺国を圧倒した。それによって、戦車は地上戦闘の主力の地位を確立した。また、この大戦において本格的に使用された航空機による対地攻撃は、効果が大きく、制空権の確保や対空戦闘が重要となった。

 次回に続く。

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日本の心157~生物の世界は共存共栄:今西錦司

2022-08-14 11:27:37 | æ—¥æœ¬ç²¾ç¥ž
 今西錦司は、日本の社会人類学、生態学の草分けです。霊長類研究の指導者としても有名です。今西は、ダーウィンの進化論に異議を唱え、独創的な「棲み分け理論」を展開しています。
 ダーウィンの進化理論は、自然淘汰説として知られています。彼は、『種の起源』に以下のように記しています。
 「もしもある生物にとって有用な変異が起こるとすれば、このような形質を持つ個体は確かに、生活のための闘争において保存される最良の機会を持つことになろう。そして、遺伝の強力な原理に基づき、それらは同等な形質を持つ子孫を生じる傾向を示すであろう。このような保存の原理を、簡単に言うため、私は『自然淘汰』と呼んだ」
 つまり、生存競争の結果、最適者だけが生き残るということです。
 ダーウィンの自然観察は、ガラパゴス諸島と、イギリスの自宅の庭先に限られていました。その狭い範囲での観察に基づいてこのような理論を提起したにすぎません。
 これに対し、今西は、人生の大半を世界各地の自然観察に費やし、その結果、自然はダーウィンの言うような生存競争の場ではないと論じたのです。
 今西によれば、生物の進化とは、少数の種の生物が、数百万の種に分化しながら、それぞれ多様な環境に適応して特殊化してきた歴史です。
「 すべての生物がこのようにして、それぞれ特殊な環境に適応し、その主人公になったならば、そこに成りたつ生物の世界は『棲み分け』によるすべての生物の平和共存の世界である」
 ここに今西の進化理論、「棲み分け理論」のエッセンスがあります。競争よりも共存だというのです。
 今西が、「棲み分け理論」を思いついたきっかけは、カゲロウの研究でした。京都・加茂川に棲むカゲロウの幼虫を観察するうちに、今西は異なった種が川の中で棲み分けている事実に気づきました。生物は、個体間の競争の結果、最適者のみが生存しているのではありません。むしろ地球上には数百万を超える様々な生物が「種」として存在し、それぞれ「棲み分け」をし合いながら共存共栄していると考えられます。そこで、今西は、ダーウィンが個体のレベルで進化の過程を考えたのに対し、種のレベルで進化をとらえることを提唱しました。
 進化論で未解決の問題に、キリンの首はなぜ長くなったのかという問いがあります。ダーウィン説は、首の長いほうが生存に適しているので、首が長くなる方向に進化したと説明します。ところが今日まで、中間的な長さの首を持つキリンの化石は、一つも発見されていません。それどころか、化石が示しているのは、ある時、突然のようにキリンの首が長くなったことです。キリンだけではありません。ほとんどの生物の場合、進化過程における中間段階の化石は、見つかっていないのです。それゆえ、進化における変化は、種の全体に突然のように起こったと考えられます。
 今西は、このことを次のように言い表します。「種は変わるべくして変わる」のだと。より理論的に表現すれば、「進化とは、種社会の棲み分けの密度化であり、個体から始まるのではなく、種社会を構成している種個体の全体が、変わるべき時が来たら、皆いっせいに変わるのである」ということになります。
 この発想は、自然とは「自(おの)ずから成るもの」という自然観を持つ日本人には、直感的に理解できるものでしょう。自然には、人間の知恵では理解し得ない、深遠な原理があり、それによって生態系の進化が起こっているのです。その原理を究めることはまだ人間にはできませんが、次のことは言えます。
 生物の社会は、個体間に弱肉強食の競争原理が支配しているようでいて、その奥には種の間の共存原理が働いているということです。ある種から新しい種が生まれても、強い種だけが生き残るのではなく、弱い種や古い種も一緒に共存していくのです。これは、最初は種の少なかった地球の生物社会に、魚類が登場し、両生類・爬虫類・鳥類・哺乳類という風に、どんどん種が増え、それらが水中・地上・空中など様々な環境に棲み分けて、豊かな生命世界を創っていることを見れば明らかです。今西が「進化とは、種社会の棲み分けの密度化」であるという所以です。 
 このように考えると、ダーウィンの進化理論が競争原理という一面的な理論であるのに対し、今西の理論は共存原理によって、生物社会の全体像をとらえようとする、より高次の理論ということができます。「棲み分け」理論は、これまでの西洋的な発想による進化論に対し、有力な反論を提起したものであり、日本人による世界的な業績です。
 19世紀半ば以降、ダーウィンの理論の影響を受け、国家・民族・階級の関係をも競争原理によって見る見方が広がりました。今西の理論は、その見方の偏りを正し、人類社会を共存共栄へと転換する原理への示唆を与えるものともいえましょう。

参考資料
・今西錦司著『私の進化論』(思索社)、『生物社会の論理』(平凡社)、『主体性の進化論』(中公新書)

 次回に続く。

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戦略論42~マハンとコーベットの比較

2022-08-13 09:58:59 | æˆ¦ç•¥è«–
●コーベット(続き)

◆思想(続き)

#戦争の目的を限定した制限戦争
 マハンとコーベットの思想の違いは、第3に戦争の目的についての考え方に見られる。マハンは、海軍の理想的な目標を敵海軍の殲滅だとした。コーベットは、それを理想としては否定しないが、もっと柔軟に考える。
 クラウゼヴィッツは、敵を完全に打倒するまで戦う戦争を絶対的戦争と呼ぶ一方、戦争の目的は政治目的に従属するものであるとし、絶対的戦争に対比されるものとして「現実的戦争」という概念を用いた。コーベットは、この考え方を継承し、戦争計画は政治的な条件に従ってその程度を縮小しなければならないとし、「彼我の論争の程度から戦争の性格を決定しなければならない」と論じた。そして、目的が無制限の戦争ではなく、目的を制限した「制限戦争」を主張した。
 コーベットによると、英国のように島国だったり大国から海によって隔てられ、なおかつ制海権を保持している国家は、自国が欲するように戦争を拡大したり縮小したりすることが可能である。そういう国家は、政治的な目的に応じて、戦争の目的を制限した戦争を行うことができるとした。ただし、制限をかけた戦争を行うことができるのは、英国のような地政学的な特徴を持つ海洋強国に限られるという見解であることに注意しなければならない。

#軍事と外交の総合を目指す
 マハンとコーベットの思想の違いは、第4に軍事と外交についての考え方に見られる。マハンは軍人であり、海軍戦略家だった。海軍中心に物事を考え、国家政策も、すべて海軍戦略をもとに考えた。これに対し、コーベットは、クラウゼヴィッツの戦争は政治の継続という思想を継承し、軍事と外交と結びつける総合的な戦略思想を発展させた。英国が世界覇権国として繁栄した歴史を、軍事力と外交力を総合的に発揮する政策を行ってきたことに見出した。また、その歴史を踏まえて、政治・外交の目的と海軍の活動を一致させることを主張した。

◆比較・考察
 
 19世紀後半から20世紀半ばまでの欧州諸国の勢力争いには、世界的な覇権国家である英国に、新興国のドイツが挑戦するという構図で展開された。地政学的に言えば、英国はシーパワーであり、ドイツはランドパワーである。この英国対ドイツの対立に、大西洋を挟んで北米大陸から絡んだのが、米国である。
 マハンは、新興国・米国をして、海軍力の増強によって、英国に匹敵する海洋強国にしようとした。それが彼の海軍戦略である。これに対し、コーベットは、英国にあって、世界的な覇権国家としての地位を維持するための海洋戦略を構想した。
 マハンにとって英国は到達すべき目標だったのに対し、コーベットにとってマハンの理論は英国が今更模倣してはならないものだった。新興国の国家政策と覇権国家の国家政策が異なるのは当然である。
 ドイツが英国に挑戦し続けたのに対して、米国は英国を凌駕しようとはしなかった。米国は英国に次ぐシーパワーとなることで、英国をドイツの攻撃から守り、衰えゆく英国を支え、助けることになった。ここが英国と米国の関係の特殊なところである。英米は、根本的にアングロ=サクソン・ユダヤ文化でつながっている。また、米国は、金融的には、20世紀初頭からロンドン・シティを中心とする巨大国際金融資本によって支配されている。それによって特殊な同盟関係にある。

註 この項目は、次のサイトに多くを負っている。
https://www.spf.org/opri/

 次回に続く。

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