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2017年4月

Kuroshio 179

天孫降臨と火山噴火

●「散る桜 残る桜も 散る桜」良寛 の辞世の句だ。どうせ散る桜のように 人はいつかは死んでしまうのであれば、 今を大事にして一生懸命生きようと読 むか、良寛が 「 死にとうない 」 といった 後に続けた句であるから人生の最後に 及んで、世のはかなさと無情をかこつ 句だと読むのか、読み人によって解釈 が変わる。良寛の日記を読むと、妻と の交接の回数を記録する位に生に対す る執着が強い人物であるから、後者の 解釈の方が当たっていると思うのも無 理はないが、ここは穏便に「今どんな に美しく奇麗に咲いている櫻でもいつ かは必ず散ることを心得ておくことが 必要だ」と、良寛が盛者必衰の仏の教 えを最後に受けとめた句であると理解 する。親鸞聖人は得度した時、 「明日 在りと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹 かぬものかは」と詠んだ。明日もまた 咲いていると思っても、夜に大風が吹 いてしまえば、桜は散って、明日の朝 に見ることができるかどうか保証の限 りではない、だから、今の時間を大切 にして機会を逃さないようにして、人 生を充実させて生きるのと諭している。 桜の季節ならずとも心すべきことであ り、親鸞聖人の覚悟の程は、良寛の度 量才覚とは異なることを実感させる。
鶴田浩二の予科練の歌は、 「貴様と俺 とは同期の桜、同じ航空隊の庭に咲く、 咲いた花なら散るのは覚悟、見事散り ましょ 国の為」とあるが、そうした 決死の情緒を定める前に、零式艦上戦 闘機の性能を敵機と科学的に比較して、 大量生産に向くどうかを始めとして、 綿密な戦力の評定を行なっておらず、 反省すべき点が多かったのではないか と、後知恵ながら考えることになる。 桜の散り際の良さは、精神主義と滅び の美学を強調することになって、敗北 主義に繋がる危険がある。兼好法師の 徒然草には 「 花は盛りに月は隈なきを のみ見るものかは 」 とある。桜の満開 の時だけを愛でず、月も望月の夜ばか りを観るのではなく、季節の移ろいを 大切にして、三日月も、欠けた十六夜 の月も、新月の暗い夜もあることを楽 しむべきだと達観して、むしろ平常心 の大切さを教えている。降る雨に向か って見えない月を慕い、すだれを垂ら して家の内に籠もって春が移り行くの を知らないままにしていることなども 情趣が深い、今にも咲きそうな桜の梢、 花が散ってしおれた庭もまた観るべき 価値がある等と続けて書いている。桜 の名所の奈良の吉野は、桜の季節には 全国から観光客が押し寄せるが、五月
の新緑の頃には人数もめっきり少なく なり、桜の葉緑を後醍醐天皇の仮の御 所があった吉水神社から眺望する吉野 の山は、新緑の萌え出ずる 「 一目千本 」 ともなる。 「桜の枝の花が散ってしま って観る価値がないとするのは趣のな い人だ」と兼好法師は断定するが、四 季折々を大切にして平常心を尊ぶのは 図星である。 ●今年(平成二九年)の四月一日は旧 暦三月五日に当たった。旧暦の弥生の 節句の雛飾りをしまうと直ぐに桜は綻 び始める。花が咲くのは、太陽の運行 ではなく月の動きによる旧暦に従って いるのだが、桜の開花も海潮の干満と 同じく月の運行に従っている。桜はぱ っと咲いて散る潔さがある華麗な花で あるが、樹木としては決してか弱い樹 木ではない。木花咲耶姫は桜の花を意 味しているとされ、古事記では薩摩半 島の阿多郷の姫君であるが、東国の富 士山の浅間神社の御祭神ともなってい る。桜の樹は火山の麓の溶岩の原野に しっかりと根を下ろし、岩をも砕いて しまう生命力旺盛な樹木として古代か ら知られている。秀麗なコニーデの富 士山や薩摩の開聞岳も桜島も山肌は荒 々しい砂礫の山であるが、そこにも桜 がしっかりと根を下ろして咲き誇り大 地を再生させる花樹であることを、コ ノハナサクヤヒメは教えている。桜に 対する感懐は、地震や津波、原発の暴
走に至るまで、天地異変があるたび毎 に、逞しい桜の生命力について日本人 の古い記憶を揺り起こして甦らせる。 筆者は小学校を卒業しヤマトゥへと島 を出た時、船のデッキから朝ぼらけの 中に開聞岳を遠望したことを記憶する。 コノハナサクヤヒメという大日本の火 うふやまとぅ の山の神との出会いだった。 ●開聞岳は、阿多カルデラの中に噴出 した成層火山である。阿蘇、霧島、桜 島と続く九州の脊梁の火山帯の延長線 上にある。その南は、硫黄島や諏訪之 瀬島など霧島火山帯の活火山に連なり、 南西諸島の西縁に沿って、徳之島の西 方海上の硫黄鳥島から、台湾の近くの 西表島の近くの海底火山に至る世界的 な大火山帯を構成している。開聞岳の 近くには、九州で一番大きな淡水湖で ある池田湖があり、大鰻が生息する。 古代の噴火口に水が溜まった湖である。 山川湊は噴火口の壁が崩れ海水が浸入 した天然の良港である。指宿温泉の近 くにある鰻池などはまん丸の噴火口に 水が溜まって池になっているから周り は絶壁が続いている。池畔の僅かな平 地にある集落では、瓦斯要らずで、噴 ガ ス 気孔からでる高熱で煮炊きをしている。 典型的な活火山地帯である。月面のよ うな太古の姿を想像させるのか、英国 の007の映画が撮影されたこともあ る。ジェイムス・ズボンドの相手役と して日本人女優の浜美枝が起用され撮
黒潮文明論 天孫降臨と火山噴火 稲村 公望 179
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影されたが、阿多カルデラの、特に霧 島火山帯の金銀銅の鉱物資源の重要性 を感じ取っていたのかも知れない。連 合艦隊の艦載機が、真珠湾に見立てて 空爆する飛行練習をしたのが錦江湾の 池田湖等の火山地形であった。火山活 動で阿多カルデラができたのは一〇万 年から一一万年前とされ、錦江湾奧の 桜島を中心とする姶良カルデラが噴出 したのが三万年前であるが、桜島の誕 生が二万年前で、開聞岳は僅かに四千 年前である。西暦では紀元前二千年前 に過ぎない。その頃、大山や三瓶山を だいせん 中心とする出雲の活火山も噴火を繰り 返していたことも知られている。縄文 時代に生き埋めにされた杉の大木が、 三瓶山近くの深さ十三メートルの地中 に残っていて一九八三年に発掘されて いる。最近、屋久島の近くの口永良部 島の火山が爆発したが、阿多カルデラ の南方の海底には鬼界カルデラがある。 鬼界カルデラが出現した巨大噴火が、 七三〇〇年前(四三五〇BC)にあり、 海面に顔を出している海底カルデラの 外輪山の一部が竹島と硫黄島である。 硫黄島から産出される火薬の原料であ る硫黄と平清盛が主導した日宋貿易と の関連については以前に書いた。開聞 岳は、鬼界カルデラの大爆発の後、約 三三〇〇年後に出現した新しい山であ るから、桜島と比べると妹に当たる。 見るからに美しいのは開聞岳であり、
桜島は磐長姫と同じく美しくはないが、 いわながひめ 桜花のように薄命とはならず、煙と岩 を今も活発に噴出し続けている。天孫 降臨として火瓊瓊杵尊を遣わされたが、 ほのににぎのみこと 開聞岳と桜島の両火山の噴火を鎮める 為に高天原から派遣されたと理解する こともできる。鹿児島と宮崎に広がる シラス台地は厚さ一〇〇メートルにも 達する場所があるが、その上に後の時 代のカルデラ噴火に伴う火山灰が降り 積んでいる。水田の場合には〇・五ミ リ、畑の場合には二ミリ、灰が降ると 収穫が一年間出来なくなると言う。ま た健康被害は二ミリの降灰で生じる。 一〇センチもの降灰では、道路・鉄道 などのインフラが完全に停止するばか りではなく、森林等の植生にも壊滅的 な被害が出るとされる。 ●天孫降臨の舞台は、宮崎県の神楽で 有名な高千穂町なのか、霧島山塊の第 二峯である高千穂峯か議論のあるとこ ろであるが、「高千穂のくしふる岳」 との古事記の定義は、火山が誕生して 噴火を繰り返して居る状況を示してい るのではないか。霧島火山群は日本最 大の火山地帯であり、新燃岳は最近も 噴火している。高千穂峯は一万年前に 出現して、鬼界カルデラの噴火の後の 縄文時代中頃まで噴火をしたことが判 っているが、今は溶岩ドームが残って いるだけで噴火活動をしていない。静 かな美しいコニーデの山嶺となってい
る。筆者は、まともな登山装備もなく 秋晴れの高千穂峯に一人で登り、最後 は這いつくばるようにして急峻な峯に 登り詰めたことがある。都城に下山し て、大隅半島北部の岩川を訪ね、八幡 宮の弥五郎ドンの夜祭りの笛と太鼓の 囃子を楽しんだ。熊曽の国の巨人伝説 の夜祭りの音色が耳元に響いて残る。 ●一九九七年、鹿児島県霧島市の姶良 カルデラの外輪山の縁の台地上にあり、 南の正面に桜島の噴煙を望む位置にあ る上野原で。縄文時代初期の約一万年 前の遺跡が発掘された。上野原に繁栄 した縄文文化はその後に発生した鬼界 カルデラの大噴火で壊滅したが、数百 年をおいてまた集落として復活してい たことが判っている。上野原遺跡は、 「上野原縄文の森」として博物館を併 設した歴史公園となり、火山灰が四〇 センチは積もったことを地層の一部を 切り取って展示している。鬼界カルデ ラの大爆発の時には、まだ開聞岳は噴 出していないから、鬼界カルデラから の火砕流は、桜島を除いて遮るものも なく、姶良カルデラを横切って上野原 を直撃したことが想像される。鬼界カ ルデラの火山灰は、関西や瀬戸内海で も二〇センチ、関東や朝鮮半島南端部 でも一〇センチは積もっているから、 その被害の甚大さは容易に想像できる が、その時に縄文人は、どのように被 害を回避したのか、山の陰に潜むこと
はもとより、丸木舟を操って東西南北 に民族大移動のようにして海に遁れた のか。スサノオが海を支配する神とな った意味あいに繋がる気配が濃厚だ。 ●巨大な火山の爆発で地球規模の寒冷 化が生じたことが世界各地で報告され ているが、日本列島における火山爆発 による日照障害から縄文人が壊滅的な 打撃を受けたことが背景となって。岩 戸隠れの神話が成立したとする説があ る。一七八三年にアイスランドのラキ 火山が爆発し、食糧危機でフランスに 革命が起こる引金となり、一八一六年 にはインドネシアの火山で巨大噴火が あり、夏のなかった年として世界史の 中で記録されている。日本における天 皇の根源が地震や津波、大雪洪水その 他の天変地異を含め、荒ぶる大地、特 に火山をなだめ鎮める祭祀の力にあり、 天孫降臨がその具体的な行動であると の解釈は説得力を持っている。弥生の 時代の水田の稲作の力が淵源ではない。 二二ギが降り立ったのは、峨々として 荒涼たる火の山「高千火」だったし、 ほ コノハナサクヤヒメとの間に生まれた 子供の名もまた、火照命であり火山と ほ の関係の方が重要だ。日本列島に辿り 着いた稲作水田の弥生の民が、火を穂 と読み替えた可能性すらある。縄文の 昔からの火山を鎮める祭祀こそが、時 代を区画する澪標として伝承されてき みおつくし たのではなかろうか。 (つづく)

Kurpshio 178

大隅半島の地質と地味

●奄美群島復帰五〇周年を記念して、平成一五年一一月七日、料額八〇円の切手が発行された。意匠は、田中一村(日本画家)が描いた「奄美の杜~ビロウとブーゲンビレア~」からツマベニチョウ、ヒシバデイゴ及びブーゲンビレアが描かれている部分を採用し、一シートに一〇枚の切手がグラビア印刷された。田中一村は明治四一年に栃木県に生まれ、一八歳の時、現・東京芸術大学に入学して将来を嘱望されたが、病気や生活苦の中で中央画壇と一線を画し、昭和三三年、五〇歳の時に奄美大島に移り住み、六九歳の生涯を終えるまで奄美の自然を描き続けた。奄美空港近くの笠利町に田中一村の作品を集めた美術館が開館している。ツマベニチョウがデイゴの花に止まり蜜を吸う切手の構図は奄美と琉球との関係を象徴しているようで、美麗なばかりではない意味深な記念切手である。ツマベニチョウ(褄紅蝶、Hebomoia glaucippe)は、日本列島では宮崎県を北限とし、奄美や沖縄等の南西諸島に生息するシロチョウ科の蝶だ。翅を広げると一〇センチほどになる大型の蝶である。ツマベニチョウの翅と幼虫の体液に、イモガイと同じ猛毒の成分が発見されており、鳥や他の昆虫等の天敵を毒で制して撃退する。ツマベニチョウの生息域は、インド半島を中心とする南アジア、支那大陸の南部を含む東南アジア、そして旧スンダ大陸に属したマレー半島から、フィリッピンやボルネオの諸島域、ウォーレシアと呼ばれるインドネシア東部のセレベス、ハルマヘラ等の島嶼の海島域にも広がっている。奄美の祖国復帰以前には、ツマベニチョウを追って、九州最南端の佐多岬に捕虫網を持った蒐集家が押し寄せたと言う。アサギマダラのようにツマベニチョウが今も大海を渡るかどうかは知らないが、その生息域の中心は海没した旧スンダ大陸にあったのではないかと思われ、黒潮の蝶を代表するようにも感じられるのだ。
●大隅国の成立が、日本建国に深く関わっているのではないかとの推論を立てて、塚崎古墳から佐多岬、錦江湾沿いの柊原貝塚と駆け巡ったが、地質学の観点からも、大隅半島は、本州弧と琉球弧の異なる地質の接合部にあたるようだ。薩摩・大隅半島は、西南日本を南北に二分する中央構造線の南に位置する。阿久根や川内などの薩摩半島北部の小範囲には、古生界と分類される古い時代の地質があるが、大隅半島や薩摩半島の南部には、変成度の高い岩盤である片麻岩や結晶片岩はない。霧島火山帯が、薩摩半島と大隅半島を二分するかのように琉球弧の南西諸島の島々に沿って走り、霧島、桜島、指宿、硫黄島、口永良部、諏訪之瀬島など活火山、休火山が多いのも特徴である。霧島山の西側、薩摩半島の北部の山岳部には火山岩が広く分布する。更新世後半に、錦江湾の湾奧の姶良火山、湾口の阿多火山を形成する大規模な火山活動があり、両カルデラ火山から噴出した軽石質の噴出物がシラス・熔結凝灰岩として広く堆積している。凝灰岩は石材として切り出されてもいる。奄美大島、徳之島、沖永良部島、与論島には、世界的にも古い地層としての粘板岩などが分布して、その上部に琉球石灰岩や隆起珊瑚礁が堆積しているが、それに比べると、薩摩・大隅の地層は若い地質である。薩摩半島北部の紫尾山、大隅半島の高隈山、佐多岬、屋久島などには、中新世の花崗閃緑岩や黒雲母花崗岩が見られる。奄美大島と徳之島には、中生代の花崗閃緑岩が見られ、徳之島には、更に古い輝緑岩が見られる。土地利用を見ると、薩摩半島北部地域にはシラスの分布が割合に少ないところから、出水平野と川内川沿いに数珠状に形成された盆地には水田が分布している。薩摩半島の中南部は、西部の海岸の砂丘沿いに水田が細長く開けているが、シラスの影響を受けて生産力は高くない。開聞岳周辺の畑地は火山砂礫の礫土で、耕作の大きな障害となっている。大隅半島の北部は、桜島と霧島両火山の噴出物である軽石層があり、ボラと俗称されている。大隅半島の水田は肝属川の低地にまとまっている他、シラスの浸食された谷間に細長く存在する沖積地に屋地田がある。シラスの影響を強く受けて、土性が粗く生産力は低い。従来は、荒れ地として放置されるか桑畑等に利用されるのみであったが、近年、笠野原灌漑事業として長距離の導水が行なわれ、一部開田されているところもある。肝属川の中央部には、泥炭や黒泥土壌があり、谷間の水田が湿田となっていることは珍しい。神武天皇が幼少の時代を過ごしたとの伝説を語るにふさわしい稀な肥沃の土地が僅かに存在するのだ。高隈山地の北辺や大隅半島中央部のシラス地帯には、草地の原野が分布して採草放牧地となっている。大隅半島の海の玄関口である志布志港に、北米から輸入される家畜用の飼料が備蓄される穀物サイロが日本最大規模で林立するのは、日本では珍しい牧畜の渡来の伝統が背景にあることを想像させる。大隅半島南部の地味は比較的に良好であるが、開発は遅れて過疎が進む。[本項は「国土庁土地局国土調査課監修、土地分類図(鹿児島県)昭和四六年」に依拠している](つづく)

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