「新」の政治
■ 京都・清水寺で毎年、発表される「今年の漢字」は、「新」となったようである。。
しかし、「新」と聞いて、古代中国・・前漢の崩壊後に十数年だけ存在した王朝、「新」のことを思い起こした人々は、どれだけいるであろうか。
「新」とは、前漢の外戚であった王莽が樹立した。
王莽は、日本では「姦臣」の代表のように語られた。
『平家物語』の冒頭にも、次のように記される。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響き有り。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕す。奢れる人も久しからず、只春の夜の夢の如し。猛き者も終には亡ぬ、偏に風の前の塵に同じ。
遠く異朝を訪へば、秦の趙高、漢の王莽、梁の周異、唐の禄山、此れ等は皆、旧主先王の政にも随わず、楽を極め、諫をも思い入れず、天下の乱む事を悟らず、民間之愁る所を知ざりしかば、久しからず亡びし者どもなり。
どこかの「剛腕・幹事長」を思い起こさせる記述である。
/ 旧主先王の政にも随わず ― 皇室のルールを平気で曲げている。
/ 楽を極め、 ― 六百人も随行させて訪中とは御満悦であろう。
/ 諫をも思い入れず ― 諫言らしきものをした同志は遠ざけられてきた。
/ 天下の乱む事を悟らず ― 日米関係を平気で乱している。
/ 民間之愁る所を知ざりしかば ― 「鳩山不況」に責任は負わないのか。、
そもそも、「新」とは、どういう王朝であったか。どのような統治が行われたのか。手っ取り早く「ウィキピディア」の記述を紹介する。
新(しん、8年 - 23年)とは中国の王朝。前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州南陽郡に在る)に封じられたことにより国号を新とした。
周の時代を理想とした政策を行なったが、その理想主義・懐古主義的な政策は当時の実情に合っておらず、国内は混乱。また、匈奴や高句麗に対して高圧的な態度を取ったためにこれらの離反を招くなど、その統治は失敗に終わり、国内には不満をもつものが多くなった。
具体的な政策としては、古代の名称にあわせた地名や役職名の頻繁な改名、小作農民のための農地の国有化、奴隷売買の禁止、高利貸しに対し、国家による安い金利での融資などを行った。また新貨幣を鋳造し(制度が複雑で経済が混乱したあげく、私銭鋳造を認めるまでになった)、塩や鉄を国が専売制とするなどの政策があったが、経済政策では地主や高利貸し等から、貨幣鋳造や塩鉄の統制では民衆から、大きく不満と反対が起きた。
要するに、時代の要請に合わない非現実的な統治を平気でやったのである。王莽は、周代の統治を理想として、『周官』という書物に依って治世を行ったが、書物に書いてあることに現実を合わせようという統治は、例外なく失敗するのである。
1 対外関係の破壊
匈奴や高句麗に対する「細心な外交」を捨てて、強圧的な態度に出た。何度も外征をやって失敗した。
2 経済政策の失敗
現代の類推でいえば産業界と金融界を敵に回すような施策を行ったのである。
統制色の強い経済運営を行ったものだから、民衆が反発した、
鳩山内閣発足三ヵ月の経済政策運営も似たようなものではないか。「モラトリアム法案」、「環境政策」…。
古来、国がつぶれる理由は、「対外関係」と「経済運営」である。丁度、2000年前の話である。
中国政府指導層は、当然、「新」の統治の故事を知っているであろう。もし、雪斎が中国政府の参謀であって、
「剛腕・幹事長」を王莽のようなキャラクターだと思っているのであれば、「剛腕・幹事長」を持ちあげるようなことは徹底してやるであろう。現に中国政府指導層が、そうしたことを考えていても全然、不自然ではない。
王莽の末路は悲惨であった。
古代中国では「暴君・王位簒奪者・偽天子が皇位にある時、天変地異が起こる」と信じられていたようである。
やはり、来年辺りに…、嫌な気分である。
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Comments
異様なニュースが次々出てきているけれど、テレビや
新聞は知らん顔で、国民のほとんどは関知していない様子。
亡国の兆しがハッキでてきているのではないでしょうか?
小沢幹事長は韓国の大学での講演で遂に外国人地方参政権法案を
次期国会の日程にのせることを示唆する発言。
なぜこんなに静かなのか?
Posted by: とんぼ | December 13, 2009 12:04 AM