新聞に寄稿した論稿

November 02, 2006

読売論稿/ 「北」の核 〝フクロウ〟の知恵

■ 昨日、『読売新聞』に、「『北」の核 〝フクロウ〟の知恵」と題した原稿を載せた。1400字程度の紙幅の中で、「タカ派」、「ハト派」、「フクロウ派」の三類型の説明をするのは、ちょっとばかり悩ましい作業であった。
 日本では、「フクロウ派」という立場はj認知されていないので、雪斎としては、この「フクロウ派」という立場が認知されるように、努力したいとおもう。
 そういえば、中川(女)秀直幹事長が、九月の総裁選挙直前に次jのような発言をしている。
 

□ 中川政調会長、「古い」「軟弱」とアジア重視派を批判
 自民党の中川秀直政調会長は24日、那覇市内で講演し、アジア外交について「日本のリーダーの一部は、『日本は兄貴分だから、弟分の周辺国に譲ってやれ』という古い感覚のまま将来に向かおうとしている。最悪のシナリオは、古いアジア重視派が古い感覚のまま周辺国に譲歩し誤解を与えることだ」と語り、小泉首相の靖国神社参拝を批判する谷垣財務相や加藤紘一元幹事長らのグループを牽制(けんせい)した。
 中川氏は「今後のリーダーは排他的なタカ派でもなく、軟弱なハト派でもない、その中間のワシ派が求められている。日中関係を政局に利用しようとしている人々も少し冷静になって分析していただきたい」と訴えた。
    『朝日新聞』(2006年8月24日)付

 「タカでもハトでもない」立場が要請されているのは、第一線の政治家にも理解されている。中川幹事長の発言は、そのことを示している。ただし、「タカでもハトでもない」立場がどのように呼ばれるかということの合意は、まだできあがっていない。「タカ」(hawks)と「ハト」(doves)に対するものが「ワシ」(eagles)というのは、どうも合点が行かない。「タカ」と「ワシ」の区別が、よく判らない。やはり、「フクロウ}(owls)とすべきであろうと思う。

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June 30, 2006

『産経新聞』「正論」欄原稿

■ 日本にミリオネアは140万人余り居るようである。人口比で1パーセント強である。これは多いのか少ないのか。『ロイター』配信記事である。
 □ 日本の富裕層、05年に4.7%増の141万人=調査
 [東京 22日 ロイター] メリルリンチ日本証券とキャップ・ジェミニは、日本の富裕層が2005年に前年比4.7%増加の141万人になったとするレポートを発表した。
 発表したのは「ワールド・ウェルス・レポート2006年版」。日本の富裕層(主たる住居を除く純金融資産が100万ドルを超える個人)人口が増えた主な理由として、実質国内総生産(GDP)2.6%の増加、堅調な相場環境、デフレ圧力の沈静化、消費の改善などを挙げている。定率減税の解除などの障害はあるものの、こうしたポジティブ要因は06年も継続するという。
 世界に目を転じれば、富裕層人口の伸びが顕著だったのは韓国の21.3%増やインドの19.3%増、ロシアの17.4%増、南アフリカの15.9%増など。
 米国は、引き続き最大の富裕層人口を誇り、保有資産残高も最も高かった。しかし富裕層人口の伸び率では、前年の9.9%を下回る6.8%と鈍化した。
 全世界で、保有する金融資産が3000万ドルを超える超富裕層の人口は同10.2%増の8万5400人になった。
 世界の富裕層の資産残高は、前年比8.5%増の33.3兆ドルだった。今後、年6.0%づつ上昇し、10年までに44.6兆ドルになると予想している。

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March 09, 2006

産経「正論」欄原稿/国連関係

■ 昨日、雪斎は、産経新聞「正論」欄に今年最初の原稿を載せた。韓国からの国連事務総長選挙の出馬に関しては、以前のエントリーでも書いたけれども、これを論評の対象とした。
 「正論」欄原稿の書き方は、ブログでの書き方とは大分、異なっている。雪斎は、新聞や雑誌のような「表」の世界で「雪斎」の名前を使うことしないし、ブログのような「裏」の世界で実名を出すことはしない。こういう区別の意味を考えずに雪斎の議論に噛み付いている御仁がいたけれども、雪斎には、どうでもいいことである。「勝手にエネルギーを費やしているのが、よかろう」と反応するだけである。
 それにしても、中国や韓国は、山本晋也監督の言葉を借りれば、「ほとんどビョーキ」の世界に入っているなと思う。こういう「ほとんどビョーキ」の国々を前にして、我が国が同じ「ほとんどビョーキ」の論理に走らなければならない理由はない。本当に「喧嘩」をやる気ならば、言葉遣いは柔和にしなければならないというのは、外交の世界の鉄則であったと記憶する。

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March 04, 2006

共同通信配信の記事

■ 昨日午後、愛知和男代議士事務所のソファーで昼寝をする。完全に漫画『美味しんぼ』に登場する山岡士郎の状態であった。「いやあ。済まない済まない」と内心、照れ隠しをする。ところで、昼寝最中に、愛知事務所に共同通信社から地方紙十紙近くの現物とコピーが届けられた。雪斎のインタビュー記事が載ったのである。
 下掲は、「熊本日日新聞」(2月26日付)の記事である。名前のところは改変した。それぞれの地方紙によって、見出しやレイアウトが微妙に異なることに気付いた。一番、大きく扱ったのは、「沖縄タイムス」であった。「戦争と平和」の問題には敏感な土地柄であれば、さもありなんといったところであろうか。雪斎の議論は、沖縄の人々にはどのように届いたのであろうか。

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December 17, 2005

産経「正論」欄原稿/皇位継承論

■ 世の中には、書く度ごとに、「もう、これ以上は…」という気にさせられる話題がある。雪斎にとっては、皇位継承もまた、そうした話題の一つである。「これは、吾輩の論ずる話題ではない」と思う。
 何故、雪斎がそのように思うのかといえば、雪斎が「何処ぞの馬の骨」に過ぎぬ身上であるからである。雪斎は、摂関家や清華家といった朝廷上流公卿層の末裔ではなく、近代宮中重臣層に連なるわけではない。そうした身上の分際で皇室の有り様を論ずるとは、率直に畏れ多いという想いがある。今、皇位継承の有り様を巡って色々な議論が成されているけれども、考えてみれば、「有識者会議」答申に反対する「男系男子」論者もまた、その多くが「何処ぞの馬の骨」に過ぎないのは、明らかである。雪斎は、そうした「何処ぞの馬の骨」に過ぎぬ人々が、何故、偉そうに振る舞っているのかと訝る。
 下掲の原稿は、昨日付『産経新聞』に掲載されたものである。この原稿には幾分かの原稿料が支払われるはずであるけれども、皇室をネタにして稼いだ原稿料それ自体も、自分の懐に入れてしまってよいものかと迷ったりする。

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September 02, 2005

「9月2日」の風景

■ 今週中は、エントリー更新を控えるつもりであったけれども、前言撤回である。
 丁度、六十年前、1945(昭和20)年9月2日、東京湾上停泊中の米国海軍所属戦艦ミズーリにおいて、日本側を代表して重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長、連合国側を代表してダグラス・マッカーサー連合国最高司令官と関係各国代表が「降伏文書」に署名を行った。、これに伴い、日本の降伏は確定し、「戦後」が始まった。

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January 19, 2005

「自民党」の日々

■ 昨日、言及したアンソニー・サンプソンの著書四作には、総てに邦訳書が出版されていたようである。ただし、現在、総てが絶版となっている。残念。
1、『セブン・シスターズ―不死身の国際石油資本(上・下)』(大原進・青木栄一 訳、講談社文庫、1984年)
2、『新版 兵器市場―「死の商人」の世界ネットワーク』(大前正臣・長谷川成海訳、TBSブリタニカ、1993年)
3、『ブラック・アンド・ゴールド―国際ビジネスを揺るがす南アフリカ』(仙名紀訳 早川書房、1987年)
4、『ザ・マネー-世界を動かす”お金”の魔力』(小林薫訳 全国朝日放送、1990年)

■ 雪斎は、自民党のシンパと目されている。確かに、雪斎は、自民党の機関誌・機関紙に頻繁に寄稿しているのであるから、そうした見方は決して間違っているわけではない。ただし、雪斎は、自民党の党員でもなければ党友ですらない。雪斎は、元々は新生党、新進党に籍を置き非自民連立政権の一翼を担った政治家の政策担当秘書であった。雪斎は、仕えた政治家が自民党に戻ったのを機に、自民党との様々な「縁」を得ることになり、今に至っているのである。雪斎の「永田町」生活の前半は「非自民党」関係者、後半は自民党関係者であった。「自民党」を外と内の両側から見る機会を得た他に、与党と野党の立場の両方を経験することの出来た七年の歳月は、誠に「密度の濃い」歳月であった。
 下掲の論稿は、昨日付自民党機関紙『自由民主』に掲載され、昨日開催された結党五十年目の定期党大会に参集した人々の眼に触れることになったものである。昔日、かのハロルド・ラスキは、「英国労働党のパンフレット・ライター」と揶揄されたけれども、雪斎もまた、そのような評が後世に与えられるかもしれない。無論、政治学徒は、「実際の政治」に関わりを持つのを厭うのでなければ、そうした評を甘受せざるを得ないのであろう。.ただし、そのことは、政治学徒が何らかの党派的な論理に何の衒いもなく入れ込んで然るべきであると述べているのではない。戦後、「実際の政治」、特に「権力の側」に関わりを持つのを知識人の堕落と蔑む雰囲気があったけれども、雪斎は、そうした雰囲気に浸かり切ることは、「知識人の退嬰」に他ならないのではないかと思っている。
 「実際の政治」に関わる上で大事なことは、たとえば「私は、自民党を支持する立場で文章を書いているけれども、その『私』とは一体、何であるのか」ということが、判っているということである。永井陽之助先生の著作が教えてくれたのは、そのような「『相対化』の相対化」という思考様式であった。この「『相対化』の相対化」という思考を経ない言論は、「左」のものであれ「右」のものであれ、途端にドグマに陥ることになる。昨今、その類の言論が何と多いことであろうか。雪斎の師、山口二郎先生は、雪斎とは政治的主張の方向性を明らかに異にしているであろうけれども、「『相対化』の相対化」という思考様式を踏まえた言論を厳格に展開している。山口先生が『論座』(二〇〇五年二月号)に寄せていた論稿「この十年の日本政治」は、誠に教えられるところの多いものであった。そのような弛まぬ自己検証の姿勢こそが、政治学を含む広い意味での社会科学系学徒の生命なのである。

■ 「自民党立党五十年と今後の課題」
 今年十一月、自民党は結成半世紀の節目を迎えることになった。この半世紀の間、二代の非自民連立内閣が登場した一九九〇年代の一時期を除けば、自民党は一貫して政権を担ってきた。そもそも、政治という営みの目的とは、何らかの大仰な大義を実現するのではなく人々の具体的な利害を調整することにあるけれども、この半世紀の間、自民党による政権運営は、そのような「利害の調整」を旨とする政治の目的に忠実なものであった。
 自民党は、冷戦の進行という国際環境の中で当時の日本社会党に対抗する意味合いで結成された保守政党であるという一般的な印象にもかかわらず、その政権政党としての実際の政策運営は、イデオロギー色の薄いものであった。事実、戦後、長きに渉って、我が国の幾多の人々は、「生活水準を向上させ、豊かさを実現する」ことを共通の目標にしてきたけれども、自民党の政策展開は、そのような「共通の目標」に寄り添う形で行われてきた。現在では自民党による政策展開の「負」の側面として語られることが多くなった田中角栄以来の「利益誘導」手法にしても、それが目指したのは、「生活水準を向上させ、豊かさを実現する」という「共通の目標」を地方都市においても達成することであった。その一方、たとえば自主憲法制定は、自民党結党以来の党是であるけれども、世の人々は、その党是の実現を切実なものとして要請しなかった。結党以来の自民党がイデオロギー色を露骨に示してこなかったというのは、この辺りの事情を指している。
 自民党が今後も我が国の政権を担当する政党であり続けようとするならば、そのようなイデオロギー・フリーの姿勢は、確実に踏襲されるべきであろう。阪神大震災、オウム真理教事件、北朝鮮によるテポドン・ミサイル発射や邦人拉致の顕在化、さらには「九・一一」事件といった一連の出来事は、戦後に営々と築いてきた「豊かな社会」の前提が「安全」にあることを誰の目にも明らかにした。また、現在の我が国の社会は、確かに「豊かさ」を実現させたけれども、その一方では、NEETと呼ばれる若者達の登場が象徴するように、社会に潜む「倦怠」の気分や「活力低下」の兆しが出現していることも指摘されなければなるまい。
 当面、我が国が手掛けなければならない施策の本質は、世の人々に対して、どのように確かな「安全」を提供し、「倦怠」や「活力低下」を避けるための施策を着実に示せるかということに他ならない。これらの施策は、決して特定のイデオロギーに基づく大義の実現ではない。それは、幾多の人々が、それぞれの時代環境に即して示してきた一つ一つの要請への対応でしかない。たとえば、憲法典改訂を含め、現在に進行する「普通の国」への脱皮の動きは、「進歩・左翼」層が懸念するのとは異なり、決して「保守・右翼」層のイデオロギーの表れではない。逆にいえば、「普通の国」への動きが、そのようなイデオロギーの色調に彩られるようなことになれば、実際に浮かび上がってくるのは、相当に歪んだ「普通の国」像であろう。「左翼・進歩」層のものであれ「右翼・保守」層のものであれ、政治の世界にイデオロギーや観念を持ち込むのは、弊害の多いものなのである。
 結局のところ、自民党が政権運営に際して立脚すべきは、人々の「常識」に他ならない。人々の「常識」に立脚し人々の要請に応える施策を一つ一つ提示していく作業は、誠に地味なものであろう。それは、もしかしたら世の人々の快哉によって迎えられる類のものではないのであろう。しかし、政権を担う政党の宿命とは、絶えず転がり落ちる大石を山頂に運び続ける宿命を背負ったギリシャ神話上の男、シシュフォスのように、そのような誠に地味な営みに耐えるということなのではなかろうか。
自民党機関紙『自由民主』(二〇〇五年一月十八日)掲載

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December 26, 2004

今年の論稿・三

 雪斎にとって、軍事は最も身近な領域である。雪斎は、「武官の息子」として育ったので、幼少の頃から戦記マンガの類は飽きるほど読んでいた。昭和四十年代後半に放映された戦記アニメーション番組『決断』の主題歌の一節は、今でも覚えている。雪斎が広い意味での政治学の中でも国際政治、安全保障を専攻としているのも、そうした軍事の身近さが大きく関わっている。
 下に書き留めた原稿は、「自衛隊は『義兵』の王道を進め」と題した原稿に若干の修正を施したものである。今年の小泉純一郎内閣の対外政策は、イラクへの自衛隊派遣と北朝鮮情勢への対応を焦点にした感があるけれども、この原稿の中で援用した『漢書』の一節は、自衛隊の役割として何が期待されているかを考える上では誠に示唆深いものである。おそらくは、自衛隊が「義兵」や「応兵」の枠組である限りは、その活動が道を踏み外したものになることはない。軍隊の意味を考える際に大事なのは、それが、どのような性格を持つものであるかということである。にもかかかわらず、戦後の日本では、「義兵」も「応兵」も「忿兵」も「貧兵」も「驕兵」も、総てがひとまとめにして否定された。そこでは、どのような基準の下でならば軍隊が使えるのかという冷静な議論は、閑却されたのである。
 そのことは、軍隊がさほどの思慮も伴わずに使われる危険を醸成してもいる。ジョージ・W・ブッシュ第一期政権下で国務長官を務めたコリン・L・パウエルは、湾岸戦争を指揮した「英雄」であった。パウエルは、イラク戦争時には、終始一貫して国際協調を模索した。一昨日の産経新聞サイト上の記事によれば、パウエルは、『フォーリン・ポリシー』誌上に論文を発表し、「軍事手段の限界」を説いたようである。振り返れば、マシュー・B・リッジウェイもまた、一九五四年の第一次インドシナ戦争に際しては、戦争介入が検討された米国政府部内で介入反対の姿勢を取った。パウエルもリッジウェイも、武官として軍事作戦展開に伴う「困難」を知ればこそ、性急な軍事作戦の発動には異論を唱え続けたのである。
 雪斎は、民主主義体制下における「武官」とは、パウエルやリッジウェイのような存在を「範型」とすると考えている。戦争を起こすのは、往々にして戦争の「現実」を知ることのない政治家、文官、メディア、そして国民自身である。そのような逆説は、何時になったら理解されるようになるのであろうか。

 ■ 義兵、応兵、忿兵、貧兵、驕兵
          
 史書『漢書』「魏相丙吉傳」(巻七十四、第四十四)に収められているのは、古代中国・前漢の「中興の祖」と称えられる第七代宣帝に仕えた魏相と丙吉という二人の丞相の事績であるけれども、書中には次のような記述がある。
 「相、上書して曰く。『臣、之を聞く。乱を救い暴を誅する、之を義兵と謂う。兵が義なる者は王たり。敵が己を加し已むを得ずして起つ者、之を応兵と謂う。兵が応ずる者は勝つ。小故を恨んで争い、憤怒して忍ばざる者、之を忿兵と謂う。兵が忿る者は敗れる。人の土地、貨宝を利する者、之を貪兵と謂う。兵が貪る者は破れる。国家の大なるを恃み、民人の衆きを矜り、敵に威を見さんと欲する者、之を驕兵と謂う。兵が驕する者は滅ぶ。此五者、但人事のみに非ず、乃ち天道なり』」。
 この『漢書』「魏相丙吉傳」の記述を前にして筆者が確認するのは、第二次世界大戦後、我が国の軍隊たる自衛隊が進めた歩みの正しさといったものである。振り返れば、明治期以降の我が国の足跡の意味は、植民地獲得という「貧兵」の論理が支配した国際社会の中で、どのように自らの立場を守るかに他ならなかった。日清、日露の二つの戦役での勝利は、我が国に対しては、「貪兵」の論理に基づく「一等国」の地位を与えはしたけれども、その地位は、「驕兵」の彩りをも添えるものとなった。そして、一九三七年七月、日中戦争勃発直後、我が国政府は「事態不拡大の方針」を決定していたにもかかわらず、近衛文麿は、「暴支膺懲」の気分に浸った世論や軍部に迎合した発言を繰り返し、翌年一月には「爾後、国民政府を対手とせず」を趣旨とする声明を出した結果、事態収拾の芽を摘んだ。近衛の失敗は、紛れもなく「忿兵」の帰結であった。
 第二次世界大戦後、「忿兵」、「貧兵」、「驕兵」の論理から離れた我が国が築いた自衛隊の性格は、紛れもなく「応兵」の枠組としてのものであった。そして、「冷戦の終結」以降、我が国は自衛隊に「義兵」の枠組としての性格を付与した。カンボジアから現下のイラクに至るまで展開された国際平和協力や復興支援に絡む活動は、「乱を救う」ためのものであったと説明できるであろうし、「九・一一」事件以降には世界共通の課題になったテロリズム対処は、「暴を誅する」意味合いを持つものであったといえる。因みに、国際連合憲章の上では、加盟国に許容されている武力行使の基準は、自衛権の行使の場合と軍事制裁発動の場合であるけれども、これは、「応兵」と「義兵」を指すものである。そして、『漢書』「魏相丙吉傳」においては、この「応兵」と「義兵」だけが「勝」と「王」に連なるものとして奨められていたのである。近代西欧の歴史によって醸成された「万国公法」の一つの成型たる国連憲章の規定と二千年余り前の史書の記述には、誠に瞠目すべき共通項がある。このことは、「万古不易」の言葉を想起させる。
 翻って、我が国の周辺情勢は、依然として「忿兵」、「貧兵」、「驕兵」の論理を奉ずる国々が残っていることを示している。「強盛大国」を標榜する北朝鮮は、その国情の内実はともかくとして、「驕兵」としての姿勢を露わにしている。また、中国は、東シナ海海洋権益の扱いに絡んで「貪兵」の論理を鮮明に示すようになっているし、我が国領海内に自らの原子力潜水艦が侵入した際の「驕兵」の姿勢は、明らかに裏付けを持たない北朝鮮のものに比べれば、遼かに露骨なものであろう。しかし、『漢書』「魏相丙吉傳」の記述に従えば、北朝鮮の「驕兵」の姿勢は早晩、自らの「滅」を招くであろうし、中国の「貪兵」と「驕兵」の論理もまた、それが自らの「破」や「滅」に結び付くという意味においては、先々の破綻を免れないであろう。特に「政冷経熱」を指摘される現下の日中関係を前にして筆者が訝るのは、胡錦濤(中国国家主席)や温家宝(中国首相)を初めとする中国共産党政府指導層が、どのように「兵貪者破、兵驕者滅」の文言を遺した自らの先人の警告を受け留めているのかということである。
 このような情勢の中で我が国が自戒すべきは、我が国が再び「忿兵」の気分に浸かって対外政策を展開しないということに尽きるであろう。北朝鮮や中国の姿勢は、我が国の幾多の人々の感情を逆撫でにしているけれども、我が国の実際の政策展開が、そのような感情に裏付けられるようなことがあってはならない。民主主義体制の下では、世論と称されるものに埋め込まれた人々の感情が、実際の政策展開を左右することが少なくないのであれば、そのような「忿兵」の陥穽に足を取られることの危険は、強調される必要があろう。

          『世界日報』 (二〇〇四年十二月十一日付)掲載原稿に補筆                     

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December 23, 2004

今年の論稿・一

 今年の回顧をしなければならない時期になった。雪斎は、今年も色々な文章を書いたけれども、最も出来の良かったものとして取りあえず下の一編を書き留めておくことにする。この原稿は、毎日新聞の0氏から依頼された。雪斎は、政治学徒としてジョージ・F・ケナン流の「現実主義」に傾倒するけれども、「現実主義」を「現状追随主義」と誤認する雰囲気の根強い日本では、ケナン流の「現実主義者」であることは難しいことのようである。もしかしたら、コリン・パウエルがジョージ・ブッシュ政権から去ったという事実は、米国でも「現実主義者」は居心地が良くないということを暗示しているのかもしれない。


 ■ シリーズ[(現在)への問い]第1部 平和のつくり方/5 米国の戦争は「理念」に基づく必然か。
 二〇〇四年二月二十日午前、米国プリンストン大学構内、リチャードソン講堂(アレクサンダー・ホール内)では、一つの会合が催されていた。それは、ジョージ・F・ケナン(プリンストン高等研究所名誉教授)が四日前の二月十六日に齢百を迎えたことを祝うためのものであった。ケナンは、冷戦初期、対ソ「封じ込め」政策の立案に主導的な役割を果たした人物として知られているけれども、国務省退官後は、歴史研究と外交評論の両面で精力的な活動を続けた。コリン・L・パウエル(米国国務長官)は、会合でのスピーチの中で、「大きな出来事に立ち会うことで名声を獲得した人々もいれば、まだ結果の出ていない出来事に加わることで有名になった人々もいるし、そのような諸々の出来事を解釈する才能で尊敬された人々もいる。ジョージ・ケナンは、その三つの総てであった」と述べた。そして、パウエルは、国務長官着任時にケナンから「どことなく思いがけず、ぶっきらぼうではあるが、とにかく素晴らしい助言」を記した書簡を受け取り、その返書の中で定期的に助言の書簡を書くようにケナンに要請したことを告白している。米国外交に実際に携わる人々にとっても、それを研究する人々にとっても、ケナンは、紛れもない「最後の賢人」として高い位置を占めていたのである。
 ところで、パウエルがケナンに寄せた率直な敬意の一方で、ケナンは、イラク戦争開戦前、パウエルが身を置くジョージ・W・ブッシュ麾下の米国政府の対イラク政策を厳しく批判していた。ケナンは、久しく米国外交における「単独行動主義」の性格を批判し続けた人物であるけれども、その批判は、「米国が他国の事情に無闇に容喙することへの懸念」に端を発していた。そもそも、米国は、「丘の上の町」を築くという「理想」から出発した国家であるけれども、南北戦争以降の産業発展を経て二十世紀初頭には、そのような「理想」を他国に対して押し付けるに足る「実力」を手にするに至った。確かに、「自由と民主主義」という言葉に象徴される米国の「理想」は、それ自体としては他国の人々の憧憬の対象となり得るものである。ただし、米国の「理想」が赤裸々な「実力」の裏付けを伴って示されたときには、その示され方によっては他国の人々の反感を呼び、その「理想」それ自体に泥を塗る結果を招くことがある。殖民地時代に新大陸に渡ったスコットランド人を祖とするケナンは、米国の「理想」を誠実に信奉すればこそ、そのような結果を避けるためにも、「実力」の行使に際して抑制的にして思慮深くあることを説いたのである。ケナンによるブッシュ政権批判は、そのような持論からは当然のように導かれるものであったし、米国がイラク占領以降に直面する困難を前にすれば、その批判の持つ意味は誠に重いものがあるといえよう。
 ブッシュの再選が成った此度の大統領選挙の過程でも半ば定形のように示されていたのは、ブッシュの「単独行動主義」とジョン・F・ケリーの「国際協調主義」という図式であった。しかし、たとえばイラク戦争に至る過程を眺めてみれば、そこに浮かび上がるのは、「単独行動主義」の性格を喧伝されるブッシュ政権の中でさえ、国際的な合意を得ながら対イラク政策を進めようとしたパウエルの路線と軍事作戦の展開を急ごうとしたドナルド・H・ラムズフェルド(米国国防長官)の路線には、明らかな違いがあったという事実である。そうであればこそ、ケナンは、パウエルを「難しい立場にあってラムズフェルドよりも遼かに力強く自らの声明を打ち出してきた、高い忠誠心を備えた人物」と評し、その外交手腕を賞賛したのである。また、「国際協調主義」の性格を指摘されたケリーにしても、たとえば北朝鮮情勢への対応に際しては、対朝直接交渉の可能性に言及するといったように、「単独行動主義」の傾きから離れているわけではなかった。パウエルの去就を含め、ブッシュ第二期政権の陣容がどのようなものになるかは定かではないけれども、米国外交における「単独行動主義」と「国際協調主義」の相克の風景は続くことになるのであろう。
 我が国を初めとして今後も米国に向き合わなければならない幾多の国々にとっては、その対米政策の本質は、どのように、ケナンが米国国内から説いたような「慎慮」を相応の説得性を伴って求めていくかということに他ならない。たとえばテロリズム撲滅のような課題に取り組むに際して、米国の「実力」の持つ意義は否定できないけれども、それが米国の「理想」に結び付いて「単独行動主義」の性向を暴走させる事態は、避ける必要がある。「単独行動主義」の源泉となる米国の「理想」を共有し、その「実力」に寄り添いながら、「国際協調主義」を可能にする「慎慮」の意義を倦まずに米国に対して説いていく。そのような息の長い努力が、特に我が国のような同盟国には、大事なものになるであろう。
『毎日新聞』夕刊(二〇〇四年十一月八日)掲載

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