オリンピックで問われる「ずる賢さ」
■ 何時もの通り、世は、オリンピック一色のようである。
昨日の「なでしこ」の対南ア戦ドローは、「よい判断」であった。
もし、まともに勝ちに行くようなことをやっていれば、「なでしこ」の名声も今が「極」になっていたような気がする。
今後、「覇権」を握り続けようとすれば、「頑張るとき」と「頑張らなくてもいいとき」の区別は、できなければなるまい。
ところで、開会式には、雪斎にとっての「人生の一作」である英国映画『炎のランナー』が使われた。
ヴァンゲリス作曲のテーマをサイモン・ラトル指揮でロンドン・シンフォニーが演奏し、映画に、「ミスター・ビーン」が茶々を入れるという演出である。流石に、笑える演出である。
この映画で描かれるのは、1924年パリ五輪、陸上短距離ででゴールド・メダルを獲得した英国青年の軌跡である。
この映画では、見方によっては、主人公の二人にまつわる「相当にずるい」事情が描かれている。
ユダヤ人青年は、専属コーチを付けるという当時の「アマチュアリズムの規範」からすれば問題になるような振る舞いを平気でやった。牧師の青年は、安息日である日曜日に行われる競技には出られないと訴え、急遽、出場種目を差し替えて競技に臨んだ。当然、この出場種目変更には、当時の英国代表団上層部の「政治力」がモノを言った。
しかし、「勝てば官軍」である。彼らの活躍は、90年後の母国でのオリンピックで、思い出された。パロディー付きであったが…。
オリンピックで問われているのは、「雄々しさ」だけではないl。
そこに問われれているのは、「ずる賢さ」である。
そもそも、古代ギリシャ・ローマ世界で賞揚されたのは、「獅子の威厳」と「狐の狡知」であった。
ニコロ・マキアヴェッリは、それをルネッサンスの世に復活させたに過ぎない。
故に、「遮二無二、全力で臨む姿勢」というのは、ただ単に「日本人の美意識」の問題であって、「戦争」の考慮の問題ではない。雪斎は、昨日の「なでしこ」戦でいえば、その「手抜き」の加減を観るのが、楽しかったと告白しておこう。問題は、そうした「ずる賢さ」が露骨に目につくか、覆い隠されるかということなのである。
ところで、「なでしこ」の次戦は、ブラジルだそうである。
難敵である。
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