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February 28, 2012

「あさま山荘」から四十年後の風景

■ 今日、連合赤軍「あさま山荘事件」の機動隊強行突入の日から四十年目である。
 一昨日午後、NHKがドキュメンタリー番組を放映していた。
 事件当時、雪斎は七歳である。
 「鉄球で建物を壊している光景」だけが印象に残っている。
 加えて、赤軍派の面々を事件後も折に触れて、「大学に行かせてもらって下らぬことししかしなかった馬鹿」と吐き捨てた父親の表情とかである。

 雪斎は、左翼運動と呼ばれるものには、微塵もポジティブなイメージを持ったことがない。
 往時の極左過激派の面々が攻撃しようとした「体制」側のほうに、近しい人脈が出来上がった。

 たとえば、事件処理の前線指揮官として高名なのが、佐々淳行さんである。
 先週、その佐々淳行さんと会った。
 佐々さんには、「永田町」で仕事をするようになってから、今に至るまで随分と世話になっている。
 事件前夜、佐々さんが最重点の警備対象とした政治家が、雪斎にとっての「先代」、愛知揆一であった。
 その「縁」が、雪斎にも回ってきたのである。
 「そろそろ、君が正論大賞をもらえ」と佐々さんが仰っている。恐縮する他はない。

 後に、事件当時の警察庁長官であった後藤田正晴さんにも、話を聞く機会を得たことがあった。
 「怖い」と思った。ひとに会って、「怖い」と感じたのは、久し振りに思った。
 だが、後藤田さんは、雪斎の政治認識に最も強い影響を与えた政治家の一人である。
 今の政治家で、「怖い」と思わせるような例は、どれだけあるのだろう。
 後藤田さんが逝去した時、追悼文を書いた一人が、雪斎である。
 再掲しておこう。これも「縁」である。
 □ 追悼 後藤田正晴
 ところで、現在、放映中のTBSドラマ『運命の人』で、後藤田さんの役を演じているのが、伊武雅刀さんである。絶妙すぎるキャスティングであろう。

 雪斎は、一時期、左翼活動家の面々と接触していたことがある。
 事件から十数年後、一九八〇年代後半、雪斎は、北大学生だった。
 当時、雪斎は、レーニンの著作を一通り読んだ。
 アイザック・ドイッチャーの『トロツキー伝』は、面白いと思った。それにしても、分厚い書であった。
 『スターリン伝』は退屈だった。
 当時は、ソヴィエト連邦史を理解しようすれば、それらは、必読書だと思っていたのである。
 今でも、ロシア史に触れるのは、雪斎の趣味の一つである。
 そして、学食でアジ・ビラを配っていた左翼シンパの「もぐり学生」、「老残活動家」を捕まえて、「君は、『トロツキー伝』を、ちゃんと読んだかね…」と噛みついていた。当時でも、そういう著作を脇に抱えている学生は、「化石」の類であったから、彼らも雪斎を「少しは話せる奴」と勘違いしたのであろう。そのやり取りの中で、「左翼が知的だなどというのは、嘘だろう…」と思った。「マルクスやレーニンの著作を読んだ程度で、世の中のことが判ったような気になる頭脳」の持ち主が、何故、知的なのか。それ以前に、その面々の多くは、そうした著作をまともに読んでいないことが判ったのである。

 当時、ミハイル・ゴルバチョフの「改革」か始まっていた。「マルクスもレーニンもまともに読んでいない左翼活動家」の姿0は、共産主義体制崩壊の予兆を示していた。

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February 16, 2012

「永遠の青年」の政治

■ 今年の大河ドラマは、『平清盛』である。人気はなさそうである。清盛が権力を握った後の風景が、どのように描かれるかが、雪斎の注目点であるけれども、おそらく、そのあたりの視聴率は、低いだろうなと思う。
 日本における「龍馬人気」というのは、「判官びいき」のヴァリエーションなのであろう。「九郎判官の物語」からすれば、清盛は、「旧体制の首魁」でしない。
 考えてみれば、義経と龍馬というのは、似ているのである。
 ◇ あまり恵まれない出自
 ◇ 彗星のごとく登場、時代を動かす華々しい活躍
 ◇ 悲劇的な死
 ◇ 「永遠の若さ」が保証された存在
 逆にいえば、義経や龍馬の死の後に、「体制」を築いた頼朝、あるいは大久保利通や木戸孝允の印象は、誠によろしくない。「体制を作った人々」というのは、大久保を除けば、大概、老いて畳の上で最期を迎える。ドラマには、絶対になるまい。フィデル・カストロよりもチェ・ゲバラのほうが人気が高いのは、そうした事情であろう。
 だから、二十歳前後の青年が、龍馬に憧れるのは、自然なこおとである。ただし、四十歳も過ぎた大人が、龍馬に自分を仮託するのは、「大人のランドセル」を見せつけられているようで率直に気色悪い。

 そもそも、政治は、「成熟」を必要とする営みである。 「ここでは、もう戦士に用はなくなった。われわれが取り引きをする。老人の仕事だ」とは、デーヴィッド・リーン監督の映画『アラビアのロレンス』劇中の有名な台詞であるけれども、政治は、「老人の仕事」という側面を色濃く持つ。だが、こういうことは、『職業としての政治』にも書いている政治の「イロハのイ」である。

 ところで、昨日、橋下徹市長の「船中八策」を批判した。
 ただし、雪斎は、橋下市長のことを最初からネガティヴに観ることはない。
 左派系の人物には、「橋下嫌いが多そうであるけれども、そうした左派系の橋下批判には、あまり建設的なものはない。「ハシズム」なる批判は、「こっぱずかしい」代物である。
 税制や社会保障を除けば、彼の政策志向は、雪斎が考えているものと大分、近似している。
 外交における「日米豪同盟」 にも賛成する。
 だが、そうであればこそ、このたびの「船中八策」は、余計なネーミングをせずに、きちんと練り上げて出すべきだったと思う。こういう政策文書は、「整合性」が肝であって、それがなければ、総てがおかしなものになる。

 政治家の資質の一つは、家康の「啼くまで待とう不如帰」よろしく、「待つ」ことである。
 これは、チャーチルにもド・ゴールにも、共通する資質である。
 雪斎が橋下市長の同じ立場ならば、次のようなことを考える。十年ぐらい「待つこと」に徹する。その十年の中で、次のようなことを手掛けようとするであろう。
 ① 「風」に左右されない政治基盤を築く。「期待」よりも「実績に」よる支持に転換する。
 ② 最低でも関西圏での「大阪維新の会」の圧倒的な地位を確立させる。
   行く行くは、ドイツ・バイエルン州におけるCSU(キリスト教社会同盟)のようなポジションを取る。
 ③ その一方で、「永田町」における提携の軸を確保する。CSUにとってのCDUに相当する勢力を確保する。
 ④ 関西の財界を総て味方にする。当然、関西家材の底上げという実績が必須である。
 ⑤ 同世代の「霞が関」の官僚層に味方を作る。十数年後には、彼らは、局長級になっている。
   橋下市長は稲門で学生時代の友人が「霞が関」に多くいるようには思えないから、この点での意識的な努力が要る。
   この場合、「脱藩官僚」群に近づきすぎると、具合の悪いことになる。

 橋下市長には、「政策ブレーン」ではなく、「政治の指南役」は、いないのであろうか。
 吉田茂における古島一雄のような存在である。もしL、大阪人脈でいえば、たとえば塩川正十郎元蔵相のような人物を「指南役」に据えているのならば、少しは安心できるのだが…。

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February 15, 2012

大阪維新「船中八策」の「馬脚」

■ 大阪維新の会の「政策綱領」が世に出た。
 これを「船中八策」と呼び習わしたのは、率直に愚昧、軽薄の沙汰であろう。
 雪斎は、坂本龍馬に自分を仮託しようという政治家を信用しないことにしているので、これが橋下徹大阪市長の意向での命名でならば、その時点で橋下市長に対する評価は「暴落」である。龍馬は、「設計図は書いたかもしれないが、実際の建築には携わらなかった」人物である。「体制を考えた人々」と「体制を作った人々」の間には、途方もない開きがある。
 橋下市長の「失速」は、意外と早かったようである。こういう政策綱領を出してくること自体、彼らが、きちんした政策吟味をしていないことを暴露している。
◇ 統一性の薄い全体像
 「船中八策」は、「それを、どのように実現するか」という考慮が、まったく働いていない文書である。首相公選制度の導入には、憲法改正の手続きが要る。先に、参議院廃止と打ち上げてしまった後で、参議院が「自殺」を要請するような改正案の発議に踏み切るであろうか。この「船中八策」の発表は、参議院を不用意に敵に回すことによって、却って首相公選制度の導入の芽をつぶしたのではないか。
 「正しいことを語っていれば、必ず他人はついてくる」などと自惚れてはなるまい。橋下市長は、自分が他党から言い寄られている「かぐや姫」のようなものだと思っているかもしれないけれども、「大阪維新」の看板は、たとえば東北や北海道では無価値である。そういえば、大阪維新の会というのは、震災復興に関して、どのような方針を持っているのであろうか。ともあれ、他党との提携のハードルを上げるような振る舞いは、率直に愚策である。
 ◇ 「反自由主義的」色彩
 「船中八策」の税制政策志向は、多分に「反自由主義」的である。
 典型的なのが「資産課税の強化の件である。
 次のような記事がある。
 □ あの世に金は持っていけない 「船中八策」説明
       産経 2012.2.14 09:50 (2/2ページ)[west政治]
 税制では、預貯金や不動産など資産課税の強化や所得税の税率引き下げの一方、消費税増税も掲げる。橋下氏は「国内でお金を使ってもらう税制に」と内需拡大を訴える。後略。

 橋下市長は、「資産の使い切りの人生」を提唱しているらしい。
 だが、そういうことは、「他人に口出しされたくない」事柄ではないか。
 資産税の趣旨は、他人が築いた「恒産」に後から手を出すというものである。
 他人が「恒産」を築き上げる過程の中で、「おこぼれ」を吸い上げる所得税とは、趣旨が異なる。
 「恒産なければ恒心なし」というのは、人間の「自由」に絡む基本原則である。
 こういうものを平気で出してきたところを見ると、「大阪維新の会」の実態は、疑似「共産主義」、あるいは「国家社会主義」志向だと批判されても、反論は難しいだろう。そうでなければ、こうした政策志向が持つ思想上の意味を全然、理解していなかったかである。
 ◇ 「官僚」に依存した「官僚主導」脱却
 橋下ブレーンとして名前が挙がっている面々は、何故か、学者・知識人という肩書を持っていても、「元官僚」である。しかも、彼らは、せいぜいが佐官級で「霞が関」を去った人々である。そして、彼らの多くは、龍馬よろしく「脱藩官僚」と称している。だが、明治維新を成就させたのは、大久保利通や西郷隆盛の後盾になった小松帯刀にせよ木戸孝允にせよ、「脱藩しなかった高級藩士」である。彼らが、藩主を説得して藩兵を差配できるようにしたが故の維新の成就である。おそらく,日本を劇的に変えたけえれば、「霞が関」の将官級官僚の号令一下、動かせるようにしないと無理である。
 加えて、官僚は、個別の政策をスペシャリストとして立てる能力には長けている。けれども、スペシャリストの地検は、それを幾ら束ねても、ジェネラリストの知見にはならない。 政策全体を観る思想上の感性が伴わなければ、その政策パッケージは大概、キメラのごとく異形なものにしかならない。この「船中八策」も、橋下市長が政策相互の「整合性」を図った上で打ち出したものであるならば、価値のあるものになったかもしれないけれども、その整合性の確保という作業の痕跡は、まるで浮かび挙がってこない。たとえていえば、橋下市長は、「よさそうな食材を皿に盛っただけの料理」をだしてしまったのである。焦って「馬脚を現す」ような真似は、しないほうがよかった。もったいないことをしたものである。

 それにしても、橋下市長は、黙って「大阪維新」の貫徹に精励すればよかったものを、何故、国政参入を急いだのであろうか。もう少し腰を落ち着けて業績を積み重ねてくれれば、十年後には、間違いなく日本の最重要の政治群像に数えられたはずである。彼は、司馬遼太郎の創った龍馬像が好きなようであるから、同じ司馬遼太郎作品『燃えよ剣』の一節を引用してみよう。
 むしろ頽勢になればなるほど、土方歳三はつよくなる。
本来、風に乗っている凧ではない。
自力で飛んでいる鳥である。
と、自分を歳三は評価していた。すくなくとも、今後そうありたいと思っている。
(おれは翼のつづくかぎりどこまでも飛ぶぞ)
と思っていた。

 司馬は、「土方歳三は鳥、近藤勇は凧だ」と書いている。鳥は、どんな状況でも自分で飛んでいけるが、凧は、風が吹いているうちは揚がっていられるが風がやめば堕ちる。近藤は、何時の間にか、政治家になり、時代の動きに翻弄される「凧」になったのに対して、土方は、どこまでも剣客であった、それ故にこそl、土方は、自らの「剣」だけで、「鳥」として京都から、会津、函館へと転戦していったのである。
 今の時分、「凧」になりたい面々が多すぎないか。維新塾に集まった三千数百名というのには、そうした空気が露骨に漂っている。

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