政治家の言論と学者の言論
■ 雪斎の新著は、自民党の「売店」には、かなり置かれているらしい。
一昨年の下野の折に、「自民党の再建に助勢仕る」と無茶な振る舞いをしたのであるから、それくらいのことはしてもらっても、罰はあたるまい。
ところで、雪斎にとっては師匠筋にあたる山口二郎教授と橋下徹大阪市長とのテレビ朝日番組上での対談の模様が、話題になっているらしい。雪斎は、この対談を観てはいないけれども、率直に不毛にして無意味な対談であったであろうとは想像できる。山口教授と橋下市長との間には、議論の前提としての「敬意」や「共感」が成立するように思えない。山口教授が竹中平蔵教授を相手にした対談では、政策志向を異にするとはいえ学者同士の作法を守った議論が成立していたけれども、橋下市長を相手に同じような議論が成立とするとは考えにくい。言論の世界では、その目的や立脚点を異にした「異種格闘技」は大概、不毛なものにしかならない。山口・橋下対談も、その「異種格闘技」の類であろう。「民主党シンパ」と呼ばれていた山口教授のような学者は、民主党の「再建」、あるいは日本における社会民主主義政治勢力の再建に乗り出すべきであって、橋下市長相手の「異種格闘技」に首を突っ込んでいる暇はあるまい。「教え子」の一人としては、そのように申し上げる他はない。
政治家は、彼らにとって実際の統治に参考にできる学者の意見しか尊重しない。彼らは、「実践の世界」の住人なのである。学者が「学問の権威」を掲げて自説を披露しても、l政治家が「それは使えない」と反応すれば、それで終わりである。雪斎が「永田町」で政策担当秘書として手掛けたことは、学者が披露する説を「使える状態」にして政治家に伝えることであった。「権力や利益の追求」を旨とする政治家の言論と「真理の追究」を旨とする学者の言論には、本来、越えがたい断層がある。
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