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January 18, 2012

政治家の言論と学者の言論

■ 雪斎の新著は、自民党の「売店」には、かなり置かれているらしい。
 一昨年の下野の折に、「自民党の再建に助勢仕る」と無茶な振る舞いをしたのであるから、それくらいのことはしてもらっても、罰はあたるまい。
 ところで、雪斎にとっては師匠筋にあたる山口二郎教授と橋下徹大阪市長とのテレビ朝日番組上での対談の模様が、話題になっているらしい。雪斎は、この対談を観てはいないけれども、率直に不毛にして無意味な対談であったであろうとは想像できる。山口教授と橋下市長との間には、議論の前提としての「敬意」や「共感」が成立するように思えない。山口教授が竹中平蔵教授を相手にした対談では、政策志向を異にするとはいえ学者同士の作法を守った議論が成立していたけれども、橋下市長を相手に同じような議論が成立とするとは考えにくい。言論の世界では、その目的や立脚点を異にした「異種格闘技」は大概、不毛なものにしかならない。山口・橋下対談も、その「異種格闘技」の類であろう。「民主党シンパ」と呼ばれていた山口教授のような学者は、民主党の「再建」、あるいは日本における社会民主主義政治勢力の再建に乗り出すべきであって、橋下市長相手の「異種格闘技」に首を突っ込んでいる暇はあるまい。「教え子」の一人としては、そのように申し上げる他はない。
 政治家は、彼らにとって実際の統治に参考にできる学者の意見しか尊重しない。彼らは、「実践の世界」の住人なのである。学者が「学問の権威」を掲げて自説を披露しても、l政治家が「それは使えない」と反応すれば、それで終わりである。雪斎が「永田町」で政策担当秘書として手掛けたことは、学者が披露する説を「使える状態」にして政治家に伝えることであった。「権力や利益の追求」を旨とする政治家の言論と「真理の追究」を旨とする学者の言論には、本来、越えがたい断層がある。

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January 17, 2012

近時のテレビ・ドラマの二題噺

■ TBSドラマ『運命の人』を観る。
 いわゆる「西山事件」を題材にした山崎豊子原作のドラマである。
 劇中、大和田伸也さんが演じていた政治家のモデルは、雪斎が「先代」と呼んでいた愛知揆一である。
 佐藤栄作内閣では外相、田中角栄内閣では蔵相を務めた。
 シャルル・ド・ゴールの穀倉には、日本政府代表として参列した。
 故に、ドラマ化の話を聞いた時、率直なところ、「先代を演じるのは誰よ…」という関心が先に立った。
 大和田さんが演じていたのを見て、違和感を感じなかったのには、安心した。
 大和田さんぐらいの俳優ならば、愛知揆一の「剛毅」と「怜悧」の双方を演じられるのは、当然なのであろう。
 こういうドラマは、筋書云々よりも、「誰が、どういう演技をするか」に着目するほうが楽しいかもしれない。
 人間造形的には、本木雅弘さん演じる主人公の記者は、面白くない。
 むしろ見ていて面白いのは、大森南朋さん演じるライバル紙記者のほうであろう。これは、あの御方をモデルにしているのであろうか。

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January 16, 2012

真冬の二題噺

■ 改造内閣発足である。
 防衛大臣は、「真紀子さんの旦那」である。
 彼個人のこととを云々する意味はない。
 ただし、この人事は、「不適任」であろうと思う。
 彼の安全保障政策での見識に、雪斎は触れたことがない。昭和58年初当選というから、その間の空白があるにせよ、政治家として三十年の年月を刻んでいるにもかかわらず、彼が「真紀子さんの旦那」としか語られない事実こそ、総てである。要するに、「この三十年、政治家として何の業績を残したのかね…」というわけである。
  長島昭久総理補佐官を横滑りさせるぐらいのことをやってくれれば、かなり印象は変わったはずである。今の宰相は、どこを見て人選をやっているのか。

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January 05, 2012

「引用」のリスク

■ 学者もそうであるけれども、政治家も言葉の「引用」を日常とする商売である。
 政治家にとっては、演説で、何を引用するかは、かなり大事である。
 この点、近年の政治家では、小泉純一郎は図抜けていた。
 「米百俵」演説は、その一例だった。

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January 02, 2012

平成24年の始まりに

■ あけましておめでとうございます。
 半月後。新潮新書から新著を刊行することになった。
  ● 「常識」としての保守主義
 新著には下記のような紹介が付されている。
 □ 保守主義とは何か。頑迷に旧いものを守る思想ではない。右翼やタカ派とイコールではない。ましてや特定の国や人種を排除する偏狭な姿勢でもない。伝統を尊びつつも、柔軟かつ大胆に新しいものを取り入れ、中庸を美徳とする・・・その本質を成立の歴史や、ド・ゴール、吉田茂等の代表的保守政治家から学び、これからの可能性を探る。混迷を極める政治状況を考えるうえで必要な視点を提示する、濃厚かつ刺激的な一冊。
 元々、自由民主党機関紙『週刊自由民主』に連載した原稿を下敷きにしたものである。自民党の谷垣禎一総裁や石破茂前政調会長からは、「推薦の言葉」をもらった。世にある「保守主義」の書と異なり、シャルル・ド・ゴール、ウィンストン・チャーチル、ロナルド・レーガン、吉田茂、コンラート・アデナウアーといった保守政治家の足跡を通して保守主義の意味を考えるという体裁の書である。
 書いていて楽しかったのは、コンラート・アデナウアーの足跡であった。アデナウアーは、西側諸国との協調を軸jにして再軍備とと経済復興を図ったけれども、そうしたアデナウアーの路線にかみついたのが、「マルクス主義とナショナリズムの複合体」としての往時の西ドイツ社会民主党を率いたクルト・シューマッハーだった。保守政治家というのは、生真面目にやればやるほど、社会主義者からも民族主義者からも叩かれるものらしい。っ因みに、長らくケルン市の市政を担い、実務志向の政治家であったアデナウアーとは対照的に、シューマッハーは実務に不得手でああった。近年の日本の情勢に重ねると、実に興味深い。「対米追随」批判をやった割には、自分では実務をこなせないという御仁が、どこかにいたような気がするが…。
 昨年は、雪斎とっては、「二番底」とも呼ぶべき沈滞の一年だった。新著刊行が、「復活の烽火」になればよいのだがと思う。 

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