いじめについて
いじめ、というのは、とても難しい問題だと思います。
ある行為を観察して、「それはいじめだ」とか、明確に判断出来る事ではありません。
やる側は、ほんのいたずら程度にしか考えていなくとも、その行為は、やられる側に、筆舌に尽くし難い苦しみを与えるのです。第三者が、「そんな事で、いじめとか騒ぐなんて大袈裟だ」、等と言う場合があります。でも、そんな単純な事では無いのです。周りから見て、些細な、「そんな事で?」と思われる様な行為でも、やられる側にとっては、重くのしかかるのです。
いじめる側は、自分のしている行為が、相手を深く傷つけているのだ、とは、なかなか考えないものです。自分は、他人を傷つける様な事はしないのだ、と自覚している人は、特にそうでしょう。そういう人は、自分の行為の重大さに気付くと、愕然とします。自分の思慮の浅さ、身勝手さを知って、後悔するのです。相手を全く慮っていなかった事が解り、自責の念にかられるのです。
相手がどうなろうが知った事では無い、と考える人もいるでしょう。この場合には、反省を求めるのは難しいでしょう。そもそも自分の行為が「悪い」のだと知っていながらやっているのですから。残念ながら、自分以外の人間がどうなっても構わない、と考える人はいます。悲しい事ですが。
自分は、いじめなどした事は無い、と、自信満々に言う人がいます。多分、そういう人は、いじめられた、或いは、誰かをいじめていた、と、昔のクラスメイト等に指摘されても、「それはいじめでは無い。ふざけていただけだ。」と言うでしょう。自分がやった事が、どう相手に響いていたか、それを考えないのです。ある行為が、「ふざけ且ついじめ」となり得るのを、理解していないのです。
いじめは、本当に、難しい問題です。
参考文献:高岡英夫著 光と闇―現代武道の言語・記号論序説
追記:TOSSウォッチング掲示板 TOSSの授業例が紹介されています。
2006年10月6日追記:uumin3の日記――いじめでの「自殺」、いじめでの「自殺」(続き) まことに鋭い洞察であると思います。
言葉自体が凶器であるというよりは、関係性の中でそれが凶器にもなり得るということなのでしょう。
その通りで、「○○」という言葉に傷付いた人がいたから、○○を使わない様にしましょう、という単純な問題では無いのですね。いじめの場面で使われる言葉は、その場の雰囲気と相まって、対象を傷つけるのであって、その事を考慮せずに、特定の言葉を使ってはいけないなどというのは、妥当では無いでしょう。
女児は、とても賢い子だったのだと思います。それだけに、言葉に対して、とても繊細に反応したのでしょう。彼女にとっては、最大の罵倒語だったのでしょう。彼女の中では、様々な感情が渦巻いていた筈です。いじめた人間に対する憎しみ、何故自分が、という悲しみ。もしかすると、自分に何か非があるのではないかと、自分を責めたかも知れません。いじめる側に対して何も出来ない自分に対して、歯痒さを感じていたかも知れません。彼女にとっては、自分の命を絶つ、というのは、唯一取る事の出来る、最良の方法だったのでしょう。悲しい事です。
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