『ゲーム脳の恐怖』を読む(9)
○6章 ゲーム脳人間とキレる脳のしくみ
・テレビゲームと集中性の関係
まず森氏は、ゲームが「集中性を高める」という説が信じられてきた事を紹介し、それは実は誤解である、と主張します。そして、ゲームによって前頭前野の神経細胞の活動の低下が起こった、という推測を、その主張の根拠としています。
ここで森氏は、被験者の報告を出しています。たとえば、
彼らに自分自身を分析してもらうと、その大半はもの忘れが激しいと言います。鍵、財布、友達との待ち合わせ時間の間違いなど、毎日あるそうです。そしてほぼ全員が、もの覚えが悪く、集中性も悪いと答えています。(P148)
この部分についても、それまでの主張と同じく、詳しい情報は明記されていません。分析というのがどのようなものだったか、客観的に測定出来る心理学的指標なりを用いたのか、他に分類された人との違いはどの程度であったか、等々。
森氏は、次のような例も出します。
小学校三年から大学三年まで一二年間(引用者註:引用にあたり、表記はそのままにしてあります。本書は縦書きなので、この部分は、「12年間」。以下、文脈に沿って読み替えて下さい)、六~七時間毎日ゲームをしている人で、計測してみるとβ波が全く出現しない状態の人が某大学にいました。彼は、大学の授業も休みがちで、約束したことはよく忘れてしまうなどの特徴がみられます。しかも現在もゲームをやめられず、アルバイトもゲームセンターでやっているゲームマニアです。
彼は現在、団体競技スポーツをおこなっています。そこで人とのコミュニケーションがありますから、まだ助けとなっていると思われますが、社会人になったときに自分の世界にこもってしまうようになると、厄介なことになるでしょう。このままでは、将来がたいへん心配です。(P148・149)
この部分が極めておかしな論理である事は、明らかでしょう。まず、何度も言うように、森氏の脳波計によって得られたデータが、前頭前野の機能低下を示す指標として無反省に用いられている事。また、大学の講義に出席しない事は、即、社会性の欠如や脳の生理学的機能低下を示す訳ではありません。ゲームセンターでアルバイトをしているというのは、この文脈では、特に重要な情報ではありません(アルバイトにまでそれを選ぶほど、ゲームに執着している、という印象を著者が持ったのかも知れない)。直後に、その人が、スポーツによってコミュニケーションの機会を持っている、という事が書かれています。「社会人になったときに」、以降の文は、全くの憶測ですし、それまでの文章から論理的に導かれるものではありません。
次に、森氏が講演で受けた質問が紹介されます。その質問とは、息子がゲームばかりやるので叱りたいが、ゲームは集中性を高めるのだ、と言われると反論出来ない。ゲームが集中性を高めるのは本当か? というものです。森氏はこの質問に対して、それ(集中性を高める)が誤解である事を、「データを示しながら」(P150)説明したと言います。そして、ゲームを止めさせなくてはならないと実感した人の、ゲームを止めさせるにはどうしたらいいか、という別の質問があったと言い、それについての森氏の答えが説明されます。
この質問に対しては、その子を私のところに連れてきてくださいと言いました。実際に、お子さんの前頭前野の頭皮上から脳波を記録して、自分の結果を本人がみれば、ほとんどの人はやめるようになりますよとお話します。しかし、この本のデータをみせれば、ことの重大さをわかってもらえるでしょう。(P150)
つまり、森氏の脳波計によるデータが、「子どものゲームを止めさせる」道具として、用いられる訳です。もちろん、画像診断の所見を示して深刻さを実感させる、というのは、一般的にもある程度行われるのでしょうけれど、ゲーム脳の場合、そもそも、森氏の脳波計による計測が妥当であるとは言えないのですから、全く話が異なります。「恐怖感を煽る」道具として機能している、とも言えるでしょう。
・激情を抑制する前頭前野
以降、森氏の主張を、箇条書きで示します。
- ゲーム脳人間タイプの人(男性)に自己分析してもらった所、ゲームの成績が悪かったために「頭にきてゲームセンターのゲーム機を複数回壊したことがあるという人が多くいた」(P150)
- ゲーム脳人間タイプの内80%が、よくキレやすいと答えた。その内の90%は運動しているため、今の所、キレやすい人は80%に抑えられている可能性がある。「しかし、その彼らが社会人になり、運動をやめたとき、社会に適応できなくなるのではないかと心配です。」(P151)
- 前頭前野が理性をコントロールしている事を、ゲージの症例を紹介して説明。
- ゲーム脳人間は、ゲームを長年にわたりプレイする事によって「視覚系が強化」(P152)され、前頭前野の脳細胞の活動が低下した。そして、抑制が効かなくなり、キレる。
- 幼児期には、運動する事が、脳の健全な発達にとって重要。
- 子ども達がゲームプレイに費やす時間が増えている事を指摘。
- 子どもはテレビゲームの習慣がつき、麻薬と同様に止められなくなる。
ゲームセンターのゲーム機を壊すというのは、かなりおおごとですが、これは、筐体を破壊した、という意味でしょうか。多く、という所の根拠は示されていません。運動しているからキレやすい人が抑えられている、というのも、論理的におかしいです。その後の憶測も。ゲージの症例は、外傷によって脳が障害を負った例なので、ゲームの話と結び付けるのは、早計です。
・ゲーム中毒は幼児期に形成
- ゲームを始めた頃は、ドーパミン神経系が刺激され、快楽を持つようになっていると思われる。
- しかし、常習化した場合、本人が楽しいと思っているかどうかは解らない。「単にやらずにいられなくなっているだけのような気がします。」(P156)――理由:「シナプスの反復刺激によって脳の神経回路が、そのように組み上がってしまっているからです。ゲームに対して体の反応が決まってしまっているのです。」(P156)
- ゲーム脳人間になると、楽しいという気持ちも感じられなくなっている。
- 中学生や高校生になってからゲームを始めた人は、ゲーム脳人間にはなりにくい(10歳頃までに神経回路が組み上がるから)。ゲームをやらせるなら、中学生以降、出来れば大学生以降で、18歳未満はやらせない。時間は30分、週一回程度。
- 幼児期に組み上がった神経回路のために、ゲームをするのが本能であるかのようになる。
- 大人は止めようと思えば止められるが、「子どものころからテレビゲームをしている人は、やめようと思ってもやめられません。重症で、将来が心配です。」(P158)
楽しいとうい気持ちが感じられないというのは、全くの主観です。所々に論理の飛躍があり、科学的推測とも言いがたいです。
・育てたい前頭前野のワーキングメモリ
- 子どもの頃に色々の遊びや多くの経験をするのは、前頭前野を鍛える事になる。それが、「社会で活躍できる人間を育成することにつながります。」(P158)
- 子どもの健全な発達には、作業記憶を鍛える事が重要。
- 森氏の開発した脳波計によって、テレビゲーム歴の長い人は、β/αの値が2.0より低い。ゲームを全くやった事の無い女子高生は、安静時で3.0で、ゲーム10分やらせても低下しなかった。理由:発育期にゲームをしてこなかったから。
・子どもの神経回路は親がつくるもの
- 刷り込み(imprinting)や、猫の視覚の発達に関する研究(いわゆる臨界期の研究。こちらを参照:サルの視覚野)を紹介し、幼児期における経験の重要性を説明。
- 森氏の見解を示す部分を引用。
- 〇歳から三歳までは、赤ちゃんは好き嫌いの表現はしますが、なにひとつ文句を言わないで神経回路が形成されます。親や環境から与えられるままの、まったくのコピーなのです。ただ人間としての立派な態度を示しておけば、赤ちゃんはそれをそのまま受け取るわけです。(P164)
- 子どもは何でも情報を収集してしまうので、テレビやラジオの音を垂れ流しにするのは良くない。※そのすぐ後に、乳児に幼児教育のビデオを見せるのは、赤ちゃんは何も解らないので養育者の自己満足に終わる、と書いている。
- 現在の子ども達は、言語的で無いビジュアル的な情報に多く晒されているため、「言語を理解できないままイメージ的情報が脳に容易に取り込まれます。」(P166)
猫の研究のような実験的状況を、テレビゲームをする子どもに当てはめるような書き方は、妥当ではありません。また、引用部を読むと、極端な経験説を採っているように思われます。何でも情報を収集する、というのは、心理学的な注意の概念等を無視した意見でしょう。無意識的に記憶されるという現象はあり得るでしょうけれど、森氏のように一般化出来るかは、疑問です。また、現在、ビジュアル的な情報の方が多い、という主張も、根拠が不明です。
○7章 健全な脳を育てるだめに、今できること
・手をとって教えることの意味は大きい
ここで森氏は、「スキンシップ」、「手をとって教えること」が重要だ、と主張します。乳児を母親から離すとストレスのために脳に悪い影響が出る、と言います。そして、孤独が精神的不安を起こす事を示すために、ネズミを群れから離した実験(数週間後に凶暴になった)や、サルの実験(ネズミと同様)を紹介します。さらに森氏は、「テレビゲームやビデオに没頭して、自ら孤独の世界に入り込んでいる人はつらくないのでしょうか。人と人とのコミュニケーションがとれないと社会生活が送れなくなるのでは、と心配です。」(P170・171)と言います。しかし、この部分も、論理的ではありません。テレビゲームを好んで行う事は、即孤独を意味する訳では無いですし、また、動物の実験を人間の生活にそのまま当てはめるのが早計であるのは、他の部分と同様です(※発達心理学におけるストレンジ・シチュエーション法の研究等もあるので、養育者との関係が重要であるのは間違い無いと考えていますが、「ゲームをする子ども」に当てはめるのは早計だ、という事です)。次に、いくつかの例を挙げながら、「スキンシップ」、つまり触れ合いの効用を説きます。
さて、森氏はP173で、いわゆる「オオカミ少女」、アマラ・カマラの例を出していますが(カマラの体をさすってやったら警戒心や恐怖心がほぐれた、という)、この説の信憑性については、疑問が提出されています。
・自分の頭で考えられる人間に
この節では、パソコンを用いた教育について、疑問が呈されています。
先に述べたように、画面をみているだけでは前頭前野に情報が行かず、視覚野だけで処理してしまいます。パソコンを使うのなら、子どもが受動的に知識を取り入れるのではなく、自分のものとして能動的に取り入れられるようにしなければなりません。(P175)
と森氏は書いていますが、その直後に、
パソコンを使えば、たしかに知識は増えるかも知れませんが、自分で工夫して身につけた知識ではないので、そこから新しく組み合わせて何かを創造することができない子どもになってしまいます。創造性に乏しいといわれる所以です。(P175)
と言っています。しかし、教材というのは、コンテンツの内容が重要なのであって、メディアの特性のみをもって、その効果を云々する事は、出来ないでしょう(しかも、メディアの特性について、ちゃんと論じられていない)。そもそも、2つの引用文の内容が、矛盾しています。また、現在の子どもが創造性に乏しいと言われる事はあるのかも知れませんが、それが妥当な意見であるかは不明です。
・前頭前野の働きを高める方法があった。
ここで、ゲーム脳を調べている人にはお馴染みと言える、「お手玉」の話が出てきます。グラフが示されています。以下、説明を箇条書きします。
- 被験者―テレビゲーム暦10年以上の大学3年生(年齢は不明)。
- 実験内容―お手玉(3個)を行わせる。
- 実験期間―毎日5分間、2週間程度継続。
- グラフA―10円玉立てを行わせたデータ。横軸:時間(分)、縦軸:α%・β% および、β/αの値
- グラフB―お手玉を行わせた2週間後(2週間継続した)のもの。Aと同じスタイルだが、横軸のスケールが異なる(Aは2分刻み。Bは1分刻み)。どの状況で計測したかは明記されていない。
Aのグラフでは、10円玉立てをしている時にはβ波(と森氏が言っているもの)が減り、β/αの値も下がっています。森氏はこれを、慣れてしまったから、と推測していますが、ゲームについてそのような解釈をほとんどしない事は、これまで見てきた通りです。
対してBのグラフでは、いずれのレベルも上がっている事が示されています。森氏はこれについて、お手玉が、目や手を駆使しているから、というような説明をしています。ところがこのグラフ、お手玉を2週間続けた後、と書かれているだけで、どのような状態で計測されているかが、明記されていません。お手玉を行っている最中のグラフはありません。
森氏はこの後、爪先立ちや剣玉も同じような効果が期待出来る、と主張しています。そして、
けれども、もしも子どもが「一時間お手玉をするから、一時間テレビゲームをやってもいい?」と聞いてきても、いいとはいえません。結局ゲームをしているときに脳の働きは低下してしまいます。(P180)
と言います。ある程度大きく身体を動かすもので、同じようなデータが出たのなら、(これまでの森氏の論証を見ても)そういう「動き」を拾っていると考えるのが、妥当でしょう。
・創造の喜びや挫折感も体得させたい
ここでは、遊びについて、論じられます。全身を使っての遊びから、数本の指しか使わない遊びへと移行してきた事が指摘されます。そして、その最たるものが、ゲームである、と言います。
この後には、ゲームは指先を用いるといっても、巧緻さが求められるものでは無く、単純に素早く動かすものばかりである、と主張される訳ですが、これは明確に言って、誤りでしょう。もちろん、指先の巧緻さを定量的に測る指標をもって、ゲームとそれ以外のものが比較された研究、等を参照した訳ではありませんが、ここでは、そういうデータも示さずにゲームが単純な指先の運動しか用いていない、という部分を批判すれば充分です。
全身を用いた運動が重要である、というのは、その通りでしょう。しかしそれは、ゲームの有害性を「ゲーム脳」説を用いて批判する事とは、別の問題です。運動生理学や医学、心理学的に、全身運動の効用、あるいはそれを行わないリスク、を評価すべきであって、ゲームをすれば前頭前野の機能低下が起こる、という説を補強するためにそれを用いるのは、妥当では無いでしょう。
・脳に必要な栄養素は
ここでは、食べ物について論じられます。いくつかの生理学的な説明が行われた後、ファーストフードに対する懸念を表明し、魚等に含まれるEPAの効用を説明し、青魚をもっと食べさせたいものだ、と結びます。
五感を鍛えるイキイキ体験を
ここでは、節のタイトルの通りに、五感を充分に活用した遊びが重要だ、と主張されます。そして、大学の学園祭の時のエピソードが語られます。二人の男の子を連れたご夫婦に、脳波を計測させてくれないかとお願いし、それを承諾して貰った、というエピソードです。少々長いですが、引用します。
お母さんのお話ですと、いつもお兄ちゃん(一一歳)が力ずくで弟(六歳)のぶんまで長くテレビゲームをやっていると言っていたのですが、前頭前野からの脳波を記録してみると、やはり弟よりもお兄ちゃんのほうがβ波の低下が顕著でした。
弟のほうはビジュアル脳人間タイプで、積み木合わせの携帯型ゲームを始めたところ、途端にβ波が一気にα波レベル以下に減少してしまいました。これをみていたお兄ちゃんは、低下することが悪いことだとわかったようで、「ああ、下がっている、下がっている」と言っていました。五分間の記録時間中、お兄ちゃんは「僕もやるの?」と不安そうに言っていましたが、自分のデータに興味もあったようで、彼にも積み木合わせ携帯型ゲームをやってもらうことにしました。
すると、お兄ちゃんは半ゲーム脳人間タイプに近い状態であることがわかりました。もともと低かったβ波のレベルから、やはりゲーム開始と同時に弟と同様の低下がみられたのです。
けれども、一分半もしないうちに「僕、頭が痛いよう」と訴え、途中でやめてしまったのです。どうやら、ゲームに対する不安が”頭痛”というかたちで表れたようです。
お母さんのお話ですと、ふだんは二時間ぐらいは平気でやっているとのことでしたから、この日のことは子どもなりにショックだったのでしょう。実際にゲーム中のβ波の減少を目の当たりにして、これを契機にもうテレビゲームはやらないと言っていたのがとても印象的でした。記念に、記録したデータを差し上げました。
またやりたいと言わないように、勉強机のまわりの目立つところに貼っておくことをおすすめしました。(P191・192)
頭に何か着けられて、グラフで「脳の良し悪し」を測られる少年の不安は、いかばかりであったでしょう。常識的に考えれば、ゲームに対する不安以前に、「自分が実験される人間になる事」への不安と見るのが、妥当でしょう。直前に弟のデータを目にして、グラフが下がる事が悪い事だと認識した上で、受けたのですから。ここで(森氏の脳計による)脳波は、脳の機能を直接測るものとして、他人にも認知されてしまった訳です。
○あとがき
ここで森氏は、テレビゲーム等の普及・発展による影響を懸念します。そして、注意欠陥・多動障害(ADHD)の原因として、ゲームのやり過ぎも含まれている、と推測しています。更に、引き続き研究を行い、警告を続ける事を宣言します。最後に、知人の自動車教習所の経営者から、バイクの免許を取る人が減っている事を聞いた、というエピソードを紹介し(昔より友達と遊ぶ事が激減した、という。友達とバイクで遊ぶよりメールやPC、ケータイでやり取りする事が多くなったからではないか、と書いてあるが、それを「遊ぶ」という概念には含めていないのだろうか)、「私たちはもう一度、人と人とのコミュニケーションのあり方について、考える時期にきているのではないでしょうか。」(P195)と結びます。
------------
ここまで、『ゲーム脳の恐怖』の内容を順に追いながら、その論証の甘さ、論理の捩れ、森氏の、主観に基づく思い込みの主張のおかしさ等を、指摘してきました。
ゲーム脳について調べていると、ゲーム脳がデタラメでも、それで、言う事を子どもが聞くのなら良いのではないか、という意見があったり、「ゲーム脳」という語に独自の意味を付与して、「それはあり得るのではないか」、という主張がなされているのを、目にする事があります。
本シリーズでは、「ニセ科学」の一つと看做されているゲーム脳説が、何故そう考えられているのか。また、実証されていないとしても、子どもに言う事を聞かせる道具として用いるのは構わないのでは、という主張に対して、森氏が明らかに行き過ぎた事を言っているという事実を示し、独自の「ゲーム脳」概念を用いる意見に対しては、「そもそも森氏がどのような論を展開したか」、というのを知らしめる事を、企図しました。
本書は、厄介な著作です。グラフという、「客観的なデータのようなもの」が出てきたり、教科書からそのまま抜粋したような、「正しい記述」もあり、また、一般常識として妥当だと思われている事が、根拠不明確な「ゲーム脳」という言葉と絡めて主張されているので、一定の説得力を持つ可能性があるからです。そして、論理が捩れているために、詳細に批判するのが難しいものでもあります。あまりにも不整合が多いので、解きほぐすのに苦労する、という意味です。
私の目的が、このテキストによってどれほど達成されるかは解りませんが、原典を詳細に検討するものとしての意義はあると信じます。ゲーム脳論、より一般的にはニセ科学論について論じる際の参考にして頂ければ、幸いです。
| 固定リンク
| コメント (3)
| トラックバック (0)
最近のコメント