シロ

 なんか、ブサネコって好きなんですよ。
 もちろんすごくカワイイネコにもひかれるんですが、情がうつりやすいのはいつもブサ。
 まっすぐに甘えてくるブサが一番かわいいです。


 ノラは警戒心が強いから、少しずつ、少しずつ、本当に徐々に仲良くなるんですが、今年の初夏に近所で産み捨てられていた♂の三兄弟、なかでも一番ブサだった白いネコが(しっぽだけは横縞の茶トラ風)、結局いちばん馴染んでくれていました。(なでたりするといやがるんで、こっちからのアプローチは極力抑えてましたけど)


 今朝もちょっとギョニソーをあげたりしてたんですが、6時前に仕事から帰ってきたら、家の前の狭い路地で轢かれてました。
 抱き上げるとまだちょっと暖かさが残るくらい(な気がしました)。


 家の前の土を掘って(移植ごてしかないので時間がかかりましたが)、好物のチーズと一緒に埋めてあげました。
 なんだか泣けないんですよ。
 もっと胸が詰まる感じで。
 何も食べたくなくなったし、何もしたくない感じが強くしました。


 で、急に思い立って、書き残そうと思ってこうして書いているうちに、やっと泣けてきました。
 一年も生きていなかったけど、誰が知っているわけでもないけど、私だけは彼のことを覚えてあげられています。
 願わくは、生まれ変わるならもう少し幸せ感が増した存在であってほしいなあと…
 彼が食べかけのギョニソーをかじりながら、今はそれだけを思っています。
 安らかに

帰ってこない…

 今しがた、同僚のイギリス人の方がやってきて「週末は大変でした」と云々。お話をうかがったところ、別の同僚(この方もイギリス人。非常勤職)の人から金曜日にメール「この状態の日本には今は帰るのは適当ではない…」とか何とか。日本から離れてたんですね。
 確かにうちのあたりは東京よりは福島に近いですが、十分な距離もあり、今現在は平常にかなり戻ってきているのに…


 在欧のその方に、皆普通に生活している、ヨーロッパのメディアは今扇情的すぎる、など説得を試みたみたいですが結局ダメ。
 そこで急遽代役を探して、週末はあちこち出かけて知り合いを訪ねまわられたそうです。お疲れ様でした。適当な方が見つかったそうなので結果オーライだったんですけど。


 それにしても新年度の今になって職場放棄とはひどいです。判断に迷ったのかもしれませんが、あまりにも勝手ですねと二人で悲憤慷慨しました。

低濃度汚染水の放出

 事前の通告なしに放射性物質の低濃度汚染水が海中に放出された、というニュースを聞いて思ったのは、コントロール不能な状況で高濃度汚染水が流出してしまっている以上、いまさら低濃度汚染水を放出しても問題は大きくないだろう…と誰かが考えてそれをやったんじゃないか、ということでした。
 

 もしそうならうかつ過ぎる行動です。
 そうでなければ、どれだけ文句がでるにしても事前に通告して理路を通して納得してもらうか、よしんば説得が不調の時であっても他に選択肢がないことを示して誰かが「責任を取る」という決断をして行動に移すべきだったでしょう。正しい理屈であるならば、後からわかってもらえる可能性は高いのですし。


 高濃度汚染水のコントロールのために必要であった。緊急避難的措置だったと理解される…
 そういうご意見も目にしましたが(→「少ないものをどれほど減らしても多いものには影響しないわけで」キクログ)、であればこそ「事前通告」「公表してからの行動」は絶対的に必要であったと思います。
 東電が原子力安全・保安院に計画を報告して了解されたとなっていますが、必要だったのは地域住民に対して、利害関係のある漁業関係者などに対して、そして他国への通告も含めた「公表」です。


 個人的にはここで言われる問題設定が(最初から)正しかったのかということには疑念を感じます。
 事態がどれほど切迫していたのかで「緊急避難」かどうかは評価されるものです。高濃度汚染水の流出が確認されたのが2日朝。低濃度汚染水の放出を始めたのが4日の夜。一旦とは言えピットからの高濃度汚染水の流出が止まったのが6日の早朝。
 今後別のところから汚染水が漏出する可能性は否定できませんが、時間的猶予は一時的にもできました。それこそ廃タンカーなり何なりを用意して低濃度汚染水をそこに移すということは可能だったんじゃないでしょうか。


 一刻の猶予もなく、低濃度汚染水のある集中廃棄物処理施設を空けて、そこに地下の高濃度汚染水を入れなければならない状況だと問題が把握されていたのでしょうか?
 また、他の手段はないと十分に検討された末のことなのでしょうか?


 状況の全容を的確に把握する人がいなかった。
 原発内の施設に高濃度汚染水を移すのが最もコスト的に有利だった。
 あるいは誰も「責任」を負いたくなかった。


 そういう感じではなかったかという疑念が拭いきれないんですね。
 理路が通っていればこそ自信をもって公表すべきだった。それができなかったということで、本当に最初から理路が通っていたのか怪しく見える…そういうことです。

どこの魚だ!というクレーム

 知り合いの幼稚園(東北地方・日本海側)で、給食に魚を使っているだろう、どこの魚だ、漁獲地も明示しないで子どもに食べさせるのは子どもを大事にしていないんじゃないか、というようなクレームが父兄から入ったと先週末に聞きました。
 どう説明したらいい?と聞かれたその時は、現時点で魚から放射性物質が検出されたっていう話は一匹だって聞いたことがないし、被災地沿岸の漁協は漁を再開できてない。流通ルートに乗らない魚が一匹でもそちらに行くわけがない…というようなことを話したのですが。

コウナゴから高濃度ヨウ素 厚労省、魚も基準値検討


 茨城県北茨城市の平潟漁協は4日、同市沖で1日に採取されたコウナゴから、1キログラム当たり4080ベクレルの放射性ヨウ素を検出したことを明らかにした。
 ヨウ素の暫定基準値は根菜類などを除く野菜が2千ベクレルと定められているが、魚類については基準値がない。厚生労働省は4日、茨城県側に食用にしないよう要請。新たに基準値を定める方向で検討を始めた。(後略)
(MSN産経ニュース 2011.4.4)

 これでまた説明がややこしくなってしまうかもしれません。


 産地は調べて明示するとして、少なくとも放射能を持った魚は流通していないという一点でご父兄には理解していただくしかないでしょうね。


 魚から放射性物質が検出されてもいない時点でクレームが出るくらいですから、今後東日本の太平洋沿岸の漁業が深刻なダメージを受けるのは避けられないかもしれません。非常に残念なことです。
 近海物の高級魚を扱う鮨屋よりも、北欧とかアフリカから類似魚を仕入れている(という話の)回る寿司屋さんのほうが人気がでたりするかも…。

てんでんこの表裏

 自然災害が起きた時は自己犠牲や助け合いといったものが称揚され、気持ちが鼓舞されます。また日本ではこうしたもの、特に自分勝手にならないところが社会的なシステムとして定着している、と言われたりもします。暴動や略奪も起きず、被災者がものの少ないコンビニへもちゃんと行列を作って並ぶ…。こうしたことも海外の驚きの意見とともに、メディアが一斉に喧伝していたのは記憶に新しいところ。


 思い遣りや助け合いが社会の秩序をよく維持し、より早い復興へつながるであろうことは直感的にわかります。ただ今回の震災で、地震の後一度家族のところに戻り、安全を確認してから再び職場へ戻って帰らない人。大丈夫だなと家族に声をかけてから近所のお年寄りの住むアパートの様子を見に行って遺体で発見された人。独り暮らしの高齢のお母さんがやっとの思いで避難した後に、心配して駆けつけた息子が家のあたりで亡くなっていた…。こういうニュースもよく聞きました。
 初発の地震から時間差で到来する津波の被害のあり方が、思い遣りを裏目に出させてしまう悲劇でした。


 こうしたことは津波災害の特殊性に由来するのでしょうか?この失敗を起こさせないための、三陸地方に伝わるある言葉を新聞記事で見かけました。また、数日して小田嶋隆氏もこの言葉を紹介してコラムにされていました。
 それは「津波てんでんこ」という言葉です。

 度々津波に襲われた苦い歴史から生まれた言葉で、「津波の時は親子であっても構うな。一人ひとりがてんでばらばらになっても早く高台へ行け」という意味を持つ。

(読売新聞 3月28日)

 小田嶋氏は、

 非常時にあって、決断を他人に委ねたり、周囲の状況に安易に同調することは、命取りになりかねない。普段から、自分の状況に合った避難の方法と経路を、自分のアタマで考えられるようにしておかねばならない。そういうことなのであろう。
(日経ビジネスコラム 「ひとつになろう」より「てんでんこ」がいい)

 という考察をされて、「気遣い」が何より大事/一つになって頑張ろう 一色の風潮に一石を投じておられます。


 確かに震災後に蔓延する自粛ムードにものを言う文脈でこのエピソードが用いられるのは有効だと思いました。自粛自粛と小うるさいのには私も辟易しているところです。


 ただ、今回の震災で「てんでんこ」に東京を離れ、関東を離れ、日本を離れた人たちに必ずしも暖かくはない視線が注がれていたようにも思えます。また「てんでんこ」に不安を感じて水を、ものを買い込んだ人たちにも批判は向けられました。
 「てんでんこ」の自助努力、自力救済に対して、それができない(あるいは物理的に無理な)人たちはなかなか好意的に見ることができないのでしょう。無理もないとも感じます。


 インディペンデントか、さもなくば共助・思い遣りか。たぶんこれを二律背反で捉えてしまうことが間違っているんだろうと思います。災害時には、その災害の程度や津波があるかどうかが思い遣り優先かてんでんこ優先かの判断を分けます。ケースバイケースで考えるべき複雑さがそこにあるのでしょう。
 この意味で小田嶋氏の言う「自分のアタマで考えられるように」というのが重要なんですね。


 私は油にしても水や食料にしても抑制的に行動できました。でもそれは、自分の被害が比較的小さいという恵まれた状況で、家族を抱えていないという立場で不安もある程度小さかったからだと思います。各個人の環境は違うだろうなと考えていましたので、不安の解消というところでの買いだめも頭ごなしに否定はできないなあとも。


 何が正しいかなんて単純には言えないものです。難しいなあと言いつつ、これからも考えていくしかないでしょうね…。

停電のストレス

 計画停電を始めようとしたとき、東電の人も官僚や政治家あたりも「停電枠に入ってて、たまたま停電しなかったらみんなラッキーと思うだろう…」ぐらいに考えていたんじゃないかと思っています。
 準備はしてて、でも結局停電はなかったとしたらその時間は儲けもの。合理的に(他人事として)考えればそういうふうに見えるんじゃないかと。


 計画停電が突然アナウンスされた翌朝、私のところは第一グループ(か第三グループ)に割り当てられていて、十中八九第一で朝6時20分には電気が停まるはず…と思ってあわただしく準備してました。で、実際その時間になっても電気は来ていて、あれ?ちょうどには始まらないのか…と三十分ぐらい待ちましたが変わらず。おそるおそるテレビをつけてみると「今日の第一グループの停電は停止です」とか言ってます。


 停電するはずの時間に停電しないことに対して、私には不安感がありました。結構強いストレスを感じていたのです。そして、停電が無いということを聞いても「お得感」はまるで無く、むしろここまでやきもきさせて心配だけさせられたという腹立たしさが残っただけでした。
 心配させられて、身構えさせられたところの肩すかしは、かなり強くストレスになります。特に最初は全然情報(経験)もありませんでしたし、ほっとするなんてところは欠片もありませんでした。
 そして却って停電させられた時のストレスよりも、振り回されたストレスの方が蓄積するもののような気がします(少なくとも私にとってはそうでした)。


 その後出てきた「無計画停電だ」「不平等だ」というような声も、実際には停電するんだかしないんだかわからないストレス、そうしたもので醸された怒りがはけ口を求めて「正当性の口実」として押し出されてきたもののようにも思えます。


 むしろどうせ停電を押し付けるならはいここでやりますと決めて、実際の使用量はどうあれ、そしてそれほど停めなくていい場合でも(少々無駄になるとしても)グループ全体をバサッと切ってしまった方が、よしんば合理的では無いにせよ無駄なストレスを与えずに済んでいたんじゃないでしょうか?
 そしてそういう問答無用のやり方をする場合にはもっと対象地域を細分化して、停電する時間も一時間ほどにするとか、影響を軽減したうえで峻厳な措置を取るといった方策があったように思えるんです。


 おためごかしのぬるいやり方は「責任は取りたくない」もしくは「責められたくない」っていう弱さの反映と人々の目にうつります。責任は取るから問答無用という潔さ、そのへんのリーダーシップが非常時にはむしろ頼もしいんじゃないでしょうかね。命を賭けるという姿勢とはそういうものでしょう。


 情報開示を合理的にする。予測不能なものはわからないと言う。これも確かに正しい姿勢かと思います。でもそうやって判断を投げられた時、往々にして不合理な行動をとってしまうのですよ、人は。何百万人も居れば当然かなりの人がそうでしょう。


 危機的状況の時の情報伝達、混乱を未然に防ぐ行動要請、風評被害の防止のための言辞…いろいろ考えを練って、単に合理的であるとかいう域を越えた災害行動学的な(あるいは特殊政治的な)手法が考えられても良いように思いますね。

イメージとしては

 もちろんハリ・セルダンでしょうか…

週末は

 震災以来はじめて車に給油しました。やっと行列もなくなったようです。それでもまだ日によって休業するスタンドや、夕方には売り切れで店を閉めるスタンドは散見します。
 久しく空になっていた灯油缶に油を入れられました。電気が使えない時に、スタンドアローンで使える石油ストーブは本当に心強いものだと思い知りましたね。
 お風呂を提供していただいたビジネスホテルにお礼に行きました。形ばかりの手土産も持参しましたが、そういえばまだ継続して使われている方々がいるかどうか伺いませんでした。どうかこれからもこうした篤志を続けていただきたいと思います。


 妹のところに、姪の入学祝いを持って行きました。いろいろ考えて、かつて愛用していたデジカメをあげることに。まだ一年生には早いかもしれませんが、これでちょっとだけでも世界が広がってくれれば嬉しいです。