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2011年5月に作成された記事

2011年5月28日 (土)

【適当】実験案【妄想】

twitterで、抜刀の話がありましてですね。
そこで、鞘走りで加速してうんちゃら、という説がフィクションで広まったよねー、というのが出たのを受けて、その流れで調べてみたら、抜刀の原理が「デコピン」と同じだ、という論を見つけたのです。

デコピンって、中指を他の指で押さえてギリギリと溜め、そして弾く、というものですよね。それを、鞘から刃物を抜き附ける現象になぞらえるのは、無理があります。

で、まあ恐らく、力学的に見れば、鞘と刀身が無駄に擦れないように抜いた方が良い、となるのだと思います。鞘から離れるまでは、柄回りの回転運動などを特に制限して(つまり、刀身を鞘の曲線に沿うように動かす)、離れた後に主に上肢の運動で刀を制御していく。
多分、鞘と刀身の形状から考えて、棟側に均等に押し付けるような、なるだけ小さな荷重になった方が良いのでしょう。

それで色々考えていて、ちょっとした実験を思いついたのであります。

●鞘による抜刀□□(速度などの物理量)の違いを確かめるブラインド実験

仮説:鞘の内部の摩擦係数は、抜刀の「疾さ」に大きな影響を与えるであろう。

着目する因子:鞘の内側の摩擦の大きさ。
因子の水準:鞘の内側の摩擦係数大―小 をいくつかの段階に。内側を様々な材料でコーティングする。すべり性フッ素樹脂コーティングとか(適当)。
他の条件の統制:鞘の重量・形状(特に内部形状)を出来る限り均一にする。 刀身は同じ物を用いる。
マスキング:鞘の外観を区別出来ないように、塗装等を同一にする
実験:それぞれの水準の刀を用い、複数人が各水準にて数十回程度抜刀し、なんらかの物理量(速度なりなんなり)を測定し、違いを検討する。実験順序は実験計画法に従って決める。

こんな感じ。結構適当で、実現がどこまで可能かは解りませんが、、一つ面白いやり方なのではないかな、と。

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参考資料。

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2011年5月27日 (金)

なんという偶然

Niconico

http://www.nicovideo.jp/ よりキャプチャ(2011年5月27日8時40分頃)※枠線と矢印は私による


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2011年5月26日 (木)

メモ:抜刀時の運動に関して

twitterで、刀を抜く際の運動についてちょっと書いてみたので、それを整理。
といっても、togetterにまとめたのを貼り付けるという手抜きですが。

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2011年5月25日 (水)

理系と文系

せいぜい、研究対象の大まかな分類に使う(人文・社会・自然 の分類に似たように)、あるいはそれに関連して、高校の学科の分類を示す、程度に留めておくべきでしょう(でも、商業系や工業系や情報処理系はどう分類する?)。

そこから一般化して、「文系/理系 それぞれに属する者が一般的に持っている思考の傾向がある」といったような判断は安易に行うべきでは無いでしょう。例:「文系は論理的思考力に欠けている。」 「理系は頭がカタく融通が利かない。」

もし、理系文系それぞれの一般的な傾向を本気で主張したいのならば、「調べる」必要があるでしょう。主に社会心理学的に。○○に属する人間の□□%くらいの割合の者は△△だ、といった具合に。そういう証拠を提示する準備はありますか? もしそういう証拠の提示が必要無く主張出来る、と言うならば、その理由は提示出来ますか?

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2011年5月24日 (火)

保留せよ

論理的にはどっちも有り得そうだ、という複数の相反する主張があった場合には、自分がその論じている対象についてどのくらいの知識を有しているか、と振り返るのが重要です。

そうすると、大抵の問題は、「どっちが妥当か全然分からない」となる。なぜなら、それぞれの論が妥当か否かは、「これまで確かめられてきた事実」によって判断・支持されるものだから。それまで集積された知見について情報を持っていなければ、判断など出来ようはずも無い。

それでいいんですよ。所詮知識は有限なので。そこから学べば良い。

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2011年5月22日 (日)

ゲームでまちづくり

初めてのWiiに大興奮 七飯町で高齢者ゲーム大会 (産経新聞) - Yahoo!ニュース

大変良い試みだと思います。企画した人達は賞賛されて良いかと。

ゲームをあまりやらない年齢層でしょうから、とても新鮮な刺激なのでしょう。それに室内で楽しめる。オンラインで繋いで競う、というのもゲームでは取り入れやすいと言えますしね。これなら遠隔地の会場をリンクする事が出来る。

この企画の場合、Wiiリモコンを大きく動かさなくてもゲームを楽しめる、という部分が却って利点となっているのかも知れません。あまり大きく運動させるものだと、高齢者の体力に負担をかけ過ぎる事になりかねませんから。

ただ、ひとつ野暮な突っ込みをすると。

馬場修一副町長のあいさつの後、七飯町老人クラブ連合会長の北見辰雄さん(83)が選手宣誓を行い、「人は初めてのことをすると、どきどきしたり、わくわくしたり、ハッとしたりして、脳のトレーニングになるといわれている。新しいことに挑戦することで、これからも人生を充実したものにするよう、ここに誓います」

(※強調は引用者) この強調部分が気になりましたですね。いや、この会長さんがどうこうというのでは無くて。やはりこういうゲームが「脳」と繋がって認識されているんだなあ、と。これも脳トレなどの宣伝の結果、なのでしょうか。

こういうのは、ひとまずは、みんなで楽しむ、とか、軽度の運動を室内でそれと意識せず行う、といった面白さの部分を目的とすればよくて、あまり大袈裟な効果を云々しなくても良いかな、と。尤も、昔は「ボケ防止」などと言われてパズルやゲームをやると良い、なんてのもあったので、今はそれが「脳に良い」に置き換わったくらいの認識、なのかも知れませんが。

もちろん、科学的に何らかの効果を正確に確認する、という目的があった場合には、きちんと行っても良いと思いますが、それはそれとして。

ともあれ、今後も、各地でこういった催しが盛んに行われて欲しいと思います。

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2011年5月20日 (金)

姿勢――新陰流の伝書の考察(2)

前回の続きです。※P180-188より引用

●十好習ノ事

これは、「そうすべき事」ですね。禁習の反対。当然それとも関連しています。

○一、直立タル身ノ位ノ事

〔註〕 兵庫助利厳の兵法歌に、「直立ツタ身トハ自由ノスガタニテ位トイフニナホ心アリ」「位トハ行住坐臥ニ動静ニ直立ツモノゾ位ナリケリ」とある。
「直立たる身の位」とは兵庫助利厳が初めて提唱した主旨である。流祖上泉信綱の道業は、介者剣法の低く身を沈めて太刀の横に頼る、居着く刀法・身勢を改め、新たに構太刀を廃して「無形之位」を本源とする「円之太刀」を創めて、兵法の術・理を革新して「新陰」の一流を開いた。
 二世柳生石舟斎宗厳はこれを承け継いだ当時はなお戦国の世であり、戦場当用の剣法は全く廃するにいたらなかったから、刀法・身勢は低く構えざるをえなかった。
 三世兵庫助利厳は元和偃武以後の太平の新時代に即する兵法の大本をうちたてるに当たり、流祖以来の奥旨を憲章して一流の兵法の術・理を悉く徹底的に革新した。そうして人間性の自然・自由に則した――「性自然・転の道」の一切の働きを、先ずもって身勢位に現わして、それを強調・提唱したのが「直立たる身の位」であり、理解し易く言えば「真の自然体」といってもよい。

一番目に、一般的な姿勢の教え。介者剣法時代の「沈なる身」から、素肌武術における「直立(つった)たる身」への革新。低重心の構えから、高重心の構えへと変革するのは、おそらくバイオメカニクス的にも激変と言ってよいでしょう。それっぽく表現すると、パラダイムシフトとでも言えるでしょう。
これらを総合的に理解するには、そもそも何故甲冑武術においては低い腰構えが優位とされたのか、そしてなぜ鎧を着ない戦いでは高重心の構えが良いと看做されたのか、その理由を解明しなければならないのだと思います。この種の身法に関して、「自然体」とはよく言われる所です。自然の語から想起されるのは、そのままである、とか、作っていない、などの意味合いで、外見的にもいわゆる「”普通”に立っている状態」に見えるのでそう表現されるのもあると思われますが、その実際は、身体各部を非常に微細にコントロールしつつ姿勢を保っている状態であるのでしょう。直立たる身の位、という位を頂上とし、それはより下位の部分の、独立的かつ統合的な制御によって成り立っている(高岡英夫氏はそのような概念を「分立的統合」と表現しました)。 そういう事もあり、まず高度な境地としての位の教えを初めに立て、後で各部の具体的な運用方法を記した、のかも知れません。

○ニ、高キ構ニ弥々高ク、展ビアガリテ仕懸位之事

〔註〕 兵法歌に、「高キ構イヨイヨ高クノビアガリ必ズカナラズ及ビハシスナ」とある。
「伸びあがり仕懸くる位」に於いて位というところが眼目であり、「位をとらず」ただ高く伸びあがるばかりでは駄目であり、そこから前へ及びかかるようでは問題にならない。
弥々高く――高揚した浩然たる位を示したものである。これは現在われわれが使っている太刀の構や身勢に現れているところである。

これはちょっとややこしい。というか、そもそも「位」の概念が非常に抽象的で難しいものですしね。身法的には、伸び上がるにしてもきちんとバランスをとる中心を保っておくべし、といった所なのでしょうか。

○三、懸口イカニモ強ク、ケタテテ懸事

〔註〕 兵法歌に、「懸口イカニモイカニモ強クシテ足ヲ蹴立テテスラスラトユケ」「ケタテルト云フハフダンノ足使ヒマリ蹴ルゴトクアユムベカラズ」とある。懸かり口というのは、敵と三間・五間を距てた立合いの間合からわが方から先に仕懸けるときの「懸かり端」をいう。懸かり口が強く浩然の気に満ちた位は、敵を致す――敵を圧倒して動かし支配する位であって、懸かり口に於いて、足が少しもとどこおらず、「鳶が羽を使うが如く歩むべき事」という後述の習訓のように懸かれというのである。

鞠を蹴るようにはするな、というのが面白い。蹴立てる、が具体的にどういう運動を指しているのか、がポイントなのでしょう。足遣いの理の説明のようだけれども、解説にもあるように、後の習訓にもっと詳しい足遣いに関する記述があるので、これもむしろ全身的な、つまり位の教えと見るのが妥当なのでしょうか。

○四、前ヘ及ビ懸ルヨリ反ル可キ事

〔註〕 兵法歌に、「及ブヨリ反ルノヨキトハ人ゴトニ及ブモノユヱ直サンガタメ」「及ブニハ損アリ反ルハトクモアリ直シ教ヘニ過不及モアリ」とある。「前ニ及ビ懸ル事」は「十禁習」の一箇条にあったように介者剣法に於いては身を低くして前に及びかかることが多く、その影響がなお少なからず残っていたことを知ることができる。

及ぶ、とは前のめり(つんのめるという意味では無く)、と解釈して良いのでしょうか。「反ル」とありますが、これはやはり、悪いやり方に相対的に、の意で、今の我々が認識するであろう文字通りに身体を反らす、のとは違うのでしょう(体幹全体を後屈させよ、では無く、重心を前足側にあまり寄せるな、といった所か)。禁習でも反るのを戒めている訳なので。語が多義的に用いられていて、その語がかかっているのはどこか、を考えて解釈していくのが肝要と思われます。

○五、打込時、拳ヲ付ベキ事

〔註〕 兵法歌に、「打ツ時ニ拳ニ面ソヘヌレバ面モ反ラズ拳サガラズ」とある。真向上段「雷刀」の構から、または中段の構から頭上・肩上に取り揚げて打ち込むときに、両拳・臂が前へ出て伸びる勢に、面を付け――つれ随わせるときは「十禁習」にある、「身ト手ノ別ル事」及び「手ノ下ル事」の箇条にふれることがなく正しい刀身勢を得ることができる。兵法歌にも、「胸反ラズ身ト手ワカレヌソノトキハ多クノトクノ有ト知ルベシ」とある。

ここは専門的な型の文脈が大きく関わってきそうなので、省略。

○六、脇ノ下罅セバ手太刀展ル事

〔註〕 兵法歌に、「脇ノ下スカセバ太刀モ手モノビテ肩モオチツツ胸モソラヌゾ」「敵ノアタマワガ脇ツボニオシコメト云ヘル教モコモル習ヒゾ」とある。すべて心は広く大きく、身体はゆったりと胖かであるべきであり、これも「直立たる身の位」であり、即ち孟子の言う――天地間に流行する至大至剛で屈することのない、たゆまぬ元気――即ち浩然の気を備えた位である。「十禁習」の「胸ニ肱ノ付ク事」はこの裏であることは言うまでもない。

これはかなり具体的な身法を指しているんじゃないかな、と解釈します。脇の下をゆったり開ける、という教えは色々な武術で言われる所です。肩周り全体の運用に関わっていると思います。おそらく肩甲骨の操作との連動。肩甲骨を柔らかく外に広げると、肩もよく落ちていきますね(肩を無理に引き下げるのでは無い)。ちょっと見かたを替えると、胸を反らさず肩を上げるという運用を実現した場合に覚える「感じ」を表現した、と考える事も出来るのかも知れません。バイオメカニクス的には、鎖骨・肩甲骨・胸郭、上腕、などを連動させて合理的に遣うのを促す教えであると考えます。

○七、太刀ヲ使フ事、肩カヒナ惣身ヨリ打チ出ス可キ事

〔註〕 敵の働きに随ってわが方が千変万化して太刀を使うときに、両肩とかいな惣身から打ち出すのであり、「十禁習」の「拳ニテ太刀ヲ使フ事」を厳しく戒めて直すのである。兵法歌にも、「拳肱二ツノツガヒ無キモノト、肩の拍子ヲ惣身ヨリ打テ」とある。拳・うで首とひじの二つの関節の働きを用いることを厳しく禁習し、肩・かいな・惣身より太刀を打ち出すとき、特に両肩さきに「気をとり」――「肩に拍子を持て」と教えている。定寸の太刀を執っても常に大太刀を剛撃するときのように猛勢を失わない刀法・身勢である。

詳細な身法の指示ですね。好習の方は、全身をもって、肩腕が一体化したかのように打ち出す、と。ここで「打ち出す」という表現は興味深いですね。剣術では、剣を振ることをしばしば、「打つ」と表現します。打ち込む、とかですね。私はここに、運動とそれに伴うを正確に言葉で表そうとした工夫、という言語論的な論理があるのではないかと推測したことがあります。古流の型などを見るとまさに、「振る」より「打つ」と言った方が合っている、という印象を覚えます。
兵法歌の方はより詳細です。拳と肱、はつまり手首と肘の事で、それが「無キモノト」考えて運用する。要するに、肘関節及び手首関節の運動を制限すると。もちろんこれは、必ずしも文字通りに一切の角度変化を許さないくらいに、というようなものでは無いのでしょう。そうでは無く、体幹をよく使って、それに従って腕から先が運動していくように促しているのでしょう。それは剣の運動する軌道の力学的な合理性にも関わっているのだと考えます(未解明)。経験的には、剣先を先行させるような刀の動きは強く戒めます。もちろん全然肘と手首を動かさないのではありませんが(あまりその意識が強いと、上肢帯の過緊張を来し、却って運動が滞るでしょう)、肩から先がヒンジを持たない構造であるかのような心持ちで行う、というのが、特に初心の内には肝要です(後になれば、柔らかく流れるように遣っていく)。手首の返しは、斬り下ろす最後辺りで開始する訳ですね。上腕の回転と同時では無い。

「拍子」の概念はむつかしいですね。本書でも説明がありますが(拍子と調子の解説)、明確に概念を捉えきれないものがあります。

※八、九は省略

○十、足ハ懸ル時モ退ク時モ跬々(引用者註:カタカタと読む)浮キタル心持之事

〔註〕 兵法歌に、「カタカタノ足の浮クトハアナガチニウクルニアラズアユムナリケリ」「懸ル時モ退ク時モ足ハタダヰツカヌヤウニ使フベキナリ」とある。当流の極意「身之位三関」――腹と背と西江水に位をとって、「浮足之位」の足を使う。
 兵庫助利厳は、「つまだって(引用者註:原書では漢字表記)飛込む様なる」打ち込みをきびしく禁習し、足の爪先を浮けて、足心――土ふまずをもって歩む好習を示している。歩むときも、また踏み込んで、――大胯に打ち込んだときも「浮足之位」である。脚の踏み割りの小さいときは、前と後ろの脚・足の一方に主に体重をかけることが仕易く、その活動も自由活潑にできるが、大胯に踏み開くときはむずかしいものである。その前、後ろの足が微しも居着かず、いつも「浮足之位」にあらねばならない。
 うくるとは自然の勢位をもって爪先を浮ける――爪先をわずかに軽く上向し――はねるようにするのを好習とし、そのつくりつけを戒めて平常歩を提示したものである。

好習の最後。足・脚の運用についてです。ここは大変重要な部分。
とにかく足を居着かせるな、という教えですね。剣をとっての攻防ですから、自在に身体全体を移動させるようにする、と。西江水は大変むつかしい概念なのでここでは措いておくとして、腹と背に位を、というのは、身体の奥の方をよく使うよう意識する、といった所でしょうか。そして「浮足之位」と関わると。つまだって、を戒めて、「足の爪先を浮けて」遣う、そして土踏まずで歩く、と著者が解説してあるのは実に興味深い所です。「足心」の表現も。

近年、黒田鉄山氏や他の論者によって、「足をつかわない」動きというものが重視され、無足や浮身といった概念が紹介されてきました。尤も、使わないと言っても文字通りに全く運動させないのでは無く(動き回るのだからそんな事は不可能)、いずれも、足を踏みしめないようなやり方を奨励しています。爪先を浮かす、のも必ずしも文字通りに足指付近を強く背屈させるまではいかなくとも、 足の前側で地面を蹴り出す動きを先行させないように足首関節の運動を制限するものだ、と見る事が出来ます。腹から脚を吊り上げるようにして、スッスッと足を置いていく。バイオメカニクス的には、昨今よく話に出て来る所の腸腰筋などを中心的(まさに身体の中心的な部分)に運用していく。おそらくこれは、体重心を無駄に揺動しないような動きに繋がるのだと思われます。武術は他のスポーツなどと較べ、攻防の空間がそれほど大きくなく、瞬速で繰り出される敵の武器をより速く避ける必要があります。そのコンテクストに適した運動なのでしょう(バイオメカニクス未解明。一般的な部分は他のスポーツにも共通しているのではないか)。倒れ込むのを利用する、といったような表現をする人もいますね。これは、歩く際に通常はふくらはぎを積極的に使うという了解があるからその運動を戒めるために選択された表現でもある、と言えるでしょう。

直感的にはかなり解ってきているものの、それを論理的整合的に解析する科学の知識がまだ不充分なので、こういった説明に留まるのは少々歯痒いものがありますが、いずれにしても、足の運用に着目し、「浮」という表現が含まれているのは、よくよく考えておく必要があるでしょう。

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この他にも本書には実に興味深く勉強になる記述が沢山ありますが、ひとまずはこのくらいにしておきましょう。

いかがでしょうか、昔日の武術家が自らの業の精髄をいかに意識的、分析的に把握し、具体的な運動のやり方として詳細に記述しているか、その一端が垣間見えたのではないでしょうか。科学的な知識もそれほど発展しておらず、解剖学的な知識が不充分な時代に苦心してこれら書物が編まれたというのは、驚くべき事であると言えるでしょう。

そして、今我々は、現象を分析的に解明し記述するための方法として洗練された科学的知識を有しており、膨大な情報にアクセス出来る環境にいます。そのような知識を上手に活用して、古の達人が遺した武の結晶の持つ論理構造を詳らかにしていく事には意義がある、と私は考えます。

関連エントリー⇒水之巻を読む: Interdisciplinary

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姿勢――新陰流の伝書の考察(1)

古流武術の伝書にはしばしば、いわゆる「身体の使い方」に関する記述が見られます。
武蔵の五輪書もそうですが、こういった伝書を現代の人が参照する際、心法的な、つまり心構えの部分がよくクローズアップされます。しかし、身体操作的な所に関する記述も極めて具体的で大変興味深く、中国武術の姿勢に関する要訣にも通ずるものがあり、よくよく考察する価値があります。

そこで、新陰流に伝承されている伝書に書かれてあるものの内、身法に関する部分を引用し、現代的な視点ではどう解釈出来るかを考察していきます。

参考文献は、

 柳生新陰流道眼 柳生新陰流道眼
販売元:セブンネットショッピング(旧セブンアンドワイ)
セブンネットショッピング(旧セブンアンドワイ)で詳細を確認する

本書は、新陰流の伝書を繙き、著者による丁寧な解説が加えられている良書です。今回は、その解説も引用しながら、私自身の考察も付け加えていく、という形式をとります。各伝書に関しては、その由来の説明も一部引用します。

※ルビ、強調、返り点等は省略

■新陰流截相口伝書事

「新陰流截相口伝書事」は、上泉伊勢守信綱の口伝を整理して体系化した柳生石舟斎宗厳が、孫の柳生兵介長厳――後の兵庫助利厳へ慶長八年(一六〇三)に伝授した目録であり、上泉師の兵法の考え方及び刀法を具体的に示すものである。(P24)

○身懸五箇之大事

△身懸五箇の大事
第一 身を一重に可成事
第二 敵のこぶし吾肩にくらぶべき事
第三 身を沈にして吾拳を楯にしてさげざる事
第四 身をかかりさきの膝に身をもたせ跡のえびらをひらく事
第五 左のひぢをかがめざる事
右随分心懸稽古あるべし
重々口伝有之也 〔註〕 身懸――太刀を構えたり、斬り込んだりした時の姿勢、身の動き、そなえ、位についての五箇条の習訓である。これに関する最も古い文書は宗厳より丹下総八郎への天正七年(一五七九)のもの、次いで三好左衛門尉への天正八年のものが残されている。(P25)

※以下、五箇之大事についての引用はP25・26より

▽身を一重に可成事

「第一」は、敵に対し真正面の身になることをさけて、偏え身になることを重視する意である。偏え身、横見は防ぐところも少なく、切り込んだとき太刀も能く伸びるからである。

偏え身―― 一重身と書かれる事もある――が大事という教え。正面から見て横幅が狭くなるような体勢ですね。半身と分けて考える流派もあると思います(半身より一重身の方がより細い)。防ぐところも少なく、とは言い方を換えれば、狙う所が少ない、という事。太刀がよく伸びる、というのはどういう論理でしょうね。より肩が前方に突き出るから剣も大きく前に出しやすい、という感じでしょうか。

▽敵のこぶし吾肩にくらぶべき事

「第二」は、太刀を切り込んだとき大股になり身を低くすることによって、敵の拳とわが肩が同じくらいの高さになることをいう。

後でも引きますが、この五箇条は、介者剣法(鎧の着用を前提とした剣法)時代の教えとの事です。敵の拳の位置に我が肩の高さを、というのは、文字通りに取ると、相当に低い姿勢です。力学的な優位さ、あるいは鎧を着た敵の弱点を狙いやすい、などといった理由があるのでしょうか。一重身で低い姿勢ととる、という操法は、駒川改心流の黒田鉄山氏などの動きで確認出来ますね。

▽身を沈にして吾拳を楯にしてさげざる事

「第三」も、「第二」と関連して身を低くすることである。身を低くして、わが拳を差し出し太刀を伸ばせば、鍔にてかくれ、太刀中に身が入って隙がない。これを「刀中蔵の身」という。

しばしば出て来る表現ですが、「鍔を楯にする」というのは大変興味深い言い回しです。ここでは、身は沈めるが腕(拳を下げねば腕も自動的に下がらない)は伸びやかに上げる、という所が肝要なのでしょう。腕が縮こまってしまっては、刀に身が隠れず、「刀中蔵の身」が実現されない。

▽身をかかりさきの膝に身をもたせ跡のえびらをひらく事

「第四」は、例をあげれば、撥草から大きく袈裟に切り込んだとき身が前の膝に充分にかかり、偏え身となって腰が開く身勢になることである。

これはつまり、重心から降ろした垂線が落ちる位置が前側の足寄りになる、という教えですね。よく言われる、重心を前に出す、というもの。これについては、力学的にどう重要なのかを解明したい所です。今の所、この身法が、回転運動する刃物による攻撃にどう有効に働くのか、あるいは前後の体捌きとどう関連しているのか、私には充分認識出来ていません。えびらをひらく、というのは調べても今一つよく解らないのですが、腰に着ける道具なので、ビジュアル的な目安としてその語を用いているのでしょうか?

▽左のひぢをかがめざる事

「第五」は、太刀を斬り込んだときの注意で、左臂がかがめば太刀が伸びない。これを避けるための注意である。

これは経験的にもよく解るアドバイスです。剣は、前側(大抵は右)の腕でコントロールしようとし過ぎて、左腕が疎かになりがち。左腕が縮こまると、きちんと前に出て行かないですからね。両腕を上手く協調させて刃筋太刀筋をコントロールするのが大切。

 以上の五つの教えは介者剣法時代の当流の基本的な刀法・身勢であり、この五箇条を完備したものを「五箇之身」といって重要視したのである。この身を現在の自然体を主眼とする「直立たる身」に対し「沈なる身」という。介者剣法の刀法、身勢を考えるのに、よい手がかりになる教えである。

これは非常に大切な部分。つまり、装備に応じて身法・身勢が大きく異なる、というのを意味しています(直立たる身に関しては後で出てきます)。力学的な事も関係しているでしょうし、装備の隙をつけるような方法にもなっているのでしょう。

○一、小太刀一尺五寸迦の事

ここは小太刀の遣い方の解説ですが、興味深い部分があるので引いてみます(P53)。

 そもそも小太刀での截相の極意は、決して小太刀を執っての截相を主眼としてはいない。あらゆる手段をつくして入り身して敵の身に近接し相手を手搏して直ちに二刺し、その場を一歩も動かさずに殪すことである。 当流には「仕者の大事」といい、是が非でも一命を捨て討ち取らねばならぬ敵に対する重々の口伝があり、それには先ず第一に敵を何としてでも確実にわが手で捕え、神速に二刺しして直ちにその場に殪すとある。

面白いですね。小太刀の真髄は、入り込んで動きを抑えて仕留める、と。ミッション遂行の確実さにも関わっているという。

始終不捨書

 元和六年(一六二〇)九月吉日、尾張権大納言善利のちの義直侯に一流の紀綱によって一国一人の柳生新陰流兵法正統第四世を、兵庫助利厳が印可相伝の時に、柳生石舟斎宗厳よりの古目録三巻とともに、利厳が自己一代の工夫公案の「始終不捨書」を進上した。
 この兵法書は、その昔、流祖上泉伊勢守信綱が当時の甲冑武者剣術即ち介者剣術を革新して新陰流の極意を編み出し、それを継承した石舟斎宗厳の教えを「昔」の教えとして、その術技の悉くを最も明らかに評伝・解説するとともに、慶長・元和期の「今」の教えを新たに確立して、昔の古い教えを改革して、真に新しい時代に即した兵法の大本とその術・理の極意を示したものである。
これは上泉流祖が身をもって兵法革新の大道業を成就して、重々の口伝をもって第二世石舟斎宗厳に訓示した――「兵法は時代によって、恒に新たなるべし。然らざれば、戦場戦士の当用に役立たず。また忠孝節義の道を践み行うことはできない。」――との遺訓を顕したものである。
 本書の内容は大きい条目は凡そ十九箇条、小さい箇条は凡そ四十九箇条で、合わせると六十八箇条に及ぶ記述になる。これこそ甲冑武者の剣法――沈なる身の兵法から太平の時代に即した平常服のままのより自由な剣法――直立たる身の兵法への大改革をなし遂げたものといえる。このように当流はその淵源が古くして広く、然も新しく、古今一貫の兵法の純正な道として現在に相伝しているのであり、その本源と術・理の総ては刀法・身勢にわたりこれを具現しているのである。(P164)

重要な部分を強調表示しました。つまり、その時の情況に応じて実用的な体系が作られるべきである、という上泉伊勢守の教え。ここは心得ておきたい所です。

●十禁習之事

〔註〕 上泉流祖が新陰流を創案した「転」(引用者註:「まろばし」と読む)の道の象徴として具現化した「三学円之太刀」がある。「三学」とは禅でいう戒・定・慧であり、戒は戒律であって、兵法の禁戒・禁習で、三学の第一学として重んずるところである。兵法を学ぶ者はこれを肝に銘ずるべく稽古しなければならない。以下十箇条につき解説をする。(P168)

 つまり、「やっちゃいけない事」ですね。で、この十箇条(と、後の十好習之事)が、専ら身法に関する非常に具体的な教えで、それが大変興味深いのです。

※以下、引用部はP169-179より

○一、面ヲ引ク事

〔註〕 兵庫助利厳の兵法歌、「面引ククセハワズカノコトナガラ心ノ引クヲキラヒコソスレ」とあるように合打(引用者註:がっしうち、と読む)の如くきびしく相手と太刀を斬り合わせた時に、顔が思わず後ろに引けたり、身体ものけひけたり、また相手の太刀に相懸ける時は、自分の太刀ばかり前へ出して、身体は腰がひけてしまう。このような身勢では、しっかりと見るべきところが見えず、心も身も居付いてしまい、当然それにより身の働きも不自由になり、丁度ものに縛られたようになってしまう。自縄自縛とはこのようなことをいう。  またわが方から太刀を斬り込む時は、上半身が反り、折角斬り込んだ太刀も伸びない。截相に於ける多くの悪いことは、皆この面を引くことから出るのである。これは敵に対し心の引くことが形に現れたのであり、初心者によく見るくせである。兵法では何もまして是が最も悪いこと故に、第一番にこれを禁戒して直さなければならない。

顔が引ける。心理的な部分と大きく関わる事ですね。武術に限らず色々な分野にも共通しているものであるでしょう。特に剣術においては、刃物による攻防なので、身体が強ばり伸びやかさを失うというのがあるのだと考えられます。
面を引く、とはつまり頭部を後ろに回転させる事ですから、当然それに連動して、肩や腕も同時に下がる。そして腰が引ける、と。その状態でいくら剣を前に出そうと頑張っても、身体はバラバラになってしまう。そこには力学的な合理性も関わってくるはずです。武術の用語を使うと、正中線を保つ、となるでしょうか。

○二、身ト手ノ別ル事

〔註〕 兵法歌に、「打チ込ムニ身ト手分ルルソノトキハ切リ留リツツ太刀モノビエズ」とある。わが方から斬り込むとき、頭首、両肩、胸の状態と、太刀を執った両臂とが、互いに反撥運動をして別れ別れになってしまうことで、そのときの斬り方は、斬り留りになって太刀が伸びず、太刀が手前に廃ることになる。切り留るとは、太刀の腰、つば元、両手の握り拳の手もとから斬り出すので、きわめて手前斬りに打ち下ろされるので、堅い凝り固まった斬り方になってしまう。このような斬りは真直ぐの斬りだけではなく袈裟斬りのような順・逆の斜斬りにもある。

「互いに反撥運動」というのは、「各部分が協調出来ない」とでも解釈出来るでしょう。で、協調するとは、ある目的に向かって各部が連動して合理的に働くのを意味します。そしてここで言う目的とは、剣を上手く運動させる事。それには力学的な論理が関わってくるでしょう。剣の運動について力学的に合理的な軌道があり、それを達成せしめるには身体各部がそれぞれ絶妙に連動する必要がある、と。一般的な言い回しとして、手打ちとか小手先の技、といったものがありますが、それとも関わるのでしょう。

○三、胸反レバ手太刀展ビザル事

〔註〕 斬り込んだときに、胸が反れば折角前に斬り込むという運動に対して相い反撥して、斬り込む手太刀が伸びずに相手に届かず、かたより全身が凝り固まり居付いて不自由になる。全て太刀は全身の調和のうちに遣わねばならない。

ニ、と同様ですね。解剖学的に見ると、どうでしょう、胸を反らすというのは、脊柱を後屈さて、肩甲骨も後ろに寄せるようになる、という感じでしょうか。胸郭の動きも関わっていそうです。そうなると、心理的な部分とは別に、物理的にもかなり、剣の前への出方の距離(どこの距離をとるかの問題もありますが)に差異が出そうです。また、剣の威力という力学の面にも関連するのでしょう(具体的には不明)。

○四、胸ニ肱ノ付ク事

〔註〕 兵法歌に、「白徒ノ截合ヲ見ヨヤカナラズヤ胸ニ肱ツキ手前ギリナル」とある。手の内の握りが堅く、胸に肱を付けて太刀を遣うと斬り出す太刀が伸びずに、手前斬りに廃る。石舟斎宗厳の「截相口伝書」に「打三ツの事」――ナマル、トマル、ハナルル也。ハナルルガ吉。二ツハ悪シ。――とあった。ナマルとはゆるく物を捨てたように、冴えたところのない打をいい、トマルとは物を押さえたように堅くてはずみのない打であり、二つともよくない打である。ハナルルは能く澄んで充実し冴え渡ってはずんだ打をいう。これは手の内もおのずから能くやわらかくしまって打が中庸に叶ったもので、最も望ましい打である。

腕肩の運用に着目したものですね。文字通りに肘が胸につくと考えれば、上腕を過剰に内転している、と見る事が出来ます。つかないまでも、ギュッと内側に締めるような感じ、といった所でしょう。端的には剣が前に出ませんね。手の内、つまり手と剣との関係性にそれがどのくらい連動しているか、は難しい所があります。生理学的な連関を別にすれば、腕を伸びやかに使えるようになった頃には手の内も柔らかく剣にフィットするよう遣えるようになっている、といったような、稽古期間という変数が関わっていると見る事も出来ます。ナマル、トマル、ハナルル、とは巧い表現です。

○五、腰ノ折レ踞ル事

〔註〕 兵法歌に、「腰ノ折レマタスワルノヲキラフナリ折レテスワルハナホアシキナリ」とある。斬り込んだ体勢にて腰がよい意味ですわるのはむしろ望ましいことである。しかしここにていわれているのは、腰柱の後屈の者に多く見うける現象で、腰が前へ出過ぎて折れ屈んでしまうので、足が居着くようになることである。こういう体勢ではやはり太刀は手前斬りに廃る。

「腰柱の後屈」とあるので、ここに言う「腰が”前へ出過ぎて”」というのは、臍下辺りが突き出る(臍下側が凸のカーブ)、という意味でしょう。まず、そのポジションが他の部分といかに連動しているか(つまり弊害を齎すか)、といった生理学的あるいは解剖学的な視点がありますが、それとは別に、骨盤を大きく後方に回転させた姿勢というのは、整形外科的な視点などからも好ましく無いような気もします(要するに健康に悪いのではないか)。少なくとも個人的には絶対に取らない姿勢。腰背部の筋肉も不合理に使いそうです。

○六、膝ノ踞ル事

〔註〕 兵法歌に、「懸ケ退キニ膝ノスワルニ二ツアリツカレ足ヲバワケテイマシム」とある。膝が踞るのは、居着く足と疲れ足によっておこるのである。居着く足は身体が前に懸かり過ぎて動きがとれない状態をいい、疲れ足は疲れきったときの足のように、踏ん張るところを踏ん張れない足であり、こうなると全身まで居着くようになる。

ここの解説は、兵法歌と別のものも参考にしているのでしょうか、居着く足と疲れ足というものの詳細は兵法歌自体には書かれていないようです(他ページに解説あって見落としているかも知れません)。膝や足の遣い方というと、昨今のハムストリングスや腸腰筋の働きに注目した論がありますが、ひとまず措いておきましょう(前側重心の時の身体運用にも大きく関わる――脚・膝を抜く遣い方)。

○七、前ヘ及ビ懸ル事

〔註〕 兵法歌に、「截合ニ心ヒカレテトニカクニ及ビカカルハ初中後ノクセ」とある。前条で説いた通り(引用者註:六、の解説で引かれた、柳生厳長氏による考察の事。今回は省略した)、現今の剣道の習風と異なり、昔は初心は誰でも一足一刀の定法の足の踏み込みが足りず、とかく「手・太刀」――太刀を執る両臂を前へ伸ばし過ぎ――上体を前へおよび懸かり、身法が居着いて崩れる、初心はただ相手を打とうとばかりすることが著しいので、この戒めが重要なのである。

ここまでは、引いてしまう事への戒めがありましたが、これは、前へ出過ぎるな、という教えですね。出過ぎる、とは、きっちりと身体全体が出ていないのに腕肩だけが先走ってしまうと。上体もぐしゃっと潰れて軸が壊れてしまう。これもいわゆる手打ちや小手先の技といった所でしょう。手と胴体と足が一致して動く事の重要さは、色々の武術で言われる所だと思います(合気道を知る人は、一教を思い浮かべるといいでしょう)。

○八、手ノ下ル事

〔註〕 兵法歌に、「截合ニ手ノ下ルノハ直スベシセツカク勝テ負ニコソナレ」とあり、また「脇の下すかすが好し」と教えている。

続けて厳長氏の解説を引いたものが載っているのですが(省略)、この部分はちょっと解釈がむつかしいですね。

○九、両足一度ニ踞ル事

〔註〕 兵法歌に、「両足ノ一度ニスワル不自由ハヌカリ砂原倒レヤスサヨ」とある。両足を一所に踏み揃えること、また特に前後・左右に踏み開いて一度に踏みすわること、こうしたものはこれも前掲のもろもろの禁習からおこるが、特に前の二箇条の通り、丹田・腰の廻りの力が上にあがって「上ぞり」、両肩・臂へむやみに力をこめて、足のはたらきが居着くものである。

「踞る」をどう解釈するか。私としては、脚裏を使えず膝関節伸展系を先行させる方向性の運動の戒めではないか、とも解釈したい所ですが(浮くような身体の遣い方が出来ていない)、今ひとつピンと来ないものがあります。「一度に」と敢えてつける所とかですね。柳生延春氏の解説は、腰回りの運動が疎かになり、同時に下肢も動けなくなり結果居着く、というものですね。

○十、拳ニテ太刀ヲ使フ事

〔註〕 兵法歌に、「拳ニテ太刀ヲ使フハヨワミニテ手ノ内マハリ打チ合ヒニ負ク」とある。先師厳長は次の如く註をしている。 ――拳にて太刀を使うというのは、手の内や、手さき(うで先)で太刀を使うことで、そのときは、肝腎な手の内で太刀の柄が廻って、好習とする教えなる『肩、かいな、惣身より太刀を使う』ことなく、ただ手さきの技巧――虚勢にはしって、相手の太刀との打ち合いに打ち負けること。(後略:後の部分は(厳長氏当時の)剣道と古流とを対比して考察)

これはまさに、小手先の技、といった所でしょう。肘関節先行、手首関節先行、の動きを戒め、全身を用いて打つのをよしとする、と。この禁習と併せ、肩、かいな、惣身、を使う、という表現で(これは後で出て来る)、身体の先端側を先行させない動きをするように促している訳ですね。手先をいそいそと動かして体幹が合理的に働いていない、というのはしばしば起きます。せっかく複雑な構造をしてかなり自由に運動出来る身体なので、それを使わない手は無いのですね。そこにも(生体)力学的合理性が関わっているのでしょう。手の内については、よく手と剣を密着させ柔らかく遣っていかないと刃筋が狂うという事でしょう。手は多数の骨と筋肉から構成されていて、相当自由に変形するので、それと剣(の柄)とは、複雑な力学的関係を取り結ぶのだと考えられます。特に真剣をもって物を斬る、という場面においては、対象の材料的構造的性質も絡んだ、工学的な考察が必須となる現象を呈するのでしょう(手の内に関しては、現代剣道のスポーツ科学的研究がよくなされていると想像します ※何度か目にしましたがあまり憶えていない。先日も発見したけど読めず)。

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長くなりましたので、続きは別エントリーとして、近日アップします。

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2011年5月17日 (火)

いかにして解明し得るか

・日本刀によってどう戦い得るか、という問題。

あるいはそれに関連して、

・日本刀によっていかに戦ってきたか、という問題。

様々な視座とアプローチの方法。

○体験談A:試斬や、動物の試し切り。人間以外の物体を日本刀で斬ってきた人々の証言。

○体験談B:人間を斬ってきた人々やその目撃者の証言。戦争や反社会的暴力場面(犯罪や抗争)において。

○武術古来の伝承:構えや操法などに関する知識と実践の体系。現在伝承されている型など。あるいは、伝書など古い資料にある逸話(屍体による実験や、達人のエピソード)の検討。

○上記の整合性:比較的近年の体験談的証言と、武術的な遣い方の伝承や資料との整合性。相容れない場合の理由も考える――いずれかが正当もしくは合理的なやり方であると判断出来るのか。それとも全体的な操法の体系(持ち方、体捌き、振り方、等々が複雑に絡み合って構成されている)に依存して、「どちらも合目的的合理的」であると看做せるのか。体系同士の比較には慎重でシステマティックなアプローチが必要となる。格闘技における、「何が最強か」の議論を考えよ。

○日本刀の製法とそれに関する科学的・工学的なアプローチ:製法のバリエーションと、刃物としての日本刀の物理的特性に関して。金属工学や材料力学等の視点。

○上に関連して、もっと動的な場面における力学的な特性へのアプローチ:衝撃工学など。計算力学的シミュレーションや衝撃実験。構造的にどこに弱点があるか、などを見る。

○「刃物」にクローズアップ:機械工学的に、日本刀のごとき形状の刃物が、「何をどのように斬ることが出来るのか」の一般的な部分の解明。刀のバリエーションによる合目的性も考慮する(包丁のバリエーションを考えよ)。

○「人間はどのように刃物によって傷つき得るのか」の部分の一般的な解明:インパクトバイオメカニクス的な視点。鋭的外力による傷つき方の検討。屍体実験や動物実験(志願者実験は倫理的に不可能。なので、上記の「体験談」が傍証となる)による違いはあるのか、あるとしてどのような質的な差異が見られるのか。シミュレーションによる補助的な考察。衣服や防具などの条件がどのように現象に関わってくるかも重要。

○各武術の技術体系構造の具体的解明:バイオメカニクス、心理学(特にスポーツ心理学など)、認知科学、情報処理やシミュレーション(一対多の立ち回り――宮本武蔵が遺したがごとき戦法の解明など――の解析にはこのような分野も重要だろう)等々を総動員しつつ、これまで書いてきた様々なアプローチからの知見を応用する。日本刀という独特の形状を持った刃物を操って敵を殺傷せしめる技術体系なので、動き方は道具(刀)の形状に規定あるいは拘束される。従って、出来る限りシステマティックに、インターディシプリナリに解析していく事が望まれる。当然、既存の武術の分析から基礎的な分野へフィードバックされ新しい知見が生まれる事もあるだろう。

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2011年5月15日 (日)

「何の役に立つの?」

数学って……とか、勉強って……とか。まあ、定番ですね。私もちょくちょくその事について書いてきました。

こういう問いが出てきたら、

「あなたは本当にそれを知りたいの?」

「あなたはそれを知ってどうするの?」

「”あなたの”役に立つかは知らないけど、世界の役には立っているよ。で、それを知りたいの?」

とでも返してあげるといいんじゃないでしょうか。

「○○は役に立つの?」という疑問があり(それは△△や□□で役立てられているとする)、本気で「どう役立てられているか」を知りたいなら、それが役立てられている△△や□□の分野そのものについて強く関心を持たなくてはなりませんからね。

そうじゃ無ければ、「へー。」「でも自分の役には立たないからいいや。」で終了。実際は、「そう仕向けたい」のかも知れませんけどね。めんどくさい事を「やらなくていい」理由を見つけたい、というのは誰しも考えるものです。そういう意味で、問われている人間が試されている面も確かにあるのでしょう。何も応えられない、では話になりませんし。

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2011年5月13日 (金)

マンガでも学ぼう

マンガでわかる構造力学Bookマンガでわかる構造力学

著者:サノ マリナ,原口 秀昭
販売元:彰国社
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今まで読んだ「マンガでわかる」系の本の中でも屈指の物である、と思いました。
内容としてはごく初歩の部分の解説で、数理的な解説はそれほど無いので、得られる知識の量としてはさほど多くはありませんが、とっかかりとして、あるいはいくつか本を読んだが概念が上手く把握出来ないのでおさらいをする、という、私のような初学者にとってはとてもありがたい類の本です。入門書であっても情報の量が多過ぎて、数ページ読むにもへとへとになる物ってありますしね。

画は、この種の本としては丁寧に描けている方だと思います(所々不安定ですが)。オーム社のシリーズを除くと(ここのは概してクオリティが高い)、これを載せるなど正気か?と思わされるような、形状が破綻したような物も散見されるのですよね(工学の本なのに図が狂ってるのもたまに見かけるという)。

マンガと解説部分との噛み合いも、かなり上手く出来ているように思います。前にも似たようなことを書きましたが、単に「人物が描かれてある図解の多い参考書」でしか無いのもありますよね。本書はそうで無く、マンガを読み慣れた人の目をよく意識しているように感じます。特にストーリーが深く複雑でワクワク読ませる、という風では無いものの、キャラクターの立て方の描写などが工夫されています。それもそのはず、と言うか、作者自らがマンガの専門学校で勉強してネームを書いたそうな。興味深い事ですね。

個人的な感想としては、いくつか眺めてきた構造力学の本の中では段違いに易しい物だと思います。そのかわりに理論の詳細や精確な説明がオミットされている所もあるでしょうが、上にも書いたように、とっかかりの本としてうってつけではないかな、と。

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2011年5月 2日 (月)

生肉

肉の生食について。

生で食べる事に抵抗がある人、平気な人、色々いるでしょう。生なんてあり得ない、信じられない、と言う人もいるし、野蛮だ、とまで評していた意見を見た事もあります。

しかし、こういうのは、「生肉を食べられる/食べられない」というシンプルな分け方が出来る問題では無いと考えます。

私は、鶏肉の生食が当たり前の地域で育ったので、鶏肉を生で食べる事に、何の抵抗もありませんでした。むしろ、生で鶏肉なんて……という意見を目にして、え?と不思議に思ったくらいです。

では生肉なら何でも抵抗無いのか、と言えば全然そんな事は無くて。

たとえば、牛のレバ刺しは一度だけ食べた事がありますが、全く何とも思いませんでした。ユッケは一度も食べていないですが、特に抵抗ありません。細長く切った牛の生肉なら食べられるかな、という感じでした。牛の握り寿司も同じような印象。
しかし、牛とろと言われる、ミンチ状にした牛肉を生で食す、というのを見た時に、「これはちょっと……」となりました。加工の工程などを参照して考えれば、安全なのは後者の場合もあるはずなのに(一応、具体的にどうかは言いたい事とは離れるので措いておきます。この辺りの議論に関しては、色々情報がありますので、参照されると良いと思います)、「直感的」に、挽肉を生で食べるなんて……となった訳ですね。
これには恐らく、普段は挽肉には完全に火を通して食べてきた、という習慣と経験によって作られた認識が関係しているのでしょう。

他の物で言えば、鹿や猪の生は無理、豚肉(や豚レバー)はあり得ない(絶対に生で食べるなと教えられた)、川魚の刺身も抵抗ある、という風です。
つまり、大まかには「生肉」と分類される物でも、細かく見ていけば、一概に食べられる/食べられない というように分けられる話でも無いという事ですね。そこには、それまでの習慣や経験、それから断片的に仕入れた知識が関わっているのだろうと思います。

レバ刺しはいいけど鳥刺しは無理、という人もいませんか?

それから、肉を生で食べる習慣がある人に注意喚起したり説得を試みる場合に、

  • 「火を通した方が美味い」などと言う←嗜好(好き嫌い)を否定する――自分の嗜好を正当とする
  • 行為そのものを見下すような物言いをする←生肉を喰うなど野蛮な行為だ、などと、文化的社会的側面を無視して非難する
  • 「生肉を食べないなど常識」などと言う←個人の常識が世間の常識とは限らない

こういった類の言は避けるのが良いと思われます。特に親しい間柄なら率直な物言いも通るかも知れませんが、そうで無い場合には、コミュニケーションとしてはほとんど無意味と考えます。

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