蓮葉、よろづの草よりもすぐれてめでたし
2014年閣議決定と集団的自衛権
高橋、長谷部編「芦部憲法学」(岩波書店)所収の長谷部恭男「9条解釈」には、2014年の政府解釈の変更に関して、簡潔に問題点が整理されています。それ以前は、現行憲法第9条により、個別的自衛権の行使は許容されてるが、集団的自衛権(他国を防衛するために他国の要請に応じて武力を行使)に関しては許容されていないと解釈していました。それを、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」がある場合に、集団的自衛権の行使が可能であると変更したのです。この文言は実質的な限定にはなっていないと批判されています。著者は、この解釈変更には、十分な正当化根拠が示されておらず、深刻な問題がある、道理がないと述べています。集団的自衛権の行使には、憲法改正が必要であるという長年の説明を変更した内閣法制局についても、有権解釈機関としての権威が深く傷ついたともしています。芦部教授からの講義を聞いて育った東大法学部の卒業生たちは、著者からの強烈なメッセージをどう受け取ったでしょうか?なお、著者は、武力なき自衛権論も自衛権否定論も、近代立憲主義とは両立しえないと指摘しています。したがって、芦部教授よりも、かなり現実主義的な立場ですが、その著者にとってさえ、2014年閣議決定には、憲法がないがしろにされる危機を強く感じたものと思います。私自身は、日本の国土と国民を守るためには、集団的自衛権の行使も可能にすべきだと考えていますが、そのためには、憲法改正を行う必要があると思います。自国を守るには、同盟国を守ることが必要な場面があるのは、歴史が教えるところです。憲法第9条の改正を肯定しながら、2014年閣議決定を容認するのは、自己矛盾だと感じます。逆に、有権解釈の変更で第9条の制約を乗り越えることができるとするなら、憲法第9条の改正を口にする資格はないと思います。内閣法制局の黒歴史と言って良いでしょう。安倍内閣の負の遺産の一つでもあります。
公立小学校の崩壊
小林美希「学校がつまらない」(岩波書店)は、現在の公立小学校が、私たちが60年近く前に過ごしたときのような小学生、小学校ではないことを知らせてくれるルポです。学校がつまらない、価値がないと感じるのは、児童も、教員も、保護者も、地域も、意味は違いますが、同様なのです。「ストレスで荒れる小学生」を読む限り、教室がこんな状況なら誰も小学校教員になりたくなくなるでしょう。児童に荒れた状態のままで、学校、教室に居られるのは、教員や同級生にとって迷惑そのものです。保護者の前では、別人格だというのですから、迷惑行為を続ける子どもへの懲戒というよりも、保護者と子どもの双方に適切なメンタルの治療を勧めたいと思います。「政治家のための教育改革」では、大阪維新の会による教育介入の弊害が明らかにされています。学力テストを学校教育の成功の指標にすることが正しいという思い込みは、政策の間違いのもとになるので危険だと思います。著者は、不登校児童の受け皿になっているN中・高について、相当のページを割いて照会しています。余白の大切さ、一人一人違っていい、他人を否定しないというキーフレーズは、現在の学校教育が陥っている閉塞状態から抜け出すための知恵になりそうです。終章には、「子どもが子どもらしくあるために」整えるべきヒントが述べられています。著者が言いたいのは、結局、社会が変わらない限り、学びの場も変えて行けないということでしょう。私たちに、その覚悟はあるでしょうか?このままでは、学校がますますつまらない存在になっていくでしょう。
個性は幻想か?
河野誠哉「個性幻想」(筑摩書房)は、教育的価値としての個性は、教員にとっての課題や目標だったが、児童生徒にとってのものに転換されて、現場が混乱していると指摘しています。障害を個性と言ったり、発達障害を個性の延長だとしたりするのも、包摂という文脈では是と言えますが、他との差異という文脈では、著者が指摘するように否定せざるを得ないでしょう。また、個性が社会的に浮上するのは、近代化の一環としての学校教育の画一化への反作用という面があるという指摘にも頷けます。個性の尊重が行き過ぎると、平等主義的な教育保障(落ちこぼれを極小化する)がおろそかになります。個に応じた学習への切り替えは、GIGAスクール構想を推進中の学校教育の課題になっていると言えそうですが、教育格差の拡大に繋がる恐れがあります。ただ、近代化モデルは既に時代遅れになって久しいので、苦しくても、個に応じた学習を推進するしかないと思います。当然のことながら、格差を個性と勘違いすることがないよう注意が必要でしょう。個性そのものには価値の上下はないはずですが、個に応じた学習は、学習内容と到達度に差があります。平等主義を離れることは、持って生まれた才能の違いを含めて、差があることが当たり前の世界を、やむなく容認というよりも、積極的に是認することになります。うっかりすると、学校や学級の一体感が崩壊しそうですが、個に応じた学習へのモデルチェンジは最大多数の能力を伸ばすためには必要なことです。平等主義を固く守ってきた学校教育関係者は、その変化に耐えられるでしょうか?
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