(2)憧れのフランク・ロイド・ライトの学び舎
- 2020/09/05
- 21:43
自由学園は、現在、生徒数が300人に増え、西武池袋線 ひばりヶ丘駅に移転している。移転は、1934年(昭和9年)に行われた。
旧キャンパスは、明日館(みょうにちかん)と名付けられ、卒業生の活動の拠点となる。
ひばりヶ丘に10万坪もの土地を購入し、3万坪を校舎にあて、7万坪は貸している。池袋の自由学園の女学校は13年間しか使われなかった。
写真は、ひばりヶ丘にある現在の自由学園の女子部食堂。東京都選定歴史的建造物。
ライトの弟子の遠藤新(えんどう・あらた)がライトの作風を真似て、設計した。自由学園明日館とそっくりだ。
創立以来、守られてきた、手作りの料理をみんなで揃って、いただく昼食。食事を共にしながら、会話し、心を通わせ、絆を深めてきた。
食事は、単に空腹を満たし、栄養を摂るだけでなく、人と人がつながる、大切な時間だ。
初等部では、1年生から6年生までが、同じテーブルにつき、6年生がテーブルマスターとして、気を配る。
現在の自由学園は、男女共学で、男子部、女子部に分かれて、学んでいる。
4歳から22歳まで、一貫教育。4歳からは幼児生活団、最高学部という大学まである。
自由学園明日館の広い庭には、桜の樹がある。春になると、それは素晴らしいという。
桜見学会、夜桜見学会を行っており、庭に立ち並ぶ、樹齢70年を超える、4本の桜(ソメイヨシノ、オオシマザクラ)が咲き誇る季節に行われる。
夜にはライトアップされ、桜を眺めながら、少しほろ酔い気分になれる酒も用意するという。酒は飲めないが、参加したいものだ。
自由学園は、13年間しか使われなかったと書いたが、老朽化が激しく、建物の中で傘を差すほどだったという。電気を付けると、漏電の危険もあった。
1997年に重要文化財に指定された。ひばりヶ丘に移転して、卒業生の活動も行われなくなると、お化け屋敷同然で、前を通る子供がよく泣いていたという。
3年掛けて、保存修理工事を行った。解体、組み立てを行い、鉄骨で補強し、100年耐えられるようにした。ライトが建てた当時は、木造だった。
ライトに難点を付けるとすれば、設計が日本の気候に合ってない点だ。玄関から一段上がらない、平坦な作りになっている。
そのため、ジメジメしており、床板を剥がすと、土だったという。建て替えで、湿気に強くなった。
とはいえ、大雨の日には、職員たちが総出で、土嚢(どのう)を積み、雨の侵入を防がなければならない。
教室の窓をよく見て欲しい。写真だとわかりづらいかも知れないが、右上のガラスが古いもので、ナミナミと歪んでいる。
割れずに残っているものを大事に使っているが、自由学園にも数枚しか残っていない貴重なガラスだ。
自由学園の向かいにある、重要文化財の講堂とその入口。
講堂には舞台がある。
2階から舞台を見下ろしたところ。
講堂は、自由学園が建てられた6年後に遠藤の手によって、建築された。
企業の展示会、撮影のロケ地、土日は結婚式会場になる。
食堂が結婚式の会食会場に模様替えされる。立食形式だと、100名まで、食事ができる。
自由学園は、クリーム色、緑色、焦げ茶色の3色が使われている。秋になると、枯れ芝に合うようにと選ばれたクリーム色。
ライトでは珍しい配色で、自然と調和するように考えられている。
天井が低い作りになっているが、天井高になっているところもある。閉塞感と開放感。
一気に変わり、ギャップを感じさせる。空間の落ち着きを感じさせる、アイデアあふれる設計だ。
ライトの設計した左右対称の自由学園は、平等院鳳凰堂から着想を得ているとも言われる。
ライトは、日本が大好きで、何度も訪日しているが、日本から影響を受けた建築はないと言っている。しかし、可能性としてはあるだろう。
ライトは、旧帝国ホテルを設計したギャラの大半を浮世絵を買うことに費やしたという。
池袋周辺は、戦争により、壊滅的被害を受けたが、自由学園は、奇跡的に難を逃れ、昔のままだった。
新しい池袋は区画整理されたが、以前のままの自由学園は、工事のトラックも入れないほど、道が曲がっている。見学者で迷う人が多いのは、そのためだ。
建物の設計だけでなく、家具も一緒に遠藤が作った。統一感があるのは、そのためだ。
ライトの持論では、暖炉は人が集まる大事な場所だという。自由学園には、5つの暖炉がある。
「ライトがこだわった暖炉」というイベントが11月の第三金曜日に行われる。毎年初の暖炉の点火日だ。
木造建築だった重要文化財の中で、保存修理工事をしたことにより、暖炉に火が灯せるようになった。
ライトが望んだ団らんの場で、知らない人同士が集まって、会話をする。素敵なイベントだ。
ホールの窓。この写真は、保存修理工事前の写真だ。窓枠が現在のものと違うことにお気づきだろうか。
昭和22年頃に、小さな窓に変更された。大きな窓では、風が強い日には危なかったので、使い勝手をよくするために変更された。
手を加えられたところは、極力、オリジナルに戻すという、文化財修理の原則に基づき、古い図面、写真などを元に復元されたという。
旧キャンパスは、明日館(みょうにちかん)と名付けられ、卒業生の活動の拠点となる。
ひばりヶ丘に10万坪もの土地を購入し、3万坪を校舎にあて、7万坪は貸している。池袋の自由学園の女学校は13年間しか使われなかった。
写真は、ひばりヶ丘にある現在の自由学園の女子部食堂。東京都選定歴史的建造物。
ライトの弟子の遠藤新(えんどう・あらた)がライトの作風を真似て、設計した。自由学園明日館とそっくりだ。
創立以来、守られてきた、手作りの料理をみんなで揃って、いただく昼食。食事を共にしながら、会話し、心を通わせ、絆を深めてきた。
食事は、単に空腹を満たし、栄養を摂るだけでなく、人と人がつながる、大切な時間だ。
初等部では、1年生から6年生までが、同じテーブルにつき、6年生がテーブルマスターとして、気を配る。
現在の自由学園は、男女共学で、男子部、女子部に分かれて、学んでいる。
4歳から22歳まで、一貫教育。4歳からは幼児生活団、最高学部という大学まである。
自由学園明日館の広い庭には、桜の樹がある。春になると、それは素晴らしいという。
桜見学会、夜桜見学会を行っており、庭に立ち並ぶ、樹齢70年を超える、4本の桜(ソメイヨシノ、オオシマザクラ)が咲き誇る季節に行われる。
夜にはライトアップされ、桜を眺めながら、少しほろ酔い気分になれる酒も用意するという。酒は飲めないが、参加したいものだ。
自由学園は、13年間しか使われなかったと書いたが、老朽化が激しく、建物の中で傘を差すほどだったという。電気を付けると、漏電の危険もあった。
1997年に重要文化財に指定された。ひばりヶ丘に移転して、卒業生の活動も行われなくなると、お化け屋敷同然で、前を通る子供がよく泣いていたという。
3年掛けて、保存修理工事を行った。解体、組み立てを行い、鉄骨で補強し、100年耐えられるようにした。ライトが建てた当時は、木造だった。
ライトに難点を付けるとすれば、設計が日本の気候に合ってない点だ。玄関から一段上がらない、平坦な作りになっている。
そのため、ジメジメしており、床板を剥がすと、土だったという。建て替えで、湿気に強くなった。
とはいえ、大雨の日には、職員たちが総出で、土嚢(どのう)を積み、雨の侵入を防がなければならない。
教室の窓をよく見て欲しい。写真だとわかりづらいかも知れないが、右上のガラスが古いもので、ナミナミと歪んでいる。
割れずに残っているものを大事に使っているが、自由学園にも数枚しか残っていない貴重なガラスだ。
自由学園の向かいにある、重要文化財の講堂とその入口。
講堂には舞台がある。
2階から舞台を見下ろしたところ。
講堂は、自由学園が建てられた6年後に遠藤の手によって、建築された。
企業の展示会、撮影のロケ地、土日は結婚式会場になる。
食堂が結婚式の会食会場に模様替えされる。立食形式だと、100名まで、食事ができる。
自由学園は、クリーム色、緑色、焦げ茶色の3色が使われている。秋になると、枯れ芝に合うようにと選ばれたクリーム色。
ライトでは珍しい配色で、自然と調和するように考えられている。
天井が低い作りになっているが、天井高になっているところもある。閉塞感と開放感。
一気に変わり、ギャップを感じさせる。空間の落ち着きを感じさせる、アイデアあふれる設計だ。
ライトの設計した左右対称の自由学園は、平等院鳳凰堂から着想を得ているとも言われる。
ライトは、日本が大好きで、何度も訪日しているが、日本から影響を受けた建築はないと言っている。しかし、可能性としてはあるだろう。
ライトは、旧帝国ホテルを設計したギャラの大半を浮世絵を買うことに費やしたという。
池袋周辺は、戦争により、壊滅的被害を受けたが、自由学園は、奇跡的に難を逃れ、昔のままだった。
新しい池袋は区画整理されたが、以前のままの自由学園は、工事のトラックも入れないほど、道が曲がっている。見学者で迷う人が多いのは、そのためだ。
建物の設計だけでなく、家具も一緒に遠藤が作った。統一感があるのは、そのためだ。
ライトの持論では、暖炉は人が集まる大事な場所だという。自由学園には、5つの暖炉がある。
「ライトがこだわった暖炉」というイベントが11月の第三金曜日に行われる。毎年初の暖炉の点火日だ。
木造建築だった重要文化財の中で、保存修理工事をしたことにより、暖炉に火が灯せるようになった。
ライトが望んだ団らんの場で、知らない人同士が集まって、会話をする。素敵なイベントだ。
ホールの窓。この写真は、保存修理工事前の写真だ。窓枠が現在のものと違うことにお気づきだろうか。
昭和22年頃に、小さな窓に変更された。大きな窓では、風が強い日には危なかったので、使い勝手をよくするために変更された。
手を加えられたところは、極力、オリジナルに戻すという、文化財修理の原則に基づき、古い図面、写真などを元に復元されたという。