時代小説家・池波正太郎(いけなみ・しょうたろう)の生誕の地である待乳山聖天(まつちやましょうてん)です。
奥に見えるのが本堂。お賽銭箱(おさいせんばこ)がありました。ちょうど5円玉があったので、ダウンしないようにお参りしました。
本堂の中のお供物だったお供え用大根が一本250円で売られてました。
講金2000円をお支払いすると、御守(おまもり)と塗香(ずこう)を授けてくれる常香講(じょうこうこう)が7月20日(木)11時よりあるみたいです。塗香って何だろう? 興味があるので来てみよう。
前日お供えしたお下がり大根が無料で配布されてました。250円で買わなくていいんだ。
大根に食紅で「お供物」の印を押してあります。重いのに母が母とあたしの分を2本持って帰ると言います。持って帰るのは、あたしだぞ(笑)。
料理担当のあたし、掃除担当の母ですが、母がひさびさに台所に立ちました。
待乳山聖天でもらってきた大根をさつま揚げと煮ました。さすが料理学校を出ただけあります。
夏大根でしたが、おいしかったです。あとは、家にあったにんじんでグラッセ(バターと砂糖で煮た料理)を作りました。
青い葉っぱは豆苗(とうみょう)です。これは、あたしがサラダ油でにんにくを炒めて香りを出し、豆苗を入れて、オイスターソースと醤油で味付けしたものです。
横浜中華街のお店の山東(さんとん)のレシピだそうです。料理サイトのクックパッドに載っていました。
待乳山聖天の小型モノレールのさくらレールです。乗車無料。乗ってくればよかった。
お百度参り(おひゃくどまいり)がありました。1往復で一回、100回で完了。使い方は、リングをスライドして、100回カウントするようです。
道灌稲荷跡(どうかんいなりあと)がありました。かつて境内には、太田道灌(おおた・どうかん)の道灌稲荷が祀(まつ)られていました。
太田道灌とは、室町時代後期に関東地方で活躍した武将です。江戸城を築城し、武将としても、学者としても、一流だったと言われています。
かつて、当町内の木戸には、「道灌稲荷の守護」の札が貼られ、地域の人々より、尊崇されていたそうです。
人望篤く(あつく)、文武両道の名を馳せていた太田道灌は、文明八年(1476年)に鎌倉の詩僧を招き、隅田川に船を浮かべて、詩歌管弦の宴を開いています。
管弦とは、横笛などの管楽器と笙(しょう)や琵琶(びわ)などの楽器を演奏することだそうです。
待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院です。
その創建は、推古天皇九年(601年)の夏、旱魃(かんばつ)のため、人々が苦しみ、喘いで(あえいで)いた時、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身して、この地に姿を現し、人々を救ったため、「聖天さま」として祀った(まつった)ことに始まります。
ここは、隅田川に臨み、江戸時代には東都随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材になっています。
また、境内各所にほどこされた大根・巾着(きんちゃく)の意匠は、当時のご利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すと言います。
一月七日の大般若講(だいはんにゃこう)大根祭は、多くの信者で賑わいます。
池波正太郎は、「大川と待乳山聖天宮」というエッセイで、「生家は関東大震災で跡形もないが、隅田川の水と待乳山聖天宮は私のふるさとのようなものだ」と書いています。
池波正太郎は、1923年、旧東京市浅草区聖天町61番地(待乳山聖山公園の南側)で生まれました。
この年の9月に関東大震災が起こり、生家は焼失してしまいましたが、少年期、青年期を台東区で暮らしました。今年、生誕100周年です。
1960年、『錯乱』で直木賞を受賞し、『鬼平犯科帳』、『剣客商売』、『仕掛人・藤枝梅安』などの人気シリーズをはじめ、時代小説の傑作を次々と生み出し、この待乳山聖天あたりも、たびたび舞台として描いています。
浅草最終回に続く。
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