てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

青年時代の江藤淳

2015å¹´06月24æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 遅きに失した感もあるが、評論家の江藤淳がみずから命を断ってから16年も経った今になって、ほとんどはじめて、彼のまとまった文章を手に取っている。とはいえ、今読んでいるのは評論というより、エッセイや旅行記のようなものだが・・・。

 夏目漱石に関する著作で有名になった江藤は、ぼくのなかでは何となく頭の固い、旧式の人間のような気がしていたのだ。それというのも、彼が保守派という漠然としたくくりで語られることが多かったからかもしれない。ただ、20代から30代の血気盛んな時期に綴られた文章を読むと、いかにも当時のインテリが書いたような博学な知識の裏に、アメリカやヨーロッパ、中東までをも股にかけて活動する頑健な青年の姿が透けて見える。まさに“行動する人”だったのである。

 その一方で、江藤が無類のクラシック音楽好きであったということがわかったのも興味深い。もちろんぼくが生まれる前の話なので今とは状況がまったくちがうけれど、ニューヨークで某オペラを鑑賞した際、ヒロイン役を歌った女性歌手について「ミレルラ・フレニは、美人というよりは可憐な感じのやや凡庸な歌手」などと書いている。

 人も知るとおり、フレーニはその後めきめきと頭角をあらわし、凡庸どころか、世界最高のソプラノと称されるまでに至った。ぼくもずいぶん前に、大阪に来演した彼女の歌を聴きに出かけ、年を重ねても一向に衰えない美声に酔いしれたものである。

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 ドイツでは、江藤が指揮者のローゼンシュトックと会食をする場面があったりするが、この人物(ローゼンストックともいう)はN響の草創期を支えた偉大なマエストロで、ぼくがクラシックを聴きはじめた当時、何人かいたN響名誉指揮者のなかでもっとも高齢のひとりだった(唯一の19世紀生まれ)。その後、彼の演奏をラジオなどで耳にすることのないままに、彼は亡くなったように思う。ぼくにとっては、まさに伝説のひとりというか、歴史上の人物のような存在だったのである。

 そんな偉人のことを、江藤淳は「ちっぽけな猿のような老ユダヤ人」と書く。もちろん、軽蔑しているわけではない。江藤は若いころ、ローゼンシュトックの指揮で『幻想交響曲』の生演奏を聴いて感激した経験をずっと胸に秘めているのだ。相手を必要以上に偶像視しないところが、のちに漱石の神格化を否定するような著述につながったのかもしれないけれど。

 なおこのくだりで、ローゼンシュトックがケルンのオーケストラの正指揮者の地位を「新進のサヴァリッシュに譲った」と書かれていて、思わず笑ってしまった。1961年に書かれた文章だから、サヴァリッシュもまだ30代の若造だったわけだ。そんな駆け出しの青二才も、のちには世界のさまざまな主要ポストを歴任し、N響からは「桂冠名誉指揮者」という特別な称号を捧げられるまでの巨匠になり、2年前に物故した。月並みだが、時代の流れを感じる、としかいいようがない。

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 そんな記述とは別に、ひとりの青年としての江藤淳の姿が垣間見える箇所も少なくなかった。アメリカで再会した旧友のG氏が、次の滞在地へ旅立つ江藤を見送るシーン。G氏は、江藤の重いスーツケースを「ぼくに持たせたまえ」といってぶら下げ ― ぼくはカズオ・イシグロの小説で読んだ、お客のスーツケースを決して地面に置こうとしない執事のことを思い出したが ― 駅を案内する。そしていざ列車が動きはじめても、笑顔で手を大きく振っていたというのである。

 自慢ではないが、ぼくは自分が乗った列車を、誰かに見送ってもらったことがない。古い映画やドラマなどでは、別れを惜しんでプラットホームを全速力で走り、やがてホームが尽きることでその努力は非情にも断ち切られる、といったような描写があったように思うが、新幹線は窓も開かないし、発車の合図も、車内にいてはほとんど聞くことができない。車窓から眺める風景がゆっくりと横に動き出すのを観て、ああ出発したんだな、と思うばかり。あっけないといえばあっけないし、そこに別れの心情が介入する余地などあるのだろうか、という気もする。

 ともあれ、いい友人をたくさんもった若き日の江藤淳は、ぼくには羨ましい存在なのであった。もちろん海外のオペラを観たり、大指揮者と会ったりするという機会にめぐまれていたことも含めて。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

参考図書:
 江藤淳『旅の話・犬の夢』(講談社文芸文庫)

日本語の怪

2015å¹´06月19æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 ぼくが子供のころは、中学校に上がると皆、英語を習いはじめた。それまでも英語を教える子供向けの本が家にないことはなかったが、載っているのはごくシンプルな、基本的な単語がほとんどだったからだ。ぼくも近所の英語塾にかよい、ラジオの「基礎英語」を聞きはじめたりしたものである。思えば、ぼくが英語にいちばん熱心だったのはそのときだろう。

 ただ、結局は今に至るまで、英語はまったく身についていない。むしろ日本語で文章を書くことをライフワークにしたいと考える者にとっては、英語の知識など邪魔でしかないのだ。それどころか、毎日読書をしていてもいまだによく知らない日本語や漢字と出くわすことに驚かされる。外国語を学ぼうとする前に、日本語すらじゅうぶんに知り尽くしていないことにタジタジとなってしまう。

 今では、小学校から英語の授業がはじまっているという。将来的には、3年生から英語を学びはじめることになるらしい。もちろん家庭によっては、もっと幼いころから子供を英語に親しませているところもあるだろう。そういった塾や教室の存在は、テレビのCMでも知ることができる。

 だがこのままでは、貧弱な日本語しか喋ることができない日本人が増えてしまうのではないか、という危惧を抱かずにはいられない。もちろん、語彙の豊富さも重要だ。ただ、たとえば何かおいしいものを食べたときに「ヤバい」という感想しか出ない若者を見ていると、そんな乏しい言葉で価値観が安易に伝わってしまうことに恐怖さえ覚える。辞書をひもといてみれば、もっと多彩な日本語表現がちりばめられているというのに。

 だいたい、流行語など、すぐ消え去ってしまうような一過性のものを表彰したりする風潮がぼくにはわからない。それとは逆に、今は失われつつある“古きよき日本語”に眼を向けることこそが緊急の課題のように思われるのである。

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 流行語は別として、正式に定められた言葉にも、最近はろくなものがないようだ。「後期高齢者」という言葉が一部の反発を呼んだのは記憶に新しいが、それ以外にも、ぼくには首を傾げたくなるような日本語が堂々とまかり通っている。このことは国語の知識だけでなく、感性の問題でもあると思うのだが・・・。

 たとえば、「温室効果ガス」。地球温暖化の問題がクローズアップされるとともに、耳にする機会も爆発的に増えた言葉だ。けれども「効果」というのは、プラスの結果をもたらす場合にのみ使われる単語ではないだろうか。「効果的だ」「○○に効果がある」というように。

 けれども温暖化は、地球にとってマイナスの結果しかもたらさないことは周知の事実であろう。それなのに、「温室効果」などという珍妙な用語をひねくり出して平然としている現代日本人のセンスは、ぼくには危機的状況のように見える。英語なんかを学んでいる場合ではないように思えるのである。

 これも最近よく聞く「認知症」という言葉もそうだ。あれは対象を正確に認知できなくなるという病気であるから、「不認知症」あるいは「非認知症」などと呼ぶのが適切だろう。たとえば「不妊症」とか「不感症」といった旧来のいいかたを踏襲するなら、それが当然ではないかといいたくもなるのだが・・・。

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 身近なところでも、もっとある。コンビニのレジでしばしば出くわす「ちょうどお預かりします」という文言。預かるのなら、いつ返してくれるのか、といいたい。あれは払うべき金額よりも多いお金をいったん預かって、お釣りを返すときまでのほんの数秒の“つなぎ”の意味なのではあるまいか。そんなこと、話の前後を考え合わせれば理解できるはずなのだ。

 さらに、硬貨1枚のお釣りをもらったときにさえ「お確かめください」とくる。見ればわかるのに、いったいどうやって確かめろというのだろう? あれはお金やお札が何枚にもわたるときに、勘定を間違えないように数えておいてください、という意味だということがなぜわからないのか。もし、それがコンビニのマニュアルに書かれてある台詞だとしたら、問題の根っこはさらに深いのであるが・・・。

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 外国からの観光客が急増している昨今、英語が必要とされるシーンは日々、増えつつあるのかもしれない。ただそれとは別に、我々は自分の母国語をもっと大切にして、それこそ外国人に指さして笑われないようにしたいものである。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

恐竜の国へ帰る日々(6)

2015å¹´06月04æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

参考画像:ポール・ゴーギャン『ひまわりを描くゴッホ』(1888年、ゴッホ美術館蔵)

 都会での画家生活を維持する手段として、“肖像画家”という選択肢がある。我々が西洋絵画の展覧会などで、今ではさほど有名でない貴族とか学者とかの肖像画にイヤというほど接することになるのはそのためだ。

 平たくいえば、個人の肖像画が公立の美術館や個人のコレクションに加えられているということは、その絵を注文した家にとってはすでに不要品になったゆえに手放された、ということでもあるだろう。肖像画は、モデルとなった人物の名声を記念するよりは、それを描いた画家の実力、そして彼の世渡りの巧みさを象徴する“遺産”なのかもしれない。たとえばルノワールは、ワーグナーなどの名士の肖像を素早く描くことで絵の技術を身につけ、なおかつ収入も得ながら、おのれの目指す画風の追求に突き進んでいった。

 しかし、なかにはトラブルもある。せっかく肖像画を完成させたものの、描かれた側が受け取りを拒否し、ひどいものになるとお金も払わなかった、というケースは少なくないらしい。画家にとっては、丸損である。しかしそういった作品が、のちに名画となって大勢の観客を集めたり、高額でやりとりされたりするようになるのだから、世の中というのはわからないものだと思う。

 ゴーギャンの画業を見渡してみると、基本的に人物画を対象としていることは明らかだが、モデルを美化しようという気はさらさらなかったように思われる。いやむしろ、モデルの深いところに秘められた内面をはからずも暴き出してしまう、という側面があったのかもしれない。こういったことは、ベラスケスやゴヤの肖像画に関してもいわれることだが、ゴーギャンの場合、近代人の置かれた複雑な立場を知らず知らず露呈させてしまうようだ。

 たとえば彼は、ゴッホと共同生活をしたアルルで、イーゼルに向かってひまわりを描くゴッホの姿を絵にしたことがあるが、のちにゴッホは完成作を観て、「これは気が狂ったときの私だ」と、まるでゴッホらしからぬ言葉を吐いたといわれている。今のぼくが観ても、これのどこが発狂しているのかわからず、むしろこのゴッホは冷静に、まるで瞑想しながら絵を描いているようにさえ思えるのだが、おそらくゴッホ本人にしかわからない生の深淵のようなものを、ゴーギャンは描き出してしまったのだろう。

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ポール・ゴーギャン『2人の子供』(1889(?)年、ニイ・カールスベルグ・グリプトテク美術館蔵)

 今回の展覧会でポスターやチケットに採用された『2人の子供』は、およそ子供らしからぬ肖像画だといえる。少なくとも、ルノワールが描く子供の姿ほど愛らしくないのは明らかである。

 左側の少女は、一見すると清楚で、容貌も整っているが、子供にしてはさまざまなことを知りすぎているというような感じがする。いってみれば、女として生きることの辛さがふと脳裏をよぎる一瞬が描かれているようにも思えるのだ。それはもちろん、絵のモデルとしてじっと静止していることを要求された挙げ句の憂鬱かもしれないけれど。

 一方、右側の幼児(男の子か女の子かはっきりしない)は、明らかに姉の後ろ姿を眺めている。こちらは大人っぽさというより、酸いも甘いも噛み分けてきた老人みたいではないか。まるで「ああ、この女の子は美しいばっかりに、これからの人生はいろんな男に翻弄されるのね・・・」と語っているようである。

 ゴーギャン自身も、5人の子持ちであった。しかしこのとき、妻は子供たちを連れて実家に帰ってしまい、彼は天涯孤独ともいうべき境遇に甘んじていたことだろう。近所の幼い子供を描いても、うわべの可愛さより人生模様の辛辣さのほうが露骨にあらわれてしまう。同国人を描くことの限界を、ゴーギャンはすでに感じはじめていたのかもしれない。

つづく
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再び、うかれないヴァイオリン

2015å¹´06月01æ—¥ | ãã®ä»–の随想

〔兵庫県立芸術文化センターは開館10周年を迎える〕

 久しぶりに、西宮北口の兵庫県立芸術文化センターへ出かけた。たいていは、このホール専属の通称「PACオーケストラ」(最近は「題名のない音楽会」にもしばしば出演している)の定期公演を聴くことが多いのだが、今回は室内楽である。

 そのメンバーとは、ヴァイオリンの神尾真由子に、チェロのジャン・ワン、ピアノのキム・ソヌクといった面々。日中韓の、最近何かとギクシャクしている国家の軋轢を超えて、豊かなハーモニーを響かせることができれば素晴らしい。

 おっと、それ以前に、神尾自身がすでにやすやすと国境を越えてしまっていることを忘れてはなるまい。彼女の夫君はロシア人ピアニストのミロスラフ・クルティシェフといい、神尾が優勝したときと同じ2007年のチャイコフスキー・コンクールのピアノ部門で最高位(1位なしの2位)に輝いた逸材である。コンクールの翌年に日本で開かれたガラ・コンサートでふたりが共演(一緒に演奏したわけではなかったが)するのを実際に見ていたときには、将来のビッグカップルへと成長する気配など微塵もなかったものだ。ただし水面下では、どうなっていたか知りようがないが(「チャイコフスキーからの祝福 ― ガラ・コンサートを聴く ―」参照)。

 昨年だったか、テレビ番組「情熱大陸」で神尾真由子が特集されたとき、家でクルティシェフと練習をする場面が映ったが、ともすると愛妻の体に触りたがる軟弱な夫を厳しく叱りつける“かかあ天下”っぽい一面も見せていた。しかし実際には、彼女がクルティシェフに滅法惚れ込んでいるということであり、夫婦の関係と音楽のパートナーとの関係は、似て非なるものなのかもしれない。ぼくにはまったく想像もつかないことだけれど・・・。

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 今回の演奏会を知ったきっかけは、前にも触れた京都のバロックザールで受け取った一枚のチラシであった。この小さいホールにあの豪華なメンツが集合してくれるということで色めき立ったが、よく見ると平日の開催である(なお、それにもかかわらずチケットは完売になったという)。仕事を休むのは難しいし、どうしようかと考えていたら、日曜日に西宮のホールでも公演があることを知り、さっそく申し込んだというわけだ。

 それに、兵庫でのプログラムが極めて魅力的だったことも一因というべきだろう。チャイコフスキーがたったひとつ残したピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」は、ぼくが数年前に何気なくラジオで聴き、「チャイコフスキーの真の最高傑作はこれではないか」とひとりで興奮した作品であり、管弦楽の名手とばかり思い込んでいたこの作曲家の新たな一面を垣間見せてくれたのだった。この曲の意味深なタイトルは、ニコライ・ルビンシテインの死に際して捧げられたことに由来するが、ぼくにとって“偉大な芸術家”とは、チャイコフスキーにほかならないということになった。

 ただし、いざホールの席に着いてみると、土壇場で予約したせいもあるが、1階席のいちばん後ろである。ステージに置かれている椅子が小さく見え、オペラグラスを持ってくればよかった、と思ってもすでに遅い。

 それに音響の面からも、ぼくにはちょっと残念な気がした。1階の後部席の上には、2階席が巨大な屋根のようにせり出していて、ホール全体の反響がシャットアウトされてしまうのだろう。そういえばいつも正月に生中継されるウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートでは、座席のある平土間の背後で、立ち見の人が群れをなして懸命に耳を傾けているのがテレビに映ることがあるが、あの位置でどの程度まで聞こえているのだろうか。

 けれども、不思議なことである。プログラムが進むにしたがい、ピアノのソヌクが髪を振り乱して熱演するごとに、音の違和感がかき消されていった。もちろんヴォリュームという点では改善されたわけではないが、聴き手であるぼくのハートがぐいとつかみ取られ、遠くから響いてくる音色に必死に耳を傾ける、ある種のストイックな芸術体験へと導かれていったのだ。ヘッドホンなどでいつも爆音の奔流に浸されている人には、この思いはわかってもらえないかもしれない。

 50分ほどかかる曲の最後、あの「悲愴交響曲」を想起させるように演奏者がどんどん減っていき、ピアノだけが最後に残って葬送行進曲のリズムを刻み終えたとき、ぼくはしばらく余韻に浸っていたかった。気の早い人が幾人か、パラパラと拍手をしてしまい(すぐにおさまったが)、静寂を乱したのが残念であった。“沈黙”も音楽の一部であるということは、尺八や琵琶の音楽を生んできた日本の国民にわからないはずはないのに・・・。

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 話は変わるが、先日「うかれないヴァイオリン」で取り上げた毛利文香が、エリザベート王妃国際音楽コンクールで6位に入ったというニュースが流れた。

 このコンクールではかつて諏訪内晶子が2位になったり、ぼくと同郷の戸田弥生が優勝したりしているので、それに比べると6位は凡庸な記録に思えるが、ぼくは彼女の実演に接したとき、世界の人の心をじゅうぶんに揺さぶるだけの実力をもっているのではないかと思ったものだ。

 まだ21歳ということだし、大いに化ける余地がある。これからも注目していきたい、若手女性ヴァイオリニストのひとりである。

(了)