てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

そら、ぼくの頭は固いですが・・・(4)

2010å¹´03月31æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 けれども、ときどきは、ああ地デジ対応のテレビを買っておいてよかった、と心の底から思える番組に出会ったりもする。

 特に、美術番組がそうだ。この手の番組はそれほど多くないだろうけれど、『日曜美術館』だったか『美の巨人たち』だったか、キャンバスの上に絵の具が盛り上がっているさままで見えるようで、感激したことがある。特に後者の番組はしばしば必要以上に絵画に接近してくれることもあり、画集などでは再現できないようなマチエールがあらわになる。

 かつて『原寸美術館』という画集が出版され、かなり評判がよかったようだが、テレビでは折にふれて絵画を原寸大以上に拡大して見せてくれるのである。それは人間の肌を虫眼鏡で見たときのように決して美しくはなく、特にムンクの『叫び』がアップで映し出されたときは「何て荒々しい絵肌だろう」と驚かされるほどだったが、そこにこそ画家の悲哀や激情が厚く塗り込められているというべきであろう。現代の女優であったら画質に合わせて化粧を念入りにするなどの処置を講ずることもできようが、美術作品となるとそうはいかない。ありのままの姿を、高画質の映像がありのままにとらえる。

 だいたいにおいて、貴重な美術品にはそうやすやすと近づくことが許されない。展覧会でも古い絵はガラス越しに鑑賞させられるのがほとんどで、あまり顔を近づけすぎると警備員がとんでくる。そんなフラストレーションを少しでも忘れさせてくれるのが、上記のような美術番組なのである。

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 もうひとつ、世界の自然や名所などを高画質で紹介してくれる番組も好きだ。代表的なのはTBSの『THE世界遺産』だろう。世界遺産を扱ったものはNHKにもあるが、こちらのほうがぼくには見ごたえがある。とにかく映像が凝っていて、美しい。ヘリコプターや水中カメラなどの機材を駆使し、撮影者の苦労がしのばれるような映像が次から次へと繰り出されるのは圧巻である。

 2年ほど前に『ベスト・オブ・世界遺産』という展覧会が梅田の大丸であった。三好和義や中村征夫といった著名なカメラマンの写真に加えて、会場に数か所設置されたハイビジョンのモニターに映像が映し出されるという構成だった。展覧会に映像コーナーがあるというのは、実はぼくはあまり好きではない。絵画などの美術作品を一点一点観るときのテンションと、VTRのように時間のかかるものを視聴するときのテンションとは、そう簡単に切り替えられるものではないと思うからだ。だがこのときばかりは、美しい映像につい惹き込まれてしまって長いことモニターを眺めていたのを覚えている。

 実際、『THE世界遺産』(前身の『世界遺産』も含めて)はこれまでさまざまな賞を受けている。ただ、この番組はソニーの提供ということもあって、最高級の機材を使うだけのベースはできているのかもしれない。もちろんそれを駆使して視聴者の心に響くような番組を作ることができるか否かは、人間の手にかかっているわけだけれど。

 同系列の局だが関西ローカルで流れている『美の京都遺産』も大好きである。日曜の朝にひっそりと放送されている15分番組だが、文字どおり京都に特化した内容だ。世界遺産ほどダイナミックな自然がふんだんにあるわけでもなく、最近は観光公害と呼びたくなるほど多くの観光客が京都に殺到していて落ち着いた映像を撮影する妨げになることも多いだろうが、まことに上質な番組作りを徹底させている。実際に京都に暮らしていたぼくが見ても、思わずはっとさせられるような美しいシーンが展開される。まさに、映像美とはこれではないかと思う。

(画像は記事と関係ありません)

(了)

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そら、ぼくの頭は固いですが・・・(3)

2010å¹´03月22æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 もうひとつ、今のテレビに関する不満を。

 気づいている人も多いと思うが、ここ数年のうちにテロップがやたらと表示されるようになった。これは映像に文字をのせる技術が進歩したのか、それとも肝心の映像技術のほうが行き詰まってしまったからなのか、いったいどっちの理由であろうか。

 たしかに、以前はテレビ画面上の文字の扱いは粗悪というか、あまり神経が払われていない感じがした。NHKのニュース番組では、報道の内容を簡略に文字でまとめたものをテロップにして映し出したりする。これは国営放送の視聴者の年齢層が比較的高いことに配慮しているのだろうと思うが(事実、地方の一般的な家庭、特に農家などでは夕方のニュースのNHK占有率はかなり高いのではないかと思われる)、かつて福井のニュースで実際にこんなことがあった。リヤカーをひいた人が道路を横断しているところにトラックが通りかかり、その人がはねられて怪我をしてしまったというのだ。ところが、この平凡な事故のニュースを字幕は次のように伝えていた。それは驚くべき内容であった。

 《リヤカーをひいて横断中、トラックははねられ、一週間のけが》

 これでは、トラックがリヤカーにはねられたという前代未聞の珍事ということになる。“トラックに”とすべきところを“トラックは”としてしまったのだ。地方の一放送局という事情もあろうが、画面にのせる文字を専門に担当する係がいなかったのかもしれない。テレビにおける文字の重要度というのは、まあその程度のものだったのである。

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 文字放送というのもある。これはたとえば耳に障害をもつ人のために、テレビの登場人物が喋っている内容を文字におこしたものを映画の字幕のように映し出す仕組みである。

 京阪電車にはテレビカーという車両があって、常時テレビがつけっぱなしになっているのだが、乗客の全員がテレビを見たがっているわけではないので、スピーカーは座席の横についている。先日ぼくが乗ったときは大相撲の中継をやっていて、なまの実況が字幕化されて流れていた。真剣にテレビを見たいわけではないが、何となく内容を知りたいとき、文字放送というのは意外と役に立つ。

 だが、今では文字放送の存在を差し置いて、普通のテレビ番組でどんどん文字が流れる。タレントが喋っていることがちゃんと聞こえているのに、それを文字でも読まされるのが当たり前になっている。バラエティーに限らず、ニュースでもインタビューの内容を文字にしたりしている。

 こうなると、すでに一種の“演出”であろう。タレントの発言をビジュアル的に増幅させるおもしろいテロップをどうやってつけるか、そこにディレクターの手腕が発揮されているようなのだ。いつからこんなことがはじまったのかわからないが、ぼくにはかなり違和感があるのである。喋りを文字で補ってもらわなければ存在し得ないテレビタレントって、いったい何者だろうか?

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 先日、たまたま日曜日に家にいたので『パネルクイズ アタック25』という番組を見ていた。ぼくが物心つく前からやっている老舗の番組だが、このたび改めてよく観察してみると、画面に表示される文字がまことに少ない。クイズ番組だったら必ずといっていいほど問題文が字幕で流され、たとえば少し離れた台所で水仕事なんかをしながらでも眼だけでクイズが楽しめるのだが、それすらもないのには驚いた。解答者が答えたあとに、正解が画面のすみのほうに小さく表示されるぐらいだ。

 出題はアナウンサーのはきはきした声で読み上げられ、スタジオに響きわたり、一般参加の出演者を包む緊張感までが伝わってくるようでさえある。文字で補助する必要など、何もないのだ。これが本来の、テレビの音声というものなのではなかろうか。

 そしてもうひとつ痛感したのが、不要なテロップがないことによって画面がゆとりをもって感じられたことだ。せっかく地デジ化に応じてテレビ画面が広くなりつつあるのに、多くの番組は所狭しと文字が躍ることによってスペースを無駄につぶしてしまっている。いらない字幕を撤廃してしまえば、あえて画面を大きくする必要などないのではないか。そんな気がして仕方がないのである。

(画像は記事と関係ありません)

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そら、ぼくの頭は固いですが・・・(2)

2010å¹´03月21æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 ちょっとの間でもテレビをつけているだけで、「地デジ」という言葉がやたらと流れるのに気づかないわけにはいかないだろう。

 もちろん「地上デジタル」の略だが、テレビのデジタル化移行キャンペーンが本格的にはじまった初期のころから、「地デジ」という馴染みのない言葉がなかば無理矢理のようにして視聴者の耳にすり込まれることとなったように思う。「デジカメ」など、これまで接頭語のようだった「デジ」が末尾についたこの新語は、決して発音しやすくもなく、心地よい響きをもたらすものでもない。もちろん流行語というわけでもない。いわば必要に迫られてひねり出され、海外のどこかの新しい首相の名前のように常識として覚え込むことを余儀なくされた、悲壮な使命を帯びた言葉である。地デジ完全移行後は、あの奇妙な鹿のキャラクター「地デジカ」とともに、たちまち消えてなくなる運命にあるのではなかろうか(吉野家がメインの商品を販売できない間に活躍した豚のキャラクター「吉ブー」が、牛丼の復活とともに遠くへ旅に出てしまい、二度と帰ってはこなかったように)。

 ただ、アナログテレビがその役目を終えるとされる2011年7月24日までには、まだ1年と4か月ほどある。それまでの間、何回「地デジ」という言葉を聞かされることになるのか、ちょっと考えただけでもうんざりするというものだ。

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 ちなみにぼくは、去年の結婚の際にテレビを新しいものに買い換えたので、「地デジ対策」は(実をいうと、対策をとろうという自覚は特になかったのだが)すでにすんでいる。バンクーバーオリンピックも、忙しい仕事から帰った短い時間ではあったけれど、地デジで楽しんだ。でもそういった一部を除いた多くの番組は、地デジの魅力とされる高い画質と横長になった画面に見合う内容なのかどうか、平たくいえば地デジで見るほどの価値のある番組なのかどうか、いささか疑問が残るのもたしかだ。

 そもそも、テレビの制作サイド自体がどこまで地デジに適応する番組を作るつもりでいるのか、今ひとつはっきりとしないうらみが残る。映像の見え方の問題ばかりが喧伝され、そのソフトともいうべき放送内容に関しては、くだらないバラエティーが多いとか何とかいう低次元のレベルの議論しかなされていないように思われる。視力が落ちたので眼鏡を買い替え、素晴らしくクリアな視界を獲得できたまではいいが、見えるのは道端にゴミが捨てられていたり落書きされていたりする醜い街並みばかりだった、というにも等しい。一斉に足並みそろえて「地デジ対策」をとらされた一般庶民にとれば、これは一種の悲劇である。

 地デジ対応テレビで現行の番組を見ていると、広がったはずの両サイドに番組名が出ていたり、変な模様が出ていたりして、拡大された画面を持て余しているようなものが多い。もちろん同じ番組をアナログテレビでも放送できるように、いわば“遊び”の部分を残しているわけだろう。しかし地デジ完全移行化が終了した暁には、そのスペースも有効に活用した番組作りをせざるを得ないはずだ。きたるべきその日に対してのどれだけの心づもりが、果たして番組制作者たちの意識にのぼっているのか、ぼくは具体的に聞いてみたい気がする。

(画像は記事と関係ありません)

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そら、ぼくの頭は固いですが・・・(1)

2010å¹´03月14æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 まず、詫び言から書きはじめねばならない。

 およそ40日にもわたる長い間、このブログの更新を怠ってきたことについてである。もちろん何の理由もなくほったらかしていたわけではない。ただ、職場が極度の繁忙期を迎え、日ごろのことについて書きとめたり芸術について思考を重ねたりするどころか、夫婦で夕食のテーブルを囲むことすら難しい毎日を送るはめになってしまった(そんな些細なこと、とっくの昔に放棄してしまっている家庭も少なくないとは思うけれど)。

 今のところは大過なく乗り切っているが、まだこの忙しい日程が終わったわけではない。しかし何としても、放置したままのブログの存在がいつも気にかかる。仕事帰りの疲労にかまけてパソコンを立ち上げることさえサボりがちだったが、ここは怠け心に鞭打って、いっそのこと、しょうもないことでも書いてやろうかと思った。

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 多忙な仕事の合間のたったひとつの息抜き、通勤電車の読書だけは懸命につづけてきたが、そのなかの一冊に川上未映子の『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』(講談社文庫、上図)という本があった。2008年に芥川賞を受け、女優や歌手としても活躍している多彩な彼女だが、著書はまだ一度も手に取ったことがなかった。まずその強烈なインパクトのタイトルが、わけもなく読むことをためらわせたのである。

 ところがいざページを開いてみると、野坂昭如を思わせる怒涛のような饒舌体が渦を巻いているなかに頭から埋没せざるをえなかった(しかも、ぼくがあまり好きでない関西弁で)。言葉のプロが紡ぐ文章が本来もつべき品位があるとするなら、そんなものは過激な情感の奔流にもろくも押し流され、目的もなく計画もなく、ただただ文字がぎゅうぎゅう詰めになって眼の前を過ぎていく。川上ワールドは、初対面のぼくでさえ、いとも簡単に「すこん」と入り込ませてしまった。いや、飲み込んでしまった。ただ、迫力に圧倒されながら読み終えてみると、何が書いてあったかあまり覚えていないのである。

 この本は随筆集というふれこみだが、これまでに読んだどの随筆とも似ていない。というのも、ここに収められた文章はすべてブログとして綴られたものだからだろう。ぼくはブログという媒体を通して書物における随筆に近いものを目指してきたのだが、それとはまさに対極的である。しかし、こんな随想のあり方もあっていいのではないかと考えた。

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 「口から生まれた人」は敬遠される傾向にあるし、「頭から生まれた人」もまた同じであろう。しかし、「頭」と「口」が見事に合致したところに、いきいきとした表現が立ちあらわれる。これは一種の“化学反応”といえなくもない。川上未映子は、話し言葉からあまり距離のない「ブログ」という舞台を自在に駆けずり回ることによって、ともすると日常の隙間に埋もれ去りかねない微細な思考のはしばしを定着させ、われわれの前にまるごと差し出した。その読後感は別として、何をおいても文章を書くぞ、日々書きつづけるぞという意志がひしひしと伝わってきて、何も書けないでいたぼくはたちまちノックアウトされてしまったのである。

 というわけで、ぼくも何かを書かなければならないと、柄にもなく奮い立ったわけであった。とりあえず仕事が落ち着くまでは、こんな調子で書き継いでみたい。どうかご容赦を。

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