てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

巳年の終わりは竜頭蛇尾

2013å¹´12月31æ—¥ | é›‘想


 2013年は、本当に情けない一年だった。

 10月までは毎日のブログ更新を欠かさず、さまざまな記事を自分のペースで綴ってきて、それが生き甲斐でもあったのだが、11月ごろからついに息切れしはじめ、パソコンから遠のく日々が多くなった。

 その理由としては、やはり仕事に振り回されたことが大きい。これではもたないと、今年いっぱいで転職することにしたのだが、再び芸術を生活の中心軸に据えることができるかどうか、自信はない。

 書きかけのままになっている記事が何本かあって、それが心残りだし、いまだに稿を起こしていない記事もいくつかある。それらがいずれ完結するのかどうか、今は何ともいえない。ただ、年の区切りをひとつのバネにして、もう一度気持ちを新たにしたいと切に願っている。

 ただ、こんな虫のいい願望は、そんじょそこらの神社に詣でても、容易に叶えられないだろう。自分で自分の尻を叩くために、年明け早々、東京行脚を敢行することとした。何といっても東京は、関西の美術館に比べて、正月休みが驚くほど短いのだ。予算の関係で高速バスでの移動になるため、Uターンのラッシュに巻き込まれないかどうか今から不安だが、東京で栄養をたっぷり吸収して、充実した新年に備えられればこんなにうれしいことはない。

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 本年も、つたないブログにお付き合いいただきましてありがとうございました。皆様のご多幸をお祈りして、ぼくにとっては不本意だった一年を締めくくることにいたします。

 来年もご愛読いただければ幸いです。それでは、よいお年を。

(画像は記事と関係ありません)

ある事後報告

2012å¹´05月02æ—¥ | é›‘想

〔日比谷公園に咲くポピー〕

 暇もカネもないのに、連休の狭間に東京行きを敢行した。

 もちろん気楽な旅行とは正反対の、決死の強行軍だ。ぼくの美術好きの経歴において、ひいては今後も美術随想を書き継いでいくうえでも、どうしても取り逃すことができないという3つの展覧会を観るためである。

 本当はもっと観たいものがあったのだが、予算と日程の都合で泣く泣く絞り込まざるを得なかった。交通手段としては、夜行の高速バスを選んだ(バス嫌いの妻は同行せず、今回はひとり旅となった)。4月30日の夜に大阪を発ち、5月1日の朝から晩までを東京で過ごして、2日の早朝に帰阪するというスケジュールを立てた。はやりの言葉でいえば、弾丸ツアーということになろうか。もちろんホテルには泊まらない。

 旅の詳しい内容については、また改めて長大な記事を書くことになると思う。だが、肝心の展覧会のこと以上にぼくの気になったのは、先ごろ関越道で起きたツアーバスの事故だ。今回利用したのはツアーバスではなく毎日運行される定期バスだったけれど、夜間の高速道路を走行するという点では、同じである。連休に突入して浮かれていた気持ちに、一気に水を差すニュースだった。

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 結果からいえば、無事に予定をこなして帰ってくることができたので、今こうして記事を書いているわけだ。東京と大阪を安価で結ぶバスはほとんど満席状態で、若い人ばかりではなく、やや年配のお客の姿もあった。

 ぼく自身、これまで高速バスを利用したことは何度かあるが、夜行に乗ったのは5年前に広島に行って以来のことである。何しろ生まれてはじめてのことだったので、どうなることか不安もあったが、運転手の物腰が非常に丁寧で、安心した。電車の車掌のアナウンスなどを聞いていると耳を聾する大音響に辟易することもあるが、そのときの夜行バスの運転手は聞いている人の眠りを誘うような穏やかな口調であった。

 もちろんすべての運転手がそうだというわけではない。けれども、今回の東京への往復便を運転してくれた人も、落ち着いた話し方をする人だった。バスガイドがいるわけではなく、旅程や到着時間などの説明は運転手が走行中におこなうわけで、気が散ったりして危険ではないのかと心配もしたが、訥々としたしゃべりのリズムがいかにも「運転に集中しています」ということを主張しているような気がした。

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 先日の事故に関しては、運転手の日本語が流暢でなかったことが指摘されている。それが事故そのものとどう関係するのかわからないけれども、乗客の不安感を払拭するためには、運転手の人柄は重要である。「この人なら安心して任せておける」と思わせるだけものをもっていないと、おちおち眠れないかもしれない。

 ちなみにぼくは往復ともに、左の窓際の席だった。壁に激突すれば、もっとも被害を受けやすい場所だ。だが運転手に全幅の信頼を置いていたおかげで、ちっとも不安に襲われることはなかった。周りが他人ばかりのバスのなかで、誰ひとり信用できないということになれば、その旅は恐怖にみちたものにならざるを得ない。

 あの悲惨な事故を受けて、関係各社はビジネスの原点ということを改めて考えてみるべきときではないか。重要なのは金儲けのためにあらゆる手段を講じるということだけではなく、合間に顧客との円滑な関係を差し挟むことを忘れてはならない、と痛感している。

(了)

花火をめぐって(1)

2009å¹´08月04æ—¥ | é›‘想


 関西では、梅雨が明けないまま8月に突入した。観測史上、もっとも遅くまで居座った梅雨だそうだ。

 異常気象にはもう慣れっこになっているはずだが、今年の夏はいよいよ変である。日食が起こる時間は秒単位で予測できるのに、天気というのはいくら技術が進んでもなかなか予想できないらしい。悪天候に泣かされた先日の皆既日食は、この両方の格差が極端なかたちであらわれた格好だろう。

 けれども、いつまで経っても変わらないものもある。それは、われわれの国民性である。人間の気持ちなんて、風にそよぐ草のようにどこに靡くかわからぬものだと思っていたが、たとえば日本人の花火好きは相変わらずだ。大規模な花火大会は毎年必ず開かれているし(資金難やら何やらで中断したものもあるが)、年を追うごとに盛り上がりを増すような気さえする。山下清が描いた長岡の花火大会は、実に100年以上前からつづいているという。

 かくいうぼくも、毎年一度は打ち上げ花火を見ないと気がすまないたちだ。しかし以前まで住んでいた京都市内では、かつて御所が火事になってからというもの花火大会はおこなわれていないので、遠くまで出かけなければならなかった。去年は宇治の花火大会を見に行ったが、ラッシュアワーを上回る混雑ぶりにうんざりした。花火は好きだが人込みは嫌いだという究極のジレンマに頭を悩ませながらも、夏が近づくと花火観賞の計画を練るのが例年のならわしになっているのである。

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 8月の最初の日、兵庫県立美術館に出かけた。「躍動する魂のきらめき ― 日本の表現主義」と題する展覧会だ。この展示の中身について、そのうち当ブログで書くかどうかはわからないが、土曜日にもかかわらず観覧者の少なさが気になった。テーマのとっつきにくさに加え、京都でのフェルメールのように目玉となる極め付きの名画があるというわけでもなく、マスコミを巻き込んだ盛大な宣伝を繰り広げているわけでもないので、あまり人目に触れなかったのだろう。本当に美術そのものに興味のある、いわば玄人向けの内容だった(企画者の名誉のためにいえば、こうした展覧会こそが本来の姿であると思うが)。

 閑散とした展示室のなかを歩き、いつもはパスしてしまうことの多いコレクション展もひととおり観てから、1階にある「美術情報センター」で時間をつぶした。ここはいわば美術関係の本ばかり集めた図書室で、全集や図録や雑誌など膨大な資料が網羅されている。パソコンの端末が置いてあるほか、カウンターには職員が待機していてレファレンスにも応じてくれるようだが、ぼくは書架に置いてある本を適当に眺めるぐらいしかしたことがない。美術を学ぶ学生などにとっては夢みたいな場所だと思うのだが、いつも2、3人しか利用者がいないようだ。

 さて、この日は夜間開館日で時間がたっぷりあったので、閉館ぎりぎりまでそこに居座っていてもよかったが、夕方6時を過ぎると夕飯を食べるためにそそくさと外へ出た。通りには、浴衣姿の若い女性や家族連れが目立つ。というのも、その日は「みなとこうべ海上花火大会」が開催される日だったからだ。

 神戸新港沖の海上から打ち上げられる花火は、かなり広い範囲から見ることができるようで、メリケンパークやポートアイランド、ハーバーランド、兵庫埠頭などが観覧場所として挙げられていたが、ぼくは人込みを警戒して、ちょっと遠い美術館沿岸から見るだけでもいいかなと思っていた。現に美術館内には、海沿いの階段からも花火が見える旨の案内が書かれていたし、浴衣を着た人は無料で展覧会を鑑賞できるという特典までついていたほどだ。そのせいか、しっとりとした浴衣姿で前衛的な表現主義芸術の前にたたずんでいるという不思議な情景もちらほら見受けられた(しかし浴衣で展覧会をじっくり観るには、館内はかなり温度が低かった)。

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 急いで冷麺を喉に流し込むと、早足で海沿いの道へと向かった。途中に三宮行きのバス停があり、それに乗って打ち上げ場所に近いあたりまで向かうことも考えたが、ぎゅうぎゅう詰めの人込みのなかに投げ込まれることを考えると、少し遠くからでも快適に見ていたかった。かつて『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』という映画があったが、ぼくの場合は「近くから見るか?遠くから見るか?」の二者択一であり、今回はためらわずに後者を選んだわけである。

 美術館の南側、巨大な庇が海に向かって突き出しているその先に、広い階段がある。設計者の安藤忠雄は、大阪のサントリーミュージアム[天保山]でもこれと同じことをやっているが、美術を閉鎖的な空間に閉じ込めることをせず、隣接する海との間をスロープや階段で有機的に結びつけるのだ。しかしこの美術館の入口は北側に設けられているので、普段はここにまで足を踏み入れる人はほとんどいない。

 けれども今日ばかりは、花火を見ようという人が大勢腰かけていた。といってもせいぜい数十人程度で、スペースにはかなり余裕がありそうだ。ぼくは欲を出して、もっと高いところから見ようとスロープをのぼっていった。

つづく

星に願いを

2009å¹´07月07æ—¥ | é›‘想


 さて、七夕である。ふだん星空のことをなかなか話題にできない都会暮らしには ― といっても今住んでいるところはかなり郊外だが ― 都合のいいきっかけにはなる。

 夜が暗く、星は明るい福井に生まれ育ったぼくは、10歳のころには自他ともに認める天文マニアだった。とはいっても小学生レベルの話だから可愛らしいものだが、夜空を見上げて星座のひとつやふたつを見つけ出すのはわけもないことだった。子供向けに書かれた宇宙関係の読みものもよく読んでいた。

 星座の多くには神話が伝わっていて、「死んだ誰それを神が憐れんで天に投げ上げ、それが何々座になりました」などと書かれていると、何とはなしにロマンチックな思いにとらわれた。このときの経験は、今になって西洋の絵画などを観るときに大いに役に立っている(先日出かけたルーヴル展でも、ギリシャ神話を題材にした絵がいくつかあった)。

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 家に天体望遠鏡があったことも、ぼくの天体熱に拍車をかけた。天気がよければ家の前に望遠鏡を出して、星雲や星団などを追いかけたものである。

 そんなぼくが14歳になったころ、有名なハレー彗星が地球に最接近するというタイミングに恵まれた。長い尾を引いて夜空にあらわれるほうき星の姿を一度も見たことのなかったぼくは ― といっても、あれは高感度のフィルムで撮影された写真だからそのように見えるのかもしれないが ― 胸をときめかせながらその瞬間を待った。しかし残念なことに、さまざまな悪条件が重なり、わざわざ光の少ない山の上まで出かけて望遠鏡をのぞいてみても、あるかなきかのぼんやりした染みのようなものが見えたにすぎなかった(次にハレー彗星がやって来るのは2061年だということだが、運よく生きていても90歳の爺さんだ。まあ無理だろう)。

 だが、そのときは彗星が肉眼で観測できなかったかわりに、底知れぬ野望を抱いた学者たちは科学技術の粋を集め、あろうことかハレー彗星めがけて探査機を打ち込んだ。その名は、「ジョット」(当時は「ジオット」といっていた)。もちろん偉大な画家の名前であるが、彼の壁画のなかにハレー彗星が描かれていたことから、その名がつけられたのだという。そこに搭載されたカメラが映し出す生の映像を、ぼくは家ではらはらしながら見ていた。

 その結果、彗星はいびつな氷の塊にすぎないということが明らかになった。知識としては知っていたが、それが動かぬ事実となって突きつけられてみると、魔女のまたがる巨大なほうきのような魅力的な姿に胸ときめかせたぼくの天体少年時代は、音を立てて崩落せざるを得なかった。科学とは人類が進歩するために必要不可欠なものだが、無邪気な若者の夢を容赦なく破壊してしまうという大きな弊害をもってもいるのだ。


ジョット『東方三博士の礼拝』(スクロヴェーニ礼拝堂蔵)
上に描かれているのがハレー彗星とされる

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 さらにさかのぼって、幼稚園のころの話である。七夕集会のようなものがあって、みんなで「笹の葉さらさら・・・」などと歌ったあと、ぼくたちはめいめいコップを持って椅子に座らされた。やがて先生がやかんを持って登場し、「みんなに天の川の水を飲ませてあげよう」といって、白濁した冷たい液体を注いでまわった。

 そのときはもちろん、天の川が星の集積であるということは知らなかったので、ぼくたちは喜んでそれを飲み干した。いったいどうやって、先生たちはこれを手に入れたのだろうと思いながら・・・。その水はとてもおいしかった。ただ、何かの味に似ている気もした。

 今でもこんなことをやっている幼稚園があるかどうかはわからない。けれども、眼を輝かせて天の川の水を飲んでいる子供たちに「実はね、それはカルピスなんだよ」と真実を告げることは、ハレー彗星に向かって探査機を打ち込むほどに乱暴なことだろう。

2009年の折り返し点

2009å¹´07月06æ—¥ | é›‘想


 あまりにも更新の間隔があいてしまった。せめて近況だけでも書いておかないと、これでは筆者が生きているのか死んでいるのかわからないと思う方がおられるかもしれない。結論からいうと、ぼくはやや疲れてはいるものの元気だし、美術鑑賞もやめていないが、不本意ながらそれをまとめる時間がなかなか捻出できないのだ。

 今、ぼくの頭のなかには3人の画家がうごめいている。クレーとゴーギャン、そして時代は一気にさかのぼってフェルメールである。この3人はほとんど何の関連もないかもしれないし、意外なところでかかわっているような予感がしなくもない。しかしそれを解き明かすのはまだこれからの、しかも少々やっかいな仕事になりそうだ。といっても、そんなことをやってみたところで、何ら生活の足しになるわけでもないけれど・・・。

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 印象批評、という言葉がある。世の中の圧倒的多数の人が、展覧会を観るなりしてブログや日記に書き留めたり、手紙やメールで知人に書き送ったりする文章は、この印象批評に属するだろう。つまり、絵を観て自分は何を思ったか、どんなふうに感じたかというような、素朴で率直な感想である。もちろん、それはそれでかまわない。

 しかし美術の世界には、ただ印象を綴っただけでは作品の本質になかなか触れ得ないのではないかという作品が多く存在することも事実だ。ぼくはこれまで主として、絵画の表面に描かれているものに隠された内なる淀みというか、人間の営為に関する謎というか、表立ってはあらわれてこないことを積極的に読み取ろうと試みてきた。もちろん、そこにはかなりの想像力も介入する。いってみれば、フィクションの要素がなきにしもあらずなのである。

 しかしそれをなしとげるには、時間がかかる。多くの資料に眼を通したり、思考を重ねることにもなる。ぼくにとって展覧会とは、美術館から外に出た途端に終わりを告げるものではない。むしろそれがはじまりであって、美術館で接したたくさんの芸術家の“気配”がぼくの生活にも影を落とすのは、そのときからである。

 たとえば古い映画を観たときには、機械で厳密に ― ときには非人間的なまでに ― 管理された現代社会をつかの間忘れ果て、きめこまやかな情の支えを頼りに人々が生活していた時代へと、ふと思いが羽ばたくことがある。等身大の自分を抜け出て、ひとまわり大きな視野というか、今いるところの重力から解き放たれた自由なものの感じ方を獲得することができる。ぼくが好んで美術を観るのは、ひとえにその感覚が味わいたいからであって、門外不出の珍品がやって来たからとか、教科書にも載っているような誰でも知っている名画が展示されているからとかいうような理由ではない。その絵がぼくのなかに深い思索を呼び起こすとき、それはぼくにとって第一級の名画なのである。

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 クレーは、「ピカソとクレーの生きた時代」という展覧会でまとめて観る機会があった。6月の最初から書きはじめた「20世紀美術の展開図」という連載を、そのクレーの記事で締めくくろうと思いつつ、ぼくははたと行き詰まってしまったのだ。というのも、ぼくにとってクレーは人間の根本的な深い謎に色とかたちを与えようとした哲学者のごとき存在だからである。彼の絵は美しいが、難解きわまりない。クレーを絵画の詩人などと表現することがあるが、それは全然間違っているとはいわないけれど、少し美化しすぎではないかという気もする。

 吉行淳之介が書いた『砂の上の植物群』という長編小説のタイトルが、クレーの作品名から借用されたものであることは知っていた。しかし、場合によってはかなり変態的な性愛をモチーフとする吉行文学はぼくの好みとするところではなくて、その小説も読まないできたのだが、このたび何かのきっかけになればと思い、はじめてひもといてみた。たしかにストーリーの合間で唐突に作者によるクレーへのオマージュが語られ、クレー自身の文章が引用されたりしているものの、吉行が書きたいこととクレーの絵との関連がぼくにはどうしてもつかめず、残念ながら途中で投げ出してしまった。ぼくはこれまでクレーに性的な匂いを嗅ぎとったことは一度としてなく、むしろ男女の哀歓などを超越した深層へと彼は降りていったのではないかと空想している。晩年、クレーが天使の線描画を繰り返し描いたのも、それが人間の性差を乗り越えた普遍的な存在だからではあるまいか?

 ゴーギャンについては、先日名古屋で『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』を観た。その絵がどうしても観たくて、高速バスに飛び乗って出かけてきたのである。これはクレーとは別の意味で、哲学的な絵だ。むしろタイトルそのものが、永遠に解決されない哲学の大命題ともいえる。クレーは色と形体で世界を表現したが、ゴーギャンはあくまで人間を描こうとした。彼はその意味で、自分自身の呪縛からのがれることができなかったのだ。そんな人間のもろさを知っていたからこそ、あえて遠く離れたタヒチへと旅立っていったのではなかろうか。

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 フェルメールについては、ルーヴルからやって来た例の『レースを編む女』のことを考えている。この展覧会は先日、京都での巡回展がはじまり、ぼくもさっそく出かけていった。会期もまだあるので、これからゆっくりと記事にまとめていくつもりである。

(画像は記事と関係ありません)