てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

舟越保武へのオマージュ(3)

2005å¹´09月29æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 舟越保武の彫刻を写した写真集が手もとにある。恥ずかしい話だが、彫刻家としての彼を知る手がかりは、今のぼくにはほかにない。ページをめくっていくと、大理石に刻まれた端正な人物像が次々と現れる。それに混じって異形の男がひとり、両手をだらりと下げ、やや右に傾きながら突っ立っている彫像の写真があった。『ダミアン神父』の像である。

 舟越は随筆の中で、20世紀の美術に横行する過度なデフォルメについて疑問を投げかける。

 《平凡なものを平凡に描いて、しかもその画面が、高い品格を持って人の心に深く沁み込むことこそが、作家の本来の姿勢でなければならない、と私は思う。

 人間のまともな自然な顔形をわざと歪めて作る作家は、もし病によって醜く崩れ変形された顔を描く時はどうするだろうか。ずっと前から、このことが私の心にひっかかっている。

 バランスのとれた整った顔を故意に崩して描く作家は、現実に崩れている顔を描く時は、どのように描くのだろうか。》(「病醜のダミアン」)

 この文章は、彼の芸術に対する姿勢を要約しているように思われる。高潔さをたたえた彼の作品が、何よりもそれを証明しているだろう。しかし『ダミアン神父』の顔は醜くただれ、耳や唇は変形し、手の指はでこぼこに波打っているのである。


 1873年のこと、ベルギー人の年若い神父ダミアンは、ハワイ諸島のひとつモロカイ島に宣教師として赴任した。今では屈指の観光スポットとして知られるこの島だが、当時は癩病(ハンセン病)患者を隔離する場所だった。彼はみずから志願して、この地に乗り込んでいったという。しかし患者たちは、神父の言葉に耳を傾けようとしない。「あなたたち癩者は・・・」と語りかけても、癩を病んでいないダミアンは、別の世界の住人でしかなかったのだ。

 悩み抜いたダミアンは、患者たちと進んで接触し、食事をともにし、彼らの中にとけこんでいった。10年ほど経って、ついに同じ病気がダミアンの体を蝕みはじめた。そうなって初めて、ダミアンは患者たちに向かって「われわれ癩者は・・・」と語りかけることができたのである。舟越が作り上げたのは、宣教師でもあり癩病患者でもあったダミアンの姿だった。右に傾いているのは、左の膝にまで癩が侵食していたからだ。

 《助手のK君は、本当によく仕事を手伝ってくれた。私はK君が気味悪がることを怖れて、始めは普通の健康な顔と手を作った。K君はそのまま完成することと思っていたらしい。一応その形で出来た日に、初めて私はK君にダミアンのこと、その病気のことを話した。

 それからのK君は前より無口になったが、手伝う仕事に熱がこもったようだった。

 夏の陽が傾いてアトリエが暗くなりかかった時、私は脚立に上がって、突然ダミアンの美しい顔に襲いかかるように結節を作った。眉毛の形を落とし、鼻をつぶし、耳を腫れ上がらせた。この時、私は自分が悪魔になったような気持であった。私は足ががたがたして、結節を作る自分の手がふるえてしようがなかった。

 夕闇の中で私は、私の作った病醜の顔と向き合って立っていた。》(同)

 ダミアンは島を出ることなく、その地で死んだ。故国ベルギーには、病気になる前の若く美しいダミアンの銅像があるという。舟越は、その方がいいのだ、といいつつも、こうつづける。

 《ただ私はこの病醜の顔に、恐ろしい程の気高い美しさが見えてならない。このことは私の心の中だけのことであって、人には美しく見える筈がない。それでも私は、これを作らずにはいられなかった。私はこの像が私の作ったものの中で、いちばん気に入っている。》(同)


 生前の舟越保武の姿を、一度だけテレビで見たことがある。それはNHKスペシャルの「老友へ ― 八十三歳彫刻家ふたり」という番組だった。83歳というから、今から10年前のことになる。ふたりの彫刻家とは、舟越と、彼の同級生でもあった佐藤忠良(ちゅうりょう)のことである。

 舟越と並ぶ具象彫刻の大家となった佐藤は、民話「おおきなかぶ」の挿画を描いたことでも知られるが、まだ存命している。83歳当時の姿もかくしゃくとしていて、元気に等身大の女性像を作っていた。ただし番組の収録中に、展覧会に向けて制作中だった塑像がバランスを崩して倒れ、出品できなくなってしまった。粘土のかたまりと化した自分の作品をばらしながら、佐藤は苦笑いを浮かべ、作るのには何か月もかかるが壊すのはたった5分だ、というようなことをつぶやいたのを覚えている。

 一方の舟越はというと、こちらは車椅子のいたましい姿だった。彼は75歳のときに脳梗塞で倒れ、右半身の自由を失っていたのである。かつての美しく研ぎ澄まされた人物像を作ることは、永遠にできなくなった。

 しかし彼は、彫刻をやめようとはしなかった。大きな粘土のかたまりを作ってもらい、彼は左手にヘラを持ち、粘土を徐々に削っていった。それが彼に残された唯一の制作の手段だったにちがいない。車椅子を動かしながら、ヘラひとつで粘土と格闘する舟越を見て、ぼくは目頭が熱くなって仕方がなかった。彼の姿は今でも、ぼくの脳裏にはっきり焼きついている。

 やがて粘土のかたまりの中から、少しずつ人物の顔が彫り出された。それは紛れもなくイエスの顔だった。ゴルゴタの丘における、全人類の苦悩を一身に背負ったような男の悲痛な顔だった。舟越は、仕上げとばかりに、イエスの額に十字架を刻みつけた。

 舟越保武は3年前の2月5日、この世を去った。奇しくも、長崎で26人の聖人が殉教したのと同じ日だった。


 舟越の彫刻をろくに観たこともないくせに、彼をたたえる文章を書くなど、早まったことをしているといわれてもやむを得ない。それは日本を一歩も出たことのない人が、外国の素晴らしい風土や人間性について得々と話すようなものかもしれない。ぼくは写真と随筆、そしてテレビに映った車椅子姿の記憶によってしか、彼を知らないのだ。

 しかしそれだけでも、彼の存在はぼくを強く揺さぶってきた。いつか必ず、彼の作品と対面する機会があるだろう。そのときは、気がすむまで向き合っていよう。そして、天の上の彫刻家に向かって、思いのたけを語りかけたい。


参考図書:
 『巨岩と花びら-舟越保武画文集』
 ちくま文庫

 『舟越保武 石と随想』
 求龍堂

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舟越保武へのオマージュ(2)

2005å¹´09月28æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 敬虔なクリスチャンであった舟越保武には、透明な美しさをたたえた聖人や聖女の像が多い。なかでも代表作とされるのが、『長崎26殉教者記念像』というレリーフ状の彫刻である。豊臣秀吉の時代、禁教令によってキリシタンへの弾圧が激化する中で、1597年2月5日、長崎の丘の上で宣教師や信者たち合わせて26人が処刑された。イエス・キリストさながらの、磔刑による殉教であったという。26人は後年、教皇によって聖人に列せられた。彼らに祈りを捧げるために建立されたのが、今も残る大浦天主堂である。

 舟越が作った記念像は、殉教の舞台となったまさにその場所にあるそうだ。写真でしか見たことがないが、等身大の26人の聖人が横一列に並び、手を合わせて祈る姿が彫られている。ぼくはクリスチャンではないけれども、いつかこの地を訪れ、殉教者たちと向かい合って立ち尽くしてみたいと思う。


 舟越は随想の中で、この記念像のありかを探し求めるがどうしても見つからないという夢を何べんも見た、と打ち明けている。彼が渾身の力を込めて彫り上げたこの彫刻には、彼の信仰心だけでなく、個人的な記憶が塗り込められていることにも触れている。

 《この制作に私は私なりに、作家生命を賭けるつもりで、四年半をこれに没頭した。全力を尽くした。自分が作っている粘土の像が亡くなった父の顔に見えて、それが私に話しかけるように思われたこともあった。少年の頃の私のがむしゃらな反抗が、どんなに父の心を傷つけたことだろうかと、断腸の思いでその像の前に立ちすくんだこともあった。

 制作中のさまざまな想い出が、今でも鮮明によみがえって来る。

 四年半の制作中、アトリエに寝たので、いつも私の頭上に聖人像があった。貧苦に耐えて制作を続けた。

 それなのになぜ夢の中では、本当の二十六聖人像が見えないのだろうか。せめても、あんなに憑かれたように探しまわっても見つからないような残酷な夢は見ないようになりたい。》(「夢の中の長崎」)

 そして最後はこう締めくくっている。

 《昨年の秋、長崎に行って、今度こそはどうでも自分の眼に焼きつけておこうと、像のまん前にすわりこんで、ながい時間、眼がいたくなるまで二十六体の彫像をにらむように見据えてきた。》(同)

 これは記念像の制作から15年後に書かれた文章である。かつて自分が手がけた作品を“眼がいたくなるまで”見つめる彫刻家の姿。このエピソードを読むと、ぼくは自分を省みて赤面する思いがする。普段からしょっちゅう展覧会に足を運んではいるが、果たして自分の目には、彼らの仕事がどれほど見えているのか、おぼつかない気がしてくるのである。

 1枚の絵なり、1体の彫刻なりを、“眼がいたくなるまで”観た記憶は、ぼくにはない。舟越保武は彫像の足もとで寝起きしたと書いているが、芸術家たちが作品の前で過ごす時間と、ぼくたちが作品の前を通り過ぎる時間とは、気の遠くなるような差がある。

 絵をコレクションしている人であれば、画家がそれを描いていたのよりも長い時間、自分の手もとに置いておくことができるだろう。でも普通ぼくたちは100点ほどの作品を1時間か2時間ぐらいで観てしまって、あの絵は好きだがこれは嫌いだなどと、気楽な感想をいっている。もちろんそれ以外にどうしようもないのだけれど。


 大阪の万博記念公園には、太陽の塔の背中に面して美術館が建っていた。国立国際美術館というのだが、館内のあちこちには比較的新しい彫刻作品が常設展示されていた。そのなかにひとつ、やや古めかしい彫像があった。それは鎧兜を着込んだ男の立像で、現代美術館よりも歴史博物館にいるのが似合うようなたたずまいだった。

 ぼくはその美術館に何度も出かけたが、なぜかその彫刻には関心が持てずに、じっくりと眺めたことがなかった。遠くから一瞥しただけで戦国武将か誰かの像だろうと思い込み、ヘンリー・ムーアやイサム・ノグチらの前衛的な彫刻に混じって、そんな古臭いものが展示されているのがおかしくもあったのだ。

 やがて美術館は大阪市内に移転することになり、いくつかの彫刻はぼちぼち引っ越しをはじめたのか、見えなくなった。例の鎧兜の男も姿を消した。それが舟越保武の『原の城』という作品だということを知ったのは、そのあとだった。彼が彫り上げたのは戦国武将などではなく、島原の乱で命を落とした無名のキリシタン武士の姿だったのだ。その作品は中原悌二郎賞を授与され、ローマ法王庁にも寄贈されたという。

 《原型を作る私の仕事は思いのほか順調に進んで、ふだんの私の制作とは比べようもなき楽にはかどった。題材からも発想からも、この制作は精神的に辛くて容易に進まないはずなのに、この仕事だけはまことに快適に進んでくれた。多分二週間程で大体つくりあげたように記憶している。そんな快適な仕事の印象があるせいか、私はいつでもこの像の前に立つと彫像の武士の姿に引き込まれるような気がして、彫刻家としての喜びを覚えるのである。とはいってもこの彫刻をつくろうと心の奥に思いはじめたのは、昭和三十七年の初夏、長崎二十六殉教者記念碑の除幕式のあとに、島原を妻と共におとずれた時であり、「原の城」が出来上がったのは昭和四十六年の夏なのだから、ほぼ十年近い時間が経過していたのである。》(「浮かぶ二つの風景」)

 彫刻家が10年越しで結実させた作品を、ぼくは何度も間近に見ていながら、一度も向き合うことなく通り過ぎていたのだった。後悔したがもう遅い。移転後の国立国際美術館にも何度か出かけたが、あの武士の像はどこにいるのか、あれ以来一度も見かけていない。でももし大切に所蔵されているのなら、いつか展示されることもあるだろう。今度『原の城』を見かけたら、そのときこそは“眼がいたくなるまで”見つめてやろうと、ぼくは密かに決めている。

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舟越保武へのオマージュ(1)

2005å¹´09月26æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 美術随想を書いている、と自分では思っているが、これが果たしてそう呼べるほどのものかどうかわからない。初めてそれらしき文章を書こうとしたのは、今からもう2年近く前のことになる。それ以来、細々とこういう文章を紡ぐようになってから、ぼくの読書の好みも変わった。小説よりも、随筆のたぐいを手にすることが目立って多くなってきた。

 随筆といってもいろいろあって、なかにはベストセラーの仲間入りをするような本もあるが、おそらくそれらに共通しているのは、ものごとが等身大で語られていることだろう。小説だったら、読者をストーリーに引き込むためのメリハリとか、飛躍とか、ある種の誇張のようなものも必要かもしれないが、随筆はそこまでやることはない。感じたことを素直に、文字に落とし込んでいけばいいのだと思う。もちろんそのときには、自分の感想というものをもう一度見つめ、人様の前に出しても恥ずかしくないように、ちょっと成形してやるくらいのことは必要だけれども。

 などといっておきながら、ぼくにそれが実践できているかどうかはあやしいものだ。書きながら自分で、これはどうもまずい文章だなとうんざりすることがしょっちゅうある。そういうときは一度立ち止まって、もっと別な表現はないかと考える。だからといって、あんまり平易になりすぎて話し言葉のようになってしまうのもよろしくない。書き言葉には、一種の人格みたいなものが備わるのではないか、とぼくは思っているからだ。

 何の本だったか、川端康成がいろいろな作家たちの文章を比較しているのを読んだことがあった。川端はもちろん独自の書き言葉を持っていたが、自分とはずいぶんタイプのちがう文体にも触れていた。その中で、何人かの作家の名前を挙げたあとにひとことだけ、「円谷選手の遺書の文体もある。」というようなことを書いていて、ぼくは驚いた。「父上様、母上様、三日とろゝ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。敏雄兄、姉上様、おすし美味しうございました。・・・・・・」という、あれだ。何の衒いもない文章が、惻々として胸にしみてくる。


 彫刻家の舟越保武(やすたけ)が書いた文章を初めて読んだのは、今から3年ほど前のことである。この彫刻家は、派手ではないが、誠実な人体像を作りつづけた人だ。今では次男の舟越桂氏の方が有名になって、ちょっと陰に隠れてしまったような感じもあるが、ぼくの中では忘れがたい存在である。

 とはいっても、舟越保武の彫刻を実際に観たことは、実をいうと、あまりない。2002年、彼が89歳で亡くなったということを知ってしばらくしたある日、彼の画文集『巨岩と花びら』をたまたま手に取った。読みはじめてみると、その無駄のない抑制された文章に、襟を正される思いがしたものだ。文章を“彫琢する”とは、まさにこういうことかと、胸をうたれたのである。

 もちろん彼は随筆家ではなくて、彫刻が本業であるから、読み手をうならせるような名文を綴るわけではないし、特に気のきいたことが書いてあるわけでもない。ただそこには、彼の何ともいえぬ素直な心情が、よく刈り込まれた端正な文体で、訥々と語られていたのだった。彫刻家という、量塊を刻むことを仕事にしている人だからこそ、こんな文章が書けるのかもしれない。彼の物静かな文章と、彼の人体彫刻が持つ一種の寡黙さとが、はるかに響き合っているような気がした。

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恐るべきコクトー(3)

2005å¹´09月25æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 この展覧会でぼくが唯一警戒していたことは、あの『阿片』に挿入された“恐るべきデッサン”に再会しはしまいか、ということだった。ところがそれは杞憂に終わったようである。ただ、愛し合う恋人たちを描いた何枚かの絵に、苦しみもだえる阿片中毒者の形相が影を落としていた。彼らは互いに舌を絡ませながらも、その顔はゆがみ、目は見開かれ、なかば狂人と化しているようだ。

 その顔は、やはりぼくにピカソを連想させる。あの『ゲルニカ』に描かれた、死児を抱きかかえて天を仰ぐ女、奈落の底へと突き落とされていく人間と同じ表情で、彼らは愛を確かめ合っている。愛することと絶望とが、渾然一体になっているかのようだ。男女の愛の至福さえこのように表現するコクトーに、救いはあるのだろうか?


 彼は神話のモチーフを描きはじめる。巨大なタペストリー『ユディトとホロフェルネス』をはじめ、オルフェ、メルクリウス、牧神パンなど。それらの神々には、ある共通した造形的な特徴が認められる。『阿片』や『鳥刺しジャンの神秘』にみられた非情で冷酷な鋭い線のかわりに、心なしか丸みを帯びた柔らかな輪郭があらわれるのである。

 エントランスに設けられた小さなバーに象徴される、パリという名の知性と芸術の、そして恋愛遊戯のるつぼ。その真っ只中にいて、ありとあらゆる多彩な人々とつながりを持ちながらも、コクトーが真に自分を解放できたのは、この世ならぬ神話の世界だったのかもしれない。

 コクトーのトレードマークともいうべき、忘れがたい人物像が絵の中にあらわれてくる。ほとんど平らといってもいい低い鼻(それは自分の高く尖った鼻へのアンチテーゼのようだ)、鼻とくっつき合った上唇、いたずらっ子のようにちょっとしかめた眉と、その下に輝く澄んだ瞳。その像は疑いもなく、コクトーの分身である。いやむしろ、神として生まれ変わったコクトーの仮想の姿だというべきだろうか。その姿は、あのリュシアン・ドーデが描いた暗鬱な“恐るべき子供”の肖像からは程遠い。彼は首を毅然と上げ、真っ直ぐ前を見つめ、引き締まった横顔をぼくたちの脳裏に刻み込む。

 その顔がクローズアップで描かれた、自作の映画『オルフェの遺言』のためのポスターに、ぼくは胸をうたれた。白地をバックに、単純な線で力強く浮かび上がるオルフェの端正な姿。かつてぼくを悩ませた『阿片』のデッサンの、のたうちまわって断末魔の叫びを上げる神経のうねりは、もうここにはない。コクトーはどうやら、自分を救い出すことに成功したのかもしれない。彼が世を去るのは、このポスターが描かれた3年後のことであった。


 会場では晩年のコクトーが自作(おもに映画)について語っているフィルムが繰り返し流されていた。実はその中で『阿片』のデッサンの一部がちらと映ったのだが、カメラに向かって滔々と話しつづける年老いたコクトーは、すでに薬物とは無縁だったはずである。そのインタビューの最後を、コクトーはこう締めくくっていた。それは彼の血を分けた子ともいうべきオルフェの口から語られても、ちっとも不思議ではない言葉だった。

 「もし私が人々の心に生き続けるなら、神話としてだ。」


DATA:
 「ジャン・コクトー展」
 2005年9月14日~9月26日
 大丸ミュージアムKOBE

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恐るべきコクトー(2)

2005å¹´09月24æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 展覧会場に入ると驚いたことに、バーのカウンターが設えられていた。椅子が2脚と、何本かのボトル、そしてビロード風の庇には「Jean*Cocteau」のサイン。それを取り囲むように、コクトーの自画像や、友人たちがコクトーを描いたデッサンが掛けられている(モディリアーニが描いたものもある)。その中に、ぼくがさっきまで格闘していた岩波版『恐るべき子供たち』のカバーに使われていた絵があった。

 たいていの本には装丁者の名前や、カバー絵の作者名などが明記されている。しかし岩波文庫には、いっさいそれがない(これはかなり前から疑問に思っていることなのだが、いったいなぜだろう)。ぼくは『恐るべき子供たち』を本屋で手にしたときに、この肖像はコクトーなのだろうか、それとも別の誰かだろうか、と考えざるを得なかった。というのも、その顔はぼくが記憶しているコクトーの顔とあまりにもかけ離れていたからだ。

 会場にはコクトーの写真が何点か展示されているが、どれを見ても彼は険しい表情をしている。神経質そうな高い鼻梁と、痩せて尖った顎、そして眉間に皺を寄せてカメラを見据える鋭い目つき。数十年の時を超えて、彼の眼力が突き刺さってくるようだ。だがその肖像画では、横顔を見せた青年が瞑想でもするように目を閉じている。髪は非の打ちどころがないほど丁寧に撫でつけられ、光沢を放っている。この礼儀正しいインテリ風の青年が、のちに阿片に耽溺し、あの恐ろしいデッサンを描くようになるとはどうしても思えなかったのだ。

 題名を見ると『若きコクトー』、作者はリュシアン・ドーデとある。この画家は『アルルの女』の作者として有名なアルフォンス・ドーデの息子だそうだ。リュシアンはプルーストと同性愛関係を結んだとされているが、やはり男色傾向のあったコクトーを見つめる目には、何だか意味深なものが感じられなくもない。いずれにしても、18歳ごろのコクトーを描いたこのポートレートは、彼が“恐るべき子供”から“恐るべき大人”へと脱皮する貴重な瞬間をとらえているにちがいない。


 リュシアンの影響でデッサンを描きはじめたというコクトーだが、彼のデッサンはリュシアンのそれとはちがって、刃物のように鋭い線で構成されている。これはコクトー自身の鋭角的な顔つきや、射るような視線と不思議な相似を示しているようだ。尖りすぎた鉛筆の芯がすぐ折れてしまうように、これだけ研ぎ澄まされた鋭敏な感受性の持ち主が、いかなる傷も負わないで人生をまっとうできるとは思えない。

 ここでコクトーと比べてみたくなるのは、ピカソの存在である(両者は実際に交友関係があり、コクトーが撮影したピカソの写真が展示されていた)。ピカソも卓越したデッサン力を身につけていたし、鋭い眼光の持ち主でもあった。ひとつの分野にとどまらず、活動の舞台を次々と拡大していったことでも共通している。だが一見すると似ているようで、その本質はかなりちがっていたのではなかろうか。

 ピカソはとにかく、人生を謳歌する人だった。彼にデリケートな神経が足りなかったとはいわない。それは芸術家である以上、ある程度は必要不可欠なものだからだ。しかし人間ピカソは、それを乗り越えるふてぶてしいほどの生命力を持っていた。ありあまるエネルギーを持て余すかのように新しい表現を開拓していったピカソの姿は、次々と女を取り替えていった彼の生き方ともぴたりと重なる。


 コクトーは、ピカソよりずっと脆い存在だったのではないだろうか? だからこそ愛するレイモン・ラディゲが20歳の若さで死んだとき、その衝撃に耐えられず阿片に助けを求めたのだ。『鳥刺しジャンの神秘』という自画像の連作は、阿片に浸る自分の姿と向き合いながら生み出されたものだというが、これが自虐的な傷を負わずになし得ることだとはとうてい考えられない。

 コクトーの求めた慰安は、醒めた途端に苦痛に変わってしまうものだった。彼の人生には常に苦痛が付きまとっていたのではないかとさえ、ぼくには思える。コクトーは自分の中に、満たされない空洞をいくつも抱えていたにちがいない。その空洞を埋めるために、彼はあの手この手を使っていろんなことをやってみなければならなかったのだ。コクトーの作品からは、絶えざる渇望の叫びが聞こえてくるようである。

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