てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

黒い蜘蛛と白い女 ― 岐阜から名古屋への旅 ― (9)

2014å¹´08月31æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

オディロン・ルドン『眼をとじて』(1900年以降、岐阜県美術館蔵)

 9月からの熊谷守一展を控えているためか、『ヤキバノカエリ』は展示されていなかったが、いくつもの部屋に区切られた常設スペースには、当然ながらルドンのための一室が設けられていた。ちなみにルドンは、かつてこのブログでも取り上げたことのあるジャン=レオン・ジェロームに絵画を習っているが、山本芳翠がパリで学んだのもジェロームだったそうだ。つまりルドンと芳翠とは兄弟弟子の関係になるわけで、彼らの作品が岐阜県美術館に集まっているのも、単なる偶然とは思えない。

 当館のマスコット(?)みたいになっている例の蜘蛛を描いたリトグラフは、今回はお出ましになっていなかったけれど、正直にいうと、こういうルドンの闇の世界はたまに触れるのがいい。たとえば親族が結婚したとか、知り合いに子供が生まれたとか、そんな幸せな気分のときには敬遠したくなるのが人情というものだろう。ルドンが最初のパステル画を手がけたのは、彼自身が結婚した年の話だという。画家が置かれている環境によって作風が次々と変化するのも、無理からぬことにちがいない。

 実はぼくが最初に画集でルドンの絵と出会い、その名前を頭に刻んだのは、カラフルな油彩画家としてであった。そのことを思い返しながら、日本における“ルドンの聖地”ともいうべき岐阜で彼の絵が観られる幸福をかみしめる。

 そのなかで、『眼をとじて』という一枚の前で足が止まった。この絵はどこかで親しく眼にしたことがあるような気がするが、どこでどうやって観たのか、ちょっと思い出せない。まるで夢のなかを描いたような、浮遊感のある、とりとめのない構図である(なお同じタイトルの作品はオルセーにもあり、そちらのほうが有名かもしれない)。

 ルドンは明るい色彩を用いるようになっても、決して現実と和解したわけではないのだろう。同世代の印象派の画家たちが、もっぱら“眼をあけて”、光の変化や色の揺らぎ、あるいは時代とともに移り変わる風景の様相をつぶさにとらえようとしたのに比べると、内面を見つめつづけた彼の個性は際立っている。

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オディロン・ルドン『ポール・ゴビヤールの肖像』(1900年、岐阜県美術館蔵)

 しかし、そればかりでもないようだ。ほぼ同じころに描かれたとされるパステル画『ポール・ゴビヤールの肖像』は、しっかりとモデルの外見に眼を向けた、現実的な肖像画である。ルドンにこの手の作品があることは、あまり広く知られていないのではないか。

 ポールという名前ではあるが、彼女は美しい女性である。端整な横顔は、どことなく悲哀を帯びて見えるが、その眼はしっかりと前に向けられている。現実を見据えようとしているかにも見えるのである。

 なおこの人物は、詩人ポール・ヴァレリーの妻の姉であるだけでなく、ベルト・モリゾの姪でもあり、モリゾから絵を教わったこともあるという。なおモリゾはマネの弟と結婚しているから、マネの親戚ということにもなる。このへんの人脈のややこしさは、ぼくがあまり得意とするところでないので割愛したいのだが、とにかくこの横向きの女性を通じて、対照的なルドンと印象派の画家たちとのあいだに接点があったらしいことがわかってくる。

 それにしても、ゴビヤールの憂いを含んだ肖像は、たとえばルノワールに注文するよりも、ルドンが描いたほうが妥当だったような気がする。彼女こそは、その内面に、眼には見えないさまざまな想念を抱え込んでいるように思えるからである。ルドンもそれに感応したからこそ、このような優れた肖像画を残し得たのではあるまいか?

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黒い蜘蛛と白い女 ― 岐阜から名古屋への旅 ― (8)

2014å¹´08月28æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

山本芳翠『浦島図』(1893-1895年頃、岐阜県美術館蔵)

 西洋と日本とにおける人物画のギャップに苦しんでいた山本芳翠が、試行錯誤の末に自分なりの答えを見いだしたのが、これも忘れるわけにはいかない名作『浦島図』なのではないかと、ぼくは勝手に考えている。

 パリで絵を学んだ彼は、ルーヴルでの模写を通じて、西洋美術の底流に流れる神話や宗教といったモチーフの重要性をいやというほど叩き込まれたはずである。しかし、日本に帰ってきてまで西洋のテーマを引きずるわけにはいかない。その結果、『灯を持つ乙女』といった、巧みではあるけれどちょっと謎めいた、意味深な絵を描くことにもなったのだろう。いってみれば、宗教画と日本の風俗画の“あいのこ”のような作品である。

 しかし彼は、日本には日本独自の神話があることに気づいたのだ。昔話として子供にも知れ渡っている浦島太郎の物語は、古事記などに記されたエピソードがもとになっているといわれる。それを、大胆に絵画化してみせることを思い立った。考えてみれば、浦島太郎を描いた絵巻はあるけれども、一枚のタブローとして仕上げた例はこれまで存在しなかったのではなかろうか。

 そこで問題になってくるのが、画家の想像力である。西洋にみられるような、特定の人物を示すアトリビュートがあるわけではない。強いていえば、浦島太郎が助けた亀とか、乙姫からもらった玉手箱ぐらいのものだ。しかし画家は、そんな不利な条件を逆手に取り、パリで学んだ古典の約束ごとをかなぐり捨ててイメージの翼を最大限に飛翔させた結果、まれに見る異色作がここに誕生したともいえる。

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 この絵も、何年か前に観る機会があった。そのときはおそらく5分以上も、キャンバスに顔を近づけたり、少し後ろに下がったりして、眼福ともいうべきものに酔ったのだ。実をいえば、今回は『裸婦』の重文指定よりも、『浦島図』との再会のほうが個人的にはうれしいできごとであった。

 まず眼につくのは、蓬髪を振り乱した男の姿だ。絵本などに描かれているイメージとはかなり異なるが、これこそが浦島太郎である。彼は後ろを振り返ろうとしているが、はるか向こうに霞んで見えるのは、どこか異国の宮殿を思わせる竜宮城だ。その手前、イルカが引く手綱をつかみ、巨大なシャコガイに乗ってウェイクボーダーさながらに水面を疾走してくるのは、乙姫様その人であろうか?

 浦島太郎が手にしているのはもちろん玉手箱だが、美しい螺鈿で装飾されている。いうまでもなく、螺鈿とは貝の裏側を使う工芸の技法だ。そしてまた亀の後方、裸の女が旗のようなものを掲げているが、その先端は三つにわかれた銛になっている。海に関係するモチーフが、これでもかとばかりにちりばめられているのである。

 ただ、いちばん左にいる女が花びらをまき散らしているところを見ると、どうしても散華を連想してしまう。それだけでなく、この絵には仏教のにおいがぷんぷんするのだ。構図の下地には、如来たちが雲に乗って降臨する来迎図があったにちがいない。パリ帰りの山本芳翠が、仏教画に手本を求めたというあたり、やはり彼のしたたかさをよくあらわしているような気がする。

 とまれ、この一枚をもって芳翠は、西洋絵画の模倣から完全に脱却し、新しい“日本の洋画”の金字塔を打ち立てたといえるかもしれない。

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黒い蜘蛛と白い女 ― 岐阜から名古屋への旅 ― (7)

2014å¹´08月27æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

山本芳翠『灯を持つ乙女』(1892年頃、岐阜県美術館寄託)

 パリで西洋の伝統的な絵画技法を身につけた山本芳翠は、当然ながらそれを日本に持ち帰り、独自に発展させる責務を負っていたはずだ。現代とはちがって、異国で学んだ文化を東洋の島国に根付かせるには、その土壌作りからはじめねばならなかった。帰国後に画塾の創設などに励んだ芳翠は、前述のように門下から新しい洋画の旗手を輩出することになる。

 けれども彼は、単なる教育者にとどまってはいなかった。人物を主なモチーフに据え、旺盛な創作活動を展開する。それはすなわち、日本人の姿を油絵にいかに定着させるかという試みだったともいえるだろう。

 ずっとのちの時代、やはりパリに留学した佐伯祐三が(佐伯は藤島武二に学んでいるから芳翠の孫弟子にあたるわけだが)、重厚な石造りの街並に魅了され、日本に帰ってからはそのような風景を見いだすことができずに、再び強引にパリへ渡って客死するという悲劇をわれわれは知っている。しかし芳翠は、西洋で学んだ技法のうえに、日本人をモデルにしてヴァリエーションを加えることで、画家としてしたたかに生き抜いたという印象がなくもない。

 とはいっても、江戸に生まれて明治に死んだ彼のこと、日本で洋装の人物を見かける機会は非常に少なかっただろう。『灯を持つ乙女』も、当然のように着物を着た女性の像である。衿の部分の金の装飾がまばゆく輝き、黒々とした頭髪を隔ててかんざしの先端をも光らせるさまは、見事に計算されているという感じだ。ただ、手もとのろうそくからの灯りが女の顔を下から照らし、背後に大きなシルエットを映し出しているさまは、まるで懐中電灯を下から当てたときのように不気味でもある。白っぽい顔が闇に浮き出しているのは、さらに恐怖を呼び起こす。

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参考画像:ジョルジュ・ド・ラ・トゥール『大工ヨセフ』(1642年頃、ルーヴル美術館蔵)

 この絵は、ただちに昔の画家が描いた一枚の宗教画を思い出させる。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの『大工ヨセフ』がそれだ。ルーヴル美術館が所蔵しているこの作品は、フェルメールなどとともに5年前の京都にやって来て、ぼくもつぶさに観た記憶があるのである。

 まず気がつくのは、幼いイエスが持ったろうそくの光が手の向こうから透ける描写だろう。指と指のあいだが熱した鉄のように赤く描かれているところは『灯を持つ乙女』とよく似ている。パリにいたころ、山本芳翠はルーヴルに日参して模写を重ねたというから、この絵を実際に眼にしていた可能性も考えられる。

 だが、芳翠は自分が模写した絵を軍艦に載せて日本へ持ち帰ろうとしたものの、その船は航海中に行方不明となり、いまだに発見されていないという。つまり帰国後の芳翠は、みずからの記憶に頼って、この指の描写を描き上げたのだった。

 それにしても、あの『裸婦』の静脈が透けて見えるような皮膚感覚と、白粉を塗りたくったように無表情な日本の乙女とのあいだには、相当な隔たりがある。おおげさにいえば、人間の生身の顔と、能面との差のようでもある。芳翠はやはりこのとき、油彩画をもって日本人を描くことの困難に直面していたのであろうか。

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黒い蜘蛛と白い女 ― 岐阜から名古屋への旅 ― (6)

2014å¹´08月26æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

山本芳翠『裸婦』(重要文化財、1880年頃、岐阜県美術館蔵)

 今年、岐阜県美術館にとって、ルドンと同じぐらいに誇りとすべき画家が誕生した。岐阜出身の、日本洋画の黎明期を代表する山本芳翠である。この美術館が所蔵するいくつかの作品のうち、『裸婦』と名づけられた一枚が重要文化財に指定されたのだ。

 いわば、よく知られた黒田清輝の『湖畔』とか、藤島武二の『黒扇』と同じだけの価値が与えられた、というわけである。この、芸術に対して第三者が与える名誉というのもかなり微妙な問題で、「国宝」や「重要文化財」のようにランクをつけるというのも首肯しかねる部分がなくもないが(「文化勲章」と「文化功労者」も似たような関係にあるだろう)、まずはこれで山本芳翠の名が広く知られることになったのを喜びたい。

 というのも、ヤマモト・ホウスイと聞いても誰のことだかピンとこない人が大多数だと思うからだ。何を隠そう、ぼく自身もその日本画家めいた雅号に違和感を抱いていたし、いったいいつごろの時代の人なのかもよく知らないままだった。ところが数年前、何かの展覧会で偶然にもこの『裸婦』と出会い、その正確な描写法と、日本人離れのした硬質な叙情性に圧倒されたのである。

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 先ほど黒田清輝や藤島武二と比較するような文章を書いたが、実はといえば山本芳翠は彼らよりもずっと先輩なのだ。それどころか、法律を学ぶためにパリに留学していた黒田と会い、絵画の道へ転向することを熱心に進めたのが芳翠であるし、帰国後は画学校で藤島を指導しているから、彼らの先達というのみならず、恩師ともいうべき存在であろう。

 『裸婦』は、芳翠がまだ30歳のころ、パリで絵を学んでいた時代の作品である。もちろんモデルは白人女性だが、それ以外にもおよそ日本的な要素はみられず、外国人が描いた絵だといわれても素直に信じてしまいそうだ。

 のちに日本における洋画の受容は、文字どおり紆余曲折の経路をたどることになるのだが、その第一段階となったのは、やはり西洋絵画の率直な模倣なのであった。芳翠は妙な“日本人らしさ”を発揮したりすることなく、無心に西洋のエッセンスを吸収しようとしているように思える。

 とりわけ印象に残るのは、芳翠が西洋にしかない裸体の文化というか、開放的な神話の世界に憧れを抱いていたように感じられる点だ。日本人が外国人の裸を前にして感じるコンプレックスのようなものが、崇高な美の追求というかたちで解消されているようにも見える。後輩の黒田清輝や浅井忠たちがフランスに来て、なぜか申し合わせたように日常的な、読書する着衣の女の像などを描いたりしたのに比べ、つやつやとした白い肌の描写や、まるでグラビアのような際どいポーズに挑戦した芳翠の野心は凄まじいものがある。

 いずれにせよ、ここから日本人の油絵による裸体画の歴史ははじまったのだった。この先、裸婦像が世論の反感を買ったり、布切れで局部を覆い隠されたりすることになろうとは、このうら若い乙女はまだ知らなかったにちがいない。

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ヴァイオリンとオルガンのためのインテルメッツォ(2)

2014å¹´08月25æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 休憩を挟んだあとは、サン=サーンスの交響曲『オルガン付』である。実をいうと、この日のぼくのお眼当ては、これだった。

 昔、音楽関連の本で読んだ言葉に、ダイナミックレンジというのがある。音響の最大値と最小値とのあいだ、要するに人間の耳が聴き取れたり、それを機械で再現したりするときの音の比率のことらしい。詳しいことはよくわからないが、イルカ同士が交信している音波が人間には聴こえないということは、イルカのほうがダイナミックレンジが広い、というようなことであろうか。

 子供のころ、ぼくの日常は、NHKのFM放送で占められていたといってもいい。それというのも、クラシック音楽に接することのできる媒体がそれぐらいしかなかったから。AM放送で日曜日につづけられている「音楽の泉」は、初代解説者の堀内敬三(ドヴォルザークの曲に「遠き山に日は落ちて」という詞をつけたことで有名だ)の時代から数えてかなりの長寿を誇る番組だけれど、どうしても音響の面ではFMに勝てない。

 音楽ソフトからいっても、ぼくが子供のときにはLPレコードがまだ健在だったし、一方ではカセットテープを駆使してFM放送を次々と録音していたものだが、今やぐんぐん進化して、レコードもラジカセもほとんど消えてしまった。それらは、豊かなダイナミックレンジを獲得するために技術の改良を重ねてきた結果といえないこともないだろう。ただいずれにしても、やはり本物の音を凌駕するまでには到達していないはずである。

 とりわけ機械での再現が難しいのが、パイプオルガンの響きだと思う。ただ、ステージの背後に鎮座しているのはよく見るけれど、実際にその音に触れるチャンスというのは滅多にないのが現状だろう。今回の演奏会は、ザ・シンフォニーホールのマークにもなっているこのパイプオルガンに、じっくりと耳を傾けてみる絶好のプログラムなのであった。そしてあわよくば、普段スピーカーから流れる音ばかり聴いているぼくのナマクラな聴覚にカツを入れ、本来のダイナミックレンジを取り戻してくれるきっかけになるかもしれなかった。

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 ヤボルカイの巻き起こした旋風はいつしか過ぎ去り、まるで別の日のコンサートに来たように、静粛な空気がホールを包む。シズオ・Z・クワハラの指揮棒を持たない指先から、静かな弦の響きが導き出され、木管がそれに絡まっていく。会場全体が、息を飲む。素晴らしい瞬間である。

 気のせいか、前半の曲よりも、オーケストラの響きが格段にいい。いわゆる“よく鳴っている”状態なのだ。コンチェルトの伴奏という縁の下の力持ちとしての役目が終わり、ここからはもてる力をすべて出し尽くそう、という気概のようなものが感じられなくもない。

 それともうひとつ、ぼくの心に強く印象を残したものがある。それは、おそらく小学校高学年ぐらいの、ひとりの少女の存在だ。母親らしき人とならんで腰かけていたが、ぼくが指揮者のほうに眼をやっていると、どうしても彼女が視界に入ってしまうのである。

 いつもなら、どこに誰が座っていようが気にならないし、そんなことを気にしていては音楽など聴けはしない。けれどもぼくは、曲の進行につれてくるくると変わる少女の豊かな表情を無視できなかった。美しい音が鳴り出したとき、その子は満面の笑顔で母親のほうを振り向く。フルートがメロディーを奏ではじめると、首を伸ばして楽器を探そうとする。打楽器が聴き慣れない音を立てると、ちょっとびっくりしたように眼を見開いてみせる。

 もちろん他の人々は、感情をいちいち顔に出すこともなく、冷静に、何ごとも起こっていないような表情で座っている。当然ぼくも、そうである。だが、彼女と同じぐらいの年齢のころ、ぼくがクラシックの世界に目覚め、一気に熱中したのは、響きのひとつひとつが新鮮でおもしろく、好奇心をかき立ててやまなかったからではないか。今やぼくから失われつつある率直な喜びを、ひとりの見知らぬ少女は、なつかしく思い出させてくれたのである。

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 まるで地響きを伴うようなオルガンの低音は、ホール全体を震わせるようだった。大阪交響楽団の面々も、何十人かの力を合わせて演奏しているのだが、それとたった一台で対峙してしまうこの巨大な楽器は、本当にすごい。あまり使われないのがもったいない、と思ってしまう。

 終演後、先ほどの羽目を外したような熱狂とはちがい、心のこもった拍手がいつまでもつづいた。指揮者のクワハラ氏も、弦楽器の最前列の奏者全員と握手を交わす。たったひとりのスタンドプレイではない、共同で大きな仕事を成し遂げたときの充実感が、こちらにも伝わってくる。

 クワハラ氏は、何度か舞台袖と指揮台とを往復して喝采を受けていたが、やがて美人のコンサート・ミストレスの腕をつかむと、そのまま連れ去ってしまった(もちろんジョークである)。やがて彼女の隣に座っていた男性の奏者が代理で深々と頭を下げると、オーケストラは解散した。会場も和やかな笑いに包まれていた。

(了)

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