てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

運動音痴のスポーツ談義(4)

2009å¹´08月29æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 こちらは陸上より少しさかのぼるが、ローマで開かれた「世界水泳」もよく見ていた。競泳では日本人選手も活躍し、新しいスターも生まれたが、それにしても世界新記録が43個と、あまりにも多かった。「世界陸上」での世界新がウサイン・ボルトの2つと女子ハンマー投げの1つだけだったことを考えると、明らかに尋常ではない。もちろん水着が進化したからだろうが、それならば本当に金メダルを授与すべきは、泳いだ選手ではなく水着メーカーではないかとさえいいたい。

 陸上競技だって、ウェアやスパイクは進化しているはず。しかし、おいそれと世界記録は出ない。ボルトは別格かもしれないが、何年もかかってようやくコンマ何秒縮めるという具合である。さらにいえば、ボルトが世界新を出したのと同じメーカーのスパイクを他の選手が履いたところで、やはり世界新が出るとはかぎらないことはもちろんだ。

 つまりは、陸上の記録は肉体的な諸条件に決定的に左右されるということだろう。器具を使うようなフィールド競技はいざ知らず、足を使って走るだけの競技は、人間と大地とのせめぎ合いというか、まことに“原始的かつ基本的”な種目なのだ。

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 水泳でもかつては水着の力を借りず、“原始的かつ基本的”な競泳の時代があった。先日のローマ大会の期間中に、古橋廣之進が現地で急逝したことはまことに象徴的なできごとであって、人間と水との純粋なせめぎ合いの時代が終焉したことを強烈に印象づけた。

 古橋が世界記録を連発したのは、いかなるメーカーのサポートがあったからでもなく、彼自身の努力のたまものだった。当時は練習法も確立されておらず、コーチもいなかったという。ただひたすら、泳ぐ。泳ぎつづける。古橋が自分に課したのは、そのことだった。よく知られた「魚になるまで泳げ」という言葉に、それは集約されている。

 魚はもちろん、水着は着ていない。しかし、生まれつき泳ぐのに適した体や器官をもっている。その点、陸上で生活するべく運命づけられた人間が魚のように水中を泳ぐなど、身のほど知らずな行為だといってもいいかもしれない。しかし古橋は、魚に負けまいとして泳いだ。彼はひとりで33回も世界記録をぬりかえ、「フジヤマのトビウオ」と呼ばれた。

 これはマスコミが勝手につけたあだ名ではなく、まだ日本が進駐軍の占領下にあった時代に全米選手権へ遠征したおり、アメリカ人から敬意とともに贈られた愛称である。古橋は、世界でもっとも魚に近づいた人間だった。

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 しかし今、水泳選手たちは高度な科学技術の成果である水着を鎧のように身につけはじめた。人間はやはり、魚にはなり得なかったのだ。

 二足歩行にもっとも適した体をもつはずの人間が、水に浮いて、しかも速く泳ぐ。それは人間が空を飛ぶことの次に、夢のあることである。しかしそんな原初の憧れを忘れて、記録を縮めることにのみ汲々とする現代の競泳は、いったいどこに向かおうとしているのだろうか。

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運動音痴のスポーツ談義(3)

2009å¹´08月26æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 「世界陸上」の最後を飾る種目のひとつ、マラソンをテレビで観戦した。男子が土曜日に、女子が日曜日につづけておこなわれた。

 実をいうと、レースそのものが目的というより、ベルリンの景観を眺めることに興味があった。ぼくはドイツ音楽が好きだし、ヘッセやシュトルムといったドイツ文学の高潔な抒情を愛した時期もある。かつてはひとりで(文字どおり“独学”で)ドイツ語を学ぼうとしたこともあった。今でもドイツ語で書かれた単語や文章などを眼にすると、思わず声に出して読みたい衝動に駆られるのである。

 だが、実際のコースは同じルートを何周もする周回コースと呼ばれるものだった。沿道で応援する人にとっては、走る選手を何度も見られるメリットがあるにちがいないが、テレビの前の人間には同じ風景を何度も見せられることになる。やや失望した思いで画面を眺めていたが、いつしかベルリンの景色などはそっちのけで、日本人選手の応援に入れ込んでいる自分があった。

 走っている選手たちにとっても、これは同じことかもしれない。景観を楽しんでいられる余裕のあるのは最初だけで、やがてレースそのものに没入せざるを得なくなる。彼らは市民ランナーではなく、各国の国旗を背負ってベルリンの地までやって来ているのだから(自分が楽しむために世界大会に出る、というツワモノもいるけれどそれは別として)、むしろ当然のことであろう。ただ、彼らは誰と競り合うということよりも、結局は自分自身と必死で戦っているのではなかろうか。

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 男子マラソンがおこなわれたあとの時間に、NHKでひとつのドキュメンタリーが放送された。「世界陸上」の独占中継を担っているTBS系列の番組では、視聴率を煽るためにか映画の予告編のように派手に演出されたVTRがしょっちゅう流されて鼻白むことも多かったのだが、こちらは選手と家族の日々のトレーニングに焦点を絞った堅実な番組だった。その選手というのは、翌日の女子マラソンに出場を控えた赤羽有紀子。3年前に長女を出産し、ママさんランナーとして注目を集めている人物である。

 Qちゃんこと高橋尚子にとっての小出監督がそうであったように、選手にとってのコーチというのはわれわれが想像する以上に(ある意味では、肉親以上に)重要な存在らしいが、赤羽選手のコーチは、私生活では夫でもある周平氏。毎日の食事の栄養からトレーニングのスケジュールまで管理し、連日のロードワークの結果を考察し、慎重にプランを練っていく。夜は別々の部屋で寝る。妥協を廃したその姿勢に、妻でもある赤羽選手が心を開いてくつろげる場所はどこにあるのかと心配にもなったが、スポーツの選手というのはそれほど厳しいものなのだろう。

 考え得る限りの準備を経てのぞんだ女子マラソンの本番は、しかし残念ながら日本人選手のなかで最下位に終わった。翌日、周平コーチはブログに次のように書き込んだ。

 《半年という長い期間をかけて積み上げてきたものが、レース中盤で早くも崩壊しました。

 私は必死に前に進もうとする有紀子に、ただ声をかけることしかできませんでした。》


 1年前、北京オリンピックの女子マラソンを見たあとで、ぼくはこのブログに「孤独なランナーたち」という記事を書いている。今読み返してみると、こんなことを書きつけていた。

 《人は、なぜ走るのだろう。マラソンを見ていてふと心に浮かぶ素朴な疑問は、人はなぜ生きるのだろう、という疑問とつながっているのである。》

 「世界陸上」のマラソンを見たあとでも、その気持ちは変わらない。

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 赤羽選手は、すでにロンドンオリンピックに挑戦する意志を固めているという。彼女の走りが、ボルトみたいに伝説になるわけではない。イシンバエワみたいに、何万人を熱狂させるショーの主役になりたいと思っているわけでもない。彼女は、いわば自分でありつづけるために、走るのである。メダルに期待したりするのは外野の人間たちで、走っている当人は純粋に、ゴールを目指して走っているだけなのではないだろうか?

 その点、今回のレースで銀メダルを手にし一躍スターとなった尾崎選手は、当初から“銀メダル以上”を自分に課していたそうだ。師である山下佐知子監督が(失礼ながら、ぼくはこの方をまったく存じ上げなかったけれど)かつての「世界陸上」で銀を獲っていたからだという。だが恩師と肩を並べてしまったとなっては、身近にいる誰も足を踏み入れたことのない未知の領域に挑むしかない。

 彼女たちは、3年後のロンドンのスタートラインにどんな姿をあらわすだろうか。今から楽しみである。

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運動音痴のスポーツ談義(2)

2009å¹´08月22æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 ボルトとはちがって、誰とも競り合おうとせず、ひとり黙々と世界記録更新に熱意を傾けるアスリートもいる。その代表的なひとりが、棒高跳びの女王と呼ばれるエレーナ・イシンバエワだと思う。今度の「世界陸上」では一度も跳ぶことができず、ボルトとは逆の意味で世界を驚かせた。

 イシンバエワがすでに女子棒高跳びの選手として偉大な金字塔を打ち立てているのは周知の事実だが、そこに満足することなく、常に記録に挑戦しつづけていることがわれわれを魅了する。彼女は他の選手の試技さえろくに見ようともしない。タオルをかぶって自分の世界にこもってしまう。一見すると休んでいるようにしか見えないが、そのとき彼女の内側ではネジがいっぱいに巻かれ、起爆剤が充填され、大きな跳躍へ向けてのパワーが刻々と準備されているのであろう。ライバルに触発されて奮起するタイプの選手ではなく、神が降りてくるのを待つ芸術家の姿に似ている。

 すでに孤高のレベルにありながらさらに上を目指すことは、想像以上の困難をともなうにちがいない。彼女は必然的に、棒高跳びの競技会を「イシンバエワ・ショー」のように演出さぜるを得なくなる。導火線に火をつけるのは、記録では足もとにも及ばないような他の選手たちではなく、大観衆から浴びせられる熱い注目であり、スタジアムを揺るがす声援であり、手拍子である。ワンマンショーの主役がもし失敗をやらかしたとき、そのあとにはいかなる試練が待ち受けているか、わかっているはずではあるけれど。

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 しかし今回、イシンバエワは跳べなかった。なぜなのか、いったい何があったのか、それは知らない。

 きくところによると、予兆はあった。先月、ロンドン・グランプリという大会でポーランドのロゴフスカという選手に敗れていたという。イシンバエワの存在が巨大すぎて、他の棒高跳び選手の名前をいわれてもピンとこないのだが、今回「世界陸上」ベルリン大会で金メダルに輝いたのは、そのロゴフスカだった。例によってタオルをかぶり、ドリンクの入ったケースに足をかけて(女王だから許される行動だろう)人知れずエネルギーを蓄えていたイシンバエワは、3回跳躍するも一度も成功せず、まるで子供のように両手で顔をおおった。信じられないような、まさに最悪の負け方だった。

 そのとき思い出したのが、かつて男子の王者だったセルゲイ・ブブカのことだ。「鳥人」ともてはやされ、彼の世界記録はいまだに破られていないが、その去り際はみじめだった。シドニーオリンピックのときだったか、今回のイシンバエワと同じように一度も跳べずじまいだった彼は、ぼくのおぼろげな記憶では非常に取り乱し、ユニフォームの上半身を脱いで半裸の状態で何かをわめいていたように思う。ブブカはそれを機に現役を退くが、あの鳥人の引退レースともいうべき最後の姿にしては、あまりにもぶざまだった。

 人間たるもの、ましてやスポーツ選手たるもの、いつまでも世界のトップに君臨することはできない。彼らが本当に輝くことができるのは、長い一生からすればほんの一瞬にすぎないのだ。その一瞬がまたたく間に去り、次なる世代へと王座を明け渡すとき、彼らはどのように振る舞うのか。それは、極端ないい方だが、人が死ぬときにどのような態度をとるかという問題とも結びつくような気がする。やるべきことはやったと、穏やかに死を迎えるか、まだ死にたくないと泣き叫びながらそのときを迎えるか・・・。

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 “記録なし”に終わった女王イシンバエワは、メディアのインタビューに懸命に答えながらも、その眼からはぼろぼろと涙を流していた。彼女の耳たぶには、水から跳ね上がろうとするイルカのピアスが輝いていた。

 イルカだって、一度は深く水にもぐらないと跳びはねることができない。ベルリンという地で水中深くもぐってしまったイシンバエワは、必ずやふたたび天高く舞い上がってくれるだろうと信じたい。

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運動音痴のスポーツ談義(1)

2009å¹´08月21æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 普段はめったにスポーツ番組は見ないが、大きな世界大会やオリンピックなどになると、つい睡眠を削ってでも見てしまう。不可解なことだが、自分でもうまく説明がつかない。ただ、“超人”とか“怪力”といったオーバーな言辞を弄して、ストイックな運動行為を派手な見せもののように煽り立てるマスコミとはちがう地点に立っているつもりだけれど・・・。

 今、「世界陸上」がベルリンで開かれている。先日、結婚する際にいわゆる「地デジ」対応のテレビを購入したので、大画面での迫力ある映像を毎日楽しんでいる。そういえば家電屋でテレビを選ぶとき、「動きの激しい運動競技を見るときは多少の残像が映るかもしれません」という店員の説明に対して、「いやスポーツは全然見ませんから」などと応じたことを思い出す。今から思えば真っ赤なウソだったわけだ(幸い、残像はほとんど気にならない)。

 それにしても、無数のカメラを駆使した最近のスポーツ中継の技術には驚かされる。上から吊ったり、地を這わせたり・・・。選手を前から後ろから、遠くから近くから、まんべんなくとらえて隙がない。銀行の監視カメラだって、ここまで徹底してはいないだろう。一喜一憂するコーチの姿さえも、のがさずとらえる。選手の肉親が会場に来ていれば、ちゃんと探し出してアップにするのである。

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 ぼくが10代のころ、陸上競技のスター選手といったら何といってもカール・ルイスだった。オリンピックに何種目もエントリーし、金メダルをごっそりさらって帰るその偉業には、運動嫌いの人でも喝采を送らずにはいられなかった。いわば陸上の代名詞のような存在だった。彼が絶頂期だったときは、テレビ中継のカメラワークも今ほどは凝っていなかったように記憶している。

 そのルイスが、ソウルオリンピックの100メートル決勝にのぞんだときのこと。カナダからの刺客、ひときわ筋骨隆々たるベン・ジョンソンが画面に大写しにされたとき、NHKのアナウンサーは「ベン・ジョンソン、筋肉のかたまり」といってのけた。なにげないひとことかもしれないが、数日後に明るみに出る筋肉増強剤の使用を見抜いていたかのようなコメントだった。いつもながら、こういう大会のときにアナウンサーが発する神がかり的な発言には感心させられる(しかしベン・ジョンソンがルイスを制して1位でゴールしたとき、英語のアナウンサーは素朴に「アンビリーバボー!」と叫んだのだった)。

 今回、ぼくと同じ誕生日(本日8月21日)であるウサイン・ボルトという男が驚異的な世界記録をたてつづけに連発するのを見て、ルイスの時代もはるか遠く過ぎ去ったとの思いを強くした。マイケル・ジョンソンすらも、すでに過去の人となった。彼らはアメリカのどこかでこの中継を見ていたにちがいないが、その瞬間いったい何を考えただろうか。自分たちが誇ったかつての大記録が、いとも簡単に追い越されていくことを。アメリカのお家芸だった短距離走が、カリブ海に浮かぶちっぽけな島国にすっかり奪い取られてしまったことを。

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 先日の100メートル決勝のあとだったか、「世界陸上」の司会を長年務めている元アナウンサーのNさんが、こんな趣旨のことをいった。

 「もし周りに誰もいなくて、ボルトひとりで集中して走ったら、もっといい記録が出るのではないか」

 これをぼくは、失言だと思った。長いこと陸上競技を見てきているのに、何もわかっていないではないか、と。ボルトが高記録をたたき出すのは、ともに走るライバルたちがいるからであり、彼らと精いっぱい競走しているからなのではあるまいか。

 だが、彼女がこんなことを口走ってしまったのもわかる気がする。ボルトはたしかに素晴らしいアスリートだが、ややパフォーマンスが過剰なのだ。ゴールする前に力を抜く(いわゆる“流す”)ぐらいはいいが、あたりをきょろきょろしたり、不敵な笑みを浮かべながら走ったりするのは、われわれ日本人の精神にいつしかすり込まれている生真面目な“スポーツマンシップ”にそぐわない。

 たとえていえば、「ウサギとカメ」に登場するウサギにも似た傲慢さというか、不遜さを感じざるを得ないのである。ボルトは努力の人かもしれないが、人前では自分の才能の上にあぐらをかいているようにふるまいたがる。それが彼の美学なのだろうが、体力が衰えてしまわないうちに死にもの狂いで不滅の記録を残しておいたほうがいいのではないか、という気もする。スポーツ選手という縦軸と世界大会という横軸が絶妙のタイミングで交差する地点は、一生にそう何度もあるものではない。

 もちろん、ボルトも最後の最後にはしっかりと“世界記録”という実績を残しているのだから文句はないのだが、彼がもっとストイックな、精神的にギリギリまで追い詰められた状態で走るとさらにすごい記録が出るにちがいないというのは、多くの陸上ファンが夢想してやまないことだろう。

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花火をめぐって(1)

2009å¹´08月04æ—¥ | é›‘想


 関西では、梅雨が明けないまま8月に突入した。観測史上、もっとも遅くまで居座った梅雨だそうだ。

 異常気象にはもう慣れっこになっているはずだが、今年の夏はいよいよ変である。日食が起こる時間は秒単位で予測できるのに、天気というのはいくら技術が進んでもなかなか予想できないらしい。悪天候に泣かされた先日の皆既日食は、この両方の格差が極端なかたちであらわれた格好だろう。

 けれども、いつまで経っても変わらないものもある。それは、われわれの国民性である。人間の気持ちなんて、風にそよぐ草のようにどこに靡くかわからぬものだと思っていたが、たとえば日本人の花火好きは相変わらずだ。大規模な花火大会は毎年必ず開かれているし(資金難やら何やらで中断したものもあるが)、年を追うごとに盛り上がりを増すような気さえする。山下清が描いた長岡の花火大会は、実に100年以上前からつづいているという。

 かくいうぼくも、毎年一度は打ち上げ花火を見ないと気がすまないたちだ。しかし以前まで住んでいた京都市内では、かつて御所が火事になってからというもの花火大会はおこなわれていないので、遠くまで出かけなければならなかった。去年は宇治の花火大会を見に行ったが、ラッシュアワーを上回る混雑ぶりにうんざりした。花火は好きだが人込みは嫌いだという究極のジレンマに頭を悩ませながらも、夏が近づくと花火観賞の計画を練るのが例年のならわしになっているのである。

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 8月の最初の日、兵庫県立美術館に出かけた。「躍動する魂のきらめき ― 日本の表現主義」と題する展覧会だ。この展示の中身について、そのうち当ブログで書くかどうかはわからないが、土曜日にもかかわらず観覧者の少なさが気になった。テーマのとっつきにくさに加え、京都でのフェルメールのように目玉となる極め付きの名画があるというわけでもなく、マスコミを巻き込んだ盛大な宣伝を繰り広げているわけでもないので、あまり人目に触れなかったのだろう。本当に美術そのものに興味のある、いわば玄人向けの内容だった(企画者の名誉のためにいえば、こうした展覧会こそが本来の姿であると思うが)。

 閑散とした展示室のなかを歩き、いつもはパスしてしまうことの多いコレクション展もひととおり観てから、1階にある「美術情報センター」で時間をつぶした。ここはいわば美術関係の本ばかり集めた図書室で、全集や図録や雑誌など膨大な資料が網羅されている。パソコンの端末が置いてあるほか、カウンターには職員が待機していてレファレンスにも応じてくれるようだが、ぼくは書架に置いてある本を適当に眺めるぐらいしかしたことがない。美術を学ぶ学生などにとっては夢みたいな場所だと思うのだが、いつも2、3人しか利用者がいないようだ。

 さて、この日は夜間開館日で時間がたっぷりあったので、閉館ぎりぎりまでそこに居座っていてもよかったが、夕方6時を過ぎると夕飯を食べるためにそそくさと外へ出た。通りには、浴衣姿の若い女性や家族連れが目立つ。というのも、その日は「みなとこうべ海上花火大会」が開催される日だったからだ。

 神戸新港沖の海上から打ち上げられる花火は、かなり広い範囲から見ることができるようで、メリケンパークやポートアイランド、ハーバーランド、兵庫埠頭などが観覧場所として挙げられていたが、ぼくは人込みを警戒して、ちょっと遠い美術館沿岸から見るだけでもいいかなと思っていた。現に美術館内には、海沿いの階段からも花火が見える旨の案内が書かれていたし、浴衣を着た人は無料で展覧会を鑑賞できるという特典までついていたほどだ。そのせいか、しっとりとした浴衣姿で前衛的な表現主義芸術の前にたたずんでいるという不思議な情景もちらほら見受けられた(しかし浴衣で展覧会をじっくり観るには、館内はかなり温度が低かった)。

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 急いで冷麺を喉に流し込むと、早足で海沿いの道へと向かった。途中に三宮行きのバス停があり、それに乗って打ち上げ場所に近いあたりまで向かうことも考えたが、ぎゅうぎゅう詰めの人込みのなかに投げ込まれることを考えると、少し遠くからでも快適に見ていたかった。かつて『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』という映画があったが、ぼくの場合は「近くから見るか?遠くから見るか?」の二者択一であり、今回はためらわずに後者を選んだわけである。

 美術館の南側、巨大な庇が海に向かって突き出しているその先に、広い階段がある。設計者の安藤忠雄は、大阪のサントリーミュージアム[天保山]でもこれと同じことをやっているが、美術を閉鎖的な空間に閉じ込めることをせず、隣接する海との間をスロープや階段で有機的に結びつけるのだ。しかしこの美術館の入口は北側に設けられているので、普段はここにまで足を踏み入れる人はほとんどいない。

 けれども今日ばかりは、花火を見ようという人が大勢腰かけていた。といってもせいぜい数十人程度で、スペースにはかなり余裕がありそうだ。ぼくは欲を出して、もっと高いところから見ようとスロープをのぼっていった。

つづく