てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

正岡子規の“最後の恋”(2)

2008å¹´05月29æ—¥ | ãã®ä»–の随想

参考画像:渡辺南岳『岩上猿猴図』(プライスコレクション蔵)

 正岡子規はみずからの絵画の好みについて、次のように書いている。

 《余は幼き時より画を好みしかど、人物画よりもむしろ花鳥を好み、複雑なる画よりもむしろ簡単なる画を好めり。今に至つてなほその傾向を変ぜず。それ故に画帖を見てもお姫様一人画きたるよりは椿一輪画きたるかた奥深く、張飛(注:三国志に登場する武将)の蛇矛を携へたらんよりは柳に鶯のとまりたらんかた快く感ぜらる。》 (五月十二日)

 絵を観て歩くことのかなわぬ子規は、手元に画帖や画譜のたぐいを取り寄せ、いながらにして美術鑑賞にふけったとみえる。『病牀六尺』には、実に多くの絵師たちの名前が登場する。光琳や応挙、崋山、文晁、抱一、広重といった有名どころから、今ではほとんど馴染みのない南岳や文鳳、月樵といった人まで。

 後ろの3人をフルネームで書くと渡辺南岳、河村文鳳、張月樵ということになるらしいが、この名前にピンとくる人は子規と肩を並べるほどの美術通にちがいない。子規はとりわけこの3人の画境を比較してたびたび論じているが、ぼくには彼らの絵がさっぱり頭に浮かばないので、隔靴掻痒たる思いを禁じ得ない。

 ちなみに、当時すでに台頭していた日本の油絵に関してはひとこともふれていない。海外の美術についても、特定の作家について論じることはしていない。子規と同年生まれの夏目漱石もやはり美術に造詣が深かったが、ターナーやJ.E.ミレー(ミレイ)といった名前がその小説にたびたび登場することから比べると、子規の東洋美術への偏愛は明らかだろう。

 しかしその一方で、「自分の見た事のないもので、ちよつと見たいと思ふ物」の筆頭に「活動写真」をあげてもいる。もし彼が寝たきりの体でなかったら、もっと貪欲にさまざまなものを見聞し、傾聴すべき文化論や美術評論を書き残していたのではないかと思うと、残念でならない。

                    ***

 『病牀六尺』の終わり近くには、二人の客が子規のもとを訪れたことが書かれている。そのうちのひとり、孫生という男がおもむろに口を開いていうには、「渡辺さんのお嬢さんがあなたにお目にかかりたがっている」とのこと。子規も思わず「それはお目にかかりたいものです」というと、「実は今待っておいでになるのです」との返事だ。

 思いがけず“渡辺さんのお嬢さん”との対面を果たした子規の筆は、いつになく高揚し、熱がこもっている。いわば彼は、柄にもなく一目惚れをしてしまったのである。すでに余命いくばくもない、瀕死の病人であるというのに。

 《前からうすうす噂に聞かぬでもなかつたが、固(もと)より今遇(あ)はうとは少しも予期しなかつたので、その風采なども一目見ると予(かね)て想像して居つたよりは遥かに品の善い、それで何となく気の利いて居る、いはば余の理想に近いところの趣を備へて居た。余はこれを見るとから半ば夢中のやうになつて動悸が打つたのやら、脈が高くなつたのやら凡(すべ)て覚えなかつた。お嬢さんはごく真面目に無駄のない挨拶をしてそれで何となく愛嬌のある顔であつた。》

 読んでいるほうも赤面したくなるぐらい、完全な惚れこみようである。恋は盲目というべきか、さらに子規は大胆な行動に出ようとする。

 《暫くして三人は暇乞(いとまごい)して帰りかけたので余は病床に寐(ね)て居ながら何となく気がいらつて来て、どうとも仕方のないやうになつたので、今帰りかけて居る孫生を呼び戻して私(ひそ)かに余の意中を明してしまふた。余り突然なぶしつけな事とは思ふたけれども余は生れてから今日のやうに心をなやました事はないので、従つてまた今日のやうに英断を施したのも初めてであつた。孫生は快く承諾してとにかくお嬢さんだけは置いて行きませうといふ。それから玄関の方へ行て何かささやいた末にお嬢さんだけは元の室へ帰つて来て今夜はここに泊ることとなつた。》

 そしてついに、子規はこのお嬢さんを手に入れてしまうのである。病人の身分で、天下の俳人の身分で何たることか、と腹を立ててはいけない。最後に子規は、彼女の正体をばらしてこうしめくくっている。

 《お嬢さんの名は南岳艸花画巻(えまき)。》(八月二十四日)

 つまり彼が惚れたのは、“渡辺さんのお嬢さん”ならぬ、渡辺南岳の絵だったというわけだ。他愛もない話のようだが、正岡子規の美術に対する愛をこれほど感じさせるくだりはない。彼は妙齢の女性と出会ったみたいに、動悸が打つのをどうにも抑えようがなかったのである。

 数日後、彼はいかにも満足した調子でこう書きつけた。

 《余が所望したる南岳の艸花画巻は今は余の物となつて、枕元に置かれて居る。朝に夕に、日に幾度となくあけては、見るのが何よりの楽しみで、ために命の延びるやうな心地がする。》(八月三十一日)

                    ***

 しかし月が変わると、病状はいよいよ重くなった。体は痩せ衰え、そのかわりに足先はブクブクと腫れ上がったという。火箸のさきに徳利をつけたるが如し、と彼はやや自嘲的にたとえている。

 《人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したような苦痛が自分のこの身の上に来るとはちよつと想像せられぬ事である。》(九月十三日)

 美へのかぎりない愛着と、病苦との凄絶な戦いを目まぐるしく繰り返したあげく、正岡子規は九月十九日に息を引き取った。まだ35歳の若さだった。

(了)


参考図書:正岡子規『病牀六尺』(岩波文庫)

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正岡子規の“最後の恋”(1)

2008å¹´05月28æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 盲腸で入院中、腹の傷はずいぶん痛むが頭は奇妙に冴えわたり、来る日も来る日もいろんなことを考えた。ついこの間まで眼の回るほど忙しく働いていたくせに、突然することがなくなると、時間が経つのがあまりにも遅くて退屈きわまりない。そんなとき、ぼくの頭をしばしばよぎったのが、俳人正岡子規のことだった。

 いったいなぜだろう。子供のころに俳句をちょっとかじったことはあるが、特に子規の句を読んだりしたことはなく、すっかりいい大人になるまでほとんど何の興味ももたずにきた人物だった。もちろん髪のない横顔の肖像写真はよく知っているのだが、頭に浮かぶ句といえば「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」ぐらいである。小学校のころ、同級生が間違えて「鐘が鳴る鳴る法隆寺」といっていたりしたものだ。

                    ***

 ぼくがふと子規のことを考えるようになったのは、彼が晩年の長い年月を病床で過ごしたことを思い出したからだった。ぼくはといえばもちろん死の床に伏しているわけではなくて、やがて傷口がふさがれば退院できるにちがいないけれど、後から調べてみると子規は重度の脊椎カリエスで、3年間も寝たきりだったという。その病気がどんなに苦痛をともなうものなのか、ぼくは経験していないので知りようがないが、相当痛いものらしい。歩くことはおろか、座ったり寝返りを打ったりすることもできない状況だったそうだ。

 しかしぼくがすごいと思うのは、すさまじい病苦にさいなまれながらも、子規が毎日のように筆をとっていたということである。俳人というものは、季節を愛でるために外をそぞろ歩いたりするものではないかと思っていたが、子規は家から一歩も出ることができないのに、病床でも句を詠んでいる。さらには、他人の句に痛烈な批判を浴びせたりもしている。そればかりか、日常のこまごましたことを仔細に綴ってもいる。

 ぼくは退院してすぐ、子規が最晩年にしたためた『病牀六尺』を買い求めた。子規の枕元には弟子である伊藤左千夫や高浜虚子らが交替でかよってきて、俳句の投稿誌を見せたり、よもやま話をしていったりしたらしく、誰が来てどんな話をした、ということが書かれている。

 驚くのは、すでに死神の足音が聞こえていたにちがいない正岡子規が、自分の専門ではないさまざまなことがらに大いなる好奇心を示していることである。釣りの餌が地方によってどんなにちがうか、といったことから、能楽と芝居の関係についてや、西欧列国のなかにおける日本の位置づけにまで話が及ぶ。六尺、つまりおよそ180センチの小さな世界で考えたとは思えない、広範な視野をもちつづけていたようなのである。

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 だが、病状がかんばしくないときには彼もつい取り乱して、次のような言葉を書き連ねることもあった。

 《爰(ここ)に病人あり。体痛みかつ弱りて身動き殆ど出来ず。頭脳乱れやすく、目くるめきて書籍新聞など読むに由なし。まして筆を執つてものを書く事は到底出来得べくもあらず。而して傍に看護の人なく談話の客なからんか。如何にして日を暮すべきか、如何にして日を暮すべきか。》(六月十九日)

 《もし死ぬることが出来ればそれは何よりも望むところである。しかし死ぬることも出来ねば殺してくれるものもない。一日の苦しみは夜に入つてやうやう減じ僅かに眠気さした時にはその日の苦痛が終ると共にはや翌朝寝起の苦痛が思ひやられる。寝起ほど苦しい時はないのである。誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか、誰かこの苦を助けてくれるものはあるまいか。》(六月二十日)

 最後に2度ずつ繰り返される言葉は、手術直後のぼくの心をかすめた言葉でもある。しかし子規の場合には、およそ比較にならないほど深刻であったのはいうまでもない。それはまさしく、断末魔の叫びとでもいうほかないものだ。

 そんな子規の苦痛をいささかでも減じ、彼の心に束の間の光明をもたらしたのは、美術であった。子規が稀代の美術通であったということを、ぼくはこの本を読むまで全然知らなかったのである。

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茶室と庭のある写真展 ― エリオット・アーウィットを観る ―

2008å¹´05月27æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 八坂神社からほど近く、みやびな和風小物を商う店や甘味処が建ち並び、観光客が引きも切らない祇園の商店街のただなかに、石造りの重厚な建物が建っている。まるで時代の流行からぽつんと取り残されたみたいに、ひっそりと聳えている。買い物に興じる人々の眼にはとまらないように、じっと息を殺しているかのようにも見える。京都現代美術館という肩書きからしても、そのたたずまいは古めかしく、重々しい。またの名を、何必館(かひつかん)という。

 この異色の美術館の存在は以前から知っていたし、前を通り過ぎたことは何十回あるかわからないほどだけれど、つい中へ入るきっかけをつかみそこねていた。このたびようやく、思い切ってその扉を押し開けてみることにする。エリオット・アーウィットという写真家の展覧会を観るためだ。

                    ***

 ぼくはそれほど写真展を観るほうではないが、マグナム・フォトに在籍している名カメラマンの展覧会はいくつか観てきた。ロバート・キャパしかり、アンリ・カルティエ=ブレッソンしかり。しかし、アーウィットという名前は一度も聞いたことがなかった。何必館に行ってみようかという気になったとき、そこでたまたまアーウィット展をやっていた、というほうが正しい。



 しかしプラド美術館での人間模様をとらえた一枚の写真を観て、ああこれを撮った人だったのか、と思った。ゴヤの『着衣のマハ』よりも、『裸体のマハ』のほうに人だかりができている(しかも男ばかり)。思わず吹き出したくなるような、しかし世の男性陣には思いあたるふしがないでもない、ちょっと赤面してしまいそうな写真である。



 人間を見つめるアーウィットの目線は、ユーモアに富んでいて、どこかあたたかい。荒天のエッフェル塔をバックに、壊れた傘をものともせず見つめ合うカップルと、バレエダンサーのように跳躍して水たまりを飛び越えようとする男のシルエットがくっきりと浮かびあがる。カルティエ=ブレッソンの有名な『決定的瞬間』へのオマージュかもしれない。

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 かと思うと、彼の写真には滑稽な動物たちもたくさん登場する。お散歩が楽しくて仕方ないのか、信じられないような高さまで飛び跳ねている犬。それを見てびっくりしている男の姿が背後に写っている。だから余計におかしい。



 飼い主はペットに似るというけれど、ここまでとは・・・。いやいや、よく見ると膝の上にもう一匹のブルドッグがのっているのだった。

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 アーウィットの経歴を見ると、かなり複雑だ。1928年にロシア移民の子としてパリに生まれ、少年のころにはアメリカに移り住んでいる。人種と国籍の狭間で生きることの困難さを、身をもって知っていたのではないかと思う。キャパのように戦場の写真を撮りつづけたわけではないが、戦争や差別が絶えることのなかった20世紀を生き抜いた写真家の宿命として、観る者に重い問いを投げかけるような作品も残している。



 このたびの展覧会で、もっともショッキングだったのがこの一枚だった。理不尽な死への恐怖と、命のはかなさを、これほどまでに凝縮してあらわした写真をぼくは知らない。われわれを問い詰めるような少年の視線が、心に深く突き刺さる。ぼくは言葉を失って、しばらく立ちつくしてしまった。

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 何必館の最上階には茶室があり、床の間にはエンパイアステートビルを写したアーウィットの写真が掛けられていた。普段は村上華岳などの日本画が掛けられていたり、クレーの絵が飾られていることもあるようだ。

 ビルの5階だというのに坪庭もあって、楓の木が植えられ、丸く切り抜かれた天井からは自然光がふりそそいでくる。光庭(ひかりにわ)というそうだ。都会の一角とは思えない静謐な空間が、訪れる人を癒やしてくれる。季節が変わると、またちがった表情を見せてくれるだろう。

 今年80歳になるエリオット・アーウィットは、先日この美術館を訪れてサイン会を開いたという。ぼくが出かけた5月18日は展覧会の最終日ということだったが、今改めて調べてみると会期が3週間も延長されていることがわかった。何とも不思議な、自由な美術館である。

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 それでは最後に、アーウィットにあやかって(というより便乗して)、筆者がこの日撮影したシロウト写真を何枚か載せることにしよう。


〔何必館にて(光庭)〕


〔COCON KARASUMA(古今烏丸)にて〕


〔JR京都駅ビルでの結婚式〕

(了)


DATA:
 「内なる愛 エリオット・アーウィット展」
 2008年4月18日~6月8日
 何必館・京都現代美術館

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五十点美術館 No.17

2008å¹´05月26æ—¥ | äº”十点美術館
岸田劉生『道路と土手と塀(切通之写生)』


 東山魁夷の『道』のことを考えているうち、もう一枚の別の絵が頭に浮かんできて仕方なかった。そこにもやはり、一本の道が画面の奥に向かってのびていくところが描かれている。重要文化財にも指定されているその絵のタイトルは、『道路と土手と塀(切通之写生)』という。何とまあ味も素っ気もない、説明的な題名だろうか。

 作者は岸田劉生。麗子という自分の娘を繰り返し描いたことで有名だが、画風を転々とさせたこの画家のことを、ぼくはじゅうぶんに理解できているとはいいがたい。子供のころから展覧会で実物にふれる機会があって、『麗子像』の連作もかなり早い段階で眼にしているが、「麗子を親としての目線ではなく、あくまでひとつのモチーフとして、冷たく突き放して描いているようだ」といった感想を日記に書きつけたのを覚えている。今となっても、その気持ちは基本的に変わらない。

                    ***

 劉生はなぜ、家の近所の道をこれほど写実的に描く必要があったのだろうか。話によるとここは、彼がそのころ住んでいた代々木の一角らしい。

 現在の様子を写真で見たことがあるが、本当に何気ない、どこにでもあるような街角だ。道路はもちろん舗装されていて、左側にはマンションらしきビルが建ち、右側の土手はすっかりコンクリートで固められ、その上にも建物が建っているらしく見える。絵が描かれてから90年余り、東京の景観が無残なまでに変貌してしまっているのは当然の話だろう。

 しかし気になったのは、描かれた道の角度だ。写真で見るかぎりでは、せいぜい緩やかなのぼり坂といった程度である。付近に住む人の話によると斜度はおよそ10度で、昔からさほど変わっていないらしい。だが岸田劉生の絵のなかでは、通行人をたじろがせるほど急峻な斜面として描かれているではないか。大雨の日にはむき出しの赤土がぬかるみ、泥流のように流れ落ちてくるのではないかと思われるほどだ。

 こんなふうに想像力を働かせることができるのも、劉生の真に迫った描写力あってのことである。東山魁夷の『道』は、実際に現場での写生によりつつも、最後にはリアリティを超越した心象風景として描かれ、普遍的なひとすじの道となった。だからこそ、われわれはその道をみずからの人生に重ね合わせたり、勇気づけられたりもするのだろう。

 しかし岸田劉生の描いた道は、単なる道路以上のものではない。こののぼりにくそうな坂道を、われわれがのぼってみることなどできやしないのだ。手でさわれそうなぐらいリアルに描かれているにもかからわず、その風景と鑑賞者の間には絶対的な距離があり、絵のなかに入り込むことを困難にしている。これは、考えてみれば奇妙な逆説である。

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 娘・麗子は、のちに父親の評伝を執筆している。そのなかで、この絵が描かれるのに要した時間は10日間だと書いているが、それが事実なら驚異的なスピードだと思う。さらに彼女は、上に述べたようなぼくの感想とは正反対のことを記してもいる。

 《私はこの絵を見ていると、いつも暖かく自分を迎えてくれる永遠の心の「ふるさと」を見るような気がするのだ。この“暖かさ”が何ともいえず懐かしいのだ。》(岸田麗子『父 岸田劉生』中公文庫)

 麗子が生まれたのは、この代々木であった。彼女にとっては、父親が描いたこの絵が正真正銘の“ふるさと”の姿だったのである。

 それにしても岸田劉生は、あの道をなぜ、これほどまでに急な坂として描かねばならなかったのだろう。彼はこのとき、乗り越えなければならない壁にぶち当たっていたのでもあろうか。苦しい坂をのぼり終えたところに次なる展望が開けることを、心に期していたのでもあろうか。

(東京国立近代美術館蔵)

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両巨匠、並び立てる ― 小磯良平と東山魁夷 ― (5)

2008å¹´05月24æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
東山魁夷 その2


『満ち来る潮』(山種美術館蔵、部分)

 会場でひときわ眼を引いていたのが、波の立ち騒ぐ海景を描いた大きな絵だった。縦2メートル、横9メートルあまり。『満ち来る潮』(上図)と題されている。

 東山魁夷はこれに先立って、皇居新宮殿のロビーに『朝明けの潮』という大壁画を完成させた。「日展」出品作以外の仕事をすべてことわって取り組んだという畢生の大作だが、場所が場所だけに一般の人の眼にふれることはほとんどなく、ぼくも写真すら観たことがない秘仏ならぬ秘画である。それではいかにも惜しいのというので、山種美術館の設立者である山崎種二が新たに依頼して描き下ろされたのが、この『満ち来る潮』なのであった。

 彼は壁画の制作のために日本中の海岸を歩き、各地の海を見てまわったという。襟裳岬、犬吠崎、潮岬、丹後半島や白浜などあちこちをめぐり、取材を重ねた。ぼくの故郷である東尋坊も訪れたということだが、すでに俗化してしまった、とすげない感想を書いている。

                    ***

 彼が描こうとしていたのは、どこか有名な景勝地の風景などではない。特定の場所にしばられることなく、日本の海の普遍的な情景、いわば海そのものを描きたかったのだろう。この国が島国であることを思い出させる海。ときには凪ぎ、ときには荒れ狂い、人の命を翻弄してきた海・・・。

 しかし名もない海の絵を描こうとすることが、はからずも東山魁夷の存在を、これまでの日本絵画の伝統から一歩押し上げることになったこともたしかだろう。日本の国の風景が絵画のモチーフとして自立したのは江戸時代のことだと思うが、そのときはもっぱら固有名詞のついた名所旧跡ばかりが競って描かれた。代表的なのが北斎の『富嶽三十六景』、そして広重の『東海道五十三次』である。この伝統は、おそらく昭和期の日本画にいたるまで脈々と継承されてきたように思う。

 “日本のどこかの海”ではなく、あらゆる海の記憶が積み重なった象徴としての大海原を描いたのは、おそらく東山魁夷が最初だったのではあるまいか。彼の『道』という作品が、われわれすべてのための道になり得るのと同じように、彼の描いた海はすべての人にとっての海の原風景となるのである。


『濤声』(唐招提寺蔵、部分)
※この作品は出品作ではありません

 さらにいえば、海のなかに点在する岩の配置に関して、京都で枯山水の庭を見たときの経験が役に立ったと本人が書いている。東山魁夷の海には、“日本の記憶”が深く沈殿しているのである。のちに手がけることになる唐招提寺の障壁画『濤声』(上図)が、この作品を踏まえて描かれているのは明らかだ。何年か前の蒸し暑い6月のある日、奈良まで足を運んで眺めた圧倒的な海の絵の記憶は、ぼくの脳裏から決して消え去ることはない。

                    ***


『森の幻想』(兵庫県立美術館蔵)

 東山絵画について語りはじめると、とまらなくなる。最後にもう一点だけ取り上げて、ひとまずこの記事を終えることにしよう。

 東山魁夷は日本の風景を深く見つめる一方で、ヨーロッパ的なるものへの憧憬をもちつづけていた人でもあった。東京美術学校を出てからはドイツに留学しているし、北欧への旅行も経験している。ただしイタリアやスペインなど、南国にはあまり足を向けていないようだ。自然の厳しさや、人間の思慮深さのほうへと引き寄せられがちな、彼の哲学的ともいえる志向性がはっきりとあらわれている。

 『森の幻想』(上図)は、ドイツのどこかを思わせる深遠な森が舞台だ。そしてその奥に、かすかに浮かび上がる舞踏会の幻。ぼくの記憶ではたしか、モーツァルトのオペラのワンシーンだったように思う。東山魁夷は初期のころをのぞいて、絵のなかに人影を描こうとしなかった。その点でこの作品は、かなり異色でもある。

 絵のなかに幻想を描くなど、現実逃避であるという人もいるかもしれない。東山の絵にしばしばあらわれる高貴な白馬も、同じような意味合いをもっていそうだ。『道』の構図から灯台を消し去ったように、彼は現実感のある建築物を描くことをできるだけ避けようとしたふしがある。京都の古い街並みや、西洋の風格ある教会などをのぞいて。

 しかしそれは、急速な近代化が地球上を席巻していくなかで、一生の仕事として風景画を描きつづけていくために彼が選び取った手段であった。醜い現実を見すぎたわれわれの眼には、東山魁夷の描く世界はあまりにも純粋に映ったにちがいない。時代は21世紀に突入したが、彼の絵はますますその輝きを増しているように思われる。決して失われることのない昔の記憶のように、ぼくたちはいつでもそこへ帰ってゆくことができるのである。

(了)


参考図書:
 東山魁夷『泉に聴く』(講談社文芸文庫)

DATA:
 「小磯良平・東山魁夷展」
 2008年5月14日~5月26日
 大丸ミュージアムKOBE

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