てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

関雪は曲がらない(7)

2013å¹´10月31æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

橋本関雪『防空壕』(1942年、東京国立近代美術館蔵)

 橋本関雪は、終戦の年の2月に世を去った。敗戦後まで生き延びることは叶わなかったが、やはり戦争は彼の絵画にも深い影を落とした。

 1942年、彼は吉川英治らと南方を巡る従軍旅行に出る。フィリピン、インドネシア、シンガポール、タイ、ベトナムなどを精力的に取材したあと、中国を経由して日本へ帰った。当時としては、かなり大掛かりな行程だったのではないかと思う。

 関雪にとっては異色作といえる『防空壕』は、そのときの経験から生み出されたものだろう。防空壕といっても、われわれが想像するものとはかなりちがっていて、まるで神殿から異国の女神が姿をあらわしたところのようだ。

 あの涼しげな、中国式美人の面影はここにはなく、どぎついまでの唇の赤やくっきりとした目もと、豊満でしなやかな肉体が眼を惹く。そこには戦時にふさわしからぬエロスの気配が垣間見られるようですらある。

 この従軍経験を経て、関雪の絵画に新たな1ページが加えられたような気がするが、それは彼にとっていかなる意味をもつものだったろうか。日本画と戦争の関係というと、どうしても横山大観のことが頭に浮かぶが、関雪はより純粋に画家としての視点をもちながら、見聞を広めるつもりで未知の世界を旺盛に旅して歩いたようにも思われる。

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橋本関雪『香妃戎装』(1944年、衆議院蔵)

 香妃は、哀れな伝説に彩られた女性だ。清の国を治めていた乾隆帝の、たくさんいる妃のひとりがモデルといわれる。彼女は皇帝のもとへ捕虜として無理に連れてこられたが、武装した姿で前夫への貞節を貫き、体を許さなかった。そのため、皇太后に命じられて縊死を遂げたというのだ。

 ただ、そんな悲劇のストーリーをこの絵から連想する必要はないように思う。いろいろ調べてみると、頑丈そうな鎧を着込んだ香妃の肖像は以前から存在したようだが、戦時下という状況を鑑みて、関雪が改めて選びとったモチーフなのだろうか。戦況が切迫するにつれ、いわゆる銃後の守りが奨励された時代のことである。

 香妃のかたわらには、『唐犬図』から抜け出してきたような賢そうな犬がおとなしく控えている。香妃が犬を連れていたとは思えないので、もちろん関雪の創作だろうが、こんな場合でも自分の嗜好を遠慮なく描き加える大胆さを彼はもっていた。

 香妃の表情には、何か重い決意を胸に秘めた、毅然としたところがある。危機的な状況にも物怖じせず立ち向かっていくその姿は、当時の日本の人たちに勇気を与えることにつながったのかもしれない。ただ、ぼくは鉄兜の下からのぞいている彼女の凛とした美しさに、関雪が『静御前』以来ずっと追い求めてきた女性像の究極のかたちをみたような気がした。

(了)


DATA:
 「橋本関雪展」
 2013年9月14日~10月20日
 兵庫県立美術館

参考図書:
 西原大輔「橋本関雪 ― 師とするものは支那の自然」(ミネルヴァ書房)

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ハロウィンばやり

2013å¹´10月30æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 この季節になると、あちこちでカボチャを髑髏のようにくり抜いた不気味な装飾が眼につくようになってくる。なかには、魔女がかぶるような黒い三角帽子をかぶっているのもある。不思議な習慣が根付いてきたものだ。

 ハロウィン。ぼくが子供のころには、まったくそんな習慣はなかった。おそらくそれらしいものを最初に知ったのは、映画「E.T.」のなかで、登場人物たちが奇妙な仮装をして街へ繰り出すシーンである。けれども、それはあくまでアメリカの伝統行事の一種であって、われわれの周りでもそれが広まりはじめるだろうとは夢にも思わなかった。

 日本でその日に仮装をして練り歩くのは、テーマパークの行事や、熱心(?)な一部の人に限られるようで、一般の家庭でまんべんなくおこなわれているわけではない。だいたい、「ハロウィン」といったり「ハロウィーン」といったり、表記の揺れがまかり通っているところが、まだまだ深く浸透してはいないことを物語る。仏教の家庭でもクリスマスを祝うのは、いまや日本の年中行事のようになっているが、ハロウィンがその地位を獲得するのは、まだ先の話だろうとは思う。

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 2月3日の節分の日には、豆まきとは別に、恵方巻なるものを食べる風習も広まってきた。これは大阪が発祥らしく、福井に生まれ育った人間にはまったく縁がなかったので、ぼくは今でも「丸かぶり」をしようとは思わない。しかし大阪出身の妻は、そんなぼくを尻目に毎年恵方を向いて、太巻をガブリとやっている。ごくごく真面目な顔つきで。

 だが、今やこれも大阪だけの話ではなくなった。かつては恵方巻の「え」の字も聞かれなかったはずの福井でも、徐々に広まっているらしい。数年前、たまたま1月に帰省したことがあったが、コンビニに恵方巻の販売予告が大々的に貼られていて驚いたものだ。

 このブームというか、新しい習慣の定着は、誰が得をするのか。海苔の業界か、巻寿司業界(?)か。いずれにせよ、バレンタインになるとチョコが圧倒的に売れるように、節分になると太巻が大量に出回るのは、何やら信心を通り越して、たくましい商魂というか、欲望の浅ましさばかりが際立つような気もする。

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 日本におけるハロウィンも、その本来の意義などとは関係なく、手軽なイベントとしておこなわれるようになってきたのだろう。ぼく自身は、そういったものにまったく興味がないので、正月の鏡餅みたいに、家でハロウィンの飾り物を準備したりはしない。ただ、街でそういうものを見かけると、「もうそんな季節か」と思うだけだ。

 つい先日、とある商店街のようなところを歩いていたら、仏壇仏具を商う厳かな店の入口に、あのカボチャの化け物が描かれた提灯が掲げられていた。ぼくは思わず心のなかで、「それはちがうだろ!」と突っ込んでしまった。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

関雪は曲がらない(6)

2013å¹´10月29æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 
橋本関雪『唐犬図』(1936年、大阪市立美術館蔵)

 今回の展覧会で、ひとつのサプライズがあった。といって大袈裟なら、予定になかったことがおこなわれた。大阪市立美術館から貸し出された『唐犬図』は、もともと会期末より一週間早く展示を終了するはずだったのだが、所蔵先の特別なはからいか何かで、最後まで展示されることになったのだ。

 なぜこういうことになったのかは知らないし、ぼくが出かけた日はそもそも『唐犬図』が撤収される予定よりも前のことだったので、実のところまったく関係がなかったのだが、日本画の展覧会によくある“展示替え”は、しばしば観る者を苦しめる。いちばん楽しみにしていた作品が、すでに展示期間を終えていてがっかりしたという経験は、美術好きなら誰にでもあるだろう。

 ところでこの展示替えという風習は、もちろん日本画の素材が傷みやすく、同じところに長時間掛けておくと劣化が早まるのを避けるためだと思われる。だが、季節の移ろいを敏感にとらえている場合が多い日本画は、こまめに掛け替えるという小出しの鑑賞法がよく似合っているのもたしかなのだ。せっかく咲いた美しい花も、季節が進めば萎んで葉っぱだけになるのが、われわれにとっては自然なことであるように・・・。

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 というようなわけで、思いがけなく全期間展示されることになったこの絵だが、ぼくは何年か前に、所蔵している大阪市立美術館で一度お眼にかかっている。

 唐犬というのは、ここでは洋犬のことだが、江戸時代から繰り返し描かれてきた愛らしい日本の犬たちとはちがう品のよさ、いいかえればとっつきにくさがあるように思った。しいてたとえれば、つんとすました貴婦人のよう。特に右隻のボルゾイは、もともとロシア原産の犬らしいが、牡丹の花を従えて優美にポーズをとるところは、まさに動物版の美人画といったおもむきである。

 左隻に描かれた二頭のグレーハウンドは、毛並みの豊かなボルゾイのほうを見るともなく見ているようだ。しかしボルゾイは、ぷいと顔を背けてしまって、一向に気づかぬふうを装っている。高貴な身分の者たちが繰り広げる心理戦を連想させる細かな演出は、応挙や若冲らが描いた子供が戯れるような犬たちからの描写からは大きく逸脱している。日本画における西洋の影響が、端的にあらわれたケースかもしれない。

 ちなみに画家自身、異常なまでの愛犬家だったそうだ。実際に三頭のボルゾイを飼っていたという証言もあるという。関雪の娘が嫁いだのは外科医だったが、犬が病気になると、何度も電話がかかってきて「早く来てくれ」と催促する(もちろん獣医ではなくて、人間を治療するのが本業なのだが)。関雪が、動物に人間を重ね合わせていたことを示すエピソードだろう。

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関雪は曲がらない(5)

2013å¹´10月28æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

橋本関雪『意馬心猿』(1928年、京都国立近代美術館蔵)

 動物画といえば、伊藤若冲を思い浮かべる人も多いだろう。たしかに彼は古い物語などとは無縁であったし、頻繁に描いた鶏も、広い意味で動物である。若冲は実に多彩な画風を展開させたが、そのモチーフの種類は極めて限定されているといっていい。

 江戸時代の絵師である若冲と、明治から昭和にかけて活躍した関雪を比べるのはナンセンスだといわれれば、そうにちがいない。だが、動物それ自体を客観的な対象として、いわば料理の材料のように見ていた若冲と、どことなく人間味を反映しているように感じられる関雪とは、好対照をなしているようにも思われる。

 この絵のタイトルは、『意馬心猿』だ。その意味は、大ざっぱにいえば心が乱れているということで、つまりは人間を動物にたとえているのである。決して、馬のことをいっているわけではない。関雪が、馬の絵を描いてこういう題名をつけたのは、筋がちがっているように思えなくもない。

 けれども、そこに描かれている馬が、人間を思い起こさせるとしたらどうだろうか。ぼくは馬を間近で見たことはないのだが、何となく眼つきが優しくて、賢そうだというイメージをもっている。けれどもこの馬は、眼は鋭く、口は痴呆のように開けられていて、何も手につかないといったように右往左往している。一直線に走っていくカッコよさは、ここにはない。

 関雪は、ある種の愚かな人の姿を、馬に託して描いたのかもしれない。これが描かれた1928年は、中国と日本の軍隊が衝突する済南事件があったり、張作霖が暗殺されたり、中国と日本との関係は今以上に冷え込んでいた。というより、お互いに爆弾を抱え込んだような危険な状態だったのではないだろうか。

 中国の自然を“師”と呼び、親しみと敬意をもって接していた関雪にとっては、まさに「意馬心猿」さながら、あてもなくおろおろするしかないような心境だったのかもしれない。この哀れな馬の姿は、もしかすると関雪の自画像ではないか、という気もするのである。

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橋本関雪『霜猿』(1939年)

 それとは逆に『霜猿』は、白い猿がすべてを超越したような鷹揚さで、木の先端に腰かけている。月をも下に見るほどの高みにいるのだが、ちっとも怖そうではない。むしろ、世の中をじっくりと見渡しているような落ち着きすら感じられる。

 猿の胸のあたりには、垂れた乳首のようなものがある。“たらちねの母”という言葉を何となく思い起こさせるが、おそらくは老いたメスの猿なのであろう。彼女は人生(猿生?)のあらゆる修羅場を乗り越え、すでに生涯の終盤にさしかかり、おのれの来し方を静かに振り返っているのかもしれない。

 この絵が何となく人間くさく感じられるのは、やはり老人は猿に似てくる、という認識があるからだろう。それと同時に、他にすがるものもない孤独さが強く感じられるのもたしかだ。現代の高齢者が置かれている環境を連想せずにはいられない。

 滑稽なはずの猿の姿に、ここまでの厳粛さを付与して描くことができるのは、関雪がやはり若冲とはちがい、動物と人間とを重ね合わせて、あるいは同列のものとしてとらえていた証しではあるまいか。

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関雪は曲がらない(4)

2013å¹´10月27æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

橋本関雪『摘瓜図』(1925年頃、姫路市立美術館蔵)

 関雪は、動物画の名手としても知られている。ぼくにとってストレートに絵に入り込みやすいのは、そういった作品である。

 『摘瓜図』の主役は、もちろん涼しい目もとをした中国風の美人であろう。眉が細く引かれ、端整ななかにもかすかに魔性を秘めたような顔つきと、手にした瓜とはさみとが、奇妙な違和感を生み出す。

 怪談などでは、美味だといって差し出された果実を食べると死んでしまったり、何かに姿を変えてしまったりする話があったように思う。もっとよく知られているところでは、グリム兄弟の「白雪姫」も、それに類する話であろう。この関雪が描いた女も、正体は不明ながら、何となく裏があるような感じがしないでもない。

 その雰囲気を強めているのは、足もとにいる猫のせいだろうか。この猫は可愛いだけではなく、鋭い牙をむき出し、三角の耳をピンと立てて、瓜をねらっている。思いもよらず獰猛で、食い意地の張った姿を見せているのである。師である竹内栖鳳が、まことに愛くるしい子猫を描いて一世を風靡したことを考えると、そこにはあまりにも大きな断絶があるといえる。

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橋本関雪『木蘭』(左隻、1918年、DIC川村記念美術館蔵)

 『木蘭』は、『南国』に匹敵する大きさの六曲一双の屏風だが、画風はとても落ち着いている。見慣れない中国の風景に驚嘆した関雪が、外面のきらびやかさに惑わされることなく、その精神的な深みにまで降りていこうとした結果ではないかと思う。

 木蘭は中国に伝わる物語の主人公で、京劇の題材にもなっているらしい。京劇といえば、ぼくには日本の歌舞伎をうわまわるほどの華美な衣装と、かん高い歌声しか思い浮かばない。といっても実際に京劇を観たことはなくて、小松政夫とタモリが演じていたオーバーな形態模写をずいぶん昔にテレビで眺めたぐらいだが、そんな一種の偏見が拭い去られ、ここではひとりの女性の姿として結晶している。

 この木蘭という女性、実は“男装の麗人”なのだ。召集令状が届いた父に代わって彼女が出征し、各地で勝利を収めて凱旋するという勇ましい物語らしい。事実、この屏風絵の右隻には二頭の馬が描かれていて、戦いがはじまる前の緊迫した空気を感じさせるが、左隻でひとりぽつねんと大木の根っこに座り、物思いに沈んでいる木蘭の姿は、ものさびしい。

 なお、関雪の奥さんが関雪桜の寄贈を発案したらしいという話を前に書いたが、この木蘭と、関雪夫人とは面影が似ているという。絵画の道に打ち込む夫を支えなければならない妻は、ある意味では絶えず戦場で戦いを繰り広げているようなものだろうが、そんな妻に対するいとおしさが、中国の説話を借りて表現されているのかもしれない。

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