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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

水無月の京都をさすらうの記(3)

2008å¹´06月30æ—¥ | å†™çœŸè¨˜


 雪舟寺を出て、少しは東福寺の巨大な伽藍も見ておきたいと、日下門から境内へと入ってみる。方丈はすでに閉まっており、通天橋も渡れない。聞こえるものといえば自分が踏みしめる砂利の音と、本堂の石段に腰掛けてしゃべっているおばさんたちの声だけである。格子の隙間から本堂の天井をのぞき込むと、堂本印象が墨で描いた雲龍図がうっすらと見えた。今年の正月に、同じ画家が出世稲荷神社の本殿天井に描いた龍の図を見たが、それとよく似ているような気がした。


〔東福寺本堂〕


〔裏側から見た国宝の三門。知恩院や南禅寺に並ぶ大きさだ〕

 実はこのとき、境内を散策できる時間はとっくに過ぎていたらしい。三門の正面へまわろうとして歩いていると、バイクにまたがったおじさんが追いかけてきて、「もう出はりますか?」ときく。思わず「はい」と答えると、「もう閉めますんでね」といい残してバイクで手近の六波羅門まで走っていき、手早く片方の扉を閉め、もう片方を手で持ってぼくが来るのを待っている。

 仕方なく小走りに門を出ると、一刻の猶予もならぬといわんばかりに、ぼくのすぐ後ろでバタンと扉が閉まった。寺を追い出されたみたいでちょっときまりが悪かったが、重要文化財の門から締め出されたのだと思うと、何となく誇らしいような感じがしないでもない。

 気分を入れ替えて、本来の目的地である天得院という塔頭に向かうことにした。ここは桔梗をライトアップするために夜まで開門しているということなので、間違っても追い出されたりはしないはずだ。

                    ***

 天得院は、東福寺保育園と隣り合っている。可愛らしい桔梗のイラストが描かれた団扇をもらって中に入ると、すぐに縁側だった。オカリナの音楽がラジカセから流れている。鈴虫がすだくような声も聞こえる。

 ふた組の女性が庭に向かって腰掛け、外を眺めながら何か話していた。桔梗の花が、苔むした庭のあちこちに咲いている。薄紫の花のなかに、ところどころ白い花も混じっていた。こんなにたくさんの桔梗をいっぺんに見たのははじめてかもしれない。小さな花がぎっしりと集まって咲くあじさいに比べ、桔梗は何となく孤独そうに、しかし凛として首をもたげているように見える。

 珍しい八重の桔梗があるということを聞いたので、一生懸命に探してみた。縁側の端から端まで歩き、すべての花弁に眼を配ったつもりだったが、見つけられない。まだ咲いていないのかな、とあきらめかけていると、縁側の角にある雨樋の陰になったところに、向こうむきに一輪だけ開いているのを見つけた。庭におりることはできないので間近に観察することはできず、写真に収めるのも困難な位置だったのが心残りだが、人知れずこっそり咲いているのが奥床しい気もした。


〔満開にはまだ間があるようだった〕


〔可憐な白い桔梗〕


〔華頭窓から庭をのぞむ〕

                    ***

 座敷のなかでは、寺に伝わる達磨の絵が勢揃いしていた。達磨というのは本当にいろんな人に、しかもいろんな流儀で描かれているらしく、観ていても飽きない。作者名はほとんどが不詳となっていたが、ぼくのシロウト判断からすると、どう観ても隠元禅師の筆としか思えないものがあった。隠元は何枚もの達磨図を描いているようなので、ここに一枚ぐらい伝わっていても不思議はないかもしれない。

 ほかにも「備陽雪舟」という署名が書かれているものがあったが、これはあの雪舟とは何の関係もないのだろうか? 「尚信写」と書かれている絵もあったが、狩野尚信の作品ではないのだろうか? もちろん署名だけでその人の真筆だと判断するのは無理な話だが、一度は専門家がしっかり鑑定をしたほうがいいような気がした。いちばん奥の部屋には「印象」と書かれた小鳥の絵があったが、これは堂本印象の作に間違いないだろう。

 山頭火の句が書かれた額もあった。

山あれば山を観る
雨の日は雨を聴く
春夏秋冬
あしたもよろし
ゆふべもよろし


 誰の字だったのか、落款を見るのを忘れてしまったが、天得院には山頭火が師事した俳人の荻原井泉水(せいせんすい)が隠棲していたことがあるらしく、そのゆかりでこの額があるのかもしれない。


〔花岡大学の碑もあった。彼の童話『子牛の話』は小学校の国語で習ったことがある〕
お父ちゃんが笑ったときは仏さまの顔だよ
お母ちゃんが笑ったときは仏さまの顔だよ


                    ***

 西日の射す庭は、なかなか暗くならなかった。ライトアップされたところを見てみたい気もしたが、いつまでもここでくつろいでいるわけにはいかない。先にいた女性たちが出て行き、ぼくひとりになったので、もう少し花を眺めていてから帰ることにした。せっかく団扇をいただいたのだが、それを使う必要がないほど、清涼なる空気が庭にみちていた。

 しばらくして玄関から外に出ると、音を聞きつけた受付のおばさんが「ありがとうございました」と声をかけてくれた。帰りの電車のなかは、帰宅途中の学生たちで賑わっていることだろう。ぼくは静寂の世界に別れを告げて、都会の雑踏のただなかに戻るべく、駅への道を歩いていった。

(了)

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水無月の京都をさすらうの記(2)

2008å¹´06月28æ—¥ | å†™çœŸè¨˜


 東福寺へと足を向けたわけは、塔頭のひとつに桔梗の名所があって、花がそろそろ開きはじめているということを知ったからだ。ここは何といっても紅葉が有名で、ぼくもたくさんの人波にもまれながら見物したことが何度かあるが、それ以外の時季に来たのははじめてである。平日の夕方ということもあってか、意外なほど人が少ない。東福寺本来のたたずまいは、こんなふうに閑静なものなのだろう。

 中門から入り、巨大な三門が待ち構える境内のほうへ歩いていこうとすると、「雪舟庭園」と書かれた塔頭が眼に飛び込んできた。「芬陀院(ふんだいん) 雪舟寺」とも書かれている。立て看板の解説を読むと、あの雪舟によって作られた庭があるという。水墨画の真筆ですら20点ほどしかない(フェルメールより少ない!)といわれている雪舟のこと、彼の手になる庭が残っているなんて信じがたいな、と思いつつも、つい寄り道してみる気になった。時間と心の余裕さえあれば、貪欲に何でも見てやりたい、というのがぼくの願いだ。

 門の向こうを見ると、苔に囲まれた石畳の道が真っ直ぐに奥までつづいている。それに導かれるように、ふらふらと雪舟寺へ足を踏み入れてみた。


〔芬陀院の山門から中をのぞむ〕


〔少しずつちがった色の石が敷き詰められている。後から気がついたが、東山魁夷の『道』を左右逆転させたようなアングルだ〕


〔雪舟といえば、涙で鼠を描いた逸話で有名。そのためか、可愛らしいミッキーもどき(?)のお出ましである〕

                    ***

 お堂へ上がらせていただくと、2、3人ほどが縁側に腰掛けて庭を眺めていた。京都の有名な寺院では、観光客が鈴なりになって庭を観賞している場合が多く、そんなに大勢に見つめられては庭のほうも恥ずかしいのではないかと思うことが少なくないが、ここは至って静かである。ぼくが歩くと廊下がきしみ、つかの間の静寂を乱してしまうのが申し訳なくなるほどだ。

 きれいに筋目の入れられた白砂の向こうに、「鶴亀の庭」があった。いつもながらこの手の枯山水庭園では、石の見立てを理解するのに難儀することが多いのだが、今回も右側の細長い石が鶴なのかと思っていたら間違いであった。いい伝えによると、石組みで作った亀が夜な夜な動き出すので、雪舟が甲羅の上に石を立てたのだという。なるほどいわれてみれば、てっぺんの石をのぞいた姿はまさに亀のそれである。

 それにしても、くだんの鼠のエピソードといい、石の亀を封じ込めた話といい、雪舟にはなぜか人知を超えた伝説がつきまとう。国宝の『天橋立図』は、ヘリに乗って上空から見たのと同じ構図だと誰かがいっていた。それだけ彼の存在がずば抜けて偉大だということかもしれないが、中国へ渡ってまで絵の修業をした苦労人であることも忘れたくない。


〔「鶴亀の庭」の全景〕


〔片隅の手水鉢には花が添えられていた〕

 雪舟は室町時代の人だが、当時の庭がそのまま残っているというわけではない。今みる雪舟庭園は、昭和に入ってから作庭家の重森三玲(みれい)によって復元されたものだそうだ。東福寺と重森の組み合わせといえば、何といっても方丈庭園の市松模様がよく知られているが、残念ながらまだ観たことがない。


〔「鶴亀の庭」につづく「東庭」〕


〔円窓から庭をのぞむ〕


〔茶室もあり、茶釜がしつらえられていた〕

 季節のせいか、花らしい花はほとんど咲いていなかった。緑の苔と白砂と、わびさびが硬く凝結したような石だけの、寡黙で静謐な世界だ。無口な人と対峙するのには多少の根気を必要とするが、静かな庭と向き合っていると心まで静まってくるような気がした。

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水無月の京都をさすらうの記(1)

2008å¹´06月27æ—¥ | å†™çœŸè¨˜


 体調すぐれず家にこもっていたけれど、これではいかんと思い立ち、外へ出た。先日は平安神宮で花菖蒲を観賞したが、もうちょっといろんな花を見たかった。休職中で体の自由がきく間に、今の季節を実感しておきたいと思ったのだ。

 そこで思いついたのが、伏見区にある藤森(ふじのもり)神社である。あじさいの名所として名前はよく知っているが、まだ一度も出かけたことがなかった。行き方を調べてみると、京阪の藤森駅よりも、一駅先の墨染という駅のほうが近い。昼過ぎに家を出て、各駅停車にしばらく揺られていると、住宅地に挟まれた小さな駅に着いた。

 ちょうど小学校の下校時間と重なり、子供の元気な声が街のあちこちから聞こえてくる。物騒な世の中になったせいか、集団になって下校する彼らに混じって歩いていくと、ほどなく神社に到着した。琴の音色がスピーカーから流れてくる。正月みたいで、ちょっと異様な感じだ。


〔藤森神社の南門。上がり藤の紋章が見える〕


〔この鳥居には額がない。後水尾天皇が書かれた勅額を近藤勇が撤去したのだといわれている〕

 あじさい苑は2か所あるということだ。巫女姿の女性にお金を払って中へ入ると、まず通路があまりに細いので驚いた。まあるく花をつけたあじさいが両側からせり出しているので、余計に狭く感じる。向こう側から人が来てもすれちがえないのではないかと思うほどだ。この日は平日だったからよかったけれど、週末にはさぞやごった返すことだろう。

 苑内は思ったよりも広かった。あじさいの群がりは胸の高さぐらいまである。花畑のなかから顔だけ出したりするシーンをよくテレビで見かけるが、まさにあんな感じで、通路がどこへどうつづいているのかわからない。まるで迷路をたどるみたいに、道なりにくねくねと曲がっていくと小さなあずまやがあって、ふたりのおばさんが腰掛けて何かしゃべっていた。足もとには、渦巻きの蚊取り線香が小さな煙を上げていた。


〔あじさいの波をかきわけるように道がつづく〕


〔花弁の見事なグラデーション。まるで虹のようだ〕










〔さまざまな種類のあじさいが咲き競う〕

                    ***

 一旦あじさい苑を出て、本殿のほうへと歩く。金太郎の像があり、兜をかぶった勇ましいポーズをとっていた。この神社は菖蒲の節句の発祥の地だということで、それにちなんだものだろう。毎年5月5日には、武者行列が町内を練り歩くそうである。


〔藤森神社の本殿〕


〔勇壮だが愛らしい金太郎像。兜にはやはり上がり藤の御紋〕


〔甲冑をまとった神鎧(かむよろい)像なるものもあった。こちらは少し怖い〕


〔ユーモラスな七福神が整列して出迎えてくれた〕

 拝殿の後方に、2番目のあじさい苑があった。こちらはいくらか花が少なめのような気がしたが、朱塗りの橋がかかっていたり、そこを渡ると今度は橋の下をくぐるようになっていたり(頭をぶつけないように用心しなければならないが)、コースに起伏がある。

 幼い子供を連れた家族連れが、ぼくより少し先を仲睦まじく歩いていた。彼らが細い道の真ん中に立ち止まって写真を撮っている間、ぼくはあらぬ方へカメラを向けて気に入ったアングルを探すふりをした。この道の狭さではどうやったって追い抜けそうにないし、せっかくの親子水入らずの邪魔をするのはぼくの本意ではなかったからだ。

                    ***

 あじさいはじゅうぶんに堪能したが、家で寝ていたいところをわざわざ出てきたのだから、これだけで引き返してしまうのはもったいない。ぼくはもう少し足をのばして、駅5つ離れた東福寺に向かうことにした。

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ぶざまな近況報告

2008å¹´06月25æ—¥ | é›‘想


 このところ更新が滞りがちになっている。なまけるつもりはないのだが、最近のぼくの生活に大きな変化が訪れたのが原因にちがいない。というのも、仕事を辞めたからである。

 辞めたのならたっぷり時間があるだろう、好きなだけ記事が書けるだろう、といわれるかもしれない。だが、何も定年退職したわけではないのだ。そんな円満な辞め方ではない。仕事に疲れ切って、体の不調が絶えず、このままでは生きていけないのではないかと思ったから辞めたのである。このいいぐさが大袈裟だと思える人は、幸いだ。

                    ***

 インターネットの記事を閲覧していたら、日本人の平均睡眠時間は7時間22分だと書かれていた。あらゆる職業の人からまんべんなくリサーチしたのかどうかわからないが、ぼくからすれば信じがたい数字だ。夜勤の仕事を終えて昼近く家に帰り着き、その日の夕方にふたたび家を出るまで、正味8時間ぐらいしかなかったからである。

 おまけに、家に帰ってもやるべきことは山ほどあって、おちおち寝ているわけにもいかない。結局、ほとんど仮眠程度の睡眠しかとれない毎日がつづき、4月の終わりに盲腸で入院、手術するはめになってしまった。盲腸が発症する原因ははっきりわかっていないそうだが、ぼくの場合は過労かストレスが一因となっていることは疑いないと思う。

 それまで体をだましだまし働いてきたが、このことがきっかけで辞める決心がつき、先々週いっぱいで退職した。その後は体調を整えることと、散らかった部屋の片付けに専念しようと思っていたが、気がつくと眠ってばかりいた。よっぽど寝不足が溜まっていたのだろうし、体内時計のリズムが手の施しようもないほど乱れていたのにちがいない。重度の時差ボケにおちいったような感覚だった。

 おまけに、しつこい頭痛や足の痛みにも悩まされるようになっていた。実をいうと、この症状は仕事を辞める前からあったのだが、少し休んだらよくなるだろうと高をくくっていたのが間違いだった。盲腸以外にも、見えないところでぼくの体は確実にダメージを受けていたようである。

                    ***

 ただ、週末のたびに複数の展覧会に出かけることだけはやめなかった。なかには是非ブログの記事にしたいと思うほど素晴らしいものも少なくなかったが、美術館から帰った途端に力尽き、感想をかたちにするより前に体を横たえなければならないことが多くなった。いくら印象鮮やかな展覧会であっても、一晩も寝たら霞がかかったみたいにぼんやりとしてしまうものだ。時間が経てば経つほど、記事の執筆が困難になることは眼に見えている。

 そんなぼくの慰めとなったのが、過去に書かれた名高い随筆や紀行文の存在だった。松尾芭蕉の『奥の細道』だって、ゲーテの『イタリア紀行』だって、和辻哲郎の『古寺巡礼』だって、実際の見聞から何年も経ったのちに書かれたものである。一介のシロウトにすぎないぼくを彼らと比べるつもりは毛頭ないが、有意義な経験はその人の内面に蓄積されるもので、いずれは実を結ぶにちがいない。そう思うことにしている。

 来月から、新しい職場に勤めることになった。仕事に慣れるまではやはりストレスが溜まるかもしれないが、時間的には以前よりもはるかに余裕ができるはずである。まず、ありがたいことに夜勤ではない。家からも比較的近いし、残業も少なくてすみそうだ。より充実した生活を期して、今は無理せず静養に努めることにしたい。

(画像は記事と関係ありません)

つかの間の平安神宮

2008å¹´06月22æ—¥ | å†™çœŸè¨˜


 京都の図書館に行ったついでに、平安神宮に立ち寄った。このところ体調がすぐれないこともあって外出を控えていたのだが、今の時季にしか見られない花を見ておきたいという思いもあり、花菖蒲の名所として知られる神苑に入ってみたのである。京都に数ある「植治」こと小川治兵衛の庭のなかでも、代表的なもののひとつだろう。

 花の見ごろは少し過ぎていたようだが、ときどき小雨がぱらつく静かな日本庭園を散策していると、都会の雑踏ははるか彼方に飛びすさり、しっとりと落ち着いた気分で自然を楽しむ余裕が生まれてくる。最近は信じられないような凶悪事件が頻発して、人と人とのコミュニケーション不足が深刻な問題とされているが、彼らに自然を愛でる心が少しでもあれば、あんな事件を引き起こさなかったのではないかと思う。

                    ***

 とはいっても、神苑のなかに人工物がまったくないかというと、そうでもない。入口を入ってしばらく歩くと、鬱蒼とした植え込みに囲まれて電車が停まっているので驚いてしまうが、実はこれは明治28年に京都を走った「日本最古の電車」で、平安神宮と同い年である。

 京都市内ではほかにも、幼稚園や公園などに路面電車の車両が展示されているのをよく見かける。かつては自動車に追い抜かれたりしながら、道の真ん中をとろとろ走っていたのだろうか。鉄道が“点と点の間”を結ぶだけの高速輸送手段になり下がってしまった今の時代に、街のざわめきや空気の匂いとともに走り抜ける電車の存在は何ともいえずのどかで、なつかしい。


〔平安神宮に停車している路面電車の車両。チンチンという音とともに出発することは、もうない〕


〔可憐なガクアジサイが咲いていた〕

 順路に従って足を進めると、広大な蓮池に出る。だが、睡蓮の花はすでに閉じてしまっていた。いくら日脚が長くなったといっても、夕方の4時をまわると“おねむ”の時間なのだろう。

 池の縁を取り巻くように花菖蒲が咲いている。全部で2000株あるそうで、満開とはいかないが、かたちの整った花弁がたくさん残っていた。気持ちいいぐらい真っ直ぐのびた茎の先に、まるで小さな鳥が羽を休めているようなおもむきで、紫や白の花が静かに開いているのはいい風情だ。枯れた花はもう摘んでしまったのかもしれない。


〔花菖蒲の群生。群れ飛ぶ蝶のようにも見える〕


〔花菖蒲にもいろんな種類がある。上からのぞき込むと別の花のようだ〕

                    ***

 清水の流れる小暗い道は、平安神宮のちょうど真裏にあたる。雨が降っても濡れないのではないかと思うぐらいに、空が木々の葉で埋めつくされている。眼を凝らしながら川のなかをのぞくと、大きな貝が点々と転がっている。もちろん生きているのだろうが、「貝に触れるのは禁止」との注意書きがあったので、そのままにしておいた。もちろん注意されなくとも、水中の貝にさわる勇気は少年のころに置き忘れてきてしまったけれど・・・。

 木立を抜けると、ふたたび池のほとりへと出た。池のなかには臥龍橋(がりょうきょう)と呼ばれる飛び石があるが、石のかたちが不自然に丸く、まるで恐竜の骨の輪切りのようである。これはもともと安土桃山時代に造営された三条大橋と五条大橋の橋脚で、明治の架け替えの際に不要となったものを再利用しているのだそうだ(同じものは京都府庁旧本館の中庭にもある)。

 ついでながら、江戸時代の広重が描いた『東海道五十三次』の三条大橋の橋脚は石ではなく、木でできているように見える。広重が実際に京都を訪れたことはなく、風景を想像ででっち上げた何よりの証拠だといわれているが、はたしてどうだろう。真偽のほどはさておいても、広重が描いた木製の三条大橋はスマートでなかなか美しいのではないかとぼくは思う。


〔池を横切る臥龍橋。橋脚はやはり水のなかにあるのが本望だろう〕


〔池のおもてに周囲の木々が影を落とす。まるでモネの絵のようである〕

 さらに進むと、偉大な日本画家の名を冠した栖鳳池が広がる。神苑のなかでもっとも大きな池だが、ここだけは他のエリアより遅く、明治の末から大正にかけて造成されたという。それもそのはず、平安神宮が創建されたとき竹内栖鳳はまだ31歳の若造だった。

 栖鳳池の上には、東福寺の通天橋を思わせるような屋根付きの橋が架かっている。泰平閣というそうで、屋根は檜皮葺(ひわだぶき)だが、京都御所から移築されたと聞くとうなずける。欄干の内側には腰掛けることができ、鯉の餌なども置いてあるので長居する人が後を絶たず、人物が写り込まないように撮影するのは至難の業だ。この日も修学旅行生が橋の中央あたりに陣取って、水面に餌を撒いては大声ではしゃいでいた。どこから来た生徒たちか知らないが、魚と触れ合う経験をあまりしてこなかったのかもしれない。少々やかましいが、思う存分鯉と戯れるがいい。


〔泰平閣の屋根。梁が見事にカーブしている〕


〔中央の屋根では鳳凰が羽ばたく〕


〔同じく栖鳳池に面した尚美館(しょうびかん)。こちらも檜皮葺で、もとは京都御所にあった〕

                    ***

 ずいぶん長く歩いたような気がする。いつものことだが、神苑の出口を出ると、自分がどの地点にいるのか一瞬わからなくなってしまう。広大な空間に砂利が敷き詰められ、人々が三々五々と行き交っている。いつ来ても、広いなあと思う。

 かなり前の話だが、何の気なしにここを訪れたとき、応天門を入った広場一面に椅子が並べられていて仰天したことがあった。クレーンにのったテレビカメラや大きな照明器具もスタンバイしていて、マイクのテストでもやっているのか、奇妙な雑音がときどき流れていた。看板を見ると、矢井田瞳という女性歌手の野外コンサートがあると書いてあった。連れにそのことをいうと、矢井田さんは私の友達のクラスメートだったという返事である。すごいことなのかもしれないが、Jポップには疎いのでどの程度すごいのかよくわからない。このコンサートはもちろん聴かなかったし、後日NHKで放送されたそうだがそれも見なかった。

 桜の時季には、神苑のなかでもコンサートが開かれる。ぼくはまだ出かけたことはないが、今年は雅楽師の東儀秀樹が登場して大変な賑わいだったらしい。泰平閣の上に人が鈴なりになったりすると、落橋してしまうのではないかと心配にもなるが、まあ大丈夫なのだろう。しかしぼくは、せっかくの庭園で人ごみにもまれようとは思わない。

 さざ波ひとつない池に蓮の葉が浮かび、ときおりポチャンと魚の頭がのぞく。人工的に作った音など何ひとつない。ヘッドホンで耳をおおい、ひとりだけの世界に閉じこもるのもいいが、たまにはこういう場所に来て聞き耳を立てていると無数の発見がある。心身ともに、つかの間の平安を取り戻すことができるような気がするのである。


〔おまけ。頭に鳩がとまっても、尊徳先生は勉強でござる・・・〕

(了)

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