てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

推敲するピカソ(1)

2006å¹´01月28æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 生涯に、ぜひとも実物を観てみたい絵画というのが、いくつかある。美術を愛する人なら誰しもそうではないかと思うが、写真や複製でさんざん見慣れた作品の、その実物の前に立ったとき、感慨無量とでもいった気分におそわれるものだ。ついに本物を観たというそのことに興奮してしまって、あとで思い返してみると「もっと冷静に観ておけばよかった」などと後悔したりする。憧れのスターを前にしてあがってしまい、あとになって「もっとよく顔を見ておけばよかった」と思う、そんな心理に似ているかもしれない。

 ぼくの場合、ピカソの『ゲルニカ』は、実物を観ないうちにあの世に行ってしまっては生まれてきた甲斐がないとまで思える絵だ。しかし、その絵が日本にやってきてくれるのをひたすら待っていては、対面できないままあの世に行ってしまうことと同じである。海外旅行などする余裕のないぼくではあるが、いつかは思い切ってマドリッドに出かけなければならないだろう。

   *

 ピカソというと、およそ美術家としてはあり得ないくらい多作な人物だ。生涯に数万点の作品をつくったといわれ、一日に数枚の油彩画を描いたともいわれる。しかしそれは、売れっ子の漫画家か何かのように、仕事の注文を次から次へとこなしたということではない。彼のプライベートな生活と、公的な創作活動とは、相互に影響し合う渾然一体のものだったのだ。

 そしてそのプライベートな生活のほとんどが、女を愛することに費やされたらしいのである。スタンダールの墓碑には「生きた、書いた、愛した」と刻まれているそうだが、さしずめピカソは「息をするように絵を描いた、ご飯を食べるように女を愛した」とでもいおうか。まさに20世紀の神話といってさしつかえないだろう。

 だがそんなピカソにも、推敲に推敲を重ね、何度も描き直しをしたあげく、苦心して完成までこぎつけた作品がいくつかある。若いころに描かれた『アヴィニョンの娘たち』と、例の『ゲルニカ』が、なかでも有名なものだろう。この2作は、彼の青年期と壮年期を代表する里程標のような作品であるとともに、それぞれの時代を象徴する歴史の証人でもある。


 『アヴィニョンの娘たち』は、今でこそキュビスムの幕開けを告げる重要作と目されているが、発表当時は親しい友人にさえ理解されなかったそうだ。その斬新な造形表現をみれば、それは当然のこととも思えるのだが、ピカソはこの絵のために、かなりの数の下絵を描いたことがわかっている。つまり彼は、こっそりと爆弾を組み立てるように、絵画の革命の準備を着々と進めていたのである。

 かくして、爆弾は満を持して爆破された。絵画は“架空の三次元”であることをやめ、二次元の言葉で語りはじめたのだ。それからというもの、新しい平面芸術運動が奔流のように続々とあらわれ、そして泡のように消えていった。

   *

 ところで、『アヴィニョンの娘たち』を仔細に観てみると(もちろん実物ではなく写真であるが)、いささか奇妙なことに気づく。推敲を重ねて完成されたわりには、一枚の絵の中に異なった様式が同居しているのである。周知のようにこの絵には5人の娼婦が描かれているが、右の2人と左の3人とは、明らかに別世界の住人である。さらに詳しく調べると、いちばん左の人物は、真ん中の2人と右端の2人との“あいのこ”のような姿をしている(特に色づかいは右端の2人とかなり共通している)。つまりこの絵の中には、三様の描き方が混在しているのだ。

 本来なら、推敲を重ねていく段階で、人物の形態や色の塗り方などは統一のとれたものになっていくはずだし、完成に近づくとはそういうことではないかと思うが、この作品ではまったく逆で、いわば全体のバランスが壊れたまま完成されている。常識で考えると、これは実に不可解なことではないだろうか?


 もっとも、ピカソの絵をいろいろ観ていくと、ほかにも同様の絵がないではない。例えばこれも有名な『3人の踊り子』では、左端の女性だけがまるで怪物のような形相で描かれていて、それが絵全体のインパクトを決定づけている感すらある。この時期、ピカソの結婚生活が破綻をきたしていたことが、このような分裂症的な絵を描かせたのだという解釈もあるようだし、ピカソが新しい造形を次から次へと生み出す、天才的なひらめきをもっていたことの証明かもしれないが、ひとつの絵の中で様式が分裂しているように見えるのは、決しておさまりのいいものではない。

   *

 別の画家を引き合いに出すと、ルノワールに『雨傘』という絵があるが、これは色彩がやんわりと溶け出すような部分と、輪郭線がはっきりした部分とが、一枚の中に混在した珍しいものである。この絵を描いている途中でイタリアを旅行したルノワールが、その地の美術に大きな影響を受けたことが原因だそうだ。描きはじめてから完成するまでに、画風がすっかり変化してしまったのである。

 しかしピカソの場合は、どうやら事情がちがうらしい。彼の画風の目まぐるしい移り変わりは、他人の作品から影響を受けたからというよりも、彼自身の内的な感情の揺れ動きによっているのである。いや、それは感情というよりも生々しい、ほとんど肉体と呼んでもいいものかもしれない。それかあらぬか、ピカソがマリー=テレーズという若い愛人を得ると、途端に画風が安定し、描線と色彩とが調和を帯びてくる。まるで子供の思考回路のように、ピカソの心と体は直結していた。


 椅子に座ったまま、片方の胸をあらわにして眠る女性を描いた『夢』は、マリー=テレーズがモデルだといわれる。この絵は、全体がまことに優美な雰囲気でまとめられていて、様式の不統一はみられない。ピカソが精神的にも、そして肉体的にも満ち足りていたことの証しというべきだろう。ピカソの存在のすべてが、このブロンドの女の尽きせぬ愛情によってすっかり包み込まれてしまったかのようだ。現実を忘れて安らかに眠る女の姿は、マリー=テレーズであると同時に、ピカソ自身の投影でもあるのかもしれない。

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ミロの思い出(2)

2006å¹´01月23æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 でもぼくはしょっちゅう、その彫刻の図録に目を通していたようである。小学校の高学年になったころ、授業で使う粘土を使ってミロの彫刻を作ってみようと思い立ち、写真を見ながら粘土をこねたりしたものだ(もちろん原寸よりはるかに小さいものだったが)。そのときのぼくは、かつてミロを模写させられたのに反発したことと、自分でミロの彫刻を真似て作ってみることとの間に、なんら矛盾を感じていなかったらしい。ミロが90歳で世を去ったというニュースを聞いたのは、次はどの彫刻にしようかなと、図録をめくっていたちょうどそのときであった。6年生のクリスマスのことだ。

 そのときの本はもう手もとにないが、作品のひとつひとつを覚えていなくても、何かの拍子に思い出すことはできるようだ。京都に越してきてから、大山崎山荘美術館というところで、ミロの彫刻と偶然の再会を果たした。子供のぼくが展覧会で観たのとまったく同じものか、同じ型から鋳造された別のものかはわからないが、かつて親しんでいた図録の写真が脳裏に鮮やかによみがえってきたのには驚かされた。子供のときの記憶力というのはすごいものだ。ぼくの脳みその引き出しの奥深くに、ミロの彫刻のイメージは大切に保存されているのだろう。

   *

 ミロは今でも好きな美術家のひとりである。ミロ展が開かれると聞くと、可能なかぎり出かけるようにしている。だが彼の絵を何枚も観ていると、なぜこんな子供の落書きのような絵が世界的に高く評価されるのだろうと、ちょっと不思議になることもあるが、ぼくにはミロの評価などはもうどうでもいいようなものだ。ミロはぼくに美術の楽しさを教えてくれ、美術とともにある生活というものを初めて体験させてくれた恩人である。


 すべての発端となった、教科書の最後に載っていた一枚の絵を、今でもなつかしく眺めることがある。それはバーゼル美術館にある絵で、手持ちの画集では『逆立ちする人物』という邦題になっているが、直訳すると『太陽の前の人たちと犬』とでもなるだろうか。よく知られている絵だが、いったいどういう状態を描いたものなのか、いくら考えてもよくわからない。人間らしきものと犬らしきものが渾然一体となった上に、真っ赤な太陽がいびつに輝いている。そうかと思うと、星までが一緒に描かれているのである。

 この絵に知的な分析を加えてみたところで、たいして意味はないだろう。子供が、思いついたものを無心に並べて描く。大きさの比率は無視して、気になるものを大きく描き、そうでないものは省略する。ミロも子供と同じ価値基準で描いているにちがいない。ただ、(写真で見ただけだから確かなことはいえないが)この絵には太い線で引かれた下書きのあとが透けて見えているのである。ミロは子供のような絵を描くために、綿密な計算をし、何度も描き直したのかもしれない。彩色のバランスも、気ままなようでいて、実はとてもよく考えられているように思える。

 だが、子供は何も考えずにさらりと描いただけで、大人をうならせるものを作り上げてしまうことがある。大人が意識的に工夫しても太刀打ちできないものを、子供はもともと持っているのだ。ミロが手本としたのも、型にとらわれない子供の自由さ、奔放さだったのではないだろうか。そこにミロは、近代文明の中でおびやかされつつある人間の原初的な力を見てとったのかもしれないのだ。それほど豊かな感性に恵まれている子供たちに、ミロの絵を模写させるよりも大切なことがほかにあるのではないかと、ぼくは今でも思っているのである。

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ミロの思い出(1)

2006å¹´01月22æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 ぼくが生まれて初めて夢中になった画家は、ジョアン・ミロであった。といっても、実物をいきなり観たわけではない。小学2年生ごろのことだったろうか、図画工作の教科書の、そのいちばん最後のページに、ミロの絵が大きく載っていたのである。

 今はどうなのか知らないが、図画工作の教科書というと、たいてい児童の描いた模範的な作品が掲載されているものだ。模範的とはいっても児童画の域を出ないだろうが、同級生の顔とか、机やズック靴やランドセルなどの身近なもの、あるいはペットや魚などの生き物を描いたカラー図版が並んでいたのだろう。

 今、こう書いてきて気がついたが、幼い子供というものは、純粋な風景画はあまり描かないものなのかもしれない。太陽や花々を描いても、近くに必ず人物(自分か家族か友達か)が立っていたりする。自分が属する世界を描くのではなく、観たものを客観的に描けるようになるには、それなりの人間的成熟が必要であるらしい。

   *

 さて、ぼくは全国の優れた児童たちが描いた模範的な作品に、まったく魅力を感じなかった。今になって児童画を観てみると、またちがったおもしろさを発見できるのかもしれないが(岡本太郎は児童画の作品展の審査員を務めたとき、どれもこれも傑作ばかりだといっている)、とにかく当時のぼくには、興味をひかれるしろものではなかったのだ。それに比例して、実際の図画の授業も退屈きわまりないものだった。絵を描くということに、いかなる創造的な喜びを見出すこともできないでいたのである。

 ぼくを唯一惹きつけていたのが、最後のページのミロの絵だった。この絵は、当然といえば当然だが、他の児童の絵とはまったく異なっていた。うまいとか下手だとか、そんなこととは関係なく、なにしろ自由さがあった。模範的な描き方ではない、決められたテーマでもない、自在に筆を走らせて描いた、何ものにも束縛されない絵であるということを、子供心に感じ取っていたのかもしれない。やがて学年末になり、教科書の最後のページにたどり着くときには、このミロの絵のような、自分の思うままに自由に描く、そんな絵を描かせてもらえるのではないか。ぼくはそのことだけを期待して、退屈な図画の授業を耐え抜いたといっても過言ではない。


 そしていよいよ、2学年最後の図画の時間がやってきた。ぼくはわくわくしながら授業に臨んでいたはずだ。さあ、自分の好きなように、描きたいように描くぞ、と身構えんばかりに。ところが、先生の言葉はあまりにも非情なものだった。

 「さあ皆さん、このミロの絵を描き写しましょう」

 ミロの絵を模写して、いったい何の意味があるか? これはいまだにぼくの胸中をよぎることのある、根本的な疑問だ。ミロは何かを写生したのではなかったはずである。彼は大人の常識にとらわれない、自由な、まったく個人的な発想で、あの絵を描いたにちがいないのだ。しかしなぜ学校の授業では、小学生のぼくたちに、自由な個人的な絵を描かせてはくれないのだろう? この体験はトラウマとなったようで、その後ぼくは学校の美術教育を徹底して嫌うようになってしまった。

   *

 このままではぼくは一生、美術と出会うことなく終わったかもしれないが、人生というものは不思議なことをしてみせる。ちょうど同じ時期に、県の美術館でミロの展覧会が開かれていたのだ。担任の先生はクラス全員に割引券だか招待券だかを配ってくれたが、それには感謝してもしきれないほどだと思う。そのチケットを握りしめ、父親に連れられてミロ展に出かけたのが、ぼくにとって決定的な美術体験になったからだ。こと美術に関しては、ぼくは小学校に対して奇妙な愛憎の感情をいだきつづけている。


 そのときの展覧会の印象は、さすがに昔のことでよく覚えていない。しかし図画の授業で感じたくやしさ、ミロの絵を画用紙に描き写しているときの徒労感(小学2年生がそんなふうに思うかどうかはわからないが)といったものが、それこそスペインの灼熱の太陽のもとで溶け出したように、一気に解放された気分になったことだろう。

 絵画だけでなく、ユーモラスな彫刻もたくさんあって、ぼくはいっぺんにミロのとりこになり、父親に展覧会の図録をねだったりした。父は何度も念を押したあげく、しぶしぶ買ってくれたものだ。ところが帰りの車のなかでさっそく開いてみると、そこに載っていたのは彫刻の写真だけだった。図録は絵画と彫刻とで分けられていたのかもしれない。あれほどまでに憧れていたミロの絵、自在な線と色彩の躍動する豊潤な世界が、車のスピードとともに急速に色あせていくような気がして、ぼくは父にばれないようにそっと涙を流した。

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瓦礫の下から

2006å¹´01月17æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 戦災の次は震災の話か、と眉をしかめる人もあるかもしれないが、このことはやはり書いておかなければならないと思う。11年前の今日、関西一帯を襲った大地震についてである。それというのも、ぼくは当時、北大阪の木造アパートに住んでいて、あの恐ろしい災害を実際に体験したからだ。

 その日、いつもの時間に起きようとして頭をもたげたちょうどそのとき(ぼくは5時45分に目覚ましを合わせていた)、積んであった本の山がかすかに揺れるのが目に入った。すると、何を考えるいとまもなく、全身が何ものかに鷲づかみにされて乱暴に揺さぶられるような、すさまじい振動に見舞われたのである。

 今から思うと不思議なことだが、ぼくはふとんから頭だけ持ち上げた姿勢のままで、部屋の中が散乱していく一部始終をしっかり見届けたような記憶がある。そのときはもちろん日の出前で、部屋の電気も消していたのだが、本棚が倒れて中身が飛び出すさまや、押し入れの襖が倒れかかってくる場面までが、まるで映画のワンシーンみたいに、今でも鮮やかに目に浮かぶのだ。

 だが、これはぼくがあの日の記憶を幾度も反芻するたびに、頭で想像したイメージを少しずつ付け加えていったからかもしれない。実際のところ、揺れがおさまると、あたりはもとの暗闇に戻っていた(すでに停電していただろうから、街灯の光も入ってこなかったはずだ)。ぼくはとにかく明るくなるのを待とうと、もたげていた頭を枕に落ち着けようとしたが、枕はいつのまにか砂のようなものをかぶっていて、とても寝ていられるものではない。仕方なく手探りで起き上がり、足を一歩踏み出すと、たちまちCDのケースか何かを踏みつけ、割ってしまった。部屋は文字どおり足の踏み場もなかった。


 やがて、アパートの隣人が廊下から「大丈夫ですか」と声をかけてくれ、それをしおに廊下に出てみると、壁に大きな亀裂がいくつもできていた。紛れもない巨大地震の爪あとを目の前にして初めて、これはえらいことになったなと、今さらのように思ったものである。ぼくの部屋は2階にあったので、廊下の突き当たりの窓を開けて外を見下ろしてみると、自転車に二人乗りした若い男女が通った。「いちおう、会社に行くだけ行ってみるわ」と、男が背後の女に向かっていっているのが聞こえた。ぼくは不思議なものでも見るように、ぽかんとしてその自転車を見送った。ほかには通る人もなかった。

   *

 あとでわかったことだが、ぼくが住んでいた市内は大阪の中でも特に被害が大きかったらしい。アパートの近所では家屋の倒壊こそなかったが、ブロック塀が根こそぎ倒れていて、誰かが通りかかっていれば間違いなく命を落としただろう。ぼくは商品の散乱しているコンビニに列を作り(その店は在庫品をすべて売りさばいたあと閉店してしまい、そのまま取り壊された)、公衆電話にも列を作り、実家と勤め先にだけは無事を知らせ、何とかその日をしのいだ。

 ライフラインが復旧し、テレビで被害の様子を知ることができるようになると、大阪よりも兵庫県内の被害が遥かに大きいことがわかってくる。ぼくは次第に、西宮市内に住むK先生のことが気がかりになった。当時、ぼくはある小さな読書会に参加していて、その顧問を務めていたのがK先生だったのだ(彼はアマチュアの作家だった)。しかし電話は通じず、訪ねていこうにも電車は寸断されていて、なすすべがない。


 地震から何日目かにようやく、阪急電車が一部の区間で開通した。ぼくはK先生の安否を確かめなければと思ったが、実は先生の家がどこにあるのか知らなかったのだ。しかしとにかく、西宮の街の様子だけでもこの目で見てこようと、ぎゅうぎゅう詰めの車両に手ぶらのまま飛び乗り、西宮に向かった。

 電車の窓にへばりついているぼくの目の前を、無残な姿になった建物が次々とあらわれては過ぎていく。大きく傾いた家、1階が押し潰されたマンション、壁がはがれ落ちたビル。やがて西宮の駅で電車を降りたぼくは、民家という民家がすべてなぎ倒され、だだっ広い荒野のようになった中に、呆然と立ち尽くすしかなかった。遠くに見える高層マンションがわずかに原形をとどめているだけで、どっちへ行けば何があるのか、まったく手がかりがないのだ。とにかく比較的大きな道を選んで、歩いていくことにした。


 どれくらい歩いただろうか。すっかり瓦礫の山と化した一軒の家が、道の脇にあった。屋根瓦の破片が、かつてそこに日本家屋があったことを告げていた。道端には一枚の貼り紙が貼られていて、手書きの文字で、こう書かれていた。

 《津高和一先生は、一月○日、某所で荼毘に付されました》

 ぼくは手を合わせることも忘れて、その貼り紙を見つめていた。そこが抽象画家の津高和一(つたか・わいち)の家であったことを示すものは、貼り紙以外、何ひとつありはしなかった。


 数日後、西宮を再訪したぼくは、K先生の元気そうな姿を見て胸をなで下ろした。あのとき遠くに見えた高層マンションの一室に、彼は住んでいたのだ。建物は無事だったが、家の内部はひどいもので、電気も水道もまだ復旧していなかった。長居するわけにもいかず、見舞いの品を置いて帰ろうとすると、先生がぽつりといった。

 「このへんには、画家の津高さんも住んでるんだけどね・・・」

 「この前、その人の家がすっかり潰れているのを見ました」と、ぼくはいった。

   *

 震災の翌年、西宮市内の美術館で、津高和一の追悼展が開かれた。大きな被害を受けた阪神高速が、轟音を立てて復旧工事をしている近くに、その美術館はあった。津高の絵をまとめて観るのは、ぼくには初めての機会だったが、詩的な形象を言葉少なに紡ぐ彼の抽象絵画に、ぼくの心は敏感に反応したようだった。一年という時が経ち、被災地は復興に向けて動き出しているが、彼の絵はもう、描き継がれることはないのだ。ぼくは粉々になった家の残骸を、そしてあの貼り紙のことを思い出した。津高の奥さんも、同じ家の下敷きになって亡くなったということだった。

 展覧会の最後の一室に、彼の遺作が展示されていた。それは全壊した家の中から見つかったというものだった。いったいどんな絵だったか、なにしろ10年も前のことで、はっきりとは覚えていない。ただその絵は、瓦礫の下から掘り出されたということが信じられないくらい、美しかった。まるで描き上げたばかりのように、燦然と壁にかかっていた。

 展示室の窓から日の光が射しこみ、津高和一の最後の絵を照らした。ぼくは窓に歩み寄り、眼下の庭園を眺めながら、ふと、人の命のはかなさについて、そして、人の死を乗り越えて生きのびる芸術の命について、思いを凝らした。


DATA:
 「津高和一[追悼]展―絵画と詩のはざまで」
 1996年1月17日~3月3日
 西宮市大谷記念美術館

(続編「津高和一ふたたび」)

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戦後61年目の平和(4)

2006å¹´01月11æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 昨年の晩秋のこと、琵琶湖畔にある佐川美術館を初めて訪れた。平山郁夫の絵画と、これもぼくの敬愛する佐藤忠良の彫刻を多く常設しているこの美術館を、いつかは訪ねてみなければならないと思いながらも、なかなかきっかけがつかめず、果たせないでいたのだ。だがいざ思い立って出かけてみると、そこは想像していたよりもずっと近かった。JRの駅前からバスに乗り、廃業した遊園地の巨大な観覧車がぬっと突っ立っているのを横目に見ながら揺られていると、やがてバスは琵琶湖大橋を渡り、陽光にきらめく人工の池のほとりへとすべりこんだ。さざ波立つ水面に囲まれて、その美術館はあった。

 平山郁夫の展示コーナーに足を運ぶと、彼のライフワークであるシルクロードを描いた風景画や、そこで出会った人々を描いたスケッチが展示されていた。それらは、ぼくにとってはすでになじみ深い平山絵画の世界である。街頭に腰をおろし、おびただしい色鉛筆を並べてスケッチに取り組む彼の姿をとらえた写真もあった。やがて、いちばん奥まった大きな展示室に出ると、ぼくはそこで異様なものを見た。

 さむざむとした廃墟を背にして立つ、8人の子供たち。彼らはまるでひとつの家族のように身を寄せ合っているが、彼らの住む家はどこにあるのだろう。あたり一面には瓦礫の山が積み重なり、屋根の落ちた建物が無残な姿をさらしている。それは古い遺跡が風化したものではなく、明らかに人為的に破壊されたものだ。そこに描かれていたのはサラエボの風景だった。激しい内戦の舞台となった、ボスニア・ヘルツェゴビナの都市である。

   *

 民族紛争がようやく鎮まった次の年、1996年。平山郁夫はサラエボを訪れ、傷ついた街を歩き、人々に会い、多くのスケッチを描いた。その様子はNHKで放映されたということだが、ぼくはその番組を見ていない。だが、それは一冊の本にまとめられていた。


 初めてサラエボに足を踏み入れ、その凄惨な光景をまのあたりにした平山は、画家としてたちまち困惑の底に投げ込まれてしまう。

 《暴力を受けた建物は、決して自然の風景になじまない。

 無理矢理へし折られたり、砕かれた様子はとても痛々しい。刃物で切りつけると、建物から本当に血が流れてくるのではないか・・・・・・。

 このショックを生のまま描いても芸術にならないであろう。

 どのくらいの訴えを託せるのか、どこまで芸術として創造していけるのか。

 今の私にはわからない。》
(『画文集 サラエボの祈り』、以下同)


 平山自身の記憶を『広島生変図』に結実させるまでにたどった、長く苦しい道のり。彼はそれを思い起こしたにちがいない。壊され、焼け焦げ、放射能に汚染された故郷、広島。平山郁夫は、美を追い求めることで、それを克服しようとしてきたのだ。だが、原爆から半世紀以上経った東欧の国で、彼はまたしても、人間同士の争いによって壊滅した街に立っていた。


 そんな平山に、サラエボのひとりの青年が、こんな質問を投げかける。

 《平山さんは、広島に原爆を落とした人たちを、許したり、忘れたりすることができますか。》

 平山はこう答えたという。

 《忘れるということはありません。これは、決して一生消えることはないのです。しかし許すということと、忘れるということは違うと思います。許すということは、つまり乗り越えていくことです。》

 日野原重明の平和のメッセージと、平山郁夫の思いが、ぼくの中で重なり合った。

   *

 平山は、廃墟と化したサラエボで、多くの子供たちに出会う。あどけない笑顔、澄んだ目の輝き・・・。彼は破壊された街を背景に、子供たちを描いた。そしてその絵を『平和の祈り―サラエボ戦跡』と題した。

 《戦争の苦しみから生まれる芸術は、泥沼に咲く蓮の花だ。苦しみをもっているからこそ、美しい芸術を生み出せるはずだ。それこそ本物の芸術なのだ。ただ、恨みつらみをそのまま描くのではなく、もっと浄化して形にすることが、死者を本当に生かす道ではないのか。恨みからは、新たな憎しみは生まれても、新しい創造は生まれないのだ。》


 ・・・平山がサラエボを訪れ、この絵を描いてから、今年で10年が経つ。描かれた子供たちも、10歳年齢を重ねているはずだ。彼らの目は、今でも明るく輝いているだろうか? そして、平山がサラエボの子供たちに託した祈りを、終戦から61年目の日本に生きているこのぼくは、しっかりと受け止めることができるだろうか? 瓦礫の中に、背筋を伸ばして凛と立つ子供たちの姿を思い出しながら、近ごろときどき、自分の胸に問いかけてみる。


参考図書:
 平山郁夫『生かされて、生きる』
 角川文庫

 平山郁夫・右田千代『画文集 サラエボの祈り』
 日本放送出版協会

 平山郁夫『画文集 平和への祈り』
 毎日新聞社

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