てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

鳳凰と兎と ― 宇治の寺社を歩く ― (3)

2015å¹´01月25æ—¥ | ãã®ä»–の随想

〔鳳凰(国宝)〕

 今、鳳凰堂の中堂の屋根には、金ピカの2羽の鳳凰が飾られている。これはもちろん最近のものだろうが、平安時代に作られたという初代の鳳凰が、展示室のガラスケースのなかに収められている。一対の鳳凰像が、数メートル離れた距離で、実際に屋根の上にあったときのように向かい合って置かれているのである。

 青銅製で、かつてはこちらにも金メッキが施されていたというが、今は渋く黒光りしているのみだ。それが暗い展示室のなかで、静かに息をひそめているさまは、華やかに乱舞する瑞鳥としてのイメージとはかけ離れているといえるだろう。

 なお、前にも書いたように平等院の梵鐘は切手に描かれているし、十円玉には鳳凰堂の全景が刻まれていることは有名だが、一万円札の裏面には、この鳳凰の凛とした姿が描かれている。日本人であれば知らないうちに、平等院に属するさまざまなイメージに触れながら暮らしているのである。


〔金色に輝く現在の鳳凰〕


〔売店には鳳凰の模様の栞も売られている〕

                    ***


〔どことなく憎めない顔の龍の瓦〕

 屋根の上にいるのは、鳳凰のようなきらびやかなものばかりではないことを、今回改めて知らされた。なかでも龍の顔のかたちをした「龍頭(りゅうず)瓦」の存在は、全国的にも珍しいのではあるまいか。西洋の教会などにある怪獣をかたどった装飾「ガーゴイル」のことを、ふと思い出させる。

 龍といえば蛇のような長い体が特徴のはずであるのに、龍を描いたさまざまな絵画を観ても、体全体がはっきり描かれているものは実に少ない。あえて探せば、ラーメン鉢のへりに描かれているものぐらいしかないのだ。龍は雲を呼ぶといわれているからか、靄のようなものに隠れて一部分しか見えないことがほとんどだろう。

 何がいいたいかといえば、龍の真の存在感はその長大な体よりも、顔にこそあるのではないか、ということである。鳳凰堂の瓦もそうだが、龍の表情というのはただ恐ろしいだけではなく、心なしか滑稽でもあり、哀感をたたえているように思えることもなくはない。

 ぼくの故郷の福井には、九頭竜(くずりゅう)川という川が流れている。九頭竜という地名は、今ではスキー場としてのほうが有名かもしれないが、もとは八岐大蛇(やまたのおろち)を上回る九つの頭を持った龍の伝説に由来するという。あの頭が9個もあったとしたら、喜怒哀楽ではおさまりきらない、さぞや豊かな表情を見せてくれたのではなかろうか。

 なお関西では、がんもどきのことを「飛竜頭」と書く(読みは「ひりゅうず」「ひりょうず」「ひろうす」などさまざま)。当て字だろうが、ここでも龍の頭がピックアップされている。この国ではどうも、全身よりも顔のことばかりが注目されているようである。

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鳳凰と兎と ― 宇治の寺社を歩く ― (2)

2015å¹´01月21æ—¥ | ãã®ä»–の随想

〔平等院のチケット〕

 長かった修復工事のあとだからか、普段よりも参拝客が多いような気がする。ただ、あの金閣のように、多くの人が鳳凰堂の建物を池越しに取り巻き、写真を撮ったり、賛嘆の声を上げたりするばかりで、阿弥陀様に近づくことはできない。もちろん、境内のどこかでは順番待ちの人が待機しているのだろうが、それを断念したぼくには余計に、手の届かない尊いものに思える。

 そういえば銀閣も池を隔てて眺めるようになっていたが、それ以上に「銀沙灘(ぎんしゃだん)」という、砂で作られた架空の海が境内に広がっていたのを思い出した。精巧な砂の造形自体がおもしろいものでもあるけれど、やはり近づけそうでなかなか近づけないという距離感が、日本の仏教においては重視されているのではないかと思われた。

 何か大切なものの中枢は、得体の知れない、はっきりとしないものでできている。いいかえれば、中心にあるものは空っぽなのである・・・そんなことを述べていたのは亡き河合隼雄だったように記憶するが、その知られざる中心に向かって少しでも近づこうというモチベーションが、日本人の精神に内在しているのかもしれない。ふと、そんなことも考える。「拝観のために2時間待つ」というのも、それはそれで大切なプロセスなのだ。

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〔梵鐘(国宝)〕

 鳳凰堂の横には、ほとんど地中に埋め込まれた現代建築がある。平等院に伝わる宝物を展示した、鳳翔館というミュージアムである。洞穴のようにぽっかりと口を開けた玄関から、ほとんど無意識のうちに内部へと導かれるのは、まさに絶妙のアプローチだと感心する。

 この建物のなかが、また異常に暗いのだ。“照らしすぎない照明”のありかたと、その難しさというものを、ぼくは京博の新館で体験したのだったが、それに輪をかけてここは暗い気がする。ただ、暗闇に眼が慣れてくれば、さまざまなものが新鮮に見えてこないともかぎらない。

 動線に従って進むと、格子模様の向こうに、かつて鐘楼からぶら下がっていたであろう巨大な梵鐘が鎮座している。まるで仏の本尊のように、鐘がその威厳ある姿で我々を導く。この神秘的なプロローグの構成は、奥深い書物の最初のページを開くときのように、心が揺さぶられる。

 梵鐘は木の台の上に置かれ、今は役目を終えているが、60円切手の図柄ともなったその優美な姿は、ガラス越しでなく、間近に眺めることができるようになっていた。平安時代の作といわれ、天女や獅子などが刻印された表面は、積み重なる歳月に晒されてささくれ、かなり摩耗しているが、充分に美しい。そして、荘厳でもある。これがかつては、伏見にまで聞こえるほど響いたという話であるから、いったいどんな音がしたものか。

 今、鳳翔館の出口近くにある鐘楼には、昭和に入ってから作られた二代目の鐘が下がっている。形状は本物そっくりに再現されているが、その音だけは真似することができなかったという。おそらく楽器なども、作られた当初より、さまざまな演奏を重ねることで音が洗練され、深みを増していくのではないかと思うが(17世紀ごろのストラディバリウスが今でも重宝されるのはそのためだ)、この新しい梵鐘もいずれは、胸の奥に沈むような奥深い響きを送り届けてくれるのではなかろうか。


〔昭和42年に作られた二代目の梵鐘〕

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鳳凰と兎と ― 宇治の寺社を歩く ― (1)

2015å¹´01月20æ—¥ | ãã®ä»–の随想

〔宇治川の流れは速かった〕

 新年早々、京都の豊国神社で初詣をしたことはすでに書いたが、珍しい積雪に気を取られてしまったせいか、おみくじを引くのをすっかり忘れていたことに気づいた。鮮やかな衣装の巫女さんなどがいない、地味なたたずまいだったからかもしれない。派手好きだったといわれる秀吉を祀った神社としては、いささか意外でもあるけれど・・・。

 というわけで、ふと思い立って、“初詣リベンジ”へと出かけることにした。もちろんあちこちの神社に詣でていては、たとえいいことがあったとしても、それがどこのご利益かわからなくなってしまう。いや、ご利益などというものを本気で信じているわけでもないのだが、何となく正月の恒例行事として、納得のいくかたちでやりとげておきたかったまでのことだ。

 そこで足を向けたのが、宇治である。宇治といえば、神社よりも前に、どうしても平等院鳳凰堂のことが思い浮かぶ。3年前の秋、紅葉の時季に訪れた際には、工事の覆いがかぶせられていて拝観することが叶わなかった。平等院には何度か訪れているが、いまだにお堂に足を踏み入れて、阿弥陀如来を間近に拝んだことはないのだ。

 このたびは、初詣に来たついでに(というと罰が当たりそうだが)別料金を奮発して、新装なった鳳凰堂を参拝してみるのもわるくない。そんな大らかな気持ちで新年のスタートを切れば、おそらく運も巡ってくるのではないか? などと思いながら京阪の宇治駅を降り、宇治橋を渡りながら川のほとりに眼をやると、大規模な護岸工事のようなものがおこなわれているらしく、地面のえぐられた痛々しい姿が寒風にさらされていた。

 ちょっと調子を狂わされながら、それでも鳳凰堂の修復は終わっているはず、と思い直して足を進めると、受付のところに看板が出ている。見れば、鳳凰堂の拝観には2時間待ち、という予想もしない文字が書かれていた。何とかランドのアトラクションじゃあるまいし、こんな場所で2時間も待つ気には、とうていなれない。

 そこで、頭の切り換えも素早く、阿弥陀様にはまたいつかお眼にかかることとして、とりあえず境内をぶらぶらするために門をくぐった。“鳳凰堂リベンジ”という、新たな宿題が増えてしまったのを感じながら・・・。

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〔56年ぶりの修理を終えた鳳凰堂〕

 久しぶりに、化粧直しをした鳳凰堂の外観を眺める。どこがどう変わったのか、修理前の状態はよく覚えていないし、何しろ遠くから見ているだけなのではっきりしないが、思ったより渋くくすんだ色合いだと思う。極楽浄土をイメージしたといわれる豪華な内装を、CGで再現した映像を見たことがあったからだろうか。

 それにしても、このシンメトリックな建築美は見事だ。「鳳凰堂」という名の由来は、屋根に鳳凰の飾りがつけられているからという説もあるが、お堂全体が鳳凰の飛翔する姿をかたどったから、ともいわれている。実際のところ、昔の絵画には鳳凰が描かれたものが非常に多いが、いずれも横を向いた姿だったり、複雑に体をねじ曲げた姿だったりして、悠然と翼を広げて滑空するかのような建物のイメージからは遠い気もする。強引に結びつければ、上から見ると飛行機のかたちをしているという上野の国立科学博物館の、遠い先祖とでもいうべきだろう。

 京博の「明治古都館」が、レンガで作られた西洋の工法を採用していながら、どことなく京都に深く根づいた土着性というか、不思議と息の通じ合う感触を抱かせるのは、鳳凰堂との類似点にあるのではないか、とぼくは思っている。設計した片山東熊が意識したかどうかは別として、鳳凰堂の正面にぽつんと置かれた石灯籠が『考える人』、その前の阿字池が例の大噴水へと生まれ変わったように見えるのである。

 平安時代から明治時代へ、一貫して変わらない美の様式というものがもしあるとすれば、こんなところに人知れず潜んでいるのではなかろうか。やはり美しいものは、いつまで経っても、誰が見ても美しいのだ。

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年のはじめは京博へ(7)

2015å¹´01月19æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

式部輝忠『巌樹遊猿図屏風(部分)』(重要文化財、室町時代、京都国立博物館蔵)

 焼物や絵画のフロアに来ると、照明もやや明るく、観やすくなった。そういえば以前の平常展示館は、全体的に薄暗く、係員が片隅に音もなく立っていたりすると、不気味なシルエットに見えたりしたものだ。新しい建物は、明るさという面でも細心の注意が払われているのではないかと思う。

 展覧会での照明の良し悪しというのは、その道の人にはすぐにわかるらしい。たとえば、他の美術館などでもいえることだが、観ている人の頭の影が作品を隠すような照らしかたは歓迎できない。影が落ちないようにしながら、細部まで観察し得る、これこそが理想的な照明だといえようか。

 もちろん、明かりの色それ自体にも、さまざまな問題点があるはずだ。かつて日本に、あの世界的名画『モナ・リザ』がやって来たときにも、照明を巡ってフランスのスタッフとすったもんだがあったという話を、ずいぶん前にテレビで見たことがある。今では当時とちがい、ルーヴルでの展示にも日本製のLEDが用いられているということだが、京博の展示室も、すべてがLEDによるものだという。電力の面からも、作品へ与える影響の点からも、優しい明かりだそうだ。

 しかし、かなり以前のことだが、テレビの取材クルーがどこかの展覧会場に押し寄せ、数分館にわたって煌々としたライトを作品に当てるのを目撃したことがあった。もちろん許可を受けたうえでのことだろうし、ライトを当てなければテレビの撮影ができないのは承知しているのだが、作品へのダメージということがどの程度考慮されているのか、気になってしまった。最近はテレビの画質も向上して、舐めるように作品に迫った映像もよく眼にするし、展覧会の宣伝を兼ねてカメラが入る機会が多いようにも思うが、結果として作品の寿命を縮めてしまうことがないように願うばかりだ。

 ただ、ぼくはその無遠慮なカメラのライトに閉口してから、展覧会の開催初日にはなるべく出かけないようにしている。おそらく報道関係の取材が入るのは、初日のことが多いだろうと踏んでのことである。

                    ***

 今は平成知新館の開館記念展も終わり、京博にもようやく平穏が訪れたようだ。しかし、作品との本当の付き合いは、これからはじまるのではないかと思う。

 ぼくもできれば、しばしばここに足を運んで、感想を記す機会をもちたい。京博には、たくさんの国宝や重文が所蔵されている。ただ、足繁くかようことによって、文化財に指定されてはいないが、自分にとっての“至上の一品”を見いだすこともできるかもしれない。そうなれば、博物館を訪れることがますます楽しみになることは間違いないのである。

(了)

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年のはじめは京博へ(6)

2015å¹´01月18æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

〔この日は夕方から雪が降りはじめた〕

 外観が比較的低いような気がするわりには、新館の内部は3階建てである。やたら高層ビルの林立する都会を(不本意ながら)見慣れた眼には、なぜあそこまで高い建物を建てることに躍起にならねばならないのか、改めて疑問が湧いてくるというものだ。天にも届けとばかりに高い塔を築こうとしたバベルの塔の話を知らないわけでもあるまいに・・・。

 京都にもかつては相国寺に七重の塔が存在したといわれているし、奈良の東大寺にもあった(その勇姿は大阪万博の折に「古河パビリオン」として再現された)。しかしいずれも現存しないことを考えると、現代の建築がひたすら高みを目指してばかりいることがナンセンスにも思われてくる。高いところに美術館を作ったって、そのビルの母体と生命をともにせねばならないことはわかっているはずなのだが・・・。

 などというふうに、ともすると愚痴が出かかるのをこらえながら、今は京博の新しい建物を堪能するべきだろう。実は昨年、『鳥獣人物戯画』の展覧会を観てからもここに入ったのだが、数時間も並んだあとだけに心身ともに疲弊しきっていて、ろくに頭に入らなかった。ただ、顔面がまっぷたつに割れた異形の『宝誌和尚立像』と久しぶりに再会したことで何となく安心した気になったのと、以前の平常展示館にはあった貝塚の展示が見当たらず、どこに行ってしまったのかが気になったばかりだ。

                    ***

 仏像の大きなフロアの周囲には小部屋がいくつか並んでいて、ジャンル別ごとに作品が展示されている。かつて京都に住んでいたころにも、これらの名作をすべて味わい尽くそうと思い立ったことがないではない。ただ、美術品のすべてを無条件にありがたがる性格ではないからか、これがなかなか難しいのである。

 そもそも、ぼくは西洋絵画に感動したことから美術に足を突っ込んだといっていい。上村松園の絵によって日本画の魅力に開眼したのは、ずっとのちのことだ。いまだにそれを引きずっていて、古い屏風や掛軸、使い込まれた焼物、誰の作かもわからない仏像などを眺めていると、どことなく距離感を覚えることがなくもない。キャンバスの前になら何分でも立っていられるが、こと日本のものとなると、なかなかそうはいかなかったりする。

 それでも最近は、だんだん工芸のよさがわかるようになってきた。ただ、現代の工芸家の優れた技量には眼をみはるものの、さまざまな天下人や有力者たちの手を渡ってきた陶器などには、まだまだ心から感服するとはいいかねる。茶碗を観て「いいな」などと呟くときには、いよいよ年を取った、ということなのだろうか?

 なかでもよくわからないのが、刀剣だ。以前の平常展示館でも、たしか刀剣ばかりのフロアがあった。平成知新館になっても、それは同じだ。ドラマなどでは、権力者のような人が和服姿で、愛しげに刀の手入れをするシーンがあったりする。けれどもむき出しの刀身を観せられたところで、ぼくには良し悪しも判断できないし、何とはなしに物騒だなあ、という気がするだけである。

 ともあれ、こういった縁遠い美術品たちとも、末永く付き合っていくことができるように、博物館という施設があるのはたしかなことだ。そのうちには、よさがだんだん理解できるようにならないとも限らぬ。ぼくもいずれは、鈍く輝く刀を眺めて「うん、いいな」と呟くようなオジサンになっているのかもしれない。

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