てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

うかれないヴァイオリン

2015å¹´04月27æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 生まれてから今までのぼくの経歴のなかで、できることなら“なかったこと”にしたいのが、ヴァイオリンを習っていたという事実である。

 たしか12歳のころから音楽教室にかよいはじめたので、世間的に見てもかなり遅かったけれど、最終的には子供たちが結成するジュニアオーケストラで第2ヴァイオリンを弾くまでは到達した。夏のあいだは皆で合宿して練習に明け暮れ、定期演奏会ではヘンデルやメンデルスゾーンを披露したりもしたし(録音したものを聴くと決して“うまい”とはいえないシロモノだったが)、その楽器は少年時代のよきパートナーではあったのだ。

 ただ、思春期の到来とともにぼくの心身も不安定になり、いつしかヴァイオリンを手にする日も少なくなっていった。ある日、久しぶりに楽器のケースをあけてみたら、弓がすっかり切れてしまって老婆の毛髪のように散乱していた(多分、しまうときに弓を緩めるのを忘れたのである)。それ以来、自分のヴァイオリンに手を触れたことがない。今はどこでどうなっているか。捨てられてしまったのだろうか。

 世の中には家を売ってストラディヴァリウスを購入したという人もいるけれど、そんなに高価ではないにしろ、やはり親にカネを出してもらってそれなりのヴァイオリンを買ったのだったし、根気づよく指導してくれた先生にも、ヘタクソな騒音に付き合わされた家族にも、ひいては隣近所の人にも、今となってはお詫びの言葉もない。ささいな道楽、といってしまえばそれまでかもしれないが、つまるところ、ものにならなかったのである。

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 けれども存外、そういう人は少なくないのかもしれない。当時、ぼくと一緒にヴァイオリンをかき鳴らしていた少年少女たちのなかには、いまだに芸術の道一本で生活している人などいないはずだし、趣味で音楽をたしなんでいる人に限ってみても、ごくごく少数なのではあるまいか。

 それほど、ひとつの楽器との蜜月を維持するのは難しいことなのである・・・。ふとこんなことを書いてみる気になったのは、先日、毛利文香という気鋭のヴァイオリニストのリサイタルを聴いたからだ。

 場所は、嵐山近くの上桂にあるバロックザール。前にも触れたが、たいていはまだ無名の新人の演奏会に使われるのに、ときおりどういう巡り合わせか、ラインハルトとかブロンフマンといった世界的巨匠が来演することもある。

 毛利文香の存在は、これまでまったく知らなかった。だが先月のこと、パガニーニ国際コンクールで2位に入賞したとかで、ちょっとしたニュースになったのを耳にした。これはチケットも完売かな、と思っていたら、意外にも当日券が出るということだったので、足を運ぶことにしたのだ。

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 その日のリサイタルの様子をいちいち細かく書く気にはならない。自由席だったので、気兼ねして端のほうに座ったのだったが、ステージの上からダイレクトに音が響いてくるさまは、ぼくの耳というよりも心臓をぐっとつかんだ。今でもしばしば演奏会には足を運び、オーケストラなどでは何十人もの奏者がヴァイオリンを弾くのを聴いているわけだが、たった一本のヴァイオリンが、なぜこれほどまで心に刺さるのか。

 まるで少年のような顔をした毛利文香 ― 彼女は慶応の文学部に在学中とのことで、プログラムも自分で執筆していた ― は、一概に情熱的とも、叙情的ともいえないアプローチで、ヴァイオリンを歌わせ、語らせる。あえていえば、思索的とでもいおうか。特に、プログラムには無伴奏の曲が2曲も含まれているのが興味深かった。実をいうと、イザイの無伴奏ソナタなどは今回はじめて聴いたのだが、ところどころにバッハへのオマージュが散見され、それが毛利本人のなかで、楽器そのものへの讃歌として鳴り響くかのようだった。

 アンコールで、再び伴奏者を従えないで登場した毛利文香は、彼女を有名にしたコンクールの名前ともなっているパガニーニの奇想曲第24番を弾いた。例の、ラフマニノフなども引用している名旋律だが、次々と変容するヴァイオリンの音色を操り、しかも技巧に走るところのない充実した音楽性は、楽器ひとつで人をここまで感動させられるのか、という見本のようでもあった。同時に、小学生のころ、担任の教師の命令によって、全校生徒の前でヘタクソなヴァイオリンをたったひとりで弾かされた幼き日のぼくの情けない姿が脳裏をよぎるのを如何ともしがたいのだった。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

今と昔の子供たち

2015å¹´04月15æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 弟に子供が生まれた。男の子だ。

 といっても、最近の話ではない。そろそろ、2歳半ぐらいにはなるのだろうか。昨年の秋、福井に帰省したおりに、その甥っ子とはじめて対面した。彼はすでに立って歩き、カタコトの言葉を喋るようにはなっていたが、会話ができるというほどではない。それにまだ、オムツがとれていなかった。自分に子供がいないので、甥の成長ぶりが早いのか遅いのかどうもよくわからないが、おでこが大きく、鼻を垂らしてもいないのは聡明な証拠だろう、と贔屓眼で見てみたくもなる。

 だが、彼も大きくなるまでにはさまざまな苦難を舐めるにちがいなく、青春の時期には思い悩むこともあるだろうし、われわれを取り巻く生活環境だって、将来はどうなっているか知りようがない。年若い人たちを見かけると、ふとそんな不安が頭をよぎってしまうこともたしかなのだ。けれども、そんなことを忘れさせるほどに甥の仕種は愛らしい。夢中になって遊んでいる姿を眺めていると、眼のなかに入れても痛くない、といった言葉が何となく実感できるような気もする。ぼくもまあ年を取った、ということか。

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 それで最近思い出したのが、ぼくが小学生のころ、隣家に預けられていた幼い女の子、Mちゃんのことである。当時、その子はまだ3歳かそこらだったのではないかと思うが、はっきりしたことはわからない。

 隣の家族は、ぼくの家と同じように男二人の兄弟のいる家庭で、なぜ女の子を預かることになったのか、その理由も知らない。それにしても、やんちゃな少年たちに加えて言葉もろくに話せない幼女の面倒を見るハメになったその家のおばさんは、さぞや大変だったろう。

 当時、ぼくはテープレコーダーで周囲の音を録音していることがよくあったが、ある日の夕方、何となくテープを回していると、庭で水やりをしている祖母の近くにMちゃんが寄ってきて、つつじか何かを差して「はな」という声が入っていた。祖母が黙っていると、今度はもう少し大きな声で「はな」という。

 それに対して祖母は、「そうだよ、それは花だよ、よく知ってるね、いい子だね」などと饒舌なことをいわず、「はな」と繰り返してやるだけだった。じきにMちゃんは、つまらなくなったのか、「はな・・・」とか何とかつぶやきながら去っていってしまったが、そのときの祖母の冷静な対応は、今考えても大したものだという気がする。幼い子供は、おそらくわれわれが信じられないようなスピードで新しいものごとを覚えていきつつあるのだから、それにいちいち過剰反応していたら、こっちの身が持たないのではないかと思うのである。

 ある日、ぼくが家の前に出ていたら、隣のおばさんに呼び止められ、買い物をし忘れたものがあるからちょっと自転車で買ってくる、それまでMちゃんの面倒を見ていてちょうだい、といわれたことがある。そのとき、その家の兄弟はまだ帰っていなかった。ぼくは子守りなどしたことがないから、一緒にテレビゲームなどして時間をつぶすつもりだったのだが、Mちゃんはおばさんの姿が見えなくなったことに気がつくと、それこそ火のついたように泣き出した。どうやって宥めたりすかしたりしようとしても、彼女の泣き声はますます大きく、町内に響き渡るかのようだった。

 やがて、急いで自転車をこいでおばさんが帰ってきてくれたときには、心の底から「ああ助かった」という声が出そうになった。Mちゃんはすぐに泣きやみ、けろりとしてお菓子など食べている。子供という未知なるモンスターの扱いにくさを、ぼくはそのときはじめて痛感したのだったし、世間の親たちの苦労も、何となくわかるような気がした。

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 しばらくして、Mちゃんが自分の家に帰るという日がやって来た。ほんの短いあいだだったが、隣に暮らした可愛い女の子がいなくなるというのはさびしいものだ。ぼくも彼女を見送るために、家の前に出ていた。

 すると、Mちゃんの様子がおかしい。何か、服のお尻のあたりをつまんで引っ張るようなことを繰り返している。取り返しのつかないことをした、といった表情も。「おもらしじゃないの」ということになり、おばさんが確認してみると、たしかに大のほうをもらしていた、ということだった。

 最後の日に粗相をするとは、と思ったかどうかわからないが、おばさんは体を洗うついでに、ビニールプールに水をたっぷりためて、裸のMちゃんをそこに入れた。Mちゃんは、自分が何をやらかしたのかも忘れて、水遊びに夢中になっている。ぼくは自分が保護者ではない気楽さも手伝って、ほとんどはじめて見る女の子の体を、どこかくすぐったい気持ちになりながら、にこにこと笑って眺めていた。

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 Mちゃんも、もう30代の後半には達しているだろう。おそらく結婚しているだろうし、子供もいるかもしれないが、かつて自分が幼かったときにこんなことがあったとは、知るすべもあるまい。

(了)

(画像は記事と関係ありません)

たまには、ミナミへ(10)

2015å¹´04月06æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

中島千波『桜の間障壁画』(部分、2014年)

 世間では、桜前線が北上中である。今はすでにピークを過ぎてしまった地域もあるかもしれないし、まだまだこれから、というところもあるだろう。たとえば一生の思い出に残るような入学式の日と、満開の日がぴたりと一致したという、幸運な人もあったかもしれない。

 ぼくは昼間のスケジュールが空かなかったので、夜桜を求めて、近所をうろついた。けれども、さほどの名所というわけではなかったせいか、ぼんぼりに照らされるのは桜の花というよりも、もっぱら“花よりだんご”式の、ブルーシートの上に座った人たちと、飲み物や食べ物ばかり。神社が近くにあるせいか、羽目を外す人はいなかったものの、桜を“愛でる”というには程遠い状況だった。

 桜は昔から日本画のモチーフとして描かれつづけてきたが、そういった人間の下世話な生活とは切り離されている。桜の純粋な美というものを表現するためには是非とも必要なことなのだろうが、そのためには現代の画家たちも、スケッチをする環境などには苦労しているようだ。以前、「日展」か何かの列品解説で、とある日本画家の人が、京都の某所にある桜の名所を描くため早朝から何度も足を運んだという話をされていた。なるほど、桜の真の美しさを味わうには、夜よりも朝のほうがいいのかもしれない。

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 ただ、ぼくはひと足先に、なんばのデパートで、満開の桜を観る機会を得たことになる。現代日本画壇のなかでも桜の名手と目される中島千波が、金剛峯寺(こんごうぶじ)に奉納するために昨年完成させた障壁画だ。

 正直にいうと、中島の桜は、いくぶん見慣れてしまった感もあった。その五弁の花びらが、いずれも正面を向いて描かれているように見えるところも、リアリティーを欠いているといえばいえる。ぼくは京都市美術館に所蔵されている菊池芳文(ほうぶん、菊池契月の師匠にして義父でもある)の桜の絵を観て、その花びらが可憐に息づいているのにうたれたことがあり、それに比して中島千波の描く桜は、いささかパターン化されているように思えなくもなかった。

 しかしこの画家は、今回の障壁画を描くに際して京都や奈良の桜を取材し ― いうまでもないが、それが可能なのは桜が咲いている期間だけのことであろう ― 3年もの歳月をかけて仕上げたという。すでに桜のことをじゅうぶんに知り尽くしているはずの彼が、あらためて取材旅行に出たということが驚きでもあったし、おそらくは生涯を尽くして描きつづけても、もうこれでいい、ということはない永遠のモチーフなのかもしれない。

 それだけではなかった。気が遠くなるほど無数に描かれている桜の花弁のひとつひとつを、中島はたったひと筆で描く技量を身につけているという。結果として、桜の花は簡略化され、いわば記号化されざるを得まい。普段、なにげなく桜を眺めている我々の眼にも、花弁の一輪一輪を見分けることができるというわけではない。ひょっとしたら、中島千波の桜の絵を前にしたとき、実際の桜を眺めているような壮大な“美の塊”と向き合うのと似た体感を味わっているのかもしれない。

 この障壁画は今後、一般には非公開の場所に収蔵されるという。誰にも見えないところで、ひっそりと咲きつづける花。空海の教えが、高野山の地で人々に伝えられつづけているように、次の時代へ、次の世紀へと、この絵が大切に守られていくことを願った。

(了)


DATA:
 「日本美術院と高島屋 ~横山大観たちと育んだ交流~」
 2015年1月5日~3月27日
 高島屋史料館

 「開創1200年記念 高野山祈りの美」
 2015年2月18日~3月2日
 大阪高島屋7階グランドホール

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たまには、ミナミへ(9)

2015å¹´04月01æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

平櫛田中『不動明王立像』

 まさかと思うのだが、ここで本日二度目の、平櫛田中との対面となった。ふくよかな大黒様とは対照的な、シャープできりりとした、不動明王の像である。

 どことなく人生の余技といった感じの、大らかな大黒天と比べると、こちらは覇気のみなぎる、凛々しいお姿だ。よく観ると、右手に掲げている剣の持ち手のところは、三鈷杵になっている。なるほど、こういうところに密教とのつながりがあるのかと思う。

 像としては、決して大きいものではない。ただ基本的には非公開の、大変に珍しい作品だということである。今はデパートのミュージアムの、ガラスケースのなかで煌々とライトに照らされている明王は、威厳を保ちながらも、どこか借りてきた猫のような、何となくチグハグな感じがする。こういう作品はやはり、冷厳なお寺のなかで拝観するのが筋なのだろうか。

 ただ、この明王像には、整然とした近代性がにじみ出ているようにも感じる。いいかえれば、きちんと計算されているような気がするのである。一見したところ、一本の木から彫り出されているように思われるが、明王が足を踏ん張っている平面と、背景に乱舞する炎とが、まるで舞台に立つ役者を囲むように、立体的に組み合わされている。木がそのまま変容して仏像と化したような、円空仏とは異なるのである。

 なるほど、平櫛田中は仏師というわけではなく、激動の20世紀を生きた彫刻家なのだな、という印象が強くした。彼が刻んだ不動明王が、1200年という歴史を誇る高野山に安置されているのは、不思議な巡り合わせだといわざるを得まい。

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 高山辰雄の巨大な屏風絵『投華 ― 密教に入る』も眼を惹いた。高山といえば、もう思い出せないほど以前に、やはりなんばの高島屋で、仏教を主題とした屏風を観たような遠い記憶がある。果たしてそれがこの作品だったのか、どうか。

 高山といえば、人物を主なモチーフとして描きつづけてきた画家である。ただ、その姿は外見を描写するというよりも、まるで人生の経験そのものが人間を彫琢していくさまを見るかのようだ。最近“アンチエイジング”などと称して、若々しい外面を維持することばかり考えているような人は、彼の絵のモチーフにはなり得ない。

 先ほどの不動明王像の、ある意味で完成された、破綻のない造形に比べて、ここに描かれている僧形の人々は生々しく、何かに深く悩み、苦しんでいるようである。それだからこそ、彼らは“密教に入る”ことを選択したのだろう。そこには、人間いかに生きるべきか、といった根本的な命題にも触れられている。高野山を観光で訪れる人にはなかなか関知できない宗教の凄みが、見事に表現されているような気がした。

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