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てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

画家として死ぬということ(1)

2007å¹´07月30æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 祇園祭もほとんど終わり、やがて8月である。京都はまさに、酷暑というべき季節を迎えようとしている。

 この時季になると、人の死ということについて考える機会が何となく多くなるのは、ぼくだけではないだろう。2度にわたる原爆と、戦争の終結を記念する日 ― というより、永久に語り継ぐために改めて思い起こす日 ― が8月に集中しているというのも、その理由のひとつにちがいない。また、日本の大部分ではお盆は8月であるし、京都では「五山の送り火」という行事がおこなわれる(地元の人は誰も「大文字焼き」とは呼ばない)。

 ぼくは子供のころ、お盆と終戦の日とが同じ日であることから、お盆という風習は戦後にできたものだと思っていた。つまり、戦争で失われた厖大な命 ― 今は“英霊”などというまい ― を慰めるために作られた日だと、ずっと思い込んでいたのである。

 のちにこれは勘違いだということがわかったが、やはり不思議な一致というべきで、お盆の休暇を利用して戦死した先祖の墓に詣でる人は少なくないだろう。頭の中で、お盆と終戦とが別々のものではなく、ひとつながりのものとして認識されている人は、実はかなり多いのではないかとぼくは思う。

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 よく知られているとおり、京都では大規模な空襲はおこなわれなかった(原爆投下の候補地ではあったそうだが)。ただ、他の地域と同じように男子は召集され、灯火管制も厳しく、人々の生活は不自由を強いられていたにちがいない。あの長い歴史をもつ祇園祭でさえも、戦時中は中止を余儀なくされたというが、では「五山の送り火」はどうだったのだろう。

 最近知ったことだが、大戦末期には送り火を焚くかわりに、白いシャツを身につけた子供や市民たちが早朝の如意ヶ岳(いわゆる大文字山)に登り、人文字で「大」の字を描いたのだという。さらにそのあと、ラジオ体操を奉納したとも・・・。

 戦時中のお盆というのは、やはり今とはちがって霊を弔うだけではなく、戦意の高揚と一緒くたにされていたようである。それにしても体操用の白いシャツを着用に及び、マスゲームよろしく人文字で大文字をつくるとは、かなり短絡的な、乱暴な結び合わせ方ではあるけれど・・・。伝統行事と戦争とが円満に共存するということは、やはり困難きわまりないことなのだ。

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 終戦から60年あまりが過ぎた現在では、送り火も ― もちろんシャツではなく炎によるものだが ― ラジオ体操も、ごく普通におこなわれている(ただ、戦時中のラジオ体操は現在のものとはちがうらしい)。先日、夜勤の帰りに家の近所を歩いていたら、ある寺院の近くの砂利を敷き詰めた広場で、テープレコーダーをかけてラジオ体操をやっている親子のグループを見かけた。

 ぼくも子供のころは毎朝やっていたが、大人になってからは ― 始業前に強制的に体操をさせる一部の会社を除いて ― ついぞやったことはない。ぼくはふとなつかしくなって、号令に合わせて体を動かしている彼らを見た。子供たちは早くも日焼けした顔を仰向けたりしながら、おとなしく体操をしている様子であった。

 ぼくは彼らの横を通りすぎながら、ふたたび戦争のために体操をするような時代がこなければいいが、と考えた。ただでさえ、号令に合わせていっせいに体を動かすということが、兵隊を連想させるものをもっているというのに・・・。最近では米軍の基礎訓練に基づくというエクササイズが大流行していて、テレビなどで「私も入隊した」などといっている人がたくさんいるが、この“入隊”という言葉に何の抵抗もないのだろうかと、ぼくなどは不思議に思う。

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 話が思わぬ方向に脱線してしまったが、ぼくが急に「人の死」などということを書きはじめたのは、先日神戸の美術館で、画家たちの“絶筆”ばかりを集めた展覧会を観たからだ。それは ― あの「無言館」のように ― 戦死した画家の絵を集めたというわけではなかったが、さまざまな時代にさまざまなかたちで生涯を終えた日本の近代画家たちの、その最後の輝きをまとめて観る機会を得たという点で、まことに意義深い経験だった。

 出品されていた画家の中には、広く名の知られた人もおり、まったく聞いたことのない人もあったが、有名か無名かということはこの際あまり関係がない。ぼくが深く考えさせられたのは、まさに「画家として死ぬとはどういうことか」という、その一点についてだったのである。

 次回からそのうちの何枚かを取り上げて、彼らが“絶筆”に託した思いに耳を傾けてみたいと思う。ひょっとしたら、それは“遺言”を聞き届けることと似ているかもしれない。

(今回の記事については、京都新聞のウェブサイトを適宜参照させていただいた)

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『ペトルーシュカ』試論(5)

2007å¹´07月26æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 話をバレエの本編に戻そう。ふたたびわれわれの前にサンクトペテルブルクの復活祭の賑わいが戻ってくるが、時間帯は夕方という設定である。ただし、音楽がいちばん盛り上がるのはこの場面かもしれない。いろんな人物が続々と登場し、個性的な踊りを踊っては去っていく。

 古典バレエでは、さまざまな舞曲がストーリーとは関係なく次から次へと踊られる部分がある。これをディヴェルティスマンというそうだが、純粋に舞踊を楽しむために用意された時間である。演劇的な要素は完全に黙殺されるか、少なくともその間は忘れ去られる。純粋なバレエ・ファンにとってはたまらない時間だろうが ― 野暮を承知で申し上げると ― ディヴェルティスマンの存在こそが古典バレエを古めかしくしていることもたしかだ。いわば“ドラマ”としての物語の推移よりも、“見世物”的な側面を強く残しているからである。

 20世紀のバレエ、特にバレエ・リュスによって創作された新しいバレエでは、この前時代的な要素はすぐさま排除されている。物語としての緊密さを優先し、ともすると冗長になりがちな舞台の構成を引き締めるためだろう。これ以降、従来のように2時間を超えるような長大なバレエ作品は激減することになった。『ペトルーシュカ』や『春の祭典』は、全幕通しても30数分しかかからないコンパクトなバレエである。

 だが、『ペトルーシュカ』のこの部分(第4場の前半)は、珍しくディヴェルティスマン的な要素を残しているといえるだろう。ここでは物語はいっさい進展せず、次々とページをめくるように多彩な舞曲が踊られる。音楽的にも、もっともバレエ音楽らしい感じがするところである。舞台の背後に置かれている見世物小屋のそのまた奥で、バレリーナをめぐる人形たちの争いがおこなわれていることなど、ついつい忘れてしまいそうなほどだ。

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 だが、祭はいつまでもつづかない。そこに、容赦ない現実が割り込んでくるのだ。小屋の中からペトルーシュカが飛び出してきたかと思うと、剣を持ったムーア人があとを追いかける。そして哀れなペトルーシュカは、こともあろうに人々の眼の前で、一撃のもとに斬り殺されるのである。

 今、現実が割り込んでくる、とぼくはいった。それはたしかに、浮かれ騒ぐ群衆をたちまち凍りつかせる、まことにシリアスな現実である。人々は一瞬にして、先ほどまでの陽気な気分を忘れ、われに返らざるを得ない。彼らはいっせいにペトルーシュカの死骸を取り囲み、立ち尽くす。

 しかしここで思い出さなければならないのは、ペトルーシュカは人形だったということである。バレリーナに横恋慕などして、人間くさいことをやってみたところで、彼はもともと木偶の坊だったのだ。やがて、どこからともなく人形遣いがあらわれ、人々をかき分けてペトルーシュカのほうへ近づくと、「なあに、こいつは人形ですから」とでもいうように、首根っこをつかんで振り回してみせる(舞台ではこの瞬間に、ペトルーシュカ役のダンサーは本物の人形にすりかわっている)。人々は去り、人形遣いは動かなくなったペトルーシュカを引きずって帰ろうとする。

 だが、物語はこれで終わりではない。耳をつんざくようなトランペットのファンファーレが、あたりの静寂をつらぬいて、まるで断末魔のように鳴り響く(譜例下)。



 するとペトルーシュカの亡霊があらわれ、人形遣いに向かって何かをしきりにうったえようとするのだ。驚いた人形遣いは、死骸をそこに放り出して逃げ去る(下図、アレクサンドル・ブノワによる『ペトルーシュカ』幕切れのシーン)。



 力尽きて小屋の屋根からぶら下がるペトルーシュカの亡霊と、打ち捨てられたペトルーシュカのなきがらとを舞台に残したまま、この奇想天外なバレエは、不気味な低音のピッツィカートとともに幕を下ろすのである。

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 前にも書いたように、ぼくはこのバレエの筋書きだけは知っていたのだが、このたびその全容を映像で観て、少なからぬ衝撃を受けた。特にペトルーシュカの亡霊が登場する幕切れは、ぼくの想像をはるかに超えていたのである。

 悲劇というものには、観る者の精神を浄化する作用があるといわれる。いわゆるカタルシスである。人々が好んで芝居や映画を見に出かけるのは、このカタルシスを味わうためでもあるだろう。身のまわりの現実からはとうてい期待できない特別な体験を、われわれは欲しているのである。

 だが、『ペトルーシュカ』ほどカタルシスから程遠いバレエもなかろう。王子様とお姫様がめでたく結ばれるわけでもなく、誰かが金銀財宝を探し当てるわけでもない。そこには、解決されない謎が ― あたかも人形の亡霊のように ― ふらふらとただよっているばかりだ。『ペトルーシュカ』が上演される機会にあまりめぐまれないのは、そのような理由によるのかもしれない。

 それにしても、人形が殺されるということは、どういうことであろうか? いや、正しくは次のようにいわねばならないだろう。人形が殺されたのに、亡霊が出るということは、いったいどういうことなのであろうか?

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 ぼくが『ペトルーシュカ』の中に『くるみ割り人形』の影がちらつくといったのは、後者でも人形と人間の境界があいまいにされているからである。少女クララがクリスマスイヴにもらった人形は、軍隊を率いてネズミと戦争をしたりするが ― ここまではまだいいとして ― ついには何と王子様に変身し、お菓子の国に旅をしたりする。

 『くるみ割り人形』は、おとぎ話のエリアを一歩も出ることはない。それでこそ、その破天荒な物語も円満に終結することができるのだ。夜明けとともに王子はくるみ割り人形に戻り、クララは自分の部屋で、楽しい思い出とともに人形を抱きしめるのである。

 だが『ペトルーシュカ』では、何ひとつ終結していない。物語は人形の死骸と一緒になって、眼の前に投げ出されたままだ。ぼくの脳裏には、白い亡霊がゆらゆら揺れる映像が今でもしみついている。この“終わることのないバレエ”をどう受け止めるか、ぼくたちが手渡されたものは重い。

(トップの画像はセルゲイ・スデイキンによる『ペトルーシュカ』の衣装デザインより「道化師」、スタヴロフスキー蔵)


DATA:
 「舞台芸術の世界 ― ディアギレフのロシアバレエと舞台デザイン ―」
 2007年6月9日~7月16日
 京都国立近代美術館


参考図書:
 「大作曲家ストラヴィンスキー」(W・デームリング/長木誠司訳)
 音楽之友社

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『ペトルーシュカ』試論(4)

2007å¹´07月24æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 ところで、ここまで『ペトルーシュカ』というバレエ音楽の素晴らしさや新しさを、まるでストラヴィンスキーひとりの手柄であるかのように書いてきたが、もちろんそういうわけではないだろう。さまざまな芸術の分野の中でも、とりわけ舞台芸術は、大勢の人が共同で作り上げるものである。バレエ音楽ひとつ書くにしても、ストラヴィンスキーにすっかり一任してしまうというわけにはいかなかったにちがいない。演出家や振付師など多くの人が意見を述べ、注文を出し、ストラヴィンスキーはそれらを勘案しながら筆を進めたのではなかろうか。

 なかでも大きな影響力をもっていたのは、バレエ・リュスの興行主にして名プロデューサーだったディアギレフである。ピアノコンチェルトとして書かれていた草稿に目をつけ、バレエ音楽に改作するよう促したのは、ディアギレフその人だったという。そもそも、ストラヴィンスキーという無名の青年を発掘した張本人がディアギレフであるし、『火の鳥』や『春の祭典』をプロデュースしたのも彼である。もしディアギレフがいなかったら、かの3大バレエも生まれなかっただろうし、現代音楽の様相はかなり変わったものになっていたことは疑いない。

 では、ストラヴィンスキーは ― あたかも人形ペトルーシュカのように ― ディアギレフに操られるだけの存在だったかというと、そういうことでもない。彼の音楽は、これまで誰も考えつかなかった創意工夫にみちている。いわば前衛の中の前衛であり、世紀の大実験であったわけだ。その大実験が、ひっそりと実験室の中でおこなわれるのではなく、バレエ公演というかたちで ― しかも芸術の中心地といわれるパリの地において ― 大観衆の面前でいきなり披露されたために、爆発的な毀誉褒貶を巻き起こしたのである。

 今ふうの表現をすれば、バレエのテロリズムであったといっても過言ではないかもしれない。ストラヴィンスキーとディアギレフは一躍、時代の寵児となったのだ。

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 だが、ストラヴィンスキーの新しさの中には、19世紀の古典バレエの遺伝子がしっかり息づいているようにも思われる。逆にいえば、チャイコフスキーらのバレエを否定するのではなく、改めて問い直そうとしているところに、ストラヴィンスキーのバレエ音楽がもつ重要な意味があるのである。

 意外なことに、晩年のチャイコフスキーと若きストラヴィンスキーは、一度ニアミスしている。とはいっても、まだ10歳ごろのストラヴィンスキー少年が、あるオペラ公演に来ていたチャイコフスキーをロビーで見かけたというだけのことにすぎないけれど・・・。ただ、すでに神格化されていた大作曲家を目撃したそのときから、「自分が芸術家であり音楽家であることを意識した」とストラヴィンスキーは書いている。

 彼にとって、チャイコフスキーは永遠の目標だったのだ。後年、実際にバレエ音楽を作曲することになった彼の眼の前に、チャイコフスキーの亡霊が岩のように立ちふさがったとしても、ちっとも不思議ではないだろう。

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 ストラヴィンスキーの出世作となったバレエ『火の鳥』は、音楽の点ではまことに斬新なものだったが、筋書きはチャイコフスキーと比べても特に新しさはない。姫の苦難を王子が救うというストーリーは、『白鳥の湖』や『眠りの森の美女』とも共通するものだ。オデットに魔法をかけた悪魔ロットバルトは、『火の鳥』のカスチェイ王と容易に置き換えることができるのである。

 次の『ペトルーシュカ』において、ストラヴィンスキーははじめてチャイコフスキーの呪縛から解放されたといえるかもしれない。だが、ぼくはこのバレエの中にも、チャイコフスキーの影がちらつくのが見えるような気がするのだ。その影というのは ― ちょうどストラヴィンスキーとすれちがったころに手がけていた作品 ― 『くるみ割り人形』にほかならない。ともに人形を主人公とする点で、このふたつのバレエは非常に緊密な関係にあるのではなかろうか?

(画像は1921年に撮影されたディアギレフとストラヴィンスキー、なぜかよく似たポーズをとっている)

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『ペトルーシュカ』試論(3)

2007å¹´07月23æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 群集の騒ぎが静まると、あやしげな人形遣いがあらわれ、音楽はたちまちデリケートな、室内楽的な様相を帯びる。ぼくはこの部分で、コントラファゴットという楽器が単独で鳴り響くのをはじめて耳にした(他の曲でも、こんな扱いをされることはめったにないだろう)。人形遣いが吹き鳴らすフルートの長いソロもある。

 繊細きわまりない弱音で演奏されるこのシーンは、だだっ広い市場の全景から、人形遣いの謎めいた指先へと、観る者の視線を一気に引き寄せる効果を果たす。映画であればカメラをズームアップさせればいいのだろうが、それができない舞台芸術では、音楽がその役割を担うのである。このとき、ステージの上で人形遣いを遠巻きに見つめている踊り手たちと、客席でそれを眺めているわれわれの視線とは、ほぼ等しいといっていいだろう。いつの間にかぼくたちも人形遣いの魔法にかけられ、何かがはじまるのを今か今かと待っている群集のひとりになってしまっているのだ。

 そしてそのとき、満を持して鳴らされるのが、有名な「ロシアの踊り」である(譜例下)。



 先ほどまでの音楽とは一変し、シンプルで明快なこのメロディーは、さまざまな楽器に受け継がれながら繰り返し奏でられ、脳裏にこびりつく。一度聴いたら、決して忘れることができない音楽だろう。ふと気がついたときには、ぼくたちはバレエの観客であると同時に、劇中劇として演じられる人形芝居の観客ともなっているというわけだ。このへんのからくりは、まことにお見事であるとしかいいようがない。

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 愛らしく可憐なバレリーナ、たくましく無作法なムーア人、そして風采の上がらないペトルーシュカ ― その映像の中では、唇のメイクがひん曲がって塗られていた ― の3つの人形がひとしきり踊ったあと、場面は例の太鼓の音とともに転換し、人形たちの楽屋へと導かれる。そこでは驚いたことに、彼らは人形遣いに操られることなく、みずからの意志で考え、行動している。そしてそこで繰り広げられるのは、人間世界においてはごくありふれた、ひとりの女(バレリーナ)をめぐる色恋沙汰の物語だ。ひとことでいえば、三角関係である。

 古典劇から現代のメロドラマにいたるまで、このテーマをめぐってはさまざまなバリエーションに事欠かない。むしろ単調さを避けるため、話は徐々にややこしくなり、場合によっては現実離れした設定が用いられたり、必要以上にオーバーな展開をたどったりすることもあるだろう。だが『ペトルーシュカ』の中では、主人公が人形に置き換えられることによって、いろいろな付け足しがきれいさっぱり洗い流され、まことに原初的な姿に戻っている。バレエの序盤と終盤に配された市場のシーンに比べ、3人(3体)の人形が恋のさや当てをする部分は時間的にも短く、あっけないといってもいいほどだ。

 だがストラヴィンスキーの音楽は、彼らの心理状態を詳細に跡付ける。ピアノや木管楽器がヒステリックに音を上下させ、恋に敗れたペトルーシュカの嘆きを巧みに表現するところがあるが、その音楽はすでに舞曲ではないばかりか、舞踊という要素をも拒絶しかねないほどのものだ。むしろ、無声映画に弁士がつける語り口に似て、散文的なのである。物語の流れをせき止めることなく、次へ次へと観る者を駆り立ててやまない。

 さてペトルーシュカを見捨てたバレリーナは、こともあろうにムーア人とねんごろになるが、この場面では ― まるでこれがバレエであるということを急に思い出したように ― ゆっくりしたワルツが奏でられ、ふたりは手を取り合って踊る。しかしそのワルツたるや、3つの管楽器だけによるまことに平凡な、密度の薄いものとなっている(譜例下)。



 もちろん、ここにもストラヴィンスキーの狙いがあるのであろう。このワルツのメロディーは、19世紀に活躍したヨーゼフ・ランナーという作曲家が書いたものの引用である。このランナーという人物は、現在ではヨハン・シュトラウス1世と並ぶウインナ・ワルツの創始者として知られているが、ストラヴィンスキーが彼の音楽を通俗的なものの代表として持ち出してきたことは明らかだ。

 男女が仲よく腕を組み、ステップを合わせて踊るような古くさい音楽を、ストラヴィンスキーは自分の手で書こうとはせず、他人の曲で間に合わせたのである。だがこれは手抜きではなく、むしろ挑発というべきだろう。ランナーという旧時代の舞曲の引用は、ストラヴィンスキーの音楽の斬新さ、複雑さを否が応でも際立たせるのだ。その点、往年の巨匠の絵を自作に取り込み、自己流に変形してみせたピカソの荒わざを想起せざるを得ない。

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 さてここで、話は急展開する。ムーア人とバレリーナの恋も、決して安泰ではない。嫉妬に駆られ、自分を見失ったペトルーシュカが、ムーア人の部屋に飛び込んでくるのである。ふたりは揉み合うが、決着がつかないうちにまた例の太鼓が打ち鳴らされ、あれよあれよと思ううちに、ぼくたちは再び市場の喧騒の中へと連れ戻される。この部分の転換の早さは、現代のテレビや映画と比べても引けをとらないほどスリリングだ。

 そして本当の悲劇は、この後に待ち受けているのである。

(画像はジョルジュ・バルビエが描いたペトルーシュカとバレリーナ)

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河合隼雄さん逝く

2007å¹´07月20æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 河合隼雄さんが、息を引き取った。79歳だった。

 昨年8月、脳梗塞で倒れられた当初は、そのうち何食わぬ顔をして復帰されるのではないかと思っていた。なにしろ、河合さんは「日本ウソツキクラブ」の会長でもあるからだ。「閻魔大王にね、そろそろあの世に行かせてくださいとお願いしたら、お前はまだ日本文化に対する研究が足らん、出直してこい、と怒られましてね、すごすご戻ってきましたよ」などといいながら。

 だが11か月という期間は、ウソを貫き通すにはあまりにも長すぎた。この間、意識を取り戻すことはなかったという。高齢とはいえ、まだまだやり残したことがたくさんあったにちがいないと思うと、本当にやりきれない気がする。

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 河合隼雄さんは臨床心理学者であり、ユング研究の権威であった。だが、ぼくは心理学の勉強をしたことはないし、ユングについてもそれほど詳しくはない。そんなぼくでも河合さんの著書を読み、その言動に何かと注目してきたのは、やはり彼自身がとてつもなく幅広い知性を備えていたからだろうと思う。

 ぼくがはじめて河合さんに興味をもったのは、人から借りて読んだ『河合隼雄 その多様な世界』という本によってだった(上図、岩波書店)。これはまことに変わった本で、河合隼雄をテーマにしたシンポジウムが、河合さん本人を眼の前においておこなわれたときの記録である。パネリストがまたそうそうたる顔ぶれで、作家の大江健三郎、哲学者の中村雄二郎、児童文学者の今江祥智、生命誌研究で知られる中村桂子、ノンフィクション作家の柳田邦男というメンバーだった。ぼくは当時、大江の小説に非常に心酔していたので、知人がこの本を貸してくれたように記憶している。

 それにしても、日本を代表する知性が大勢集まって、河合隼雄というたったひとりの人物について討論するというのは、考えてみればすごいことだ。それは河合さんの交友関係がいかに広かったかということでもあるが、むしろ彼が取り組んでいる心理学の問題が、現代日本がかかえる諸問題と深いつながりをもっていることのあらわれでもあろう。

                    ***

 その本を読んで数年後、河合さんがNHKのテレビで3か月にわたって講義をされているのを見た。それは専門の心理学の話ではなく、日本神話をもとにしてこの国の本質を読み解くという内容のものであった。冗談好きで、いつも笑顔を絶やさない河合さんが、その番組の中ではクソ真面目な顔をして、独自の日本観を諄々と語っておられた。先ほどの本を貸してくれた知人は、真面目すぎてつまらないなどとボヤいていたが・・・。

 日本という国のなりたちを、神話という“物語”に求めたところが、いかにも河合さんらしいとぼくは思う。そこには、臨床心理学者としての彼の豊富な経験が生かされているにちがいないからだ。心の病を抱える患者が相談に来ると、河合さんは性急に診断をくだすことをせず、患者が自発的に“物語”を語り出すのを辛抱強く待つのだという。なぜなら、患者本人が語る“物語”の中に、家族や社会の中におけるその人自身の位置づけがはっきり刻印されているからだ。“物語”を読み解くことにこそ、治療への道筋が隠されているというのである。

 私事になるが、かつてはぼく自身も、かなり深い精神的な危機を経験したことがある。八方ふさがりの真っ暗闇の中を、手探りで進むような時期があったのだ。周囲から見放され、孤独のどん底に突き落とされたようなぼくを、もしどこかのボンクラな医者が診察したら、再起不能の重症と診断されたかもしれない。

 だが、ぼくが自分を見失うことなく今まで生きてくることができたのは、ぼくを取り巻く“物語”を理解できていたからだ、と思う。ぼくが精神的な危機を迎えたのは、突然何かの病原菌に侵されたからではなく、そこに至るまでの確固としたプロセスがあったからだ。“物語”を順序よくたどっていくことで、自分が今なぜこういう事態に立ち至っているか、客観的にわかるようになってくる。そうすることで、自分という存在を受け入れることができるのである。

 ぼくがこのような経験をしたのは、河合さんの存在を知るずっと前のことであったが、彼のさまざまな著作を読んでいるうちに、自分の若いころの“物語”をしみじみと思い出さないわけにいかなかった。その延長線上に、今のぼくがいるのである。“物語”はまだつづいているのだ。

                    ***

 さて河合隼雄さん自身にも、その“物語”はあったはずである。だが、彼は人の“物語”を聞くことにばかり熱心で、自分のことを語ることは少なかったのではなかろうか。彼の本を読んでいると、ときおり、他人にことよせて自分のことを書いているのではないかと思われるような文章にぶつかる。たとえば、次のようなところだ。

 《Kさんは大変に仕事熱心な人である。そのうえに極めて有能な人なので、入社以来、常に表街道を歩みつづけていた。他の同僚よりも早く課長になり、これからますます張り切ってゆこうと思っていたとき、病気になってしまった。「今時、あなたのような年齢で結核になる人は珍しいですね」と医者に言われたのだったが、どうしたことか、結核で休職ということになり、折角、獲得した課長の座を他人に渡さねばならなくなった。(略)

 Kさんは病気の宣告を受けて悲観してしまった。残念で仕方がなかった。ところが不思議なことに、心の片隅で何だか「ほっとしている」ような感じがあった。(略)

 Kさんはこのことを主治医に話してみると、「結核というのは、なったときに何だかほっとするという人が案外多いのですよ」という返事が返ってきた。医者は微笑しながら、「一度ゆっくり休め、と言うことですな」とつけ加えた。この一言で、Kさんは事態がよく解(わか)った。確かにKさんは何らかの意味でゆっくり立ちどまり、自分の生き方をふりかえってみる必要があったのである。

 このようなことがあったので、復職後のKさんは焦らなかった。それは確かに陽の当たらぬ場所であった。しかし、そこから見る世界は、陽の当たる場所から見る世界とは、また異なるおもむきがあった。人の親切というものの味も前よりはよく解るようになった。こんなKさんを他人は、病気をして人間がひとまわり大きくなったと評した。》
(『働きざかりの心理学』新潮文庫)

 今だからいえるのであるが、この「Kさん」というのはまさに「河合さん」のことだったのかもしれない。彼は民間人として文化庁長官に抜擢され、高松塚古墳の問題などに頭を抱えつつも、精力的に行動した。関西で催される展覧会などのチラシには「関西から文化力」と書いたロゴマークが印刷されていることがあるが、これは河合さんによって提唱された「関西元気文化圏」というプロジェクトの一環であることを示している。

 残念なことに、河合さんを襲ったのは結核ではなく、重い脳梗塞だった。彼は自分の生き方を振り返るいとまもなく、長い昏睡状態の後に、帰らぬ人となった。もし河合さんが、本当に閻魔大王から追い返されていたら、今度は“陽の当たらぬ場所”に腰を据えて、どんなにか素晴らしい仕事をされたろうにと思うと、かえすがえすも残念でならない。

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 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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