てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

工芸の海を泳ぐ(4)

2012å¹´03月31æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

小合友之助『扇面ちらし』(1948年、京都市美術館蔵)

 小合(おごう)友之助という人は、それほど知られているとは思えないが、京都の染色の大家であるそうだ。なかでも蝋染めという技法を極め、後世に大きな影響を与えたという。

 けれどもぼくは陶芸や漆芸に比べて、染色には今ひとつ馴染めない。やはり本来は絵画が好きなので、染めなどというまわりくどい手順を踏んで平面の芸術を作り上げる人たちに、なぜ絵筆を使って絵を描こうとはしないのだろう、という素朴な疑問を抱くこともある。もちろん、染色でしか出せない質感といおうか、手触りのようなものがあるのは明らかだ。表現したいモチーフをじかに画布にぶつけたがる直情径行タイプの人には、工芸は向かないだろう(その点、岡本太郎はいくつかの工芸作品も残しているので、不思議に思う)。

 工芸にはさまざまな工程があると思うが、その実態はあまり一般には知られていない。いや、決まったマニュアルなどがあるわけではなく、個人がめいめい工夫を凝らしては新しい表現方法を模索しているのにちがいない。

 けれども科学技術の世界とはちがって、それだから工芸の技術が眼に見えて発展するとか、一般の人の生活に影響を与えるとかいう話にはならない。その作家の作品に、独特の色彩や造形をもたらすだけのことである。ただその態度が、加速度的に画一化されつつある世の中の風潮に一石を投じることになるのではないか、とも思える。工芸の展覧会に年配の人ばかりではなく、若い人や家族連れが訪れているのを見ると、この国もまだまだ捨てたものではないな、という気がする。

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 けれども「日展」の列品解説を聞いたりすると、洋画や日本画部門に比べて、工芸美術部門の参加者は圧倒的に年齢層が高い。ぼくは京都で二度ほど聞いたのだが、30人ほど集まった観覧客のなかで、もしかして自分が最年少ではないか、と思えるほどだった(ちなみにぼくはもう40歳を超えている)。京都には工芸を学ぶ若い人が多くいると思われるのに、ちょっと気がかりである。

 何年か前に、3人の作家からなる解説を聞いたのだが、そのなかに中井貞次氏がいた。この人は「日展」の常務理事を務めていて、ぼくも毎年作品を拝見しているが、繊細で色鮮やかな染色が多いなかで、彼のは一貫した渋さと、たくましさがある。樹木をモチーフにした作品が多いが、枝や葉のひとつひとつを細かく描写したりすることはなく、あくまで塊として表現され、重厚な色彩とも相まってずっしりとした量感を感じさせるのである。

 その中井氏の恩師に当たる人が、小合友之助なのだった。けれども、『扇面ちらし』を観てもほとんど似たところはない。これがどのような機会に制作されたものかはわからないが、おそらくは展覧会に出品するためというよりも、誰かに依頼された仕事なのではないかと思う。

 白い屏風のなかに、まるで桜の落花のようにランダムに散らされた扇。そのスタイルは日本古来からあるものだが、題材はさほど日本的なものに偏ってはいない。湿潤な和の風土よりも、からりと乾いたモダンな感覚があふれている。デザイン、といってもいいすぎではないだろう。

 制作されたのは、戦後である。近代の日本家屋にふさわしい意匠を考えたすえにたどり着いた、新しい染色のスタイルなのかもしれない。

(了)


DATA:
 「京都市美術館コレクション展 第2期 模様をめぐって」
 2012年1月27日~3月25日
 京都市美術館

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工芸の海を泳ぐ(3)

2012å¹´03月30æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

(五代)清水六兵衞(六和)『青華葡萄栗鼠文花瓶』(1930年、京都市美術館蔵)

 京都の焼物というと、やはり清水(きよみず)六兵衞のことを忘れるわけにはいかない。

 清水六兵衞は、当代で八代目を数える京焼の名門である。だが、その作風は一貫しているとはいえない。丸みを帯びていた器が、時代を経るにしたがってだんだんシャープな造形になっている。これは、十五代つづく樂焼にも同じようなことがいえる。

 七代目の六兵衞は、清水九兵衞という別名を名乗って、抽象彫刻家になってしまった。彼のことについては、もうずいぶん前に「朱色のある風景 ― 清水九兵衞をめぐって」という記事で詳しく書いたので、ここでは繰り返さないでおこう。ただ、作者のことは何も知らなくても、彼の野外彫刻はいつの間にか眼に馴染んでいたりするものだ。近くにある九兵衞作品を探してみるのも、一興かもしれない。

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 京都市美術館でよく眼にするのは、何といっても五代目の作品である。晩年は六和と名乗ったので、上記のような名前の書き方をされるようだ。今回の「模様をめぐって」では、実に13点もの作品が出品されていて、他を圧倒する多さであった。

 彼は四代目の長男で、将来は陶芸家となることを運命づけられていたようなものだが、なぜかそれに飽き足らず、幸野楳嶺らのもとで日本画も学んだ。『青華葡萄栗鼠文花瓶』に描かれた見事な絵付けを見れば、うなずける話である。これは模様ではなく、もはや絵画だといえる。

 けれども皮肉なもので、焼物の絵付けが写実的であればあるほど、平面の絵画として観たいという気になってきてしまう。だがこれは、ひょっとしたら西洋画に感化されすぎた結果であるかもしれない。従来の日本固有の絵画は屏風のようにでこぼこしていたり、襖のように開け閉めされて観え方がしょっちゅう変化したりしたはずだろう。

 掛軸だったら、風で揺らめいたりもしたにちがいない。巻物は、手で順々に巻き取りながら鑑賞するしかなく、現在のように細長いガラスケースに入れて一望するなどは、当時としては邪道でしかなかった。われわれの先祖は、そういった「平らでない絵画、動く絵画」に慣らされていたのである。

 そういうことであれば、壺の局面に見事な葡萄の絵を描いたこの作品も、日本人の美観にかなった表現方法なのかもしれない。平面に絵を描くよりは、こちらのほうが技術的にずっと難しいことは想像できるけれども。

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参考画像:(五代)清水六兵衞(六和)『大礼磁仙果文花瓶』(1926年、京都市美術館蔵)

 今回は出品されていなかったが、『大礼磁仙果文花瓶』は、京都市美術館の工芸のなかでぼくがもっとも愛する一品である。これがガラスケースに入れて展示されていると、その周囲をぐるぐる回りながら眺め、眺めながらまた回り、いつも嘆息してしまうのだ。

 重なり合って群れるおびただしいインコ。もしこれを写実的に描いたとしたら、かなりうるさい絵になってしまうだろう。だが六兵衞は、そこから色をはぎ取って、ほの白い浮き彫りとして壺の全面に刻んでみせた。いったいどうやって制作したものか、ぼくにはまったく見当がつかないが、細心の注意を施して完成されたものにちがいない。

 調べてみると、この壺は大正15年、東京で開かれた「聖徳太子奉賛美術展」で展示するために作られたものらしい。会場となったのは、落成したばかりの東京府美術館。全国の公立美術館の草分けとなった、上野の森の一画にある建物である(のち東京都美術館と改称され、最近は大改修工事中だったがきたる4月1日に再オープンする由、楽しみだ)。

 その壺は今、東京に次いで2番目に古い公立美術館の顔になっている。つまりここ京都市美術館よりも、この壺のほうがやや年上ということになるが、非常に大切にされているせいかヒビひとつ入っておらず、最近作られたばかりのように錯覚してしまうほどである。

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工芸の海を泳ぐ(2)

2012å¹´03月29æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

河井寛次郎『花文扁壺』(1939年、京都市美術館蔵)

 京都市美術館の真向かいにある京都国立近代美術館は、有数の河井寛次郎コレクションを誇っている。分厚い図録が出版されているほどだが、京都市美術館はそれほどでもないようだ。「模様をめぐって」に出品されていたのはわずかに一点、『花文扁壺』だけであった。

 河井は京の五条坂にある登り窯を譲り受け、その地に家を建てて終生そこで暮らしたが、もともと京都の人ではない。彼は島根の安来の生まれであり、東京の学校で陶芸を学んだあとで、京都に来た。そのせいか、彼は京都の焼物作家のなかでも、いっぷう変わった存在感を放っている。あえてたとえれば異邦人・・・というよりも、異星人のようですらある。

 晩年、彼は「用の美」を離れ、単なる陶工として生きることすらもやめ、木彫を使って奇怪な人面像などを制作しはじめた。焼物の聖地に住みながら、そのようなものを作るいわれはないといえば、まあそのとおりであろう。

 土とゆかりの深い陶芸家は、自分にあった土を求めて各地を旅したり、思い切って移住してしまったりする(濱田庄司が益子で暮らしたのも、同じような理由からだ)。けれども河井寛次郎は、日本のどの風土ともそぐわないような斬新な造形を次々と生み出した。

 ただ、公立の美術館には、彼のそんな作品を集めているところは少ないように思う。河井寛次郎はみずからの手で、陶芸家の範疇をはみ出してしまったのだろうか。彼の旧居をそのまま使った記念館に入ってみると、そういう“無用な”作品があちこちで来館者を待ち受けているのだが。

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参考画像:河井寛次郎『白地草花絵扁壺』(1939年、京都国立近代美術館蔵)

 河井寛次郎が有名になったのは、その作品が海外で賞を受けたりしたからだろう。

 ただし、河井がみずからの意志でエントリーしたわけではなく、高島屋の取締役である川勝堅一という人物が勝手に出品してしまったという、今では考えられないような逸話つきである。けれども、河井と川勝との仲がこわれることはなかったようだ。人間国宝や文化勲章も固辞した無冠の陶工である河井は、内心では苦笑しながら「余計なことをしてくれた」と思っていたのではないか、という想像をぼくはしている。

 その川勝のコレクションが、京都市美術館の向かい側の、近代美術館に収蔵されているわけである。ミラノ・トリエンナーレでグランプリを受賞した作品も、そのなかにある。『白地草花絵扁壺』がそれだが、制作されたのは冒頭の『花文扁壺』と同年であり、作風も実によく似ていることが、一見してわかるだろう。

 作風を転々とさせた河井寛次郎のおびただしい焼物のなかで、世界的に評価されたのがこの作品だというのが、ぼくにはちょっと腑に落ちない。この壺のいったいどこが、西洋人の心をつかんだのだろうか。もっと胸をときめかせるような艶っぽい光沢を放つ作品も、あるいは造形的にうんと奇抜なものも、彼には少なからずある。白地の上に、彼が得意とする草花文をささっと描いただけに見えるこの壺は、河井の全作品のなかでは比較的地味な、目立たないものに属する。

 ただ、そんなシンプルさが、現代の焼物から抜け落ちてしまっていることはたしかだと思う。陶芸に限らず、他のさまざまなジャンルの工芸を観ても、超人的な技巧を凝らしているなあと感心させられる一方で、もっと素朴では、単純ではなぜいけないのか? という疑問も常につきまとうのである。

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工芸の海を泳ぐ(1)

2012å¹´03月28æ—¥ | ç¾Žè¡“随想


 先日まで京都市美術館で開かれていたコレクション展の第2期は、「模様をめぐって」と題されていた。模様、しかも工芸美術にあらわれるそれは、優れてデザイン的だったり、写実的だったり、大胆に抽象化されていたりするが、技法の簡単な説明も含めて、それらを概観してみようという試みだ。

 いつものコレクション展では、洋画・日本画・工芸、ときに彫刻や書といったジャンルの垣根を越えて陳列されるのが普通だが、今回は工芸ばかりを144点も並べた大盤振る舞いである。

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 当然の話かもしれないが、美術館の展示室にはよく出入りしていても、作品を保管している収蔵庫には一度も入ったことがない。絵画であればいくら大作といっても平面であるし、掛軸は巻いてしまえばバトン程度の短い棒になるし、うまく工夫すれば収納することができるだろう。しかし、これ以上はどうしても縮小しようのない工芸品は、箱などに入れればかなりの場所をとってしまう。いったいどこにしまっているのだろうか。

 本来、美術館の収蔵庫のありかというのは、防犯上の観点からか、あまりおおやけにされないものだが、京都市美術館については明らかになっている。美術館の裏手にまわってみると、知る人ぞ知る池があるけれど、そのすぐ北側に低い建物がなかば地面に埋もれたようにして、ひっそりとある。一見するとコンクリートの丘のようで、その上を実際に通行することもできるし、散歩のコースにしている人もあるだろう。

 ぼくは昔の食堂がさびれたまま放置されているのかと思っていたが、 そこが収蔵庫なのであった。設計したのは川崎清という建築家であるという(かつて万博公園内にあった旧・国立国際美術館の設計者でもある)。京都の人がなにげなく歩いたり、犬を散歩させたりしているあの場所の下に、京都を代表する美術品の数々がしまわれているのかと思うと、ちょっとぞくぞくする話ではないか。

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 工芸の話を書こうとしながら、つい建築の話になってしまった。急いで軌道を修正せねばならない。

 この展覧会を観に行ったのは春分の日のことだったが、その2日前の日曜日には大阪で「日展」を観ていた。いつもは年の初めに京都で観るのだが、今年は正月早々体調を崩したこともあって出かけることができず、2か月以上もずれ込んでしまったのだ。

 大阪展の会場である大阪市立美術館では、工芸は一部屋にまとめて展示される。陶芸などの立体作品はガラスケースに入れられていて、京都会場のようにじかに観ることはできない。漆芸家の鈴木雅也氏は、京都での列品解説の折に自作の蓋を開けて見せてくださるのが恒例のようになっているが、ここではそれは不可能である。

 ただ、いつも見慣れた工芸作家の作品を、ちがった会場で観るのは新鮮ではあった。陶芸の河合徳夫は、透き通るように白い磁器の板に、繊細な鳩の浮き彫りを施したものを出品していた。

 そしてその2日後に京都市美術館で観たのは、父君の河合誓徳(せいとく)の『草原の道』という器だった。誓徳の陶芸は、磁器の清らかさを生かしながらも、近づきがたいほどの品格の高さより、人肌のようなあたたかさを感じさせるものが多い。牛島憲之を思わせる柔らかな、お湯でふやかしたような絵が描かれているのも、魅力的だった。

 残念ながら河合誓徳は、2年前に亡くなった。それまでは「日展」の会場で、親子の競演を観るのも楽しみのひとつだったのだが・・・。今はこうして作品だけが京都に所蔵されて、ぼくを迎えてくれる。

 「このあいだ、息子さんの作品を観ました。よかったですよ」と、声をかけてあげたい気分だった。

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東京ゼロ泊 ― ゴヤ展その他のこと ― (19)

2012å¹´03月27æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
ゴヤ展 その15 エピローグ


『魔女たちの飛翔』(1798年、プラド美術館蔵)

 そもそも、ゴヤとはどういう男だったのだろうか。

 記事の最初に掲げた問いが、ふたたびぼくをとらえる。毎日のようにゴヤのことを考えつづけてきたが、芸術家としての偉大さに感嘆するというよりも、その不可解さに首をひねることのほうがはるかに多かった。

 ゴヤは、本当に首席宮廷画家であったのか? スペインで最高の地位にまでのぼりつめた画家が、このゴヤなのか? そんな疑問までが繰り返し襲ってくる。いや、彼がスペイン王室から重んじられた優秀な画家であったことは、たしかな事実であろう。

 ただ、それとは相反する“裏の顔”を、彼はもっていた。これも事実だ。大ざっぱにいえば、ゴヤは二人いた、と考えたほうがわかりやすいような気もする。それに比べれば、表向きの『着衣のマハ』が裏を返せば全裸であることなど、さして重大なこととも思われなくなってくるではないか。

                    ***

 『魔女たちの飛翔』は、今から6年前に開かれた「プラド美術館展」でも展示され、ぼくは大阪市立美術館でそれを観ている(当時のタイトルは『魔女の飛翔』)。ただ、そのときはゴヤに深い関心をもっていたわけではなかったし、さほど注意深く眺めたわけでもなかった。けれども、『魔女の飛翔』の謎めいたモチーフだけは消えないで、いつまでもぼくの心に引っかかった。

 ぼくには最初、宙に浮かぶ人たちの群像が、サーカスの曲芸か何かのように見えた。真っ暗な虚空に浮かんだ、色とりどりのピエロではないかと・・・。正直にいって、今でもぼくはこれらの人物が魔女だとは思えない。青い帽子を被り、こちらに背中を向けた人物の腋の下からは、たしかに乳房のふくらみのようなものがのぞいているが、上半身が裸の魔女など聞いたことがなかった。

 さらには、彼女(?)たちが頭にかぶっている細長い帽子は、伊集院静の指摘によればコローサというもので、宗教裁判にかけられた被告がかぶるものだという。たしかに今回出品されていたゴヤの素描のなかにも、この帽子をかぶったものがある。


『口をすべらせた咎により』〈素描帖C〉89番(1808-1814年頃、プラド美術館蔵)

 この後ろ姿の男は、異端審問で裁かれようとしているところで、画面の奥に立っている男が罪状をまさに読み上げようとしている場面だという。ゴヤは今でいう法廷画家のようなことまでやっていたのか、そこまでは知らない。

 だがゴヤはこれを描きながら、自分の姿をそこに重ねていたのではあるまいか。彼も宮廷画家としては異端であり、口ではなく絵筆をすべらせることはしょっちゅうであったと思われる。もし国王の機嫌を損ねようものならたちまち被告席に立たされる羽目になりかねない、ギリギリの線で創作活動をつづけていたのだ。

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 ゴヤの晩年を代表する衝撃的な〈黒い絵〉の連作は、このたびは一枚も展示されていなかった。残念なような気もするが、観なくてすんでほっとした、というのが偽りのない気持ちだ。もちろん写真では観たことがあるけれど、もしこれの実物と対峙したとき、ぼくはいったいどう振る舞ったらいいのだろう。

 そのときには、やはりあの問いがぼくの頭のなかで渦巻くにちがいない。そもそも、ゴヤとはどういう男だったのか、と。

 ゴヤという画家のことについて真に深く考えるには、〈黒い絵〉を避けて通ることはできまい。それまで小さな銅版画のスタイルで繰り返し描かれてきた「生の不条理」が、壁いちめんの大きさに、油彩の強烈な色彩を伴って描き出されたのだ。そして実際、ゴヤは若い家政婦の愛人とともに、その絵が飾られた家のなかで生活していたのである。

 威厳ある国王陛下の肖像から、戦場の死体の山まで描き出したゴヤという男の大きな謎が、改めて眼の前に突きつけられたような展覧会であった。

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