てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

アボリジニに絵筆を ― ウングワレーの仕事 ― (3)

2008å¹´04月23æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

『ビッグ・ヤム・ドリーミング』

 エミリー・ウングワレーのミドルネーム(?)は、カーメという。カーメとは、アボリジニの言葉で「ヤムイモの種」を意味するそうである。ヤムイモというのはヤマノイモの一種で、熱帯地方など暑さの厳しい地方で食されているらしい。

 ウングワレーの絵のなかで、ヤムイモは非常に重要なテーマであった。とはいっても、ただ描写したわけではもちろんない。独特の世界観を構成するモチーフ、いわば“絵画的言語”のひとつとして、彼女はヤムイモの蔓のように入り組んだ複雑な線を画面いっぱいに描いたのだ。

 『ビッグ・ヤム・ドリーミング』(ナショナル・ギャラリー・オブ・ヴィクトリア蔵)は、なかでも最大規模の作品である。横が8メートルもあるというこの大画面をいったいどうやって描いたのだろうと不思議にもなるが、彼女はキャンバスを地面に敷き、その上に座り込んで手の届く範囲を描いて、徐々に移動しながら全体を仕上げていったのだという。

 つまり彼女にとっては、絵画とは壁に掛けるものではなく、それこそアボリジニの文化を代表する砂絵のように、大地に直接表現されるべきものだったのかもしれない。

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〈参考画像〉草間彌生『ネット・アキュミュレーション』

 それにしてもこの『ビッグ・ヤム・ドリーミング』は、ウングワレーよりひと世代若い日本の現代美術家をただちに思い起こさせる。草間彌生である。

 草間が細かい網の目でキャンバスをびっしり埋め尽くした作品は、ウングワレーとどこかで相通じているような気がするのだ。もっとも、草間の作品は精神疾患の側面から語られることが多くて、原始的な大自然のただなかで生きたウングワレーとはかなり対照的である。

 『ネット・アキュミュレーション』(国立国際美術館蔵)は戦後のアメリカで草間が描いたものだ。この執拗な網の目の連鎖が過度にとぎすまされた神経の軌跡であり、いわば大都会の片隅に押し込められた人間の叫び声だとするなら、ウングワレーのそれは地面にはりめぐらされた生命力あふれる根っこであり、神秘的な大自然と人間とを結ぶ紐帯なのであった。

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『私の故郷』

 アボリジニ版のグランマ・モーゼスともいうべきウングワレーは、1996年にその長い生涯を閉じる(生まれたのは1910年ごろとされていて、たしかな記録はないようである)。彼女は、亡くなる直前まで旺盛な創作活動をつづけていた。『私の故郷』(アマンダ・ハウ蔵)は、そのなかの一枚である。

 そこには例のしたたるような豊潤な点描の表現もなければ、ヤムイモの自在な線描もない。大きな刷毛のようなもので無造作に塗りつぶされたキャンバス。これまでの作品とはまったく異なるようなこの作品を、彼女は『私の故郷』と呼んだのである。

 絵の具を何度も塗り重ねているにもかかわらず不思議な透明感があり、静かな輝きを秘めているかのような晩年の作品群は、ぼくの心をうった。その絵は、何かを描こうとしたわけではない。描くことそれ自体が、まるで祈りにも通じるような神聖な行為なのではないか。そんな気がしたのだ。

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 オーストラリアの名だたる美術館が収蔵しているもの、あるいは歌手のアン・ルイスやエルトン・ジョンなど知名人がコレクションしているものなどから、100点ほども集められたウングワレーの絵画。観たのはもうずいぶん前のことだが、未知なる画家の壮大な物語に立ち会っているかのような冷めやらぬ興奮が、今でもときどきぼくを熱くする。

 科学と文明で解き明かされてはいない世界との出会い、それはカルチャーショックといってもいいほどだった。ウングワレーの存在を知ったことは、ぼくの美術への視野を確実に広げてくれたような気がしたのである。

(了)


DATA:
 「エミリー・ウングワレー展 ― アボリジニが生んだ天才画家 ―」
 2008年2月26日~4月13日
 国立国際美術館

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アボリジニに絵筆を ― ウングワレーの仕事 ― (2)

2008å¹´04月22æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

『エミューの女』

 すでに70代の終わり近かったウングワレーが、生まれてはじめてキャンバスに描いたという記念すべき作品『エミューの女』(ホームズ・ア・コート・コレクション蔵)を観ると、たしかにわれわれが連想するアボリジニ・アートの延長線上にあるという感じがする。色とりどりのドットの連なりと、リズミカルに波打つ線。しばらくじっと眺めていると、霧の向こうから人物があらわれ出てくるようにして、豊かな胸のふくらみを中心とした女の姿がぼんやりと浮かび上がってくる。

 エミューというのは、オーストラリアに生息する飛べない鳥類の名前だ(ぼくは池田市の五月山動物園で本物を見たことがある)。『エミューの女』というのはどういう意味なのかはっきりとはわからないが、ひょっとしたらエミューをあらわす扮装をしたアボリジニの女性の姿なのかもしれない。よく観ると、たしかに鳥の羽根のようなかたちを認めることができる。どうやら彼らの文化には、エミューの祖先をたたえる儀式というのがあるらしい。

 だが何を描いたにしろ、それを写実的に表現しようとしたのでないことは明らかだ。いわば儀式のためのボディ・ペインティングを、体ではなくキャンバスに描いたようなものだろう。生まれてはじめてクレヨンと画用紙を与えられた子供が、まるで道路への落書きみたいな絵を(画用紙からはみ出してしまっても気にせずに)描いてみせるのとよく似ている。

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 『エミューの女』は当時の人々に衝撃を与えたということだが、美術教育など受けていない子供の絵が、ときとして大人を非常に驚かせることがあるのと同じである。最近は正規の美術教育を受けていない人たちの美術、いわゆるアウトサイダー・アートがかなり広く認知されるようになってきたが、ウングワレーをそのなかに位置づけることもできるかもしれない。

 いずれにせよ、ぼくは彼女をすぐれた抽象画家と呼ぶのにはややためらいを覚える。抽象画というのはいわば具象画の対義語であって、具象的な観念をもち得る人種の側に立った言い方だ。ものごとを具体的に理解することのできる人が(つまりごく一般的な“文明人”が)、あえて万人との共通項をかなぐり捨てたところに成立するのが抽象美術であるとぼくは思う。

 アボリジニがいかなる世界観を有しているか、ぼくには想像するしかないけれど、彼らが描いたり砂絵であらわしたりしている表現言語が、アボリジニにとってはきわめて具象的な事柄でないとどうしていえるだろう? ウングワレーは亡くなるまでに描いた何千点という作品を通じて、彼女が属する世界の諸相をリアルに描き出そうとしたのかもしれないではないか。それを「抽象画」という枠に押し込めるのは、そのほうがわれわれにとって都合がいいからにすぎないのだ。

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『大地の創造』

 『大地の創造』(ムバンチュア・ギャラリー蔵)は、壁一面を覆い尽くすといいたいほど巨大な作品だ。しかもキャンバスのすみずみにまでぎっしりと色が塗られ、複雑微妙なかたちが描き出され、それらが有機的につながりあい、折り重なっている。まさに、ひとつの世界である。

 小さなタブローであろうが、壁画のような大画面であろうが、ウングワレーの絵の密度は変わらない。職業画家なら必ずわきまえているはずの力加減は、彼女には無縁のものであった。しかもこれを描いたとき、すでに80代のなかばにさしかかっていたというから信じられない。

 この絵には、ウングワレーの生きた“具体的世界”のすべてが余すところなく描かれているような気がする。いったい何を描いたのかはわからないけれど、それがとんでもなく美しく、多彩な変化に富んだ世界だということはぼくたちにもわかる。絵画は言葉ではないのだから、それでじゅうぶんではないか。

 この絵の前に立ったとき、アボリジニたちの神秘な世界がわれわれの前にその全貌をあらわしたような錯覚を受けた。それは文明人たちがはるか大昔に忘れ去った、この世の楽園にちがいなかった。

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アボリジニに絵筆を ― ウングワレーの仕事 ― (1)

2008å¹´04月21æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

エミリー・ウングワレー

 オーストラリアの先住民アボリジニは、砂絵といった呪術的な絵画や「ディジュリドゥ」という楽器など、独特の文化をもっているらしいことを何となく知ってはいた。

 かの地は海で周囲を取り囲まれているせいか、珍しい有袋類の動物の宝庫であるのと同じように、西洋文明に感化されない土着の風習が原初の状態をとどめているのではないかと思う。それはおそらく、日本で耳にタコができるぐらい聞かされる“歴史”や“伝統”といったレベルではない、もっと根源的なものである。

 だが、ぼくはこれまで彼らの文化に対してあまり関心をもってこなかったし、間近で見たこともなかった。だから、アボリジニの女性画家であるエミリー・ウングワレーの展覧会が開かれていると聞いても、特に食指が動くことはなかった。彼女の作品がかつてテレビで取り上げられたり、多くの展覧会に出品されたりしたというのも、全然知らないことだった。このたび美術館に足を運んでみる気になったのは、思い返せばただの気まぐれのようなものである。

 ピカソらが非西洋文化の影響を受けたことはよく知られていて、そういうモダンアートとの因果関係については興味があるが、アボリジニの絵だけで構成された展覧会がはたして鑑賞に堪えるのかどうか、多少の不安がないでもなかった。これが“文明人”のとんでもない思い上がりだったということに、ほどなく気づかされることになるのだが・・・。

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 昔人気を呼んだ映画に、『ブッシュマン』というのがあった。アフリカの原住民の眼の前に、飛行機から投げ捨てられたコーラの空き瓶が落ちてくる。未開の生活を送る彼らは、突然降って湧いた西洋文明の断片をどう扱っていいかわからず、おかしいほどに混乱する。ついには、選ばれたひとりの男がそれを世界の果てまで捨てにいくのである。

 それまで砂絵やボディ・ペインティングなどを描いていたウングワレーの前に、突然アクリル絵の具や絵筆がもたらされたとき、彼女はいったい何を考えたのだろうか。いずれにせよ、ウングワレーは晩年の8年ほどの間に3千点とも4千点ともいわれる絵画を残す。ピカソにも比すべき、驚異的な仕事ぶりである。

 しかし彼女には、プロの画家になったという意識はおそらくなかっただろうし、画商にそそのかされてたくさん描いたというわけでもないだろう。彼女は従来どおりアボリジニの集落に住みつづけながら、まるで生活の一部のようにして、次々と作品を生み出していった。

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 ウングワレーの存在は「アボリジニを代表する画家であると同時に、20世紀が生んだもっとも偉大な抽象画家のひとり」などという最大級の賛辞とともに紹介されている。だが、彼女を見出した文明国の人々がそう思っているだけで、本人はただ描きたい絵を好きなだけ描いていただけではないかという気がする。いわば、20世紀でもっとも純粋な画家のひとりだったのである。

 それではこの意識せざる大画家・ウングワレーは、キャンバスにいったい何を描きとめようとしたのだろうか。

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千住博の夜の滝

2008å¹´04月20æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

『NIGHT FALLS』

 喧騒に湧く百貨店の人込みをくぐり抜け、入口へ一歩足を踏み入れると、たちまち暗黒の世界にいざなわれる。ふと気がつくと、静まりかえった闇のなかから妖しく光る滝が浮かび上がる。足を進めると、四方からいくつもの滝が流れ落ちている大きな空間に出た。先日京都でおこなわれた日本画家、千住博の個展の模様である。

 (なお実際には「博」の右上の点がないのが正しい表記だが、パソコンでは表示できないので「博」で通させていただく。)

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 千住博といえば、この人ほど日本画を世界に向けて発信しようとしている人は少ないかもしれない。

 画材が入手しにくいはずのニューヨークに拠点を置き、ヴェネツィア・ビエンナーレで受賞したりする一方で、日本国内の寺院の襖絵を手がけるなど、その活躍は幅広い。テレビにもしばしば出演し、作曲家の千住明・ヴァイオリニストの千住真理子の兄としても知られ、この3人の芸術家を育て上げた母親による「千住家の教育白書」も話題となっている。

 昨年には京都造形芸術大学の学長に就任し、彼みずからが変に大股開きをした不自然なかっこうで「うぇるかむ」などとつぶやく珍妙なポスターがあちこちに貼り出された。学長みずからが大々的に登場するポスターというのも珍しい。千住の知名度の高さを示すエピソードだと思う(ちなみに副学長は、千住よりもさらに有名といえるヒットメーカーの秋元康だ。何とも型破りな大学である)。

 国内の美術雑誌でも、千住の絵はしばしば表紙を飾ってきた。そしてその多くは、滝の絵である。彼は本当に長いこと滝の絵を描きつづけており、昨年刊行された画集も「滝」と「滝以外」の2冊にわけられていたほどだ。かつてビートたけしの番組で実演してみせたところによると、その描き方というのはかなり変わっていて、壁に立てかけた紙の上のほうから胡粉を溶いた水を流すのである。細かなしぶきなどは、霧吹きを使って吹きかけたりしている。日本画とは床に敷いた紙に筆で描くもの、という固定観念を、千住の技法はいとも軽々と飛び越えてみせる。

 しかしそれを見たとき、「これでは“描いた”といえないのではないだろうか」というかすかな疑問が頭をよぎったこともたしかであった。絵の具をしたたらせるというのは、いわば偶然性に委ねたやり方で、日本画を学んだ人でなくてもたやすくできそうに思えたのだ。そしてこのような、いわばお手軽かつ目新しい技法というのは、現代美術によくある常軌を逸した描き方、いいかえれば“奇をてらった”手法と紙一重のような気もした。現代美術ばかりを集めた国立国際美術館に彼の『ウォーターフォール』が所蔵されているのも、そう考えていけば納得できたのである。


『四季滝図・春』

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 しかし千住博自身が書いた記述を読むと、学生時代はデッサンの鬼であったらしいし、日本画の基礎をきっちりと踏まえてきたことがわかる。では、千住が絵筆を使わずに絵の具を流すという、はたからは“暴挙”とも見える行動に出たのはなぜなのか。それは、「表現と技法の一致」を求めたからだと彼はいう。

 《それらは滝の絵であるとともに、まさに絵の具をたらした実際の滝なのです。豪快な水のしぶきや荒々しい筆致、そういう画面上に起こった現実が作品を構造的に支えていたのです。(略)その中には大きな時間の流れをも内包している。むき出しのエネルギーのようなものをただそこに示したかったのです。》(「千住博の美術の授業 絵を描く悦び」光文社新書)

 これまでの画家たちは、流れ落ちる滝の外見を“描写”してきた。しかし千住は、実際に激しく流れ落ちる滝の迫力に触れ、これは絵筆でこまごまと描いても伝わらない、滝を絵画に移し変えるというクッションをおかず、紙のうえに本物の滝を出現させてしまおうと考えたのだ。

 その結果、これまで誰も表現し得なかった滝の絵があらわれることになった。その後、千住は同じ技法によりながらもさまざまにバリエーションをくわえ、鮮やかな原色の絵の具を流した『フォーリング・カラー』、さらには蛍光塗料を流してブラックライトで光らせた『NIGHT FALLS』へと変化を遂げてきた。ぼくが観た展覧会は、日本に先駆けてニューヨークで発表された、いわば千住の滝が“流れ落ちた地点”であったのだ。

 ここまでくると、もはや「日本画」などというカテゴリーにあまり意味があるとは思えない。千住博は、新たな滝の表現を模索しながら、これまで誰も向かわなかったところへ行こうとしている。それは絵画の冒険といいかえてもいいだろう。


『フォーリング・カラー』

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 滝の絵というと、ぼくには忘れがたい一枚がある。かなり以前、「イメージの系譜 ― 江戸絵画を横断する試み(10)」でも取り上げた円山応挙の『大瀑布図』である(画像はリンク先参照)。

 このべらぼうに大きな水墨画は、いってみれば現実の滝の代わりに描かれたものだ。応挙は迫真の写実をもってして、滝に迫ろうとした。それは日本画家としては(当時の呼び方では「絵師」というべきだろうが)非常にまっとうなやり方だったし、愚直なまでの正攻法であったといえる。応挙は絵筆をもって実際の滝を可能なかぎり再現し、それは寺院の庭に吊るされたという。

 しかし千住博の『NIGHT FALLS』は、会場を黒一色で塗り込め、まるで映画館のように外部の光を厳重に遮断したところで鑑賞される。閉ざされた仮想空間のなかでのみ、千住の滝は光を放ち、音を立てて流れ落ちはじめる。これでは日本画の垣根を越える大胆さとともに、一種の閉鎖性をも抱え込む結果となっているのではなかろうか。警備員が持ち上げてくれる黒い紗幕をくぐり、現実の世界へと引き戻されながら、ぼくはそんなことを考えていた。

(了)


DATA:
 「千住博展 ハルカナルアオイヒカリ」
 2008年3月26日~4月7日
 京都高島屋グランドホール

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