てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

関雪の曲がり角(1)

2009å¹´09月29æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

『唐犬図』(大阪市立美術館蔵)
※この作品は出品作ではありません

 橋本関雪は、特別な意味で、京都にゆかりの深い日本画家だ。

 春になると「哲学の道」を彩る豊潤な桜の下をそぞろ歩いた人は少なくないだろうが、あの桜の若木を京都市に寄贈したのは、関雪だという。それらの桜は、通称「関雪桜」と呼ばれているのである。その近くには白沙村荘(はくさそんそう)と呼ばれる画室を兼ねた自邸があり、今では庭園ともども一般公開されているが、ぼくは銀閣寺を参拝する途次に前を通ったことがあるぐらいで、中に入ったことは一度もない。

 奈良の松伯美術館で昨年から今年にかけ、“京都画壇の画家シリーズ”第二弾として関雪の展覧会が開かれているのを知ってはいたが、結局行かなかった。その第一弾の徳岡神泉展には出かけていて、「抽象の生まれるとき ― 徳岡神泉のたどった道 ―」という記事を書いた覚えのあるぼくにとっては、やはりこの展覧会についても何らかの感想を書くべきではないかという責めを感じないではなかったが、失礼させてもらったのだ。正直にいうと橋本関雪は、京都の日本画を愛するぼくにとっても、ほとんど関心の外にあった画家なのである。というわけで、これまで彼の作品をまとめて観る機会は皆無だった。

 このたび京都の百貨店で開かれていた関雪展をのぞいてみる気になったのは、たまたまシルバーウィークを利用して出かけた映画館の近くだったから、という消極的な理由にすぎない。京都の地を離れて4か月余が経ち、かの地で開かれている催しなどの情報にも疎くなったせいか、いつの間にか見過ごしてしまう展覧会が多くなってきたので、これも何かの縁かと思い当初の予定を変更して足を踏み入れてみたのである。シルバーというやや燻し銀のような響きが、何となく関雪の作風に見合っているような気がして、ちょっと興味をそそられたせいもある。

 いずれにせよ、実のところは“おっかなびっくり”といった心境で、しばらくぶりに大丸ミュージアムKYOTOの入口をくぐったのだった。

                    ***

 展覧会の内容に詳しく触れる前に、ぼくがなぜ関雪の絵を避けて通ってきたのか、そのへんのいきさつについて書いておいたほうがいいだろう。ひとことでいえば、ぼくは「南画」的なものがあまり好きではないのだ。

 中国由来の南画が日本人の画家にいかなる影響を与えてきたか、これは一概にいえることではないし、ぼくもそれほど詳しく知っているわけではない。でも、たとえば富岡鉄斎の作品に代表されるような漢学の素養というか、中国の文人思想に対する知識が絶望的に乏しい人間にとっては、かなり近寄りがたい存在であることはたしかだといえる。画幅に書かれている賛の文字などは読めないし、読めたとしても容易に理解できるものではない。

 菊池契月も、小野竹喬も、若いころは南画の影響を受けていた時期があった。けれどのちにはその影響を脱し、より純粋に絵画的な、いいかえれば“日本画的”な成熟の世界へと突き進んでいった。彼らの個性は、南画を踏み越えたところにこそ開花したのだ。これぞ近代日本画家の姿であると、ぼくはどこかで考えていたふしがある。

 語弊をおそれずにいえば、ぼくは南画を時代遅れの古くさいものだと決めてかかっていたようだ。そもそも、学問と美術とは必ずしも相容れないものではないかという思いが、幼いころの美術教育に深く失望したことのあるぼくの胸のうちに、いまだに根強く巣食っているせいもある。

 しかしまた、次のようにもいえるかもしれない。西洋の宗教画のような、われわれとはまったく信仰を異にする絵を前にしたときでも、描かれているものそれ自体の美しさや、存在の切実さのようなものは多少なりとも伝わってこないだろうか。洋風のものが盛んに流入した明治・大正の新しい日本の姿を活写しているとはいいがたい関雪の作品のなかにでも、こちらの心眼に直接訴えかけてくる要素が全然ないとはいえないはずだ。

                    ***

 その点で、橋本関雪の作品中でもやや異色ではないかと思われるのが『唐犬図』である。この大作は、展覧会が京都に巡回してくる前に島根で陳列されたが、会場の都合なのかどうなのか、今回は出品されていなかった。けれどもぼくは今年の春に大阪市立美術館を訪れたとき、「橋本関雪とその周辺」という特集展示でこの絵を観ている。同館の最初の所蔵品がこれなのだという触れ込みだったが、関雪と大阪との間にさほど深い結びつきを感じていなかったので、意外に思ったものだ。

 もうひとつ意外だったのは、この絵がまさに洋犬を描いているという点である。南画には決して登場しないモチーフであることは、わざわざことわるまでもない。関雪の生前の姿を伝える一葉の写真には、和服姿の関雪がチェックのスカートをはいた孫娘を膝に乗せ、その隣に長躯の洋犬が、まるで吽形の狛犬よろしくかしこまって写っているものがある。東洋と西洋を一枚に合成したような、まことに不思議な写真だ。関雪は、和風の家屋や中国風の石仏などが点在する白沙村荘で、それとはまったく不似合いな洋犬を飼っていたのだった。

 『唐犬図』の右隻に描かれた犬も関雪の飼い犬で、ロシア原産のボルゾイという種類であるという。関雪は50頭にも及ぶ犬を飼っていたそうで、左隻に描かれた2頭もそのなかの一部だろう。よく観ると3頭とも首輪をしていて、彼らが自分のペットであることを控えめに主張しているではないか。白沙村荘は、今なら近所から苦情も出かねない“犬屋敷”だったのかもしれない。

 まずこの絵をもってして、橋本関雪に対するぼくの“古めかしい画家”という先入観を引っ込めさせる必要がありそうだ。関雪は頭でっかちの文人画家であるより先に、動物の生きた感触を大切にする写生画家だったのである。

つづく

運動音痴のスポーツ談義(5)

2009å¹´09月23æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 すでにずいぶん過去の話になってしまったが、「世界水泳」では競泳に先立ってシンクロナイズドスイミングがおこなわれた。日本勢の結果たるや散々なもので、これまで長らく死守してきたメダルをことごとく他国に奪われてしまったことは、今さらここで繰り返すことでもない。

 それにしてもシンクロを観戦するたびに、これほど非人間的な競技もないものだと思う。人間が水中に放り込まれたとき、両手を掻いて前へ進もうとするのはごく自然ななりゆきだし、自由形や平泳ぎというのはそこから自然に発展してきたのではないかと思うが、水面から足を垂直に突き出したり、体をぐるぐる回転させながら上昇したり下降したり、さらにはそれを複数の競技者が一糸乱れぬ同調性で演じたりするのは、どこの誰が考え出したのだろうと思うほど奇妙で不自然なことにちがいない。

 そのせいか、特に団体の演技を見ているときなど、あまりの隙のなさにこっちが息苦しくなるときさえある。シンクロとはおそらく、水泳競技のなかで人間の本能的動作からもっとも遠いものではなかろうか。

                    ***

 ぼくがはじめてシンクロを見た記憶のあるのは、21年前のソウルオリンピックのときだ。今でもスポーツキャスターとしてしばしばテレビで見かける小谷実可子が、田中京(みやこ)と組んでデュエットを泳ぐ姿である。このときは銅メダルを獲得したが、今から思えば演技はまだシンプルで、のどかだったように思う。水面から顔を出したまま数秒間も立ち泳ぎをしていたりと、選手が気を抜く瞬間も少しは残されていた。

 ジャンルはちがうが、たとえば指先まで神経が行き届いたように優雅な舞を舞っていたフィギュアスケートの選手が、ジャンプするために後ろ向きに滑走しはじめると同時に繊細な演技をやめ、見方によってはただ漫然と滑っているだけのように思えることがある。それはジャンプに向けて力を充填させるとか、体勢のバランスを整えて転倒を防ぐために必要なプロセスなのかもしれないが、ぼくには一連の動きを遮る大きな断絶に見える。いわば往年のシンクロには、そのようなわずかなインターバルというか、気持ちを切り替える“間(ま)”のようなものが残されていた。

 しかし最近のシンクロを見ていると、ほとんどそれがない。綿密にプログラミングされた機械のように、息つく暇もなく次から次へと有機的に連続した技を繰り出す。団体のときなど、水面下で組んずほぐれつ、眼まぐるしく選手の位置が入れ替わったりする。いったいいつ呼吸をしているのだろうと思われるような、いわゆる超絶技巧がたてつづけに展開されるのである。

 昨年の北京オリンピックでは、日本の選手のひとりが演技後に失神するというハプニングがあった(20秒近くの足技をこなしたあとだった)。先日の「世界水泳」のときでも、演技の終盤で解説者が「今、選手たちの頭のなかは真っ白になっていると思います」などと発言する場面があった。気を失うまでやるスポーツというものが果たして健全なものなのか、ぼくは大いに疑問に思うが、シンクロで世界を相手に戦うためには、そこまでやらなければならないのであろう。しかしそれにもかかわらず、今回メダルを取りそこなったことは、さっき書いたとおりだけれど。

                    ***

 ところで、ぼくはなぜかオリンピック中継はどうしても見てしまうと冒頭に書いたが、バルセロナのときだけはまったく見ていない。そのときは大阪でひとり暮らしをはじめたばかりで、それどころではなかったのかもしれないが、例の岩崎恭子の“生きてきたなかでいちばん幸せ”な金メダルも、有森裕子の銀メダルも見ていないのである。今から思えば、悔やまれてならない。

 なかでも惜しいと思うのは、奥野史子のシンクロを見逃したことだ。奥野は、今ではテレビタレントとして見かけることのほうが多いだろうが(といっても松野明美のようなクセのあるポジションではない)、短距離走の朝原宣治の夫人としても知られている。彼女が元シンクロ選手であるということは、知識としては知っていても、なかなか想像がつかない。

 京阪の神宮丸太町から、駅名が示すとおり平安神宮を目指して東進すると、右手の路地の奥に「京都踏水会」と書かれた建物が見える。実はかつて、この近くの疏水には日本で最初の水泳場があり、それを引き継いだスイミングスクールが踏水会なのだそうだ。京都生まれの奥野は、幼いころからここでシンクロを習っていたが、そこに指導に来ていたのが、あの井村雅代コーチだった。

 井村の教育の成果もあって、バルセロナで銅メダルを獲った奥野は、その2年後の1994年、今回と同じローマでおこなわれた「世界水泳」にソロとして出場する。そこで演じたのが、シンクロから笑顔を取り去った『昇華~夜叉の舞』だった。女の情念を劇的に表現し、ソロでは史上初となる芸術点オール満点をジャッジからもぎ取ったという。しかし残念ながら、ぼくはその演技も見ていない。

 現在テレビで拝見する奥野さんは、かつて水中で激しく戦ったことが信じられないほど、知的で清楚な女性に見える。関西テレビで放映されている『KYOTO塾』のナビゲーターを務め、さまざまな京都人との対談を繰り広げているのを見ていると、その受け答えのはしばしに適度な距離感と節度があって、押しの強い芸人が跋扈する関西ローカルの番組が多いなかで一服の清涼剤に出会ったようなここちがするのである。

                    ***

 かつてスポーツに一度も打ち込んだことのない運動音痴が、勝手気ままにだらだらと綴ったこの途切れ途切れの連載も、いい加減にゴールインとさせていただこう。

(了)


(画像は記事と関係ありません)

参考図書:
 奥野史子『パパ、かっこよすぎやん! ― 夫婦で勝ち取った五輪3個の銅メダル』
 (小学館)

この随想を最初から読む
目次を見る

閉じた眼から見えるもの ― ルドン断章 ― (2)

2009å¹´09月02æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

美術館付近から姫路城をのぞむ

 このたびのルドン展は、すべてが岐阜県美術館の所蔵品からなるものだった。日本にこれほどの規模のルドンコレクションがあるのは意外なことで、また誇らしいことでもある。

 母国フランスにも「ルドン美術館」なるものはなく、彼の作品がこんなにまとまって収蔵されているのは、世界的にもあまり例がないだろう。ゴッホやモネなど、印象派以降のフランス絵画を客寄せパンダのように常設している美術館が日本に多いなかで異彩を放っているし、また多少地味でもあることは否めない(関西では伊丹市立美術館がこういった系統の施設として特筆すべき存在だ。渋いが意欲的な展覧会をしばしば開いてくれる)。

                    ***

 岐阜県美術館は、このルドンの版画群を各地の美術館にも貸し出して、大規模なルドン展をしばしば開いているようだ。2年前には、東京のBunkamuraで「ルドンの黒 ― 眼をとじると見えてくる異形の友人たち」と題した展覧会が開かれた。5年前には、茨城県近代美術館で「世紀末が見た夢 ― ルドンとその周辺」という展覧会が開かれている。それぞれに工夫を凝らしたサブタイトルが、ルドンという異色の画家の輪郭をうっすらと浮かび上がらせる(姫路では単に「オディロン・ルドン展」となっていた)。

 姫路の展覧会は会期末に出かけたせいもあって図録が完売だったので、図書館へ出かけてルドンの資料を漁ってみたら、その5年前の展覧会の図録を手にすることができた。ルドンを取り巻く周辺の画家や同時代の美術動向にまで展示が及んでいて、今回よりもかなり充実した内容だったらしい。その本を手がかりにしながら、この未知なる世界へと徐々に踏み込んでみようかと思う。

 (なお、岐阜県美術館がルドンのコレクションを持つに至ったのは、開館準備中に大量のルドンの版画が市場に出回ったからだという。偶然ではあるが、運命的な出会いである。なおこのコレクションは、かつては安宅コレクションの一部であったということだ。そういえば、大阪市立東洋陶磁美術館の母体となった膨大な陶磁器コレクションも安宅コレクションといった。この“安宅氏”は同じ人なのだろうか?)

つづく
この随想を最初から読む

閉じた眼から見えるもの ― ルドン断章 ― (1)

2009å¹´09月01æ—¥ | ç¾Žè¡“随想

姫路市立美術館

 オディロン・ルドンの絵は、もちろん観たことがある。しかし彼の人となりについては、ほとんど何の知識もない。知っているのは、その前半生と後半生で作風が大きく転換したということぐらいだ。ひとことでいえば、黒と白のモノクロの世界から花の咲き乱れるような色鮮やかな世界へと、大きな変化を遂げたのだった。

 以前、薄っぺらいルドンの画集を持っていた。しかしそこに大きく掲載されていた図版は、後期を代表するカラフルな作品ばかり。ぼくはひたすら、その色彩の渦に浸って楽しんでいた。暗く冷たい感じのするモノクロの作品は、意図的に遠ざけてきたふしがある。世の中の暗い側面から眼をそらし、ただ明るく楽しいことばかりを追い求めようとするかのように。

                    ***

 けれどもそのような享楽主義的な生き方は、ぼくの性格や思考には合わないことがだんだんわかってきた。ものごとには光と影とがあって、暗部から眼を背けつづけると、いつしか肝心なことを見落としてしまう結果になりかねない。たとえば現在では当然の事実になっている日本の平和は、かつてこの国を否応なく巻き込んだ戦争の惨禍のうえに築かれているということを改めて知ってみると、その意味がますます重みを増して感じられてくるのである。

 ルドンが晩年に描いた華麗で幻想的な花束は、部屋の飾りにするには最適なほど心地よい絵かもしれないが、彼が黒々とした不安なトンネルをくぐり抜けてきたからこそ、爆発的にきらめく色彩の乱舞へとたどり着いたのではあるまいか。ぼくがわざわざ姫路へと足を運び、ルドンの“黒い絵”を集めた展覧会を観る気になったのは、ふとそんなことを考えたからだった。

つづきを読む