てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

洋館と庭とジョン・ケージ(4)

2005å¹´10月31æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 展示されていたのは、ケージ晩年の版画作品だった。余白の目立つ画面に、淡くかすれたような色彩が施され、無造作に描かれた円や三角形が重なり合ったり散らばったりしている。『11 STONES』『9 STONES』『MISSING STONE』といった題名から分かるように、それが示すのは石である。しかし石を描写したわけでは決してなく、まるで原始の人間が岩壁に描きつけたような、単純な記号となっている。

 長いことケージの音楽語法に抵抗を示してきたぼくであるが、彼の絵画作品を前にしたとき、何の気構えもなく素直な気持ちで向き合うことができたのは、われながら意外だった。彼の絵は、確かに今回初めて目にしたはずだ。しかし、既視感とでもいうのだろうか、前に一度どこかで同じ場面を見たような気がしてならないのだった。いや、ギャラリーの壁に掛けられたケージの“STONES”に取り囲まれてたたずんでいると、いつかこういう場所に“いた”ような記憶すらよみがえってきたのである。


 ぼくはどうやら、龍安寺を訪れたときのことを思い出していたようだ。油土塀で区切った中に白砂を敷きつめ、大小15個の石を配しただけの石庭は、いわば“15 STONES”である。そこには木陰も、水のせせらぎもない。白砂に引かれた筋目は、若い僧が巨大な熊手のようなもので後ずさりしながら刻んだもので、その上をのし歩いて散策するわけにもいかない。こちらは黙って、庭と向き合うしかないのである。庭も、ぼくたちに向かって語りかけてはくれない。まるで座禅を組んでいるときみたいに、何も起こらず、しかし濃密な時間が流れる。

 ケージの絵画も、それと同じ寡黙さを持っていたのだった。しかしそこからは“楽譜に書かれていない音楽”が聞こえてきた、といったら言い過ぎだろうか。だが、対象がはっきりした形態をとらず、例えば人物とか静物とか景色とかいったモチーフの制約から絵画が解放されているとき、それを観るぼくたちの五感も一緒に解き放たれているのではないか、と思えてきたのである。海の絵を観るとき、ぼくたちには波の轟きが聞こえてくるかもしれない。花鳥画の前に立つときには、鳥のさえずりと、かぐわしい芳香が思い起こされるかもしれない。だが、ケージの寡黙な絵と向き合ったとき、ぼくにはかつて聞いたこともない音が聞こえてくるような気がしたのだ。


 「音楽の3要素」といわれるものがある。リズム、旋律、和声の3つである。こう書くとすぐに気がつくことだが、これは音楽といっても“西洋音楽”に限った話だといっていい。日本の伝統音楽にはこれらの要素がないとはいわないが、西洋ほど厳密に体系化されていないのではなかろうか(和声学など、ぼくも独学でかじったことがあるが、元素記号を覚えるのに似て退屈極まりないものだった)。ケージが反旗をひるがえしたのは、こういった西洋音楽の伝統であり、法則であって、決して音楽を否定したわけではなかったのだと、ぼくは今ごろになって気がついた。彼は、旧来の様式を新しいものに変形させるのではなく、西洋の伝統そのものを突き抜けた音楽を誕生させようとしていたのかもしれない。


 当初から、ケージの目は西洋を飛び越えて日本に向けられていた。吉田秀和は前述のコンサートの後で(吉田によればケージのヨーロッパデビューは「聴衆の哄笑と弥次の中に終った」そうだ)、ケージと汽車に同乗し、たくさんのことを話し、問答を交わした。そのときのことを次のように綴っている。

 《ケージの日本への憧れは強いものだった。ぼくは、彼がいつかは日本にくるだろうと思った。その時果して日本は彼をどの位失望させ、どの位満足させるだろうか、ほとんど見当がつかなかった。日本という国は、こうして離れてみると、本当に特殊な国に思えてくる。もちろんぼくは日本に生れ、日本に育ち、ちっともよそよそしい感じなんかもつはずがない。ただ、外国の人たちに説明するとき、彼らが日本についてもっている知識に対して、しばしば、あるいはほとんどいつも、どう応接してよいか分らなくなってしまうのだ。日本の思想、政治、生活、芸術、どれも、何と複雑で説明しがたいものだろう!

 「日本では禅はどう生きているのか?」生活の智慧の中に、人生観の中に、多分。しかし直接に、全般に禅の中に生きている人はごく少数だろう。日本人は何もみんなが思想家ではない。(略)

 「日本の音楽家は、なぜ12音でかくのか? 日本の画家は、なぜマチスやピカソ等々の模倣をするのか?」恐らく日本人は、自分自身であるには、まだ充分国際性をもってないからだろう。東京に来てみれば、その日のうちに、あなたは東京にヨーロッパやアメリカのすべてがあり、そのすべてが全くちがったものとしてあることを知るだろう。》(同)

 今から50年も前の文章だというのに、まるで今現在の日本について語られているような気がしてくる。吉田が予感したとおり、来日したケージが気に入ったのは東京ではなく、京都であった。


 ケージは『龍安寺』という曲を書いているそうだが、ぼくは聴いたことがない。ただ、ケージが念願の龍安寺石庭で体験したことの、ほんのかすかな気配だけでも、ぼくはケージの絵を通して感じ取ることができたように思ったのである。画廊のオーナーは、これらの版画が易経(えききょう、チャンス・オペレーション)によって描かれたことを教えてくれた。これは要するに3枚のコインを投げて、裏表の組み合わせに従って絵の配置を決めていったということのようだ。こういう偶然性の技法の是非はさておき、そうやってできあがったケージの絵画世界の中に、あまりにも日本的なものがあらわれ出ているのに驚いたのである(それはいわゆる“ジャポニスム”とはちがう)。それだけでなく、ぼくはあれほど敬遠していたケージの世界の入口に、すでにドアノブに手をかけながら立っているのかもしれなかった。ぼくはなぜか無性に、沈黙の中の音楽を聴いてみたくなっていたのである。


DATA:
 「ジョン・ケージ展 ―ケージを通して見えてくるもの―」
 2005年9月27日~10月30日
 ギャラリー白川

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洋館と庭とジョン・ケージ(3)

2005å¹´10月30æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 ジョン・ケージが80歳で世を去ってから、すでに13年経つ。しかし彼はいまだに、激しい毀誉褒貶に晒されつづけているように思われる。おそらく、この状態は永遠につづくのではないかとさえいいたくなるほどだ。彼が音楽界に投じたさまざまな波紋は、一方では熱狂的な支持者を生んだが、一方では詐欺師呼ばわりされ、黙殺する人も少なくない。というのも、彼は従来の音楽のあり方を根底からぶち壊してしまったからである。ケージは前衛作曲家だといったが、本当のところ、彼は“作曲”という人為的行為すらも放棄したのだ。

 来る日も来る日も厳しい練習に耐えているピアニストたちを尻目に、彼は『4分33秒』というピアノ曲を作った。3楽章からなるこの曲の譜面を見ると、「第1楽章 休止」「第2楽章 休止」「第3楽章 休止」と書かれているだけで、演奏者はピアノの前に座ったきり音を出すことはない。この、ケージの手によっては一音も書かれていない曲が、彼の作品の中では最も有名なものになった。最近ではテレビのバラエティー番組でも、おもしろおかしく取り上げられたことがある。


 音楽評論家の吉田秀和は、今から半世紀ほど前のドイツでケージの作品が初演された際、リハーサルに居合わせた。そのときの様子をこう書きしるしている。

 《会場の四方に八個大きなスピーカーが設けられ、ステージにも四個のテープ台があって、そこから同時に四つのちがったテープが流される。テープには主として街の音が録音してあった。自動車の音や話し声や。しかし廻転の変化その他でひねってあるので、音はデフォルメされている。一、二分すると薄気味の悪さと馬鹿馬鹿しさを同時に感じさせられ、その感じは、本質的には、いくらきいても変るまいと思った。》(『音楽紀行』中公文庫)

 コンサートでいきなりこれを聴かされた観客の動揺は、想像するにあまりあるといっていいだろう。


 ぼく個人の考えをいえば、ケージの出現は歴史上の必然だったかもしれないとは思うものの、ひとりの音楽ファンとして、彼の作品を許容することはやはりできそうもない。事実、彼の作品を最後まで聴き通したことは一度もないのである。いや、彼は作曲家などではなく、ひとりの思想家だったのだと思うことで、ぼくはケージの存在を受け止めようとしてきた。既製品の便器をアンデパンダン展に持ち込んで物議をかもしたマルセル・デュシャンも、ぼくにとって同じような存在である。

 自分の手で絵を描くことをはやばやとやめてしまったデュシャンは、『モナ・リザ』の複製に落書きなどして、これまでの美術にケチをつけようとした。あるいは高みから引きずりおろそうとした。“選ばれた才能と技量を持つ人だけが作り得る特殊なもの”とでもいった境地から、美術や音楽を解放したという点で、ケージとデュシャンは同志だったといえるのである。だからといって、彼らの作品が好きかどうかということは、まったく別の次元の話であることはいうまでもない。


 ケージが遺した絵画をぼくは観たことがなかったが、さてどんな作品なのだろう。果たしてデュシャンのそれとよく似ているのか、それとも図形楽譜のようなものだろうか? そんなことを考えながら、ぼくは八坂神社の前を南下して(京都の言い方では“下がって”)、細い路地裏にあるギャラリー白川へと向かった。ここは長年にわたってケージの絵画を収集してきたという画廊で、ケージ本人も訪れたことがある、ゆかりの場所なのだそうである。

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洋館と庭とジョン・ケージ(2)

2005å¹´10月29æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 無鄰菴の庭園への入口は、くぐり戸と呼びたくなるほど小さい。体の大きい外国人の観光客は、入るのに難儀することだろう。いや、その狭い入口は、安易な観光目的の来客を拒んでさえいるようである。元勲と呼ばれた山県有朋の私的な別荘であってみれば、当然のことかもしれない。でなければ、この場所が重要な国家的会議の舞台となるはずもないのだ。

 さてその入口をくぐり抜けて中に入ると、左手に日本家屋が見え、右手には澄んだ水が小さな澱みをたたえている。敷石を踏みながら進むと、おもむろに庭の全景が目の前に開けてくる。自然の順路に沿って、ひとりでに導かれていく感じだ。なるほど、訪れる者をどのように迎え入れるかということも、“作品”として庭園を構想するときの大切なポイントにちがいない。建築でいえば、エントランスをどのように構築するか、ということと同じだろうか。


 その順路からまったくはずれた敷地の隅っこに、まるで隠れるようにして洋館が建っていた。確かに小さい看板は出ているが、それに気づかなかったらそのまま庭を一周しただけで帰ってしまうかもわからない。恥ずかしい話だが、実際に去年のぼくはそうだったのだ。それにしてもその外観は、倉庫というか土蔵というか、何とも無表情なものである。玄関もいやに端の方に作られていて、それに狭い。ぼくが何となく思い描いていた洋館のイメージとはまるでちがっていた。

 1階に足を踏み入れると、むき出しの赤煉瓦で囲まれた大きな部屋である。もとは何の部屋だったか分からないが、今は山県有朋の遺愛の品々が展示してある。そして壁面には、山県公についてのパネルとともに、小川治兵衛という作庭家の仕事が写真入りで詳しく紹介されていたのだった。彼こそが、この庭園を手がけた人物であるらしい。


 それによると彼は「植治(うえじ)」という屋号を持つ造園業の7代目である。無鄰菴の庭園は、古風な庭を嫌った山県公の監督のもとに作庭されたそうで、古寺の庭とおもむきを異にするのは当然だったかもしれない。庭のスタイルが、明治という時代に追いついたとでもいおうか。

 その後の治兵衛は、平安神宮の神苑や円山公園といった、京都人なら誰でも知っている近代の名園をはじめとして、非常に多くの庭造りに携わったそうである。京都国立博物館の庭園も治兵衛のものだときく。普段からそぞろ歩いている庭の“作者”の名前は、こういう機会でもなければなかなか知ることができないものだと思った(なお7代目治兵衛のひ孫は11代目を襲名し、現役で活動しているそうである)。


 洋館の2階へとつながる階段は明るい色に塗られ、打って変わって瀟洒な印象だ。これぞ典型的な洋館、というよりは庶民の住宅に見られる少々安っぽい洋風の意匠のような感じがしないでもない。ガラス窓からは明るい陽光が射しこむが、2階の室内に入ると、たちまち光がさえぎられた。さほど広くはない部屋は、四方を重厚な障壁画に囲まれ、上を見上げると格(ごう)天井ではないか。洋館の内部に寺院さながらの部屋があったことに、度肝を抜かれてしまった。ここが例の「無鄰菴会議」のおこなわれた場所だろうが、ぼくには正直な話、少々落ち着かない部屋であった。

 この洋館を設計した新家(にいのみ)孝正という人物についてはよくわからないが、ここにもおそらく山県公の好みが反映されているのだろう。赤煉瓦の部屋と寺院風の部屋とが、同じ家の1階と2階に同居しているということ。これはおよそ、和洋折衷などという言葉ではくくり切れない建物である。近代京都の鋭い断面を見た思いがした。


 小道を通って、庭の中を歩いてみる。平らな池を巡ってゆっくりと歩を進める。庭の突き当たりまで行くと、小さな滝がしつらえられていて、そこから水が流れ込んでくる仕組みである。この水は、琵琶湖疏水から引き入れられた水だそうだ。明治初期、東京遷都によって凋落しかけた京都を立て直すために導入されたのが疏水事業だったことを考えれば、この庭はいろんな意味で近代の申し子だったというべきだろう。

 芝生の中から、名も知らぬ大きなきのこが顔を出していた。ぼくはそれを見て、ふと次の目的地を思い出した。実は祇園から程近い画廊で、アメリカの前衛作曲家だったジョン・ケージの絵画展が開かれていることを知り、そこまで足を伸ばすつもりだったからだ。ケージは20世紀に多大な影響力を振るった芸術家であると同時に、知る人ぞ知るきのこマニアでもあったからである。

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洋館と庭とジョン・ケージ(1)

2005å¹´10月27æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 絵画や彫刻を、誰かの“作品”だと思って眺めるのには慣れていた。むしろ、それが当たり前のことだろう。それぞれの“作品”の中に、芸術家たちは自分自身の思想や、個人的な美的感覚などを複雑に織り込み、目に見える形にすることによって、他の人たちに向かって提示する。それが美術というものだと定義して、まずまちがいないのではないか。

 だが、建物や庭園も“作品”であり、それぞれに“作者”というものがいるということをぼくが意識したのは、かなり遅かったといわなければならない(もちろんすべての建物や庭園がそうではないけれども)。それらは、美術館に展示されているわけではないし、誰々が作った何という作品であると明記されているとも限らない。無造作に街中に点在しながら、景観の一部をなしたり、都市の一部として機能したりしている。それでありながら、やはり“作品”なのである。


 京都に住みはじめた最初のころは、ガイドブックなどを頼りにあちこちをまわってみたりしたが、そうするといやというほど庭園にぶつかる。寺院の庭園であったり、誰かの旧宅の庭であったりするが、そうしているうちに、夢窓疎石とか小堀遠州といった作庭家の名前を繰り返し目にすることに気がついた。例えば嵯峨野の天龍寺にある池泉回遊式庭園はこの寺の開山でもある夢窓疎石、二条城の二の丸庭園は小堀遠州の作といった具合である。

 もっとも彼らは庭造りが本業ではなくて、夢窓疎石は国師と呼ばれるように坊さんだし、遠州は茶人であった。つまり彼らの庭は、純粋な“作品”として構想されたものではなかった。建造物に付随するものだったのであり、むしろそれが自然であって、“庭園のための庭園”をひとりの人物が造るなどということは、やはり至難のわざなのであろう。つい先日、札幌郊外にその全貌を現したイサム・ノグチの『モエレ沼公園』などは、広大な敷地をすべて“作品”として自在に構想し得た稀有な例である。しかしこれは、庭園と呼ぶべきか、あるいは“地球を彫刻した作品”なのか、ちょっと判断に迷うところだ。


 ぼくは去年の夏に、京都の岡崎公園近くにある無鄰菴(むりんあん)に初めて足を運んだ。ここは山県有朋の別荘だったところだが、特に庭園が有名だということで、ひと目見ようと訪れたのである。おそらく、そのときのぼくは心の中に鬱屈した何かを抱え込んでいて、それを片時でも忘れるために、精神を沈静させてくれる何かを求めていたのだろう。

 酷暑のさなかだけに、木陰の暗さとせせらぎの声が何とも心地よく、庭に面した縁側に上がりこんでぼんやりうちわを使っていたのを思い出す。陳腐な表現だが、時が止まったような感覚に浸っていたのだ。寺院によくみられる奇岩を配した厳しい風情の庭に比べ、ここはあくまで穏やかでシンプルな庭のように思えた。ゆるゆると傾斜した芝生の中を、小川と小道がところどころで交叉している。小川には鯉などが泳いでいる(ただし鮮やかな錦鯉ではない)。しばらくたたずむうちに、心の結ぼれが次第に解きほぐされてくるのを感じた。ぼくはこういう場合、何か派手なことをやって発散するというよりも、じんわりと癒やしてもらうのが好きなようだ。


 それから一年余り経って、ある空気の澄んだ秋の昼下がり、もう一度無鄰菴を訪れようと思った。季節が変わると庭の表情も変わって見えるにちがいなく、秋を迎えた庭園がどんなふうにぼくをもてなしてくれるのかに興味があったのも確かだが、もうひとつ別の目的もあった。というのは、この庭の一隅に洋館が建っているということを本で読んで知ったからである。ここは日露開戦直前のいわゆる「無鄰菴会議」が開かれたところらしい。それはさておいても、ぼくは昨年ここを訪れたとき、その洋館の存在にまったく気づかなかった。いやおそらく、ずいぶん大きな倉庫があるな、ぐらいのことは考えたかもわからない。無鄰菴の洋館は、それほどまでに地味で素気ない外観だったのだ。最近、古い洋風建築ににわかに興味を増しているぼくは、その建物の存在をぜひこの目で確かめたかったのである。

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水上勉が遺したもの(4)

2005å¹´10月24æ—¥ | ç¾Žè¡“随想
 水上勉には、もうひとつ“道楽”があった。それは骨壺を作ることである。とはいっても、人間が死ぬのは一度だけであるから、骨壺などひとつあればよさそうなものだが、彼は釉薬を工夫したり、土を変えてみたりして、いくつも作りつづけたそうだ。その来歴を振り返って、彼はこう綴る。

 《九歳で京都の禅寺に入った私は、葬式や枕経をよみによくいったので、人の死には子供の時分から馴染んだと思う。京都の火葬場は、当時、北山にあって、のち等持院に入寺し、金閣寺の前を通って、大徳寺の般若林に通学したのでその火葬場へもよくゆき、骨壺も見た。日本の骨壺は、味けないものが多かった。(略)白い手袋をはめた人が、おもむろにとりだす壺は、量産品の顔をしていて、つまらぬものだった。(略)味けない骨壺は、のちに寺を出て大人になってから、友人知己の葬祭にゆくたびに、思いをあらためさせられた。なぜに、苦労多い人生を果てたのに、オリジナルな壺に入って楽しまないのだろうか。》(「骨壺の話」)


 画廊の追悼展の一角に、大小ふたつの骨壺が置かれていた。それは作者の骨を収めるためには選ばれず、いわば骨壺たる役目から免除された骨壺であった。ぼくは実際に骨壺をつぶさに見た覚えがなかったので、水上が“味けない”と評した一般的な骨壺がどのようなものか知らないのだが、そこに陳列されていた骨壺はつやっぽい光沢を放ち、墓の下に埋もれさせるには確かに美しすぎるようだった。

 だが彼は、こんな骨壺だったら中に入ってやってもいい、などと思いながら作ったのかもしれない。心筋梗塞から奇跡的に快復したとき、担当医師は「一万人にひとりの生還」と評したという。しかし水上の心臓は3分の2が壊死してしまい、その後もリューマチや悪性腫瘍、網膜剥離などに悩まされつづけた晩年だった。彼は着実に近づいてくる“死”と向き合い、腹を割って語り合ったことだろう。妙な言い方だが、“死”と酒を酌み交わしたこともあったかもしれない。“死”を遠ざけるのではなく、引き寄せるのでもなく、ほどよい距離を保って、うまく付き合おうとしていたのだろう。それは楽しくもあり、哀しくもある。骨壺を作って“死”に備えることが、すなわち生きることであるというのは、笑いながら涙をこぼすことと似ている。


 彼の“死”との付き合い方は、徹底していた。例えばこんなふうにだ。

 《月の半分以上は、信州の北御牧村で仕事をしているので、山の家の寝室も棺桶ふうにつくってある。ま四角の一メートル八〇、一間計算で三坪の部屋だが、なるべく、棺桶のイメージに似せて、板で囲い、むろん板床の上にベッドを置いている。ほかには、本棚の本と机がわきにあるだけ、あとは何もない。時に段ボール箱に入れたシャツだの、下着だのが入っているが、そんな殺風景な部屋をベッドに入る直前に一べつして、私は死ぬまねをする。「さようなら」とまっ暗闇の中で、声をだして誰にともなくいうのである。信州の場合は東京の妻と、障害を背負うている娘に長生きしてほしいというのである。よそにいるもう一人の娘にもいうのだ。そうして、私は、友人の誰彼と名はあげぬまでも、時々、日頃世話になっている人の顔を思いうかべながら、「さようなら」といい、仰向けになり、胸もとで手を合わせ組むのである。

 「さようなら、みなさん」》(「死ぬこと」)


 往年の名女優サラ・ベルナールも、棺桶に薔薇の花を飾り立て、そこに入って寝ていたという。なぜそんなことをしていたのか、ぼくは詳しく知らないが、水上勉の心理はそれとは別のものだったろう。彼はこうつづける。

 《死んだはずの夜があけた朝は気分がよい。ゆうべ死んだのだから、儲けたような気がするのである。これがいい。その日一日が儲け。おまけである。私はこの一日に雨がふればそれもうれしい。お天気なら尚更うれしい。どっちにしろ、二十四時間のおまけにもらったその一日を自由に送るのだ。自由に、誰に気がねもいらぬ一日を、好きなように生きるのである。このような朝がむかえられるのも、死んだればこそのことだと思う。》(同)


 2004年9月8日の朝は、水上勉にとって最後の夜明けだった。多くの文学作品のほかに、手漉きの竹紙に描いた絵と、手作りの骨壺と、それにたくさんの人々への思いを遺して、彼は逝った。85歳だった。後日「お別れの会」が開かれ、祭壇は45本もの竹に囲まれたという。彼は今、みずから作った骨壺の中で眠っている。


DATA:
 「水上勉先生 追悼展」
 2005年9月6日~9月18日
 ギャラリーヒルゲート 他

参考図書:
 水上勉『骨壺の話』
 集英社文庫

 水上勉『画文歳時記 折々の散歩道』(全三集)
 小学館

 辰濃和男『風と遊び風に学ぶ』
 朝日ソノラマ 

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