てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

文化財は守れるか

2007å¹´09月26æ—¥ | é›‘想
 9月30日まで公開されている宗達の『風神雷神図屏風』が観たくて、京都国立博物館へと出かけた。だが、このことはまた日を改めて書きたい。

 その日はちょっと遠回りして、京阪七条駅を降りてから北へ折れ、豊国神社のほうへ向かった。やがて見事な唐門が見えてくる。大和大路へ出ると、大仏殿のなごりの巨大な石垣を左手に眺めながら南下し、京博の正門へとたどり着いた。このへんの地理に詳しい方ならおわかりになるかと思うが、ぼくは三十三間堂を避けて、ぐるっと迂回をしたわけである。

 なぜなら、日曜日に報道されたあるニュースが、ぼくの心を傷めつけていたからだ。三十三間堂の朱塗りの門が、ペンキ状のものによって汚されたというのである。その無残なありさまは写真とともに伝えられ、ぼくの脳裏にもしっかり焼きついていたが、現場をこの眼で見たくはなかった。というより、傷ましすぎて三十三間堂の近くを歩くにしのびなかったのだ。

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 絵を観終わったぼくは、入ってきたときとは別の、南門から外へ出ることにした。この門はまさに三十三間堂に面していて、しかも朱塗りの塀が南へ向かってのびているのを見渡せる位置にある。ぼくの中で、ある決意が固まりつつあった。眼をそらしてもしょうがない。発覚してからまだ間もない事件現場を、しっかり見届けてやろうと思ったのである。

 平日の昼間ということもあり、その界隈は修学旅行生や外国からの観光客でにぎわっていた。例の朱塗りの塀にそって、客待ちのタクシーが長い列を作っていた。そのうちのふたりの運転手が、タバコを指先に挟んだまま退屈そうに車の外に立ち、何かを眺めている。近づいてみると、鮮やかな朱色の門が敷地の内側に向かって大きく開け放たれ、一部分が薄皮をはがしたような哀れな状態になっていた。汚れをきれいに洗い落とすというよりも、板ごと取り替えてしまうようだった。門の端のほうには、灰色のペンキの跡がまだ生々しく残っていた。

 被害にあった門は、文化財には指定されていないらしい。だが、すぐ近くには勇壮な南大門があり、寺院の北側には京博の煉瓦塀が連なっている。もう少し北へ行くと、豊国神社の唐門は国宝である。考えただけでも、背筋にうすら寒いものがはしった。

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 この一件を最初に耳にしたとき、すぐに思い浮かべたのは長野にある「無言館」のことだ。一昨年の6月、「記憶のパレット」と呼ばれる石碑に赤いペンキがかけられるという事件があった。今では修復されているが、館主の意向で碑文を読むのに支障のない一部分に ― しかしこの石碑を見る人すべての眼に届くような場所に ― わざとペンキが残されているという(このことについては「『無言館』は語る(10)」の記事で触れた)。

 「無言館」の犯人と今回の犯人とを、同列に考えることはできないかもしれない。前者は、多分に思想的なものが絡んでいるように思われるからだ。いわば平和記念公園の碑文に傷をつけるようなやからと同類である。だが「無言館」の事件のときにも、そしてこのたびのニュースが流れたときにも、全国の寺社や美術館の関係者がいっせいに肝を冷やしたであろうことは想像にかたくない。

 三十三間堂では、夜間の見回り強化を検討するとしている。やむを得ない判断だと思う。だが、それが高じて閉門後の寺にはめったに近づけないということになると、歴史的な神社仏閣が無数にある京都の街は窮屈なことになってしまうだろう。

 たったひとりの犯罪のために、万人が身を守らねばならない・・・。こんな哀しい理屈が、堂々とまかり通る世の中なのであろうか。

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 ルーヴルの至宝『モナ・リザ』は、厚さ4センチもの防弾ガラスの向こうから微笑んでいるという。

 ぼくが生まれたのは8月21日だが、この日に起こった主要なできごとを調べていたとき、「1911年8月21日 『モナ・リザ』盗難」と書かれているのを発見して大いにしょげたことがある。もちろん無事に取り戻されたから、今の厳重な警備があるのだ。もし『ミロのヴィーナス』が何者かに傷つけられたら、ルーヴルの彫刻はみんなガラスケースに入れられてしまうのであろうか?

 このように、世界の防犯体制は過剰になりこそすれ、軽減されることはないかに思える。世界的名画が来日したときなど、その名画の隣に ― ひどいときには両隣に ― 無粋な警備員が棒のように突っ立っているのを見ることがあるが、あんなに興醒めなものはない。

 そういえばピカソの『ゲルニカ』も、防弾ガラスに入れられていると聞いていた。政治的な内容をもつ絵であるから、いたしかたないのだろう。だが何年か前、スペイン旅行から帰ってきたという人に様子をたずねてみると、こういう返事だった。

 「ガラスも何もありません。むき出しです」

 それを聞いてぼくは ― 別に『ゲルニカ』を観にいく予定はなかったが ― ただひたすらうれしかった。ガラスもなく警備員もいない状態で、純粋に作品を鑑賞したいという人々の静かな熱気に守られているのが、美術館のもっとも理想的なありかただと思うからだ。

 だがよく調べてみると、『ゲルニカ』を所蔵している美術館は、ガラスを取り外すかわりに来館者の手荷物検査をおこなっているという。まるで空港みたいだ。これでは、どっちもどっちである。

(続・文化財は守れるか)

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寂聴閑話(3)

2007å¹´09月25æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 「瀬戸内寂聴展」の中でぼくがもっとも心動かされたのは、寂聴さんの出家にまつわる品々であった。先にもいったように、ぼくは剃髪する以前の寂聴さんの姿を見てはいないわけだが、彼女がその自伝的作品で描いている奔放な女の姿は、愛嬌のある丸顔の上に黒く豊かな髪をなびかせていたはずである。

 1973年11月14日、51歳の作家・瀬戸内晴美は、金色堂で有名な東北の中尊寺で得度する。そのとき剃り落とされた髪が和紙に包まれ、儀式のときに着用していた着物とともに展示されていた。ぼくは男であるから、髪をすっかり剃ってしまうということが女性にとってどれほどの決意を要することか今ひとつ実感できないが、その日から34年経った今でも色褪せることなく黒々と波打っている髪の束を前にすると、さすがに息がつまって何もいえない気がした。

 髪が女の命だというのは、単なる比喩ではない。そこには、たしかに彼女の命が封印されている。そんな気がしたのである。

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 意外なことだが、寂聴さんは仏門に入る前、キリスト教に入信することを考えていた。子供のころには、教会の日曜学校に熱心にかよっていたという。作家として名を馳せた彼女が、洗礼を受けたいという思いを最初に打ち明けたのは遠藤周作だった。遠藤は何ひとつ理由を聞かず、黙って神父を紹介してくれたそうだ。

 結局彼女は中尊寺の貫主でもあった作家の今東光の門を叩き、仏教に帰依することとなるのだが、ここで遠藤との縁が切れたわけではなかった。彼女はむしろ真っ先に、出家のことを遠藤に手紙で伝えたのだ。奥さんにだけは知らせてください、と書き添えて。

 遠藤からこのことを伝え聞いた夫人の順子さんは、みずから写経した経文を寂聴さんに送り届ける。順子さんはカトリック作家の妻でありながら、生まれは熱心な仏教信者の家柄だという。宗教を超えた彼女たちの交流は、大きな転機を迎えて揺れる寂聴さんの心を力強く後押ししたのかもしれない。これらの手紙が、そして順子さんが書かれた美しいお経が展示されているのを見ると、人々はやはり支え合って生きているのだな、と思わないわけにいかない。

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 今では寂聴さんのほうが、さまざまな人の相談にのってあげている。『瀬戸内寂聴の人生相談』(生活人新書)という本を見ると ― この本はもともとNHKで放送されたものの書籍化だが、その番組を見ていてぼくは胸がつまるようだった ― 平和そうに見える世の中にも、実はさまざまな煩悩が渦巻いているのだということに改めて気づかずにはいられない。息子がふるう暴力に悩まされる親。病弱な夫をとがめる言葉を吐いたばかりに、自殺に追い込んでしまったという妻・・・。

 なかには不倫相手の男に別れを切り出され、逆上して相手の家に放火し、罪もない奥さんと子供を死に至らしめてしまったという哀れな女の、獄中からの手紙もあった。寂聴さんはそういう人にこそ、出家をすすめたいという。毛穴から血の汗が噴き出すくらい、真剣に懺悔をなさい。仏でもキリストでもいい、人間以上の大いなるものにすがりなさい、と彼女はいうのである。

 ・・・ぼくはそれほど悪いことをしてきた覚えはないが、これまでさまざまな方面に不義理を重ねてきたことは事実だし、知らないうちに人を傷つけていることもたしかだろう。さっき書いたように、人は支え合って生きていることを痛感しつつも、やはりわがままに生きさせてもらっていると思う。

 しかしこの世に生まれた以上は、現実の社会で働いて生活してゆかねばならないという責務も負っている。こんなことは改めて強調するようなことでも何でもなく、ごくごく当たり前のことにちがいない。だがそんな当たり前のことが、誰もが納得するようにすらすらと進んでくれないのが、世の中のいちばん厄介なところだ。ぼくは絶えず深い悩みをかかえていると、前のほうに書いたが、それはつまりこのような意味である。

 ぼくが美術に熱中し、その思いを書き残そうとしているのも、悩み多い自分の存在にいくらかの積極的な意味が生じるのではないかと信じているからだ。至らない文章ではあっても、みずからの手で何かを生み出すというそのことに、ぼくはすがりついているのである。寂聴さんがご自身の人生について、そして文学とのかかわりについて語るのを、いつかその肉声で聞いてみたいと思っているのも、それがぼくにとって大きな支えになりそうな気がするからだ。

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 ぼくが寂聴展に出かけたのは22日のことだったが、翌日には寂聴さんご本人が来場され、トークショーが開かれるという告知が出ていた。彼女の話が聞ける絶好のチャンスだったが、その日は別の用事が入っていたのであきらめた。

 だが寂聴さんとはまたどこかで、何かの縁があるのではないかという気がしている。寂庵は、ぼくの家からさほど遠くないところにあるのだ。もちろん訪ねたことはないが、今度失業したら職安ではなく寂庵へ行こうなどと、冗談めかして考えたことはある。もちろん、そうならないように努力はするけれど・・・。

 でも、寂聴さんがみずからに課しているほどの凄絶な努力はできそうもない。会場で流されていたビデオを見ていると、今年の元日の様子が映っていた。その前の日、つまり昨年の大晦日、彼女は紅白歌合戦の審査員を務め ― 僧籍にある人ならばもっとも忙しい日であるにちがいないのに、彼女はそれを引き受けていた ― 年明けそうそう車に乗って寂庵に帰り着いたところだ。

 寂聴さんはやがて、書き初めをするのだといって、机の上に原稿用紙を広げはじめる。袈裟を脱いで眼鏡をかけると、それまでの柔和な笑顔はたちまち掻き消え、真剣な作家の顔に変貌した。正月にもかかわらず、いや正月だからこそ、書き初めと称して小説の執筆に没頭する姿には、鬼気迫るものすら感じられたのだった。

(画・瀬戸内寂聴)


DATA:
 「瀬戸内寂聴展 ~生きることは愛すること~」
 2007年9月12日~9月24日
 京都高島屋グランドホール


参考図書:
 瀬戸内寂聴『人が好き [私の履歴書]』
 講談社文庫

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寂聴閑話(2)

2007å¹´09月24æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 まず、昨日の記事の訂正からはじめなければならない。

 定員割れだった敦賀女子短大の学生数が、瀬戸内学長の就任によって定員オーバーに転じたことについて、寂聴さんの人気のたまものであるようなことをぼくは書いた。正直、それはぼくのいつわらぬ感想であったし、実際に寂聴さんの人間的魅力にひかれて入学してきた学生も多かったにはちがいない。

 だが、彼女の随筆『あきらめない人生』(集英社文庫)をパラパラとめくっていると、「福井県下の高校を全部回って頭を下げてきた」という一文が眼に飛び込んできた。天台寺の住職をしながら、作家としても多くの連載をかかえていたはずの寂聴さんは、まさに多忙の極みにあったというのに、学長としてできるかぎりの行動をされていたのである。いくら人望の厚い人だといっても、ただ座ってニコニコされているだけでは人も寄ってこないしお金も入ってこない。寂聴さんは、やはりすさまじい努力の人なのだ。

 ちなみに敦賀女子短大は今では男女共学になり、瀬戸内学長もすでに退任されていることを付記しておく。

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 京都の高島屋で「瀬戸内寂聴展」が開かれていた。文化勲章の受章と、作家生活50周年を記念した企画である。会場に着くと、寂庵の門がそっくりそのまま再現されているので驚いた。小さな石の仏さまが、頭の上に小銭をいっぱいのせたまま合掌している。墨で「寂庵」とだけ書かれた粗末な表札の文字は、井上光晴筆。かつて『全身小説家』というドキュメンタリー映画で、井上の開腹手術の映像をつぶさに目撃したぼくとしては、何とも懐かしい名前だ。

 門をくぐって中に入ると、寂庵に所蔵されている書画やオブジェのたぐいがたくさん陳列されている。その顔ぶれは実に多彩で、いかにも寂聴さんと息が合いそうな榊莫山の絵があるかと思えば、意外なところでは池田満寿夫や横尾忠則の作品があったりもする。ぼくが“世界一難解な美術家”と勝手に呼んでいる荒川修作とも仲がいいらしい。彼女の交友関係は、文壇や宗教界にとどまらず非常に幅広い。

 それにしても、展覧会とはいえこれだけいろいろなものを寂庵から持ち出してしまっては、寂聴さんがさびしくてしょうがないのではあるまいかと心配にもなる(文字どおりの“寂庵”になっているかもしれない)。会場の中央付近には彼女の書斎がまるごと再現されていて、記念撮影ができるようになっていた。そこにあるものを寂聴さんが実際に普段から使っているかどうかはわからないけれど、現役の作家の書斎を別の場所に持ち出すというのはちょっと聞いたことがない。

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 圧巻だったのは、これまで書き上げてきた著作をずらりと並べたコーナーである。そのとてつもない多さは、いかにも売れっ子の作家だという感じがする。ちょうど一年ほど前、京都の思文閣美術館というところで三浦綾子の生涯をたどる展覧会を観たときにも、病気がちの三浦さんがよくもこれだけたくさんの本を書いてこられたものだと感心したが、その数をはるかにしのいでいる。

 実際に見聞したわけではないが、流行作家の生活というのはわれわれの想像を絶するほどすごいらしい。ましてや僧侶としての顔も持つ寂聴さんのことである。博多のホテルでカンヅメ状態になりながら書いたという随筆の中には、その激務の一端が紹介されている。

 《ここへ来る前の日は敦賀の短大の授業と、長い長い教授会、その前の日に天台寺から帰ったばかり、天台寺では今月も超満員の参詣者を前に一日二回の法話のほか、檀家との会議、市の商工会の青年議員たちの県大会で講演、夜は夜で金田一温泉で会席と、自分の時間など全くないのです。夜通し、眠らないで原稿を書いてファックス送り、我ながらよく体がもつと思います。》(『あきらめない人生』)

 ちなみに、これは寂聴さんが67歳のときの文章である。会社のためにバリバリ働いてきたサラリーマンが、ようやくひと息ついて自分のやりたいことができるという年齢のときに、このありさまだ。ぼくにはとうてい真似できそうにない。

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 さすがに85歳になる現在では、少しは仕事を減らしておられるかもしれないが、それにしてもどうしてこんなに働くのか。なぜ際限もなく書きつづけることができるのか。寂聴さんに聞けば、だって書くことが好きでしょうがないんですもの、などと笑いながら答えられるかもしれない。

 だが、そこには現実的な理由もある。宗教者としての寂聴さんは、お布施以外のお金は一切受け取らない。法話も無償で引き受ける。寂庵の中には道場があるが、それを維持していくためには物を書いて稼ぐ以外にないという。生きるために、おまんまを食べるために、そしていくらかでも信徒に還元するために、彼女は必死で働きつづけているのである。

 老後の年金の心配ばかりしている現代の日本人の姿を、寂聴さんは歯がゆい思いで見つめているのではなかろうか。山のように積まれた『寂聴訳 源氏物語』の生原稿を前に、ぼくはそんなことを考えていた。

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寂聴閑話(1)

2007å¹´09月23æ—¥ | ãã®ä»–の随想


 テレビを通してではなく、なまで、眼の前で直接お話を聴きたい人がぼくには5人いる。岡本太郎、安藤忠雄、河合隼雄、水木しげる、そして瀬戸内寂聴である。いずれもぼくが心から尊敬申し上げている人物だ。

 太郎さんと河合さんは死んでしまったので、もうその望みはかなわない。安藤さんは、数年前に美術館のギャラリートークで話を聞くことができた。水木さんは先月、京都の映画村でおこなわれた「世界妖怪会議」で元気そうなお顔を拝見することができた(いちばん後ろの席からではあったが)。

 さて残る寂聴さんであるが、直接話を聞く機会は多いようだ。何しろ僧侶であられるから、定期的に法話をされている。かつて住職をされていた東北の天台寺というところでは、全国から多くの人が集まって青空説法に耳を傾けるという。自宅のある嵯峨野の寂庵でも法話をされているが、抽選で選ばれた人しか聞くことができないらしい。

 だが、ぼくは寂聴さんからありがたいお話が聞きたいわけではない。法話の様子がテレビでときどき放映されるが、聴衆のほとんどすべてがおばさんであって、ぼくがその中にひとり交じっているのも妙なものだろう。「源氏物語」に関する講演も多くされているが、源氏を読んでいないぼくには手が届かない。では何が聞きたいのかというと、彼女自身の ― 出家された方に“彼女”呼ばわりしてはいけないかもしれないが、あえてそう呼びたい ― 数奇な人生について、そして文学とのかかわりについてである。

 とはいっても、ぼくは寂聴さんの熱心な愛読者というわけではない。随筆はいくらか読んだが、小説となるとほんの数冊しかひもといたことがない。しかし彼女の存在自体が、そしてその発言が、ぼくには非常に興味深く感じられるのだ。

                    ***

 ぼくが物心ついたころ、彼女はすでに僧形であった。しかし名前のほうは、もっぱら瀬戸内晴美と表記されていたように記憶する。すべてが寂聴に統一されるまでには、かなり時間が必要だったようだ(今では逆に、晴美と記した書物はほとんど見かけなくなった)。

 ぼくは子供ながらに、頭をまるまると剃りたてた尼さんが小説を書いているのを不思議に思っていた。新聞の広告などに、新刊書の名前とともに作者の肖像写真が載っているのをよく見かけるが、彼女の風貌は後光よりもむしろ異彩を放って見えたものである。しかもその本の題名が変に大人びた、というか色っぽい、いわば禁断のにおいのするものだった。ぼくが彼女の小説をなかなか手に取る気にならなかったのも、むしろ当然のことだろう。

 ぼくが地元の福井で10代の後半を迎えていたころ、敦賀女子短期大学というところの学長に寂聴さんが就任され、ローカルニュースに彼女がしばしば登場するのを見た。後日の述懐によると、当時この短大は学生不足で困っていたそうだが、彼女が学長になると学生がいっぱいになったということだ。寂聴さんの大衆的な人気はそのころから抜群だったようだが、ぼくにとってはそれ以上の関心事ではなかった。

 寂聴さんのことが本当に気になりだしたのは、もうかなり大人になってからのことである。きっかけは何だったか忘れたが ― おそらく随筆の一冊を読んだのだろう ― 彼女が作家になる前に経てきたすさまじい体験を知ることになった。その体験とは、ご本人の著書に繰り返し書かれているのでここでは詳しく触れないが、ひとことでいえば不倫と愛欲にみちた、とても人間の風上には置けぬようなことである。まさしく小説の題材にはもってこいのスキャンダラスな私生活を、若いころの瀬戸内晴美は送っていたのだ。

 出家という人生の大きな転機は、それをひとまず清算するためだったのではないか、という想像はつく。自分の欲求に忠実に生きるあまり、晴美はあまりにも多くの人を傷つけ、裏切ってきた。夫を捨て娘を捨て、ついにはこの世のしがらみすべてを捨てて仏に帰依したのだ。しかし彼女は、仏門に入ってからもそのことを小説に書きつづけていたのである。ぼくが著書の題名に禁断のにおいを嗅ぎとっていたのも、あながち的外れではなかったといえるだろう。

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 現在の寂聴さんは、その人なつこい笑顔と軽妙なしゃべり口で、誰からも親しまれる存在となっている。昨年、文化勲章を受章した後も、えらい人になったという印象はまったくない。さまざまな人の相談にのり、迷いに道を開き、元気を与えてくれるが、それは彼女がいかにも人生を楽しんでいるように見えるからであり、存在そのものから発散されるオーラのようなものがぼくたちを巻き込んでしまうからだ。

 だが、それは寂聴さんみずからが深い苦悩を経てきたからこそである。自分の犯してきた罪深いおこないは、「一生消えない」と本人も断言している。そして彼女は文学という舞台の上で、その事実と執拗に向き合ってきたのではなかろうか。瀬戸内寂聴というひとりの尼僧の内部には、底抜けに朗らかな喜びと深い苦しみとが、絶えず同居しているのではないかとぼくには思える。

 出家はしたものの、悟り切ったわけではなく、悩みながらも前向きに元気に生きていこうとするひとりの人間。弱さに徹しながら、弱いなりに力を出し切ろうとしているひとりの女。まことに失礼ないいかたかもしれないが、ぼくが寂聴さんから受ける素直な印象はこのようなものだ。そういうところにこそ、ぼくは強くひきつけられるのである。そしておそらく、ぼく自身が絶えず深い悩みをかかえながら生きているということも、大きな理由のひとつなのであろう。

(画・瀬戸内寂聴)

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若冲さんの墓参り(3)

2007å¹´09月20æ—¥ | ç¾Žè¡“随想


 靴を脱いで座敷に上がると、小さな部屋にぐるりと若冲の絵が掛けられている。掛軸の水墨画が5幅と、額装された花の絵が12枚。いずれも題名などは書かれておらず、制作年も判然としないけれども、若冲が隠棲した寺に伝わっているということはやはり晩年の作なのであろう。

 鶏を描いた軸が2幅ある。雄鶏だけが描かれたものと、仲睦まじく“つがい”で描かれたものと。いかにも鶏好きで知られる若冲らしい。ほかには鶴と亀の対幅と、大津絵ふうの娘の図があった(若冲の人物画は非常に珍しい)。

 そのうち1羽だけで描かれている雄鶏のほうは、若冲ファンにはすでにおなじみのポーズをとっている。片脚だけで立ち、豊かな尾羽を誇示するように振り立てながら、首をねじ曲げて後ろを振り返っているような姿勢。同様の鶏はプライス・コレクションの『紫陽花双鶏図』(上図)にも描かれているし、『動植綵絵』の中にも同じ題の絵が含まれている(下図、狩野博幸著「目をみはる伊藤若冲の『動植綵絵』」の表紙にその絵が使われている)。おびただしい鶏を描いた若冲のことであるから、探せばほかにもありそうだ。



 だがたとえ同じポーズで描かれていたところで、濃密に描きこまれた彩色画と、素早い筆のタッチで一気呵成に描き上げられたような水墨画とが、同じ人物によって描かれたという事実がぼくにはどうしても納得しがたいのである。若冲はほかにも、絵の全体を細かい桝目で区切って色を塗り分けたり、点描ふうの筆致を用いたりと、ありとあらゆる技法に色目を使っているように見受けられる。これらがすべてたったひとりの絵師の手になるものかと考えると、改めて驚かざるを得ない。

                    ***

 このように多面的な顔を持ち、とりとめがないかに見える若冲だが、世間的にはカラフルな花鳥画の作者としてのイメージが先行しているように思う。『動植綵絵』の展覧会にあれだけの人が集まったのも、そのためだろう。そもそも「綵絵」という耳慣れない言葉には、彩色された絵という意味があるという。

 だが若冲の絵画世界に一歩踏み込んでみると、水墨画に接する機会のほうがはるかに多いような気がする(正確に数えたわけではないけれど)。しかもそれが、彩色画のかたわら余技的に描いたというようなレベルではなく、水墨画家としても一時代を築き得たのではないかと思われるぐらい素晴らしいのである。

 石峰寺の掛軸も、それは見事なものであった。何といっても、ガラスを隔てずに直接観ることができるのだ。よその美術館に貸し出すのとはちがって大らかなもので、「写真撮影は自由です」とご住職らしき方がおっしゃると、その場にいた人たちはいっせいにデジカメや携帯のカメラを向けはじめる。フラッシュが焚かれ、たちまちちょっとした撮影会の様相を呈してきた。ちょっと信じられないような光景だが、絵が公開されるのはこの日だけだから許されるのだろう。何日にもわたって鋭い光を浴びせつづけたら、200年前の水墨画などいっぺんに劣化してしまうにちがいない。

 だが、このほうが絵との本来の接し方に近いのかもしれない、とも思う。江戸時代までの日本絵画は、掛軸にしても障壁画にしても、庶民の暮らしのすぐ隣にあった。もっといえば、絵は調度品の一部分だったのだ。昨年京都で開かれたプライス・コレクションの展覧会では、モダンな近代美術館のロビーに12の床の間を作り、酒井抱一の見事な軸を掛けつらねて、自然光の明かりだけで鑑賞するという試みをしていた。もちろんガラスなどはない。

 これは一見、画期的な展示方法に見えた。古い美術品を専門に扱う京都国立博物館ですら、展示品はことごとくガラスケースの中で厳重に管理されていて、われわれが同じ空気を共有することはできないようになっている(しかも照明は暗くしてある)。もちろん、それが博物館の役割でもあろう。しかし文化財の保存という名目で、古美術が本来あるべき場所から遠く離され、まるで動物の標本みたいにガラスに押し込まれているというのは ― そのうえ現代のぼくたちが何の違和感も持たずにそれを眺めているというのは ― 少し寂しい感じがする。お江戸は遠くなりにけり、である。

                    ***

 このたびの石峰寺の“粋なはからい”は、忘れかけていた日本絵画の体温のようなものを懐かしく思い出させてくれた。たとえ撮影が許可されたからといって、ぼくは絵を写真に撮ろうとは思わない。もう二度とこの絵を観ることはないだろうという前提に立って、網膜に焼きつけておくべきものだと思っているからだ(ダジャレめかしていえば、一期一“絵”ということである)。

 ぼくは光り輝くフラッシュの合い間をぬって、できるかぎり若冲の筆跡に肉薄しようと思った。普通の美術館なら警備員が慌てふためいて駆けつけるのではないかと思えるぐらい、絵に顔を近づけた。ぼくは江戸時代の、若冲が生きていたころのにおいを嗅ぎたかった。

 絵が掛けられていたのは壁ではなく、白い幕の上だった。背後は窓ガラスになっているのか、雨がやんで明るい日差しがさしこんできた。ちょうど絵の裏側から光をあてたようになって、若冲の変幻自在な筆のあとがくっきりと浮かび上がった。ぼくは絵に吸い寄せられたかのように、長いあいだ眼を離すことができなかった。

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