女性と国家公務員は自殺が増えていない意味


Suicide rates (per 100,000), by gender, Japan, 1950-2006より。

国家公務員の自殺者数の推移より。
日本の自殺者数が3万人を超える分水嶺となった1998年(平成10年)以降とそれ以前を比べると、女性の自殺率は全く増えていない。国家公務員も相対的に自殺率は国民全体に比べて増えていない。1997年の国家公務員の自殺率は国民全体の75%、2003å¹´60%で比率は低下している。
で、池田信夫 blog:長期的関係の呪いだが、

しかし経済活動がグローバル化し、メンバーの異質性が大きくなると、長期的関係の拘束力は弱まる。高度成長が終わると、企業の破綻や再編は日常茶飯事となるのだが、幸か不幸か日本社会の評判メカニズムはまだ強力なので、いったん「問題」を起こしてスティグマが押されると、二度と消えない。犯罪には時効があるが、評判は死んでも残る。
長期的関係を維持する引き金戦略は、一部は遺伝的なものとも考えられるが、大部分は文化的・歴史的に形成されたものだろう。日本の場合、その有効性はまだ高く、人々の脳内に深く埋め込まれているので、簡単に変えることはできない。これは「再チャレンジ政策」で解決するような生やさしい問題ではなく、日本の苦境のコアにある歴史的な変化である。異常な自殺率が示しているのは、この長期的関係の呪いが非常に大きなストレスを人々にもたらしているということだ。

自殺の増加と長期的雇用慣習の崩壊を結びつける推論は当たっていると思う。現実にいざなぎ景気を超える景気拡大期でも自殺者数は減らなかった。何よりも女性と国家公務員が自殺者数増の圏外にあることが傍証だろう。
女性の場合1980年代以降、本格的な社会進出が始まったが、建前はともかく実際には基本的に評判メカニズムの欄外に置かれていた。
平たく言えば最初からよそ者扱いされていたから失うものは最初からなかったと思われるので、却ってスティグマによるストレスに耐性を持っていると考えてもいいだろう。
会社に例を取れば、男性社員はリストラだけでなく、女性社員という“特別枠”でますますきつくなっているというのが現実だろう。女性は相変わらず男子に対して差別は受けているが、同時に政治的に特別枠的存在だった(そのこともまた差別的証なのだけれど)。むしろ、女性の自殺率が高まるのは男性社会に“適応”した世代が増えそうなこれからなのかもしれない。
国家公務員は別の意味でこれまでストレスを感じずに済んでいたきらいがある。民間企業に比べて長期的雇用慣習の崩壊がまだ本格的に起きていないからだ。
しかし、今月末の衆議院選挙で民主党政権が誕生すれば、もうそうは言ってられなくなるだろう。天下りに大きなメスが入れば、今後、国家公務員にも長期的雇用慣習の崩壊が始まり、却って国家公務員の自殺率が民間以上に増えるかもしれない。なぜなら、公務員は民間以上に評判メカニズムの耐性が小さいと思われるからだ。民間人はまだそれでも、耐えることを知っているが、国家公務員は70歳まで身分保障され、そうなることを空気のように当たり前と思っていた分、ストレスは高いと思われる。
では、民主党政権が誕生すれば、国家公務員の自殺率はますます増えるのだろうか。短期的には増えるかもしれないが、これは避けて通れない道だろう。もし、官僚も民間も“平等”に自殺率が高まれば、その“平等性”自体が自殺へのストレスを減殺させると思えるからだ。荒っぽく言えば、社会的にいじめる側といじめられる側の自殺リスクを“平等化”することが自殺率減少の切り札だと思う。
変な話かもしれないが、社会の構成員全体が“平等”に自殺リスクを抱えれば、ストレスは減るだろう。人間が自殺するのは孤立感だが、“平等感”は孤立感を減殺させるだろう。実際、死亡する確率が高かった戦時中は極端に自殺率が低かったのは、“平等”に死亡リスクが高かったからだ。赤木智弘氏が「希望は戦争」と言うのも基本的にこの“平等”のことだろう。
その意味でも、今は同じくらい自殺率が高かった1955年前後の終戦直後のドサクサに似ている。いわば今はバブル終戦直後なのだ。共通するのは「大きな物語」の崩壊だ。
ただ、終戦直後のドサクサは1960年代からの高度成長で収拾したが、今度の“終戦直後”はいつ終わるのか分からない。多分、成長戦略以外の方法で収拾させるしかないだろう。相対的に成長率は低くなることはあっても高くなることはない。むしろ、成長戦略に拘ればいつまでも自殺率は減らないように思われる。この前の円安・超低金利政策で無理矢理作った戦後最大の景気拡大期に自殺率が減らなかったことが何よりの証左だろう。
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