自然保護とマナー、あるいは蟻の一穴vs.藁しべ長者

20年ぶりに丹沢に行く。ところどころに「ゴミは必ず持ち帰りましょう」という看板がある。どこにでもある馴染みの標語だ。
しかし、ここで見たのは、もっと詳しく、「生ゴミは自然物だから捨ててもいいと思われる方もおられかもしれませんが、生ゴミが分解されるまで数年かかります。また動物の餌になってしまいます」とある。
へえぇ、でも枯葉だって分解されるまで数年かかるだろう、木はどうすりゃいいんだ? と、持ってきたミカンを頬張りながら、一人ツッコミを入れる。餌になるって不味いことあるんだろうか? 味を覚えて里に下りてくる? だけど、野苺にしても山葡萄にしても、畑で作られているものよりよっぽど美味しいと思うし、肉にしても、動物にとっては生肉の方が美味しいのじゃないか? 要するに、まとまって餌が手に入るからリスクを冒してまで里に出て来るだけじゃないのか?
鳥は海で仕入れた餌を山でその一部を捨てて山に栄養補給している。人間が同じことして不味いのだろうか? 人間も当然、自然の一部ですね。
もう死んでしまった景山民夫が朝まで生テレビで「ペットの糞を綺麗に始末することと、地球環境問題はつながっている」なんてこと言っていた。じゃあ、立ちションと地球環境問題もつながっているんだろう。
こうした社会的マナーと環境問題が混同されることで、むしろ、環境問題が隠蔽されることが多くあることは野口健氏のゴミ拾い登山@greenwashでも書いたが、たとえば、エベレスト頂上周辺に酸素ボンベが転がっていても、それは環境問題とは全く関係がない。ほんのわずかなヒマラヤ登山家の中でのマナーの問題でしかない。何百年後かには酸素ボンベ群は貴重な歴史的遺物として世界文化遺産に登録されるかもしれない。未来の文化遺産の破壊はやめましょう。
冗談はさておき、こうした見た目に分かりやすいマナーの問題が逆用されているのがgreenwashということになる。マナー問題は分かり易い分、メディアに受けが良いからだ。
バス停から灰皿が撤去されたが、タバコの煙よりはるかに毒性があり、受動喫煙し易いバスの排ガスには誰も無頓着な様子だ。「バスが走り去ってしばらくは排ガスが充満して危険ですからバス停に立たないようにしましょう」という掲示板を設置した方が灰皿撤去するよりよっぽどいいと思うのだが。
さて、食い終わったミカンの皮はどうすべきか? 山道に捨てるのはマナー違反だ。他人に見られないようには、野ションと同じで、ちょっと藪の中に入って、藪の奥に向かって思い切り遠くへ投げ捨てた。きっと草木の栄養になってくれることだろう。
自然保護というのは、自然を今と変わらないまま保全しようということではない。そう思えるのは希少動物、希少生物の保護と混同されているからだ。自然保護というのは、きわめて人為的な行為であり、自然を放置することではない。これに対し、自然保護とマナーの混同:hakohuguさんからコメントをいただいた。
>絶対量が決まっている有機物のサイクルの中で存在している枯葉や倒木と、外から持ち込むミカンの皮などとは違います。余剰な有機物は、バランスを崩します。

有機物の絶対量はもちろん決まっているわけではなく、「余剰な有機物」を付加しようがしまいが、自然は恒常的に変化している。昨日見た丹沢は今日の丹沢ではない。「バランス」という言葉が一体何を基準にして使われているのだろうか? 曖昧模糊とした今現在ということなら、丹沢はいつもバランスを崩している。変化を止めることなど不可能だし、また意味もない。

>野生動物が伝染病

何かまるで野生動物を下にも置かない丁重さが自然保護運動の流れのようだが、ほとんど無意味だと思う。最近よく子グマが里に下りて来て、保護されるが、伝染病を山に蔓延させる恐れがあるのならそのまま銃殺すべきだろう。もちろん、人間の糞尿にもその種の伝染病原菌がある恐れがあるので、もはや野山に立ち入り禁止すべきということになる。
しかし、こんなの無意味だと思っている。鳥だって何だって、病原菌の運び屋だ。こんな神経質にならなくても、伝染病が蔓延する時は蔓延する。死ぬ動物は死ぬだろう。上述のように自然は常に変化し続けている。自然をコントロールするのは、人間が特別な価値を見出す場合を除いて不可能だし無意味だ。

>食料を得るための本能が劣化し、環境の変化に弱くなります。

山の木の実が豊作だった場合も本能が劣化するのだろうか? そんな程度の脆弱な動物ならとっくに滅んでいるだろう。野生化した家畜動物が恐ろしく繁殖した例もあるが、これはどう説明できるのだろうか? 丹沢には過去数え切れない人が入山し、今更言わなくてもかなり汚れている。綺麗な沢水も飲み水には適さない、という掲示板もあった。昔はそうではなかったらしい。hakohuguさんが心配されるレベルではもう既に十分汚れているように思う。それでも丹沢は今も豊かに存在しているし、行くと恵みを与えてくれる。
再度いただいたTBハコフグマン:針穴から突然、決壊は起きる 〜自然保護について〜 針穴は糸を通すためのものだから、「千丈の堤も蟻穴より崩る」、略して「蟻の一穴」だと思うけれど、諺には「藁しべ長者」というのもある。ミカンの皮は、自然環境に対してどちら方向にぶれるのだろうか。
「蟻の一穴」のほかに似たようなものとして、「北京で一羽の蝶々が羽ばたくと、ニューヨークでハリケーンが生じる」というカオス理論の有名な章句もある。
蟻の一穴にしても北京の蝶々にしても、このような大事になるきっかけは∞回、今現在起きているわけだけれども、蝶々の場合、「北京で一羽の蝶々が羽ばたくと、ニューヨークが晴れる」ということもアリだ。
ミカンの皮の場合、蟻の一穴になる可能性と同時に、そのミカンの一投げが環境にポジティブに働いて丹沢の森が大いに豊かにする契機になるという「藁しべ長者効果」の可能性も考えられる。卵の殻なんてカルシウムたっぷりで、鳥の糞同様、貴重な肥料として作用する可能性はもっと大きい感じがする。
逆に持ち帰って、ミカンの皮や卵の殻はどういう運命を辿るのだろうか。ゴミ焼却場で燃やされることは、林の中に捨てるより「環境に優しい」のだろうか? hakohuguさんはカラスを人間扱いしておられるようだが、カラスが生ゴミを荒らして困るのは、ゴミがバラバラにされることで、カラスが生ゴミを食うこと自体、ゴミ焼却場で処分されるよりよっぽど良かろう。

>人間は何種類の生物を絶滅の危機に追いやってきたのだろう。結局は一人一人のこれくらいいいだろ的意識の積み重ねが、取り返しのつかぬ結果を招くのである。

人間が登場する前から、生物は絶滅の危機を何度も経験してきたわけだけれども、逆にテレビ番組のタイトルにも使われている「カンブリア大爆発」というものもあって、山あり谷ありだ。
今現在のbiodiversityの貧弱化は、一言で言えば人間の増え過ぎ。一人一人のこれくらいいいだろ意識の積み重ねに原因を求めるのは、これこそマナーの問題に還元してしまうことだ。そして、いつの間にか、クールビズ系のマーケティングに利用されてしまう可能性大だ。
マナーはもちろん人間内問題であって、人間も環境の一部である以上、生態系に影響を与えることは間違いない。しかし、それはミクロであって、本来、求められるのはカオス的複雑系的なコントロールであるマクロコントロールだろう。経済学的指標をいかに生態学的指標にフィードバックさせるかが最先端の「自然保護」にならなければならない。
なぜなら、実は地球のどこにも素朴な意味での自然など存在しない。もちろん、丹沢には「素朴な自然」などとっくに消えている。というか、林立する高層マンションも、逆に自然環境と見なさないと収拾がつかなくなっている。人間のシェアが大きくなり過ぎて「意識」などのようなマナーでは通用しなくなっている。
ビオトープという生態学的盆栽は公園の新基軸以上のものでないし、近自然河川工法に至っては、土木業界にとっては「一粒で二度美味しい」になりかねない。狡猾なマーケティングに絡め取られないことが肝要だ。
ちなみにジェームズ・ラヴロックのガイア仮説というのは、複雑系科学を直感的に表現したもので、ラヴロック自身、地球を神などと思っていないし、宗教的でも非科学的でもない。ただ、一般に流布される過程で一部の人達が宗教的に崇めるようになっただけだ。レーチェル・カーソンも同様だ。
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