失踪した父親とともに消えた自転車を探す過程で、自転車の持ち主たちに隠された過去にふれていく物語
台湾文学を読むのは甘耀明『鬼殺し』(白水紀子・訳) - logical cypher scape2に続いて2作目
(次に台湾文学読むとしたら本作かなあと目星はつけていたのだが、このタイミングで読むことにしたのは、文フリで買った『F』に載っていた『自転車泥棒』論がきっかけ。これについてはまたいずれブログに書く予定)
甘耀明は1972年生まれ、呉明益は1971年生まれと同世代。『鬼殺し』は2009年刊行(日本語訳2016年)、『自転車泥棒』は2015年刊行(日本語訳2018年)
作風は全く違うが、2作とも台湾の戦争の記憶を描こうとしているところが同じである
本作は、翻訳には反映されてはいないが、原著では中国語の中に、台湾語や原住民族の言葉が織り交ぜられていて、それらはアルファベット表記されるという形で、台湾の多言語状況をあらわしているという。『鬼殺し』もまた台湾の多言語状況を組み込んだ作品だった。
(主人公は中国語と台湾語、親世代になると中国語が苦手だったりできなかったりする。さらにもう少し上の世代は日本語ができるが、主人公は日本語はできない)
語りの重層性も特徴で、主人公(と読者)は、他の人から直接話を聞いたり、カセットテープに吹き込まれた語りを聞いたり、小説の形で読んだり、手紙として読んだり、と様々な形で人々の過去の記憶に触れていくことになる。
そういう、ある種の文学的技巧がこらされた作品であるが、一方で、プロットも重視されていてエンタメ性も高い作品だと思う。
また、作中、自転車などのイラストが挿入されているのだが(文庫版だと表紙にも使われている)、作者自身の手によるものらしい。
そもそも、本作の中心となるのはタイトルにある通り自転車、特に古い自転車コレクターの話なのだが、これも作者自身の趣味らしい。多才多趣味な人っぽい。
主人公の「ぼく」は40代のライター兼小説家なのだが、前作となる小説のタイトルが呉明益自身のそれと同じであり、私小説的な要素もあるのだろう。
ただし、本文の中で語り手自身が言ってもいるし、訳者解説にもあるが、かなり虚実入り混じる感じらしい
動物が多くでてくる作品でもある。
自転車を台湾語では「鐡馬」というらしく、作中でも、自転車か鐡馬と書かれていることが多い。
また、後半からは象の話でもあるし、蝶のエピソードも中盤に入っている。サメや魚人も印象的なシーンに使われている(サメは比喩としてだが)
「ぼく」の父は失踪しており、その際、一緒に乗っていたはずの自転車もなくなっている。その自転車(と父)の行方を探すうちにすっかり古い自転車コレクターと化した「ぼく」は、ある時ついに父の自転車を発見する。
この父の自転車について、アブー(古物商)→ナツさん(コレクター)→アッバス(戦場カメラマン)→アニー(アッバスの元恋人)→サビナ(アニーの友人)→静子さん(ムー隊長のつれ)→ムー隊長(サビナに自転車を譲った人)と辿っていくことになる。
この中ではアッバスが重要人物で第二の主人公と言ってもいい感じで、ここからラインが分岐する。
アッバスは台湾原住民族の血を引いているが、兵役中に駐屯地の近くで知り合った元兵士のラオゾウ、そしてアッバス自身の父であるバスアの話から、ラオゾウやバスアが従軍した太平洋戦争の様子が描かれる。
戦争中の自転車部隊、そして、ビルマから台湾までやってきた象の話によって、アッバス・ラオゾウ・バスアのラインが、ムー隊長のラインと合流していく。
終盤、「ぼく」が父の自転車を「レスキュー」(コレクターたちのスラングで、パーツを付け替えて自転車を元の状態へと戻すこと)して、早朝に完成するシーン、かつて、象の剥製が作られた過程と重ね合わせられながら語られていくところに、カタルシスがあった。
ところで、この物語は、主人公が失踪した父の自転車を探す話であり、この自転車は確かに主人公のもとへと帰ってくるわけだが、では、何故父は失踪したのか、という疑問には直接答えてはいない(はず)
主人公は、アブーから目当ての自転車の写真を見せてもらい、その持ち主であるコレクターのナツさんのところへ向かうが、ナツさんは預かっているだけだという。ナツさんは、それをとある喫茶店で見つけたのだが、その自転車はその店のオーナー(アッバス)の恋人の友人(サビナ)のものだという。そしてサビナは、ムー隊長という老人からその自転車を譲り受けたのであり、果たしてムー隊長に自転車を譲ったのが主人公の父親だったのである。
さて、上述した通り、しかし物語は途中からむしろアッバスを中心に巡っていく。アッバスが、ラオゾウから譲られた自転車。そして、アッバスの父、バスアが乗った自転車について。
この作品には、アッバスをはじめ、主人公以外にも父を亡くしている者が複数出てくる。ただ、主人公の父は(おそらく亡くなっているが)どうなったかは書かれていない。
バスアやムー隊長の過去は描かれるが、主人公の父の過去はほとんど明かされない。
バスアやムー隊長の過去が明らかになっていく過程は、プロットの面白いところで、本作をエンタメ的にも面白いものにしている。それに対して、主人公の父の過去が必ずしもはっきりしてこないところは、(仮にある種のエンタメの面白さが謎解きプロットに由来するとすると)謎が謎のまま残されてエンタメ的にははっきりしないともいえる。
一方、それは、戦争に関わった者たち(あるいはもっと一般化して、年長者とか人間とか)には、人に言えない過去があるものだ、という暗示になっているともいえるのかもしれない。
また、この物語はあくまでも自転車にまつわる物語である。「ぼく」やナツさんは、ただ自転車をコレクションしているわけではなく、必ずその自転車にまつわるオーナーの物語も聞いている。これは古自転車にはみな持ち主の物語がつまっていて、それを蔑ろにして譲り受けることはできないと分かっているからだ。
その上でいうと、確かに探していたのは「ぼく」の父親の自転車だが、それは彼にとって3台目の自転車であって、その自転車にまつわる物語は明かされているが、父について明かされていない過去(戦争時、日本で少年工をしていた頃)についていえば、自転車とかかわりのない過去であるから、語られなかったともいえる。
ところで、もうひとつ、あからさまに語られなかった箇所としては、サビナが「ぼく」にメールで送ってきた小説の結末もやはり明かされなかった。
先ほど、終盤の自転車レスキューシーンがカタルシスがあったと書いたが、それ以外にも、印象に残るシーンの多い作品で、非常に映像的な作品だなとも思う。
アッバスとラオゾウが潜水したときに見た「魚人」たち
蝶の貼り絵
アッバスが単独でマレー半島のジャングルを縦断したこと
「自転車を抱いた樹」など
それから、印象に残るフレーズも色々ある
「お前は45歳までしか生きられない」
「サルは私たちのために死んだ。いつか私たちも、サルのために死ぬだろう」
「昨日より前とはわずかに異なる世界が、もうそこに生まれている。風のなかにいる小さな虫も、はるか遠い恒星がここまで届ける光も、ガラスについたほこりも、二度と同じであることはない」
「ぼく」という中年男性の一人称のせいなのかなんなのか、文体が村上春樹っぽく感じられたけど、そもそも自分があまり村上春樹を読んでいないので、どこまで村上春樹っぽいと言っていいのかは分からない。
ただ、鴻巣友季子の解説で、欧米の翻訳文学に影響を受けたという点で、村上春樹と似ているかもしれない、というような言及はされている。
1 我が家族と盗まれた自転車の物語
「ぼく」の家族の話
台北の中華商場というところに住んでいた(これは『歩道橋の魔術師』の舞台になっているらしい)
「お前は45歳までしか生きられない」
幼い頃、1人で公衆便所を使っていると、男性同士の行為を見せつけてくる男たちがいた。ある時、そのうちの1人しか来なくて、その1人から言われた台詞
父が亡くした3代目の自転車
自転車で小児科へ連れて行ってもらった時のこと
2 アブーの洞窟
アブーのこと
古道具を集めていて、その倉庫が「洞窟」
「ぼく」のこと
前作『睡眠的航線(眠りの航路)』で、戦時中日本で航空機の少年工をしていた父の話を書いた。そこで、自転車を置くところで終わるが、その自転車の行方について読者から質問のメールが来ていた。
ナツさんのところへ
ノート1
資生堂から幸福自転車
3 鏡子の家
アッバスの店(「鏡子の家」という三島由紀夫の作品からとった店名。のちに「林檎」になる)
アッバスはカメラマンで彼の作品が飾ってある(のちに戦場カメラマンであることが分かる)
アッバスとラオゾウ(とシロガシラ)
アッバスが兵役中に滞在していた二高村で、旧日本兵のラオゾウと自転車の貸し借りを通じて親しくなる。ラオゾウの近くにはいつもシロガシラがいるのだが、ラオゾウがこのシロガシラは自分に話しかけてきて、正体は日本兵だという
ラオゾウに頼まれて、アッバスは2人でスキューバダイビングを行う
潜水中に意識を失ったときに見た「魚人」たち(虐殺された農民たち)
ラオゾウの自転車を持ち帰った時に反応したバスア
ノート2
自転車のデザインについて
主人公が最後に父の自転車に乗ったのは、中学生の時
4 プシュケ
蝶の貼り絵についての小説が、アニーからメールで送られてくる
かつての台湾は、蝶産業が栄えていた
ノート3
産婆車(女性用の自転車)
ホームレス
5 銀輪部隊が見た月
バスアが残したカセットテープ「銀輪部隊」
旧日本軍には、自転車部隊があった。バスアは台湾でその訓練に参加していた。
バスア自身は参戦していないが、銀輪部隊はマレー半島でシンガポール攻略を行っている。海側から攻めてくると想定した英印軍は為す術もなく敗れる。
ノート4
自転車と戦争
6 自転車泥棒たち
母の入院
兄と父が自転車泥棒を捕まえようとした話(しかし、父は自転車泥棒を逃がす)
アッバスのマレー半島縦断
自転車で銀輪部隊と同じルートを辿る旅をする。銀輪部隊の侵攻速度に驚く。ジャングルで九死に一生を得る
どこだったか忘れたが、アッバスがシャッターを切ることと写真を撮ることとは違うというようなことを言っていた箇所があった。彼は戦場カメラマンとしてあちこち行っているのだけど、戦場に無感動になっていって、むしろこのマレー半島での経験(しかも途中から写真を撮っていない)がカメラマンとしても重要な経験になっている
サビナからのメール(小説を書いたのはアニーではなく、アニーの友人であるサビナだということが分かる)
兄のギターを東京で聴く
ノート5
「手間」について
7 ビルマの森
バスアのカセット「北ビルマの森」
バスアは日本兵としてビルマへ行き、そこで現地の象使いと親しくなる
中国軍の攻撃により、バスアと象使いは自分の部隊から離れて2人でジャングルを彷徨うが、象使いが流れ弾を受けてしまう。
サビナの話(動物園で出会ったムー隊長)
子どもと象を見ていた時に、ムー隊長という老人から自転車を譲り受けた。
ノート6
「ふぞろい」について
自転車のパーツが交換されていて、元とは異なっている状態をコレクターは「ふぞろい」と呼ぶ
母やその世代の人々は、満ち足りた状態を求めつつ、満ち足りない状態(ふぞろい)によさを感じていたのではないか、というような話
8 勅使街道
父が逃がした自転車泥棒は日本時代の父の同級生だった?
静子の話(戦前から戦中にかけての台北。オランウータンの一郎、象のマーちゃん)
殺される動物たち
川で目撃された「サメ」(実際は日本に協力していた台湾人の死体。市役所で働いていた静子の父はおそらくこの際に殺されているが、静子は直接確認できなかった)
ムー隊長と静子は、お互い高齢になってから動物園で出会い、親しくなった
ムー隊長は中国軍側でビルマに行っていて、バスアのいた部隊の象たちを接収していた。
ビルマにいた際にはアーメイと呼ばれていた象が、台湾までつれていかれてマーちゃんとなり、戦後はリンワンという名前になった
福じいと象の脚の椅子
9 リンボ
ゾウ(アーメイ)視点で語られるビルマから台湾までの物語
ノート7
「レスキュー」と象の剥製
上述した通り、「レスキュー」とはコレクターたちのスラングで、パーツを付け替えて自転車を元の状態へと戻すこと。静子から自転車を受け取った「ぼく」は、パーツを探し求め、ついに「レスキュー」することになった。
(この元のパーツを探す過程に果てがないことも言及されているが)
リンワンが亡くなった際に剥製にされていて、その剥製が完成した時、作業した人々はそこが神殿であるように感じた、といい、「ぼく」も早朝についにくみ上げた際に神殿であるかのように感じる。
この章の最後に出てくるフレーズが以下。
昨日より前とはわずかに異なる世界が、もうそこに生まれている。風のなかにいる小さな虫も、はるか遠い恒星がここまで届ける光も、ガラスについたほこりも、二度と同じであることはない。
こういう時の流れが、自分個人は時にとても怖くなるのだけど、ここではポジティブに描かれていて、グッときた。徹夜で読んで作中と同じタイミングで朝を迎えたかった。
10 樹
おじから聞いた、母が乗った自転車と祖父の死の話(一番冒頭に書かれていエピソードが母の幼少期の話だとここで分かる。実は母にも隠されていた過去があることが分かる)
ムー隊長の樹木の戦役
勝沼さんの娘からの手紙(マーちゃんがいかにしてリンワンになったのか(どうやって殺処分をまぬがれたのか))
アッバスからの手紙「自転車を抱いた樹」
バスアが戦地で埋めた自転車は、その後生えてきた樹によって樹上へ
母の病室で空漕ぎする「ぼく」(父の姿に似てくる)
後記「哀悼さえ許されぬ時代を」
この作品の登場人物は、主人公がときどき程さんと呼ばれる以外はみな名前がカタカナ表記されている(アッバスや静子さんは中国名も書いてあったはずだが)ので、ともすると中国語圏の話だというのを忘れそうになるのだが、この後記で書かれている謝辞の相手はみな中国語の名前で、そういえばそうだった、となる。
訳者あとがき
虚実いりみだれる話で、あえて史実についての訳注はつけなかったというが、一点、日本人向けの解説として、象のリンワンは台湾で有名な象だということ。