※中田英寿氏が古巣ローマ訪問をしたことで、ローマサポーターからの書き込みが殺到していました。
元日本代表の中田英寿氏が4日、古巣のローマを訪問した。イタリア紙『ガゼッタ・デロ・スポルト』が報じている。
中田氏は現役時代、日本人選手の海外組先駆者としてセリエAに渡り、ペルージャやパルマなどで活躍。2000年冬に加入したローマでは、トッティとポジション争いを演じたほか、翌シーズンにはユヴェントス戦でスクデットを呼び込むゴールを決め、日本人初となるセリエA制覇を成し遂げた。中田氏は、スクデットをもたらした英雄として今でもローマで人気が高い。
セリエAに移籍した1998年から今年で20年。節目の年を迎えた中田氏は自身の軌跡をたどり、ペルージャに続いてローマのトリゴリアを訪れた。中でも元ローマのレジェンド、ブルーノ・コンティ氏と長らく話していたとみられる。
ローマもまた公式ツイッターを更新し、2001年の優勝メンバーの訪問を伝えている。中田氏の写真を添え、「今日、トリゴリアへ誰がやって来たか思ったら…元ジャッロロッソ(黄・赤:ローマのこと)のイタリア王者のヒデトシ・ナカタだ!」と歓迎した。ローマはさらに、公式ウェブサイトでも中田氏を紹介している。
「今日はトリゴリアを特別ゲストが訪れた。元ジャッロロッソのヒデトシ・ナカタだ。フルヴィオ・ベルナルディーニ・スポーツセンターを訪問してくれた。日本人MFは、2000年1月から2001年6月までローマのユニフォームでプレーした。ファビオ・カペッロ指揮下でチームは史上3度目のスクデットを獲得した。通算40試合に出場、6ゴールを決めた」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180605-00000027-goal-socc中田氏は現役時代、日本人選手の海外組先駆者としてセリエAに渡り、ペルージャやパルマなどで活躍。2000年冬に加入したローマでは、トッティとポジション争いを演じたほか、翌シーズンにはユヴェントス戦でスクデットを呼び込むゴールを決め、日本人初となるセリエA制覇を成し遂げた。中田氏は、スクデットをもたらした英雄として今でもローマで人気が高い。
セリエAに移籍した1998年から今年で20年。節目の年を迎えた中田氏は自身の軌跡をたどり、ペルージャに続いてローマのトリゴリアを訪れた。中でも元ローマのレジェンド、ブルーノ・コンティ氏と長らく話していたとみられる。
ローマもまた公式ツイッターを更新し、2001年の優勝メンバーの訪問を伝えている。中田氏の写真を添え、「今日、トリゴリアへ誰がやって来たか思ったら…元ジャッロロッソ(黄・赤:ローマのこと)のイタリア王者のヒデトシ・ナカタだ!」と歓迎した。ローマはさらに、公式ウェブサイトでも中田氏を紹介している。
「今日はトリゴリアを特別ゲストが訪れた。元ジャッロロッソのヒデトシ・ナカタだ。フルヴィオ・ベルナルディーニ・スポーツセンターを訪問してくれた。日本人MFは、2000年1月から2001年6月までローマのユニフォームでプレーした。ファビオ・カペッロ指揮下でチームは史上3度目のスクデットを獲得した。通算40試合に出場、6ゴールを決めた」
国際サッカー連盟(FIFA)は25日、公式サイトに日本代表として活躍した中田英寿氏のインタビュー動画を掲載した。中田氏が出場した1998年FIFAワールドカップ・フランスや、2002年の日韓W杯、2006年のドイツW杯の映像を用い、その経歴を紹介。動画は約6分30秒で、中田氏は全編英語で流暢に語っている。
「20、30年前の日本は、野球が非常に大きな存在でしたね」と振り返る中田氏。少年時代は野球をやるか、サッカーをやるかを悩んだと明かし、サッカーを選んだキッカケの1つに漫画『キャプテン翼』があったと話した。その後、各年代の日本代表として活躍したが、サッカー選手として1つの転機となったのが、フランスW杯だったと続ける。
そして中田氏はW杯の後、イタリア・セリエAのペルージャへ移籍。「フランスやイングランドからもオファーがあった」としながらも、「セリエAこそがサッカーだと思っていたんですよね」と、イタリアを選んだ理由を語る。そして、そう思っていた理由の1つに「子供の頃に初めて着たサッカーのユニフォームがインテルかミランのものでした」と、子供時代の思い出を挙げた。
自国開催となった2002年のW杯ではゴールも記録。「チームを引っ張る存在」と自認するなど、責任感を持って挑んだと振り返る。そしてドイツW杯のブラジル代表戦を最後に現役を引退。現役引退後について「約3年間、世界中を巡りました。100カ国以上に行き、さまざまなことを学び、さまざまな人に会う中で、自分が日本について何も知らないと気付かされました。ですから、7年を掛けて47都道府県を回りました」と語る中田氏は現在、日本文化の発信をしながら、酒蔵を経営している。
中田氏は動画の最後で、「フットボールから離れることは、年齢に関係なく、痛みを伴う難しい決断であり、決して簡単なことではありません」と語った。-goal.com-
「20、30年前の日本は、野球が非常に大きな存在でしたね」と振り返る中田氏。少年時代は野球をやるか、サッカーをやるかを悩んだと明かし、サッカーを選んだキッカケの1つに漫画『キャプテン翼』があったと話した。その後、各年代の日本代表として活躍したが、サッカー選手として1つの転機となったのが、フランスW杯だったと続ける。
そして中田氏はW杯の後、イタリア・セリエAのペルージャへ移籍。「フランスやイングランドからもオファーがあった」としながらも、「セリエAこそがサッカーだと思っていたんですよね」と、イタリアを選んだ理由を語る。そして、そう思っていた理由の1つに「子供の頃に初めて着たサッカーのユニフォームがインテルかミランのものでした」と、子供時代の思い出を挙げた。
自国開催となった2002年のW杯ではゴールも記録。「チームを引っ張る存在」と自認するなど、責任感を持って挑んだと振り返る。そしてドイツW杯のブラジル代表戦を最後に現役を引退。現役引退後について「約3年間、世界中を巡りました。100カ国以上に行き、さまざまなことを学び、さまざまな人に会う中で、自分が日本について何も知らないと気付かされました。ですから、7年を掛けて47都道府県を回りました」と語る中田氏は現在、日本文化の発信をしながら、酒蔵を経営している。
中田氏は動画の最後で、「フットボールから離れることは、年齢に関係なく、痛みを伴う難しい決断であり、決して簡単なことではありません」と語った。-goal.com-