踊る石原!風雲急を告げる。
その日(25日)、巷に号外が飛び交った。「石原慎太郎東京都知事 辞職」、それは政界再編成に向けて風雲急を告げる「石原流」特有のパフォーマンスだったのだろうか。
政権末期状態にある民主党の陳腐な辞任劇、就任後一カ月も経たずして、田中法相の「外国人献金問題」発覚。更には暴力団との癒着なども含めれば「辞任止む無し」ともなるが、全く大臣としての仕事をしていなくとも「前法務大臣」と言う「肩書」が付いてしまうのだから呆れてしまう。
適材適所を熟知した大企業の人事異動も短いスパンで発令されるが、民間ではなく税金を頂く公務員、それも一国の中枢を司っている与党という絶対的立場にある政権内部から、自ら綻びを拡げてしまうような野田総理の人員選出ミスを見る限り、緊張感の欠片もない政治家たちのサラリーマン体質が永田町に蔓延しているのではないかとさえ思ってしまうのである。
このような無責任国政の在り方に業を煮やしたのか定かではないが、安倍新総裁の誕生、橋下大阪市長率いる「日本維新の会」などの動向を元に「新党結成」のタイミングなどを計り国政復帰に向けて準備(第三極の結集)を進めていたものと思われる。
石原さんは1968年に自民党から(参議院)全国区に出馬し、本業の作家活動を続けつつ、政治家の道を歩み始めた。
1972年には参議院を辞職。同年12月に衆院選に無所属で出馬し当選、その後自民党へ復帰。然しながら石原氏の自民党時代はそう長くは続かなかった。
その3年後、1975年に議員を辞職し、東京都知事選に挑戦するも惜敗。その悔しさを振り払うかのように1976年に国政へと復帰を果たし、当時の福田(改造)内閣では「環境庁長官」に就任しており、ここからが石原氏の本格的な政治家活動と言えるだろう。
議員生活約25年と言う節目で唐突な議員辞職表明は、当時の国会を混乱の渦に巻き込み周囲からは「身勝手な男」と冷ややかな視線を浴びたものの、石原氏本人は「我が道を行く」を貫き通した。
そして1999年に都知事選に再挑戦し当選したが、この時の都知事選は有力候補者がひしめいており大苦戦を強いられた(鳩山邦夫、舛添要一)等がいた。
そして約14年間に渡り、日本の心臓部と呼ばれる大都会「東京」の監督責任者として、その辣腕を発揮して来た訳であるが、元々自民党の「タカ派」集団に属していた事もあり、その言動や行動に首を傾げる人も決して少なくはなかった。
例えば国際都市東京の宿命とも言うべき、外国人による凶悪犯罪の増加に伴っての「三国人」発言は、当時の記者団に「差別用語」との指摘を受けていたが、本人曰く「古い人間だから…」で片づけられてしまうほど、作家人生の長い石原氏の表現方法とは思えぬデリカシーの欠如に落胆してしまう訳である。
人間は誰しも一長一短があり完璧な人間など居る筈もないが、国を動かすほどの権力者ともなれば、辞任が相次ぐ民主党のような醜態は出来るだけ晒して頂きたくないものである。
定年制のない政治家たちに取ってみれば、国会の場と言うのは美味しい職場だったりするのかも知れないが、80歳にして国政へ復帰と言う政治への執念深さを、良い意味で捉えれば石原氏のような信念の持ち主に政治を任せてみたいという気持ちにもなり得るが、果たしてこれから何年間政治を続けられるのかその辺が心配の種でもある。