ちびまる子ちゃんと清水時代の事(追悼)。
子どもから大人まで幅広いファン層に支持され、愛され続けた国民的人気アニメ『ちびまる子ちゃん』の作者・さくらももこさんが、8月15日乳がんのため亡くなった。まだ53歳というその早すぎる死に多くのファンや関係者が言葉を失い悲嘆に暮れた。
彼女ががんで闘病中だった事は一切公表されたいなかったこともあり、訃報が届いた時は「まさか?」の不意打ちで誰もが素直にその死を受け入れる事が出来なかったのではないだろうか。ここでももこさんについて多くを語る必要もないが、同じ郷里の出身者として鎮魂の意味も込めて記しておきたいと思う。
彼女自身の幼き頃の姿を投影した「ちびまる子ちゃん(漫画)」は累計3千2百万部を越える国民的ベストセラーとなり、1990年からはアニメ化も始まり、日曜日の夕暮れ時、一家団欒のお茶の間には無くてはならない番組となった。主題歌の『おどるポンポコリン』は日本レコード大賞を受賞するなど、累計売上190万枚とアニメソングとしては空前絶後の大ヒットとなった。
私は養護学校を卒業した後(15~16歳)、清水市(現:清水区)駒越にある療養型職業訓練施設に入所し、そこで約2年を過ごした。清水市万世町には親戚がおり、食道がんで亡くなった親友(53歳)も清水市出身で、友人・知人も多く住んでいるため清水は馴染み深い土地であった。
休日ともなれば清水銀座商店街を友人たちと闊歩し、駅前銀座にあった長崎屋の販売員にひと目惚れし通い詰めたりと、恋愛の真似事や、早く大人になりたくて必死で背伸びしていたものである。施設から徒歩10分も歩けばそこには久能海岸が広がっており、波打際に並んだテトラポットに、駿河湾の荒波が音を立てて砕け散っていた。思春期の甘酸っぱい想い出がぎっしり詰まった清水時代でもある。
海岸から富士山の方角に視線を投げれば手の届きそうな所に三保の松原があり、さくらももこさんもおそらく何度かは訪れていた事は想像が付く。彼女が清水市のどの辺りに住んでいたのかは知らないが、もしかすると幼少期の彼女と何処かですれ違ったり、施設の近所で元気に遊び回っていた小学生の女の子がももこさんだったりしたかも知れない。
昭和49~50年前後の何気ないありふれた日常の一般家庭を描いた『ちびまる子ちゃん』の世界観は、昭和の良き時代のノスタルジーと相まって多くの人々の共感呼んだ。そしてまた現代社会で失われつつある家族本来の姿をユーモアも交えつつ、人との繋がりや家族の大切さを分かりやすく伝えてくれていた。
きっと今頃は広い空の上ではしゃぎならが走り回っているちびまる子ちゃんが居るに違いない。さくらももこさん、お疲れさまでした。安らかにお眠り下さい(合掌)。
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